口を拭う。血が出ている。顎を思い切り蹴り上げられた。シオンが人間だったなら、恐らく首が吹き飛んでいたことだろう。素晴らしい威力だ。
 シオンは真っ赤な舌で血を舐める。不味い。自分の血はどうしてこうも不味い。できればアレから補給したいところだが、悲しいかなそうはいかないらしい。
 シオンとてただで蹴られてやるほど甘くはない。槍のような蹴りが命中した瞬間、同時にエーテライトを接続させた。しかし潜っても潜ってもひたすら空虚な思考。それは、アレが人形であることを意味していた。人形の血など、飲んだところで意味がない。
 トリニティは軽快なステップを踏みながら、こちらを見つめている。戦闘に処理を傾けているのか、それとも元々そうなのか、トリニティの真っ白な顔からは一切の表情を読み取れない。先日の人形とは格が違う。精巧で、美しく、そして強い。もしもこれが同じ魔術師の作だとしたら、先日三流と評したことを謝らなければならないだろう。
 先ほどの蹴りから計るに、速度で言えばおおよそタタリによって顕在した七夜志貴程度。違うのは威力だ。技を多様して相手の虚を突き一撃で葬り去る志貴の一撃は、魔眼のことを除けばそう怖いものではない。
 対してトリニティは一撃一撃を真正面から必殺のために繰り出すタイプだ。志貴並の機動力を攪乱ではなく前進のために使ってくる。面倒臭い相手であることは間違いなかった。
「口は利けるのか」
「……もちろん」
 トリニティは外見通りに涼やかな声をしていた。ステップの度に流れる長髪を口に巻きこむと、慣れた手つきで手櫛を通して正す。そんな所作も、どこか可憐だった。無論、表情の無い能面は、不気味ではある。しかしそれでもどこか人を惹き付ける魅力が、トリニティにはあった。
「目的は?」
「貴方達、二人の殺害」
「できると?」
 トリニティはスカートをふわりと翻しながらターン。ぴたりと停止してスカートの端をつまみながらお辞儀。ぎょろりと、黄色い瞳だけでシオンを見上げた。
「もちろん」
 トリニティが跳躍する。さつきの力任せのそれとは異なる、軽やかな跳躍。だというのに、飛んだとシオンの頭が理解したとき、既にトリニティは目前に迫っていた。推察通り、フェイントも何も無い、ひたすら一直線に攻め入ってくる。先ほどと同様、言ってみればライダーキック。シルバーの金具を鳴らしながら、ブーツが顎を捉えようとする。
 来るとわかっていれば、いくら速かろうと所詮こちらにまっすぐ向かってくる標的。さつきではないが、空中で掴むことくらいは朝飯前だ。顔を横にそらしながら、右手でブーツを握りしめる。
 トリニティが一瞬、空中で静止した。さつきは一メートルほど押し戻された。それでも止めた。くるりと、シオンは勢いをつけるように回った。腕を振りかぶり、トリニティの顔面を地面に叩き付ける。
「痛みはどうです?」
「無い」
 頭がもげても不思議はない一撃だったはずだが、トリニティは素早くシオンの手を振り払うと、直ぐさま下から左右の足で突く。顔に泥がついたくらいで、ダメージは無いらしい。
 矢継ぎ早に繰り出される蹴りを捌きながら、どうしたものかと考える。真正面から攻めるだけ、しかも足技ばかりとなれば策を弄してくる相手よりは戦いやすいと思ったが、ダメージを与えられないのでは話が違う。術者は相当の魔力をこの二体に注ぎ込んでいる。普段使役するときよりも更に多く、恐らく許される限りの魔力を。
「む……う」
 トリニティの蹴りが一層激しさを増すと、シオンは思わず後退した。まるで速射砲のように蹴りを放たれては付け入る隙がないとの判断だ。二歩、三歩と後退し、再び間合いを詰めようとするトリニティにブラックバレルレプリカを突き付ける。構わず直進してくるトリニティの眉間に照準、体内で循環する魔力を銃に注ぎ込み、二度トリガー。光弾が疾走するトリニティの顔面を打つと、さしもの彼女も上体を大きく反らしてもんどり打った。単純なカウンターだ。
