シエルに注意を払いながら、志貴は横目でキャスターのローブを追った。キャスターも、志貴を見つめていた。その顔が、少し疲れて見えた。掻き消えるキャスターを、申し訳ない気持ちで見送ると、志貴はシエルに再び視線を戻す。
 シエルは額から血を流していた。僅か二メートル先で構えていた志貴は、三人の姿が完全になくなると短刀を懐にしまった。
「久しぶりですね。ほんと、なんてタイミングで帰ってくるんですか」
 志貴は冷や汗をかいている。さつきとシオンをどうにか逃がすためとはいえ、シエル相手にキャスターの魔術を放たせただけでなく、殺す気で切りかかってしまった。そうでなければ自分がやられるという判断からだが、挨拶もろくにせず切り掛かっては殺されても文句をいえない。
 シエルは目に見えて怒っていた。無表情のまま、黒鍵を消そうとしない。吟味する目を志貴に向けている。両腕はだらりと、しかし志貴が僅かでも動けばその瞬間に刺し殺すと、その目は雄弁に語っている。
「……本当に、殺してしまいたい」
 まるで地獄から響いてくるような声だった。怒りと呆れが入り混じった、なんともいえない顔をしている。深呼吸をして、どうにか気を落ち着けたらしいシエルだが、ゆらゆらと立ち上る殺気だけは消えそうも無い。
「でも、弓塚を今まで見逃していたのは先輩だ」
「状況が変わりました。二人をいままで見逃していたのには、くだらないものではありましたが、確かに理由があった。ですが、もうタイムリミットです。あの二人を、レイヴンと戦わせるわけにはいかない」
 シエルがようやく黒鍵を消す。ふう、と冷や汗をぬぐった志貴の腹に、シエルの肘が突き刺さった。
「ぐ……」
「まさかサーヴァントまで出してくるとは思っていなかった私の落ち度です。しかし、効きました。頭にきたので、一発殴らせてもらいましたよ」
 にこり、とシエルが笑った。

***


 衛宮家の居間は、ずいぶんと寂しくなったと藤村大河は思う。士郎がセイバーを連れて渡英したのが半年前。遠坂凛も、同じく渡英したと聞いている。それはまるで彼の父を思い起こさせる。あちこちを飛び回り、若くして亡くなった彼を。
 それでも、大河は割りと安心している。衛宮切嗣とは違って、士郎には凛とセイバーがいる。あの二人なら、士郎を誤った道へは向かわせないだろうという確信がある。
「電話、誰だったの? 珍しいね、この家に電話なんて」
 居間でごろんと寝転んでコントローラーを握りつつ、大河は醤油せんべいをばきっと噛み砕く。衛宮家の電話が珍しく音を立てたのが数分前。戻り、ちょこんとちゃぶ台についたイリヤが、暇そうな目を大河に向けた。
「シキ」
 意外な人物の名前が出た。大河は特に親しくはないが、士郎のひとつ年上の青年だ。人のよさそうな顔立ちと、どこか儚げで不思議な気配をまとった青年。人当たりもよく、桜や凛とも普通に話しているのを、いつだったか見かけた。
「ふうん。どうしたの? 士郎に用?」
「まあそうだったんだろうけど、わたしでも事足りたから大丈夫よ。二人くらい、お客さん来るけど、一応士郎にも確認はとったから大丈夫だと思う」
「え? 今から?」
 もうじき夜明けだ。ゲームをしていたせいで遅くなったが、そろそろ眠ろうか、という時間帯。珍しく遅くまで起きていたイリヤには、この電話が鳴ることがわかっていたのだろうか、とまるで成長しない小さな顔を見つめる。
「あ、尻尾」
「あああっ!」
 余所見をした拍子に、大河の操るキャラクターが巨大なモンスターの尻尾によって倒れる。
「交代ね」
 渋々コントローラーを渡そうとする大河。
「あ、やっぱりいい。キャスター帰ってきた」
 がらがらと、玄関の戸が開く音。お客さんが二人いると言っていたのを思い出した大河は、データをセーブして少しだけ居住まいを正す。
「ただいま」
 と顔を見せたのはキャスター。少し疲れたような顔をしている。ここのところ、キャスターはあまり顔を見せない。イリヤに指示されて何かを準備しているような様子なのだが、あまり捗っていない様子が、その顔にありありと浮かんでいる。
「お帰りなさい。それで、お客さんっていうのは?」
「この二人ね。ほら、お入りなさいな」
 現れたのは、気絶した少女とそれを担ぐ腹から盛大に血を流した少女だった。眩暈がして、大河はがっくりとうなだれる。血を見て倒れる性格でもない。士郎の元に災難が降りかかることを、理解したからだった。

