シオンが起き上がる物音で、さつきは目を覚ました。
 知らない天井の木目を眺める。記憶に僅かな混乱が見られた。自分がなぜ知らない場所で、下着姿で布団までかけて眠っているのか、昨晩のシエルの攻撃から先の記憶があいまいになっている。
 ぼーっと天井を見つめながら考える。十秒ほどそうしていると、靄が晴れるように記憶が明瞭になってきた。ああそうだ、キャスターにここに連れてこられたのだ。
 視線を横に向ければ、下着姿のシオンが体の様子を確かめていた。あちこちを撫で回してはしばらく目を閉じ、何かを探っているようだった。シエルに開けられた風穴もすっかり塞がっている。かくいうさつきも、体に痛みは残っていなかった。キャスターの魔術で、綺麗さっぱり消え去ったのだ。
「起こしてしまいましたか」
「もう起きる時間だからいいよ。傷はどう?」
「すっかり治ったようです」
 シオンはいつもの服に着替えていた。服も元通りになっている。枕元に置いたさつきの服も直っていた。シオンが魔術で直してくれたのだろう。
 しかし眠った気がしない。瞬きをしたらもう半日経っていたという感覚だ。人間だった頃なら、こんなことがあるととてももったいないことをした気分になるのだが、死徒はそうは思わないらしい。体の疲れは取れていて、気分的にも悪くは無い。老いることの無い体は、時間に対して無頓着なのだろう。時間が惜しくて吸血鬼になるなんて道を選んだ、変態達でもなければ。
「なんか、この部屋異常に暗くない? 気のせいかな」
「キャスターが暗闇を増幅しているのでしょう。仕切りが障子しかありませんから、そうでもしないと私たちは今頃灰になっています」
「便利だなあ、魔術師って」
「普通はそうそうあれもこれも、というわけにはいきませんが、彼女は特別です。魔法以外なら容易くこなすことでしょう。本当に興味が尽きない」
 服に袖を通しながら、シオンはまた自嘲したようだった。拍子に、下着に包まれた乳房が波を打った。
「興味が尽きないね」
「なんです?」
「もう成長を見込めない自分を嘆いてるの。あー、わたしも魔術師になろうかなあ」
「さつきが?」
 面食らった顔をするシオン。
「時間はあるのだから、それもいいと思うわ」
「今キャスターさんの声が」
「ここ」
 ぼんやりと、闇の中にキャスターのローブが浮かんでくる。透き通るような肌が、暗闇の中でもその輪郭をはっきりと認識させる。やっぱり、何度見ても怖いくらいに美しい。
「おはようございます。昨日はお世話になりました」
「気にすることはないわ。その分、これからこき使おうというのだから」
 くす、とキャスターが微笑む。色気のある声に、切れ長の瞳を細めて、口角を少しだけ釣り上げる上品な笑い方。髪の毛をかき上げて、流し目で言われてしまえば反抗する気にもならない。まさに悪女といった感じだった。でもだまされてもいいやーと、さつきは見事に術中にはまる。
 そのキャスターは、そのまま二人の格好を眺めた。下着姿のままなのに気付き、さつきは慌てて服を手に取る。
「直してしまったのね」
 さつきはぴた、と動きを止める。
「服のことですか?」
「ええ、そう」
「あのままでは着れそうにないので修復しましたが。何か問題でも?」
「いいえ、特に問題は無いけど。少し残念ね。久しぶりにイリヤ以外にドレスでも着せてあげようかと思っていたから」
「はあ、ドレス、ですか?」
 キャスターの視線がさつきの露出した肌に注がれる。ねっとり、つま先から太ももを這って、そのままへそ、乳房と舐めあがってくる視線。まるで、値踏みしているような、そんなかんじ。さつきはいそいそと服に袖を通す。
「まあいいわ。イリヤが呼んでいるから、準備ができたら居間にいらっしゃい」
 スッと、キャスターが闇に溶けていく。なんとなく釈然としない気持ちでそれを見送って、さつきは知らず息を吐いた。
「彼女、女性に興味でも? やけに熱い視線を感じましたが」
「そうかなあ。着せ替え遊びがしたいだけだと思うけど。したことある? シオンはそういうの」