 トリニティのお株を奪うように、一直線に走る。打撃が駄目ならば、とエーテライトを数メートル引き延ばし、腕を振り抜く。極細のエーテライトの視認はほぼ不可能。そしてその制御は全てシオンが握っている。腕のモーションに合わせ、右腕で防御しようとしたトリニティは、いつまでも訪れない衝撃に疑問を持つも、既に遅い。トリニティの左方から襲いかかったエーテライトが、その首に絡みつく。
「もう、逃がしはしない」
 伸縮自在のエーテライトに巻かれ、自由に動ける者はいない。だがトリニティに限っては縛るだけでは意味がない。恐らく電撃を食らわせたところで、びくともしないのだろう。ならば、魔力を単純な破壊のエネルギーに変えて、エーテライト越しに叩き込んでやればいい。
「終わりです」
 トリニティに張り巡らされた幾重もの防壁が破られ、その身に魔力を撃ち込まれる。目を見開き、一度脈打ったトリニティは、その場に倒れ込んだ。


***


 さつきの服はボロボロだった。志貴と一緒に住むということで少しだけ、ほんの気持ちだけおめかしするつもりで着た服はただの布きれになっている。さつきはむすっとふくれて、構えもせずに落ち込んでいた。
 対してリースはデトロイトスタイルに構えたまま、その場を動かない。さつきが突っ込んだときだけ、その拳で迎撃するスタイルだ。
 いやらしすぎる。さつきはうつむき加減にリースを窺って、ため息を吐いた。近づいてこない。だからといって飛び込むと撃ち落とされる。ちょっと低めに構えられた左手。あれがいやらしい。飛び込むとあの腕がムチのように飛んでくる。おまけにあの拳を食らうと弾けて切れる。ろくに握ってもいない、速度を出すためだけの拳は、叩いた部位をはじき飛ばし、おまけに切り傷までつけていくのだ。
 更にもう一つ悪いことがある。傷が治らない。さつきの体は今や、斬られようと抉られようと、血が足りていればあっという間に回復する。銃弾を食らっても平気だし、実際シエルには消滅する直前まで黒鍵を叩き込まれたこともある。それでも傷は割と素早く治ったのだ。なのに、決して深くないこの傷は、治りが非常に遅い。死んだ細胞が剥がれ落ち、新しい細胞が急速に生まれてくるときのあのぞわぞわとした感触、それが長く続くのが不愉快だった。
「ねえ死徒、来ないの?」
 リースは無表情に言う。無表情ではあるが、嘲っているような雰囲気があった。そんなところで突っ立って何をしているのか。殺してやるから早く飛び込んでこいよこのチキン吸血鬼め。とかそんなかんじだ。カチーン。とさつきの頭の中で音がした。ぷちーん。だったかもしれない。
「人形のくせに生意気」
 土埃が巻き起こる。さつきが飛び込んだ。十メートルほどの距離を一瞬で詰める。爪を剥きだしにして、一振りで人形の五体をばらばらにすべく。
 ひっかいてやろうと思ったそのとき、額に拳が命中した。ムチのようにしなるジャブ。頭が跳ね上がり、体のバランスを崩す。構うものかと、上体を反らしたままひっかく。が、空ぶった。それどころか、さつきは何故か地面に寝転んでいる。
「あれ?」
「軟弱」
 頭上から落ちてきた言葉は、今度こそストレートにさつきをあざ笑うものだった。しかし今度は頭の中で音はしなかった。わけがわからなかったから。なんで寝てるんだろう。ひっかこうとしただけなのに。
「あ」
 慌てて転がると、リースの拳が地面を抉った。びりびりと鼓膜を振動させる衝撃。音速など目ではない一発が、この頭を潰すべくして撃ち落とされたのだ。さすがのさつきも戦慄を禁じ得ない。
 撃たれたことはある。串刺しにされたこともある。だが頭を粉にされたことはない。同じように再生するだろうか。自信がもてない。だから、食らうべきではない。