***

 藤村大河と名乗った女性は、さつきとシオンを見るや目の色を変えた。当然だろう、いくらなんでもボロボロ過ぎる。
 お互いに当たり障りのない挨拶を終えると、大河は眠るといって屋敷を出て行った。あまり歓迎されていないようだが、それも仕方の無いことだと、さつきは苦笑して大河を見送った。
 事前にキャスターから聞いた話では、透き通るような髪と肌の少女はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。彼女はキャスターと同じく魔術師だという。
「大河は一般人だから、気をつけなさい」
 二人を居間に押しやって、一人廊下に消えようとしたキャスターが小声で言った。気を失っているシオンを担いだまま、さつきはその後姿を眺めた。只者ではない気配。死徒の勘とかそんなものが、さつきの視線をキャスターに釘付けにした。
 イリヤも不思議な気配を持っているが、キャスターの気配は飛びぬけている。それは不意打ちとはいえシエルを完全に足止めした事実が物語っているし、纏っている空気のようなものがまるで違う。たとえば、彼女だけこの世界の住人でないような、そんな異常を感じるのだ。
「えーっと、さつき? あなたが?」
 小さな声に尋ねられて、さつきは消えた背中から視線をはずす。
「うん。あ、はい」
「いいよ、緊張しなくて。シキから話は聞いてる」
「そうなんだ。イリヤスフィール、さん?」
「シキの紹介だし、イリヤでいいわ。怪我してるの?」
 イリヤのくりくりの目がさつきの腹を見つめる。ぽっかりと開いているはずの穴は、キャスターの魔術で綺麗さっぱり消え去った。首を振るさつきに「そう」と返したイリヤは、探るような目を二人に向ける。
「アインツベルン……志貴の交友関係も、なかなか馬鹿にできませんね」
「シオン! 大丈夫?」
 もぞもぞと動いたシオンが、ゆっくり体を離す。さつきと同じくキャスターに癒された彼女も、傷はなくなっているはずだった。
「ええ、なにやら凄まじい魔術を目の当たりにしたようです。ほとんど気絶状態だったのが惜しまれる」
「あなたがアトラシアね。噂は聞いてるわ」
「失礼、挨拶が遅れました。私はシオン・エルトナム。状況から考えるに、貴方に助けられたと解釈してよいのですね?」
「そうなるかしら。でももちろんタダで、ってわけじゃない」
 イリヤはそこで少し目を伏せる。何かを噛み締めるような、苦渋のにじむ顔だ。
「お、お金はないんです!」
「死徒にお金を求めるなんて、そんなバカなことしないわ」
 だよね……とさつきが肩を落とす。
「志貴に頼まれたから、というわけでもないのですね。その言い分だと、我々の力を必要としていると?」
「そういうこと」
「本当に?」
 シオンは遠慮なくちゃぶ台につくと、大河が出したお茶をすすった。そうしてから、イリヤに厳しい視線を向けた。おずおずと、さつきも座布団にぺたんと座った。
「どういう意味?」
「聖杯戦争の簡単な顛末は私も聞いています。先ほどの女性が、噂に聞くサーヴァントなのでしょう。そんなモノが存在している街が、我々の力を必要とすると?」
 たしかに、とさつきはうなずいた。キャスターの攻撃はシエルをも怯ませた。あの、何をしてもびくともしない代行者を。さつきはこの世の理に詳しくない。それでも、シエルがこの世界で有数の実力者であることは知っている。世界のパワーバランスの一翼を担う教会。その中枢にあるのだから。
 もちろん彼女より強い存在はあるだろう。たとえば、たぶんキャスターもその一人だ。
「あなた、意地が悪いのね。知っているくせに」
 イリヤはじっとりとシオンを睨んで、不愉快そうに言い放った。
「キャスターは今すごく弱ってる。志貴の救援要請だって、本当は引き受ける余裕はなかったのよ。シキに危険が迫ってるならキャスターは飛んでいっただろうけど、そういうわけじゃなさそうだったし」
「では、なぜ?」
「だからあなた……まあいいか。助ける相手が死徒だって言うからよ。それも、まだ危険な思想も持ってないっていうし。まあ存在自体の危険性ってやつは理解してるつもりだけど、それを天秤にかけてもわたしには手ごまが必要だったの。わかるでしょ? キャスターに空間転移まで使わせたんだから、わたしの必死さとか、それくらいは、そっちのゆるそうな死徒にも」
 と、イリヤの瞳がさつきを見た。なんとなくピンときて、さつきは苦笑する。
「へ? あ、ああそういうことだったんだ。ごめんねシオン」
「いえ。どうにも危険なにおいがしますからね、さつきもしっかり理解しておく必要があります」
「ま、要はあなたのバカ力が役に立つってこと。疲れてるでしょ? 続きはまた、夜にしましょう。わたしも眠いから」