「着せ替え遊びですか」
「こう、かわいらしい人形とかを使ってさ、お着替えしましょうねーとか。気持ちはわかるなー。確かに、シオンにいろいろ着せたら楽しいだろうなーって気持ちはあるもん」
「はあ、経験がないのでわかりませんが。意外に乙女というかなんというか、そういうことですか」
「そうかも。なんだ、かわいいところもあるんだ、キャスターさん。なんか、キャスターさんと居ると緊張するから少し苦手だったんだけど」
 かわいい女の子を囲ってあははうふふと人形遊びをするキャスターを想像する。意外にかわいいような、逆に怖いような。
「死徒としては、あまり会いたい相手でもありませんから」
「あんまり悪さし過ぎると、キャスターさん達が止めにくるんだっけ?」
「本来、英霊とはそういうものです。自由意志でふらふらとしている状況が異常なわけで」
 ふうん、と気の無い返事をする。自由意志であることが異常とは、英霊も大変そうである。
「居間、行こうか」
 シオンは黙って頷いた。

***

 イリヤは相変わらずゲームをしていた。怪物狩り、というゲームらしい。さつきが働いているコンビニでも扱っているソフトだ。結構売れる。
「それ、楽しい?」
「んー? ゲーム? 楽しくないわ」
「あ、そうなんだ」
 苦笑いをして、座布団に座る。イリヤはかちゃかちゃと、慣れた様子でコントローラーを巧みに操り、巨大な剣を携えたキャラクターで、その剣がナイフに見えるようなスケールのドラゴンと戦っていた。振り回される棘が生えた尻尾を避けて、隙だらけの背中を切り裂く。
「おー」
 さつきが思わずあげた感嘆の声に、イリヤは少し気をよくしたようだった。調子よく攻撃を続けていく。
「はい、終わり」
 血祭りに上げられたドラゴンが地に伏せる。イリヤはぱちぱちと拍手するさつきに向かって微笑んで見せると、ゲーム機の電源を切ってさつきとシオンの方に向き直った。
「さてと、キャスター」
 霊体化していたキャスターがふわり、と現れる。
「どこから知りたいの?」
「まずは英霊である貴女ですら打開できない状況、というものを知りたい」
「竜ってわかる?」
 竜っていうとドラゴンでしょう。火を噴いて空を飛ぶ大きなトカゲ。さっきイリヤが戦っていたようなの。そんなことは知っています。と訳知り顔のさつきとは対称的に、シオンの表情が硬くなった。
「……私とさつきでは手に余るようですが?」
「そのものが出てくるわけじゃない。けれど、近しい何かが、この街のはずれにある森に住み着いているのよ」
「貴女が退治できない理由は?」
「その森全体を、私の魔力の八割近くを使った結界で覆っているから。二割の力では、とても打倒し得る相手ではないわね」
 と言っても、とキャスターが続ける。
「実際に姿は見ていないのよ。もしかしたら巨大な竜の姿をしているかもしれないし、まったく別の姿かもしれない。どうにかアレの出現前に察知できた私は、イリヤを連れて逃げてきたというわけ」
「なるほど。それの退治が、我々の命の代価というわけですね」
「そうなるわね」
 ここ最近の経験から、こういうときは口を挟まないほうがいいと学習したさつきも、状況を理解した。つまり、怪物狩りだ。しかもドラゴン狩り。ぶるっと背筋が震えた。
「イリヤは何をするの?」
「私はキャスターの補助に回るわ。さつきとエルトナムを中に入れるには、一度結界を消さないとだめなんだけど、いくらキャスターでもすぐに同等の結界は作れない。だから私はほとんど全ての魔力をキャスターに注ぎ込む」
「ということは」
「動けなくなるということですね」
「うん、そう」
 イリヤは平然としているが、危険な行為に思えた。
「わたし達が倒せなかったら?」
 恐る恐る、さつきが尋ねる。
「そのときは、そのまま結界を維持することになるわね」
「ですよね……」
 見殺しにするということだ。わかっていた。所詮、キャスターに助けられなければ亡くしていた命なのだ。そう割り切れと、キャスターは言っている。さつきもそれは覚悟できていた。シオンは当然のことと受け入れていた。