 地面を叩き、石つぶてをぶちまける。リースがジャブで全てを迎撃している間に立ち上がる。距離は離さず、ジャブの射程内に飛び込む。何を食らったのか、まずはそれを見極めなければ。
 顔の前で両手を交差して、顔面にはもらわないようにする。だがこれはボクシングではない。八オンスのグローブもつけていない。交差させた腕を動かさないさつきの顔面は、リースから見れば丸見えだった。だが額を隠しているため、あのフリッカージャブによって額を打ち抜かれ、顎を上げるということはない。
 ジャブはリースの長い手を活かし、ムチのようにしなりながらさつきの左右頭部を貫いた。頭がくらくらするのを堪えながら、さつきはジッとリースの動きを睨んだ。
 一歩、もう一歩と近付いていく。リースとさつきは身長は同程度。だが人形のリースにはその瞬間さつきがまるで十倍にふくれあがったかのように思えた。赤い瞳に見据えられ、黄色い瞳が僅かに揺れる。
 リースは次々に拳を出していく。そのペースはどんどん上がっていく。秒間七発は今や九発まで加速している。じわじわと、吹き飛ばないように腰を落とし、すり足の要領で近付いてくるさつきは、頭部から盛大に出血しながら、その目を己の血で一層赤くしながらも、リースの動きの全てを見切るつもりで耐えていた。
 だが限界も近い。餓える。血が欲しいとさつきの血が慟哭している。もっと血を寄越せ。でなければ、崩壊してしまうと体ががなり立てる。
「わかったから……もうちょっとだけ」
 今にもぷつんと落ちてしまいそうな意識をどうにか保つ。ここで死んでは、松本さんを助けられないんだから。
 リースの作られた思考回路は、作戦の転換を提案しようとしていた。だがその一方で、このまま撃ち込めば倒せるとも判断していた。思考の狭間で揺れるリースは、ふと主人の姿を思い出した。それがなんだったのか、リースにはわからない。だがより攻勢を強めることで、リースは何かを払拭しようとした。
 アルナスの最高傑作は、対死徒用にアルナスが全てを注ぎ込んで作った人形だ。本来は一体の死徒を相手に二体で掛かる。リースが死徒を引きつけ、トリニティが死角から襲いかかる。無論、死徒は眷属を従えているから、ほとんどの場合が二対二、あるいは二対多となる。それでも、何体もの死徒を葬ってきた。二体は地力でも成り立ての死徒くらいなら瞬殺できるほどの威力がある。それを更に今回は、アルナス自身の魔力によって大幅にグレードアップさせている。祖に近い者、或いは祖の一部ならば、殲滅せしめるくらいの能力はあるかもしれない。それも単純な殴る、蹴るの肉弾戦によって。
 さつきの膝が折れる。ガードが、頽れる体を支えるために外れた瞬間、リースの黄色い瞳が輝いた。渾身の一打を見舞うために。
 だがそれはさつきのフェイクだ。リースのフィニッシュブローを引き出すために、あえて膝を落とした。最小限必要な体のバランスは保ったまま、さつきの目はリースの右手に向けられていた。
「なるほど」
 とか言ってみる。よくわからないが、リースの手は拳を握っていなかった。さっきは手のひらの底で、顎を打ち抜かれたのだ。人間の頭くらい簡単に吹き飛ばす一撃で、死角から。だから気を失った。もしかしたらそういう作用の魔術でもあるのかもしれないが、さつきにとってはどうでもいいこと。それを食らわなければ、問題ないのだから。
「つかまえたっ!」
 風を引いて襲い掛かってきた腕を、さらに潜って避けて、さつきはリースの顔面を掴んだ。ぎりぎりと締め上げられ、悲鳴を上げる人造の肉体が持ち上がる。宙ぶらりんの体勢からも、リースは拳を放った。だが腰の入らない拳では、さつきはびくともしない。
「じゃ、松本さんのところにいくから──」