 二人に貸す部屋の案内を終えて、イリヤは勝手に自室にした部屋に戻り、ほう、とため息を吐いた。アインツベルンの森にいられなくなり、士郎の家にキャスターと二人で転がり込んだのが二週間前。ようやく、兆しのようなものが現れた。この手は逃せない。
「いる?」
「ええ」
 部屋のどこかでキャスターが返事をよこす。
「結界、大丈夫? 思ったより魔力使ったのね」
「どうにかね。けれど、確かに想定外に力をつかったわ」
「埋葬機関の第七位、か。コトミネクラスとは、桁が違うかさすがに」
「志貴の夢で見た彼女も、あの死徒たちを追い詰めていた彼女も、いずれも本気ではなかったということね。私の気配に気づいた瞬間、すごい速さで魔力が収束していったわ。私の魔術を、真正面から受け止めるほどのね」
「でも、負けないでしょ? いくらなんでも」
「負けが何を意味するかによるわ。私の神殿内に侵入した彼女を逃がすな、という指令なら、もしかすると取り逃がすかもしれないわね」
 ふうん、と思案顔で返したイリヤは、布団に横になるともう一度ため息を吐く。
「失敗したかな。その代行者、一緒に連れてきたらよかったかも」
「なら志貴もつれてこなければ」
「またそういう話? シロウといいシキといい、なんなの?」
 イリヤはあきれた顔だ。
「そういう貴女はシキにもシロウにも興味津々だったじゃない」
「ふん。わたしはおにいちゃんには恨みがあったし、シキはその恨みを晴らすちょうどいい手ごまだっただけ」
 膨れるイリヤをキャスターが笑う。
「ところで、あの二人、使えそうなの?」
「二人とも死徒二十七祖直系というし、潜在的にはすばらしい個体だと思うけど」
「そういう言い方するってことは、怪しいのね」
「今はまだね。少し様子を見る必要があるわ」
 イリヤがごろん、と転がる。
「そう膨れてはいけないわ。必ず、なんとかしてみせるから」
「わかってるのよ。キャスターはがんばってくれてる。キャスターに抑えられないなら、もう手段はあまり無いってことだって」
「貴女は賢いものね」
 キャスターが実体化して、手のひらをイリヤの頭に乗せる。イリヤは小さく肩を震わせて、ただおとなしく撫でられていた。

***

「松本さん、大丈夫だったのかな」
「……同僚のことですか?」
「うん。松本さん。同い年の子なんだけど。うう、心配だなぁ」
「シエルは帰したと言ったのでしょう。なら、おそらく無事とは思いますが」
 とはいえ、とシオンが続ける。
「三咲町の異常はそのまま。気になるところですね。代行者が戻ってきたのなら、問題なく片付くとは思いますが」
「わたし達帰れるのかな。シエル先輩、すごく怒ってたけど」
 一目で怖気付くようなシエルの眼光を思い出す。シオンの言う通り、町の異変はシエルや志貴が解決してくれるだろう。けれど、どうしても引っかかる。何かおかしい。漠然とそう感じるだけだが、さつきはもやもやして仕方が無い。吸血鬼狩り以外の、もっと大きな問題が、三咲町には残っているような気がするのだ。
 だって、シエルはあの人形達には一切攻撃しなかった。リースとトリニティは、確かにシオンとさつきで倒した。けれど、まだ決定的なダメージを与えていたわけではない。伏せたままの人形達は、動こうと思えば動けたはずだし、さつきとシオンを攻撃する片手間で、シエルが倒すことだってできたはずだ。
 なのに、人形はさつきたちより余程脅威となるシエルを攻撃しなかったし、シエルも同じだった。
「もやもや……」
 うむむーと唸りながら、さつきは押し入れから引っ張り出した布団を乱雑に敷いた。自由に使っていい、と言われているから、きっと怒られないだろう。寝そべって、あれこれと考えているとまぶたがゆっくり落ちていく。
「疲れましたね。とりあえず、眠りましょう」
「そうだね……生き残っちゃったみたいだし。よかったのか、悪かったのか、わからないけど」
 とりあえず今は、イリヤの厄介事に集中するとしよう。

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