「決行は?」
「明日の深夜を予定しているけど、どう?」
「いいでしょう。こちらにできる準備というのも、たかが知れている」
 シオンが席を立つ。キャスターとイリヤもそれに従った。さつきだけがぽかんと三人を見上げている。
「下見に行きますよ、さつき」
「あ、はい。そっか、そうだよね」





「うわ、なんか出そう」
「出るって言ってるじゃない」
 さつきがぼんやりと言えば、イリヤがにこにこして返す。キャスターはその光景を視界の端に捉えながら、鬱蒼と広がるアインツベルンの森を睨んだ。思い出すのは二週間前。奇妙な魔力の流れを感知したときのこと。ここでは多くの英霊が戦い、そして散った。その残滓が、今でも時折怪異を起こすことがある。それはキャスターでなければ感じられないような微細なもので、大抵の場合は無視してもいい。
 そんな矮小な変異の一つと、キャスターは最初軽んじた。平和呆けしたと、自分を呪い殺したくなる。志貴と駆け回っていたあの頃なら、絶対に見逃さなかった。志貴と秋葉を探し出し、特製の秘薬を飲ませてからの一年は平和過ぎた。アインツベルンの城で、蔵書に目を通したり、ちょっとした魔術を開発してみたり。イリヤに請われて衛宮の家に行ったり。時には遠野の屋敷へと続く魔方陣を使い、志貴や秋葉と穏やかな時間を過ごした。
 それはキャスターが生前いくら求めても手に入らないものだった。いつまでも続くような平和は、けれどそう長いものでもない。イリヤが動かなくなるのは遠い未来のことではないし、志貴も長生きをできる体ではない。そのとき、自分はどうするだろうか。大人しく消えるだろうか。それとも、志貴やイリヤが遺したものと一緒に生きていくのだろうか。
 そんなことまで夢想した。英霊たる自分が。有り得ない。平和が、キャスターをただの人にした。
「セラ、リズ……」
 イリヤの呟きが聞こえた。森ごと封じた二人の使用人は、最早生きてはいまい。キャスターとイリヤを逃がすためにその身を犠牲にしたホムンクルス達。頬を打たれる思いだった。彼女達は、呆けて堕落していくこのキャスターをどう見ていただろう。哀れと思っていただろうか。異変に気付き即座に武装した彼女達がなければ、キャスターとてあの闇に取り込まれていたはずだった。
 いつもいつも、キャスターは失敗する。誰よりも頭がよく、狡猾なはずの魔女は、しかしどこか抜けたお姫様でしかない。操られたり、だまされたり、そんなことばかりだったお姫様は、魔女にまで仕立て上げられて孤独に死んだ。それは誰かのせいだったから、魔女でも諦めがついた。所詮こんなもの、と。けれど、今回は違う。キャスターの慢心が全ての元凶になった。誰にそそのかされたわけでも、だまされたわけでもない、自分で選択をして、間違えた。
 だから、今のキャスターは強い後悔と自己嫌悪と殺意で、頭が沸騰しかけている。
 手に入れた吸血鬼二人。志貴の知り合いだという。死ねば、志貴は怒るだろう。けれど、それでも構わない。ここ暫くで情が移りきってしまったのだ。イリヤを、これ以上悲しませはしない。
 徹底的に酷使して、使えないようなら切り捨ててやろう。ふて腐れて螺子くれた考えからでなく、心からキャスターはそう思っていた。そこに、その二人の姿を見るまでは。
「セラ、リズ!?」
 闇に落ちた森に、白い影が二つ。
 純白の服は、既に見る影もない。破れたのか、切り裂かれたのか。覗く新雪のような肌は、泥まみれで傷だらけ。どうにかハルバードを担いだリーゼリットの片腕は無く、それを支えるセラのわき腹は大きく欠損している。
 さて、とキャスターは自身の周囲に魔力の渦を作りながら思案した。選択を迫られたわけだ。まさか生きているとは思わなかった者達が辛うじて動いている。ほうっておけば、彼女達を追う何かに殺されるだろう。彼女達はホムンクルスだ。代えはきく。だがそれはイリヤの知る彼女達ではないだろう。