 さつきの指の間から覗くリースの瞳は見開かれ、まるで震えているようだった。
「消えて」
 何かが風を切る音が聞こえたのはそのときだった。さつきがリースを放して飛び退り、短い悲鳴をあげた。
「まったく」
 どこからか聞こえた声でさつきの顔が跳ねた。それも恐怖で。
「鬼の居ぬ間になんとやら。ずいぶんな暴れようだったみたいですね、弓塚さん」
 さつきの腹には深々と見覚えのある剣が突き刺さっていた。黒鍵。ああ、帰ってきたんだ。さつきは震える唇を噤もうともせず、洋館の屋上で法衣をはためかせる彼女を見た。
「シエル、せんぱい」
「お久しぶりです」
 ぞっと、全身が総毛だった。吐き気を催した。それよりも早く、今投げられた黒鍵に対応しなければ。立ち上がり、ひとつを掴む。ごう、と手が燃えた。あわてて投げ捨て、次を弾き飛ばした。と思ったのに、弾き飛ばされたのは自分だった。
「げ、ぶ」
 腹から血がどくどくとあふれて、地面にどす黒い血溜りを作っていく。
「さつきィ!!」
 シオンが絶叫しながら、銃を乱射する。シエルはいつの間にかシオンの目の前に降り立っていて、銃弾を黒鍵で弾いていた。ゆっくり歩くシエルの姿が恐ろしい。まるで悪い子を叱りつけようとする父親のような、そんな佇まい。
「そうでした。あなたもいましたね」
「なぜです! 今は一般人の救助を」
 発砲しながら、シオンは距離を取ろうと試みる。だが追いつかれ、その胸に易々と黒鍵を突き立てられる。
「とっくに帰しましたから、あなたたちが心配することではありませんね」
 シオンはぴくりとも動かなくなって、ぽい、と投げ捨てられた。ああ、次は自分の番だ。さつきはぐじゅぐじゅと唸る傷口を押さえながら、シエルを見上げた。月を背負ったシエルは、涼しい顔のまま、さつきの前まで歩いてきた。
「せんぱい、今日は本気なんですね」
「そうですね。以前のお灸は効きが悪かったようですから、一度帰ってもらいましょう」
 彼女の強さはわかっていた。何もかもが規格外だとわかっていた。でも、本気の彼女がこれほどとは思ってなかった。絶対に逃げられない。絶対に殺される。
「それではさようなら、弓塚さん。これでも、あなたには同情的なんですよ、わたし」
 黒鍵を振りかざして、シエルは確かに少しだけ寂しそうに言った。そりゃあ、同情のひとつもしてくれなきゃ悲しい。わたしだって、好きで吸血鬼になったんじゃないんだから。
「いまだキャスター!!」
 聞き覚えのある声に、シエルの動きが止まった。まるで先ほどのさつきとリースの再現だった。シエルが見つめているのは、はるか頭上。
「まったく、人使いの荒いこと」
 透き通るような髪と、艶やかな衣服を風になびかせて、闇の中を人が飛んでいた。その人は、大きな杖を振りかざした。体の周囲に輝く玉がいくつも現れる。
「まさか……サーヴァント? 遠野くんですか!」
「ああ、避けてくれよ先輩」
 志貴が言い終わるや否や、視界を光が埋め尽くした。思わず目を閉じたさつきの肩を、志貴が叩く。
「とりあえず、キャスターに従ってくれ。悪いようにはされない。多分な」
「え?」
 それだけ言って、志貴は光の中に消えていく。聞こえてきた剣戟は、志貴とシエルが戦っているものだろう。次にさつきの背後に立ったのは、さっき空を飛んでいたキャスターだった。すさまじく美人だ。あと耳が長い。じと、と志貴を睨もうとして、腹の痛みに呻く。
「逃げるわよ」
「へ? でも志貴くんが」
「大丈夫。多分」
 でもでもと慌てるさつきなどお構いなしに、キャスターは何か魔方陣のようなものを描いた。それから一言二言つぶやくと、さつきの体もまた光に溶けて行った。

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