 チャンスでもある。ここで、あの二人を追う何かを見ておけば、対策も取れるかもしれない。形を知るだけで、ずいぶん楽になる。或いは、きつくなる。そのためにはもちろん二人を見殺しにしなければならない。あの二人なら快く承諾するだろう。しかし。
「イリヤちゃん、知り合いなの?」
 さつきが、明らかに動揺しているイリヤの肩を掴んで言う。イリヤは俯いた。結界の向こうで、驚いた顔をしているのはセラとリズも同じだった。失敗したと思っていることだろう。二人は顔を見合わせて、何かを悟ったように頷いた。
「ねえ、イリヤちゃん?」
「何か、来る!」
 シオンに言われなくても分かっている。キャスターはほんの二割ほどしか残っていない魔力が、唸るのを感じる。このキャスターのほぼ全力の結界でなければ、封じられないほどの強敵。
「知らない……」
 イリヤは、掠れた声で言った。
「あんな二人知らない。勝手に入り込んだ魔術師か何かでしょ。ちょうど良いわ。中の化け物の顔、見ておきましょう」
 二週間前、二人を犠牲に逃げるとき、泣き出したいのを堪えていたイリヤを思い出す。さつきはイリヤの顔を見て、驚いたようだった。それから結界の中の女二人を見た。セラとリズ、さつきにはまるで見覚えの無い二人の女は、ほんの微かにだが笑っていた。それでいいのだと、それでこそ我が主だと。まるで安心したように。
「見えた。なんだ……アレは……! 無理ですさつき! 私たちでは!」
 キャスターにも見えた。まさか、と笑いたくなってしまう。しかし納得はいった。自分が手も足も出さずに、逃げたわけ。直感したのだ。こいつの前では自分は無力だと。
 土を踏みしめて、一歩ずつ一歩ずつ、そいつが歩いてくる。
「イリヤちゃん、本当に──」
 セラとリズはイリヤから視線を外した。よろよろと立ち上がり、振り返る。片腕でハルバードを構える。本来サーヴァントにも匹敵するはずのリーゼリットが、なんとも頼りなく見える。
 そいつも、疾走した。折の中に飛び込んできた餌との遊びもこれまでだといわんばかりに。
 選択のときだ。今度こそ、キャスターは間違えたくない。
「セラ、リズ……」
「イリヤちゃん!」
 剣戟が響く。
「セラ! リズ!!」
「キャスターさん!」
 選択。
 キャスターは、間違えたくは無い。





 キャスターを必死に促がしながら、さつきは実は震えていた。中になど入りたくない。このまま引き返して、何も無かったことにして眠りたい。怖い。あんなものに、勝てるはずがない。キャスターが口を噤み、駄目だと言ってくれるのを期待している自分に気付く。けど、それのどこが悪いというのか。あんなものの相手は、絶対にしたくないのだ。死徒とか人間とか魔術師とか、そんなことは関係ない。とにかくあれには逆らいたくない。
 あれに立ち向かうのは、全力のシエルに立ち向かうのと同じだ。下手をすればもっと酷い。とにかく、嫌だった。
 けれど、傍らで震えているイリヤを見てしまえば、そんな気持ちもどこか薄れていく。あの見知らぬ二人の女性を、どうにかして助けてあげたいと思う。
 志貴ならどうするだろう。
 見捨てて逃げる? 有り得ない。
 例えどんなに勝ち目がなくとも、飛び込んでいってボロボロになるに違いない。
 さつきは拳を握り締めた。爪が手のひらに食い込んで、血がぽたぽたと滴り落ちた。恐怖と正義感が心の中で渦を巻く。飛び込めばきっと助からない。けど、けれど。
「シオン」
 吹き出してくる汗を拭って、さつきは小さな声をあげた。シオンも似たような顔だった。中へ入るのだけは嫌だと、寄った眉根が雄弁に語っている。
 けれど、今しかチャンスは無い。明日の予定だったけれど、こんな状況にあることを知って、仕切りなおすなんて恐ろしくてとてもできない。イリヤの友達を救うという大義名分に、体が燃えている今じゃないと、勢い任せじゃないと、とてもじゃないけど飛び込めやしない確信があった。
 ここのところはずっとそうだ。なんの心構えもなく、突然戦いに駆り出される。シオンと出会ったと思ったら、志貴の家に転がり込むことになって、それから何日も経たない間に見知らぬ街へ。もうワケがわからない。それもこれも、全部あの渡り鴉が悪い。人の町で、好き勝手にやってくれた。人の領地を掠め取った。そのせいで、シエルに狙われるなんて最悪の展開になったのだ。
 城は廃墟。領民は猫。他には何も無いけど、それでもあの町はわたしのものだったのに。
「むかつく」
「さつき?」
「ほんと、もう、あったまきたんだから。キャスターさん、わたし行きます」
 さつきの赤い目が、月の光を受けて煌々と煌いていた。フッと、笑ったのはシオンだった。
「まったく貴女はどうしようもない」
 呆れた様子で笑ったシオンの瞳も、これでもかというくらいに輝いていた。キャスターはそれを見て、同じように苦笑する。
「いいのね。言った通り、しくじったら見殺しにするわよ」
 キャスターは駄目とは言ってくれなかった。きっと、キャスターも切っ掛けを欲しがっていたんだろう。ずっと俯いて黙りこくって、思考の渦の中に埋没していたようだった。そこから引き上げられるのを待っていた。ならもういいや。と半ばやけっぱちの心境で、さつきは拳を握った。
 さつきの爪はコンクリートをバターのように削る。
 さつきの拳は鋼鉄の柱を容易く折り曲げる。
 大丈夫、倒せるはず。
 というより、まだ若いのだから、勢いに身を任せたってどうにかなるはず。などという楽観も多分に含んだ表情のまま、さつきは結界の前に立った。ブラックバレルレプリカとかいう名前の銃を片手に、シオンも並んだ。二人で、キャスターに振り返る。
「行くわよ」

***

 桜が射を外した。
 的を大きく反れ、土手に突っ込んだ矢を見て、弓道部の誰もが驚きの表情を浮かべた。桜は、まるで弾かれたように荷物を纏めると、居残りで部活動に勤しむ部員達を放り出して駆けた。おなかが痛いと言いながら、校庭を全力疾走していく元部長を、部員の不思議そうな瞳が追った。
 元弓道部のキャプテンは、校内でも指折りの美人として有名だった。美しいとか言われる顔つきは大人しそうな穏和な笑顔をいつも湛えていて。美人だからと横柄に振舞うでもなく、誰にでも優しく接してくれるので女生徒の間でもそれなりに人気がある。それに加えて誰もがうらやむような体つきは、男子生徒の若い欲望の対象として、絶大な人気をもたらしていた。
 一年の頃は根暗だったという噂もあるが、今やそんなことは誰も信じない。いつでもにこやかな彼女がいると、陰鬱な空気になるどころかまるで空間に花が咲いたように華やぐのだ。
 そんな桜が、全力疾走していた。他の部活の生徒も、稀に見るそんな姿に思わず足を止める中、桜にそれらに対して愛想を振りまく余裕などまるでなかった。
「間桐先輩さようならー」
「さよならっ!」
 すれ違った見知らぬ後輩に声を掛けられて、桜はらしからぬぶっきら棒な口調で返答する。思わず目を丸くしたその生徒を一瞥することもなかった。
 焦っていた。今日は学校が終わったら、キャスターが連れてきたという吸血鬼二人と会うことになっていたのだ。遠坂凛に代わり、冬木を任された身としては当然のことだし、アインツベルンの森の変異を解決するための助っ人ともなれば会わないわけにはいかなかった。
 二人は吸血鬼だから日中は行動できない。そのため引退した部活に参加して、居残り練習にまで付き合っていた。それはアインツベルンの森の変異が気になって、どうにも落ち着かない心を冷ますための行動だったのだが、どうやらミスだったらしい。あれだけ大きな結界が無くなれば、魔術師の桜にはまるで眼前に聳え立っていた巨大な岩が一瞬で消えたような感覚をもたらした。魔術師でなくとも、ちょっとした違和感に気付くかもというレベルだ。
「本当に、志貴さんが関わるとろくなことに……っはぁ……ならない!」
 息を切らしながら、かつて殺したいほどに憎んだ遠野志貴の、どうにも食えない表情を思い出す。あれから何度か会って、話をする程度には仲直りをした。志貴は平身低頭「ごめん」と謝るし、桜としても怒りの大半が八つ当たりだったために謝られると弱く、こちらこそと頭を下げるしかなかった。
 それに、志貴も特別に悪い男というわけではない。好きにはなれないが、いつまでも子供のように嫌う相手でもない。凛や士郎、イリヤも彼には好印象を持っているようだし。それぞれ、その好印象のベクトルは全く違うのだろうけど。
 今日会うはずだった吸血鬼──死徒は、志貴の友人だと言う。昨晩、というより今朝それを聞かされて、桜は思わず頭を抱えた。なぜ人類の天敵である吸血鬼と、「友人」などという間柄になれるのかさっぱりわからなかった。
「どうせまた殺し合った末に『よう兄弟!』とかそんなノリだろうな……」
 サムズアップでにこやかに向かい合う志貴とロングコートの吸血鬼を想像する。嫌な光景だった。
 学園を出て、道路のど真ん中を風のように疾走する。今の桜は誰にも視認できない。声も聞こえない。車は飛んで避ける。我ながら常人離れしていると思うが、それもこれも凛に師事したせいだ。冬木を任せるんだからせめてわたしくらいにはなってよね、とかなんとか言われて、徹底的にしごかれた。幸か不幸か、才能はあった。だから、この程度は朝飯前なのだ。
 ひたすら走る。しかし森は遠い。辿りつく頃には、全ては終わっているかもしれない。大体、何が起きたのだろう。突然結界が解除されるという状況に心当たりがない。
 聖杯戦争からずいぶん日が経って、桜も少しは魔術師として成長した。当然、明日のアインツベルンの森攻略作戦には桜も戦力として数えられている。吸血鬼を結界内に放り込み、キャスターが再び結界を張るための魔力を供給する。それが作戦の全てだ。そんな単純な作戦しか決行できないほど、森に巣食った何かは強力だった。
 キャスターの魔術は、今風に言えば非常に省エネだ。魔力を取り込むだとか、その辺から集めたものを変換して使うだとか、少ない魔力で大きな魔術を行う、と言ったことが非常にうまい。さすがは神代の魔術師ということなのだろうが、その彼女が結界を張るだけで酷く衰弱した。それで、森に巣食ったものの力の程は嫌と言うほどにわかった。
 現在冬木に滞在している魔術師は、イリヤ、桜、キャスター。凛、士郎、セイバーのいわば主力は街を出ている。当然、無理を承知で連絡を取ろうと試みた。けれど、凛はおろか士郎やセイバーとも、まったく連絡がつかなかった。
 そうなると、強力な知り合いは数少ない。志貴、秋葉。そのくらいだろう。だがその二人に助けを求めるのは躊躇われた。二人の力はあまりにも負担が大きい。というのがキャスターの言い分だったが、要するに志貴を危険な目にあわせたくなかったということだろう。
 となると協会への要請だが、それはそれで厄介だった。キャスターの存在は面倒の一言に尽きる。協会からどんな見返りを要求されるか、わかったものではないのだ。
 結局、士郎たちと連絡がつくまでは、三人で持ち堪えようということになった。そこに、志貴からの連絡。吸血鬼を二人、預かって欲しいというのだ。渡りに船とはまさにこのことだろう。志貴側の状況が逼迫していることも、ちょうどよかった。志貴には簡単に事情を話して、二人を危険な目に遭わせることを了承させた。キャスターの助けがなければ二人はそのまま死んでいたというのだから、志貴も首を縦に振らずにはいられなかったことだろう。
 十分かどうかと尋ねられれば疑問だが、強力な駒を二つ手に入れたことは間違いない。二人の力次第では、結界の再構築はせずに、キャスターも戦力として投じて一気に殲滅も可能になったのだ。
 少しは光明が見えてきた。そう思っていたのに、一体なぜ。
「え?」
 不意に、桜が足を止めた。思わぬものが、車と同じ速度で走る桜の視界に映った。
「どうして」
 彼女は、見えないはずの桜を見つめると、安心したように目を閉じ、そしてその場に倒れるのだった。
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