吸血鬼など、半信半疑だった。イルハンはゲパードM1のスコープに吸血鬼の片割れを捉えながら、冷たい汗をかいていた。
 相応の金額で、酔狂な集団のお守りをするだけだと思っていた。実際、軍時代とは比べものにならない雇い賃が、毎月口座に振り込まれている。日本への武器の密輸と聞いた当初はバカな話だと一笑に付したが、ちょっとした間違いでクビを切られたイルハンにとって、彼らの提示する金額はあまりにも魅力的だった。
 それに、雇い主達が何か超常的な力を持っていることは、間違いなさそうだった。密輸も、密入国も、全てが驚くほど簡単に進むのだ。着港時ですら、少しの緊張も見せない雇い主達は、間違いなく異常だった。
 イルハン以外にも、たくさんの傭兵が雇われていた。その誰もが、イルハンと同じ結論に至ったに違いない。この雇い主は大丈夫だと。目には見えない力で、何かの庇護のもとにあると。
 だが、まさか。本当にまさかだ。吸血鬼などというものが存在しようとは、誰一人想像すらしていなかった。
 タクシーが山の麓に止まり、乗客を降ろしたとき、待機していたイルハンは僅かに緊張を解いた。降りたのは少女が二人だったのだから、当然だ。絶対に油断はするなと言われていた手前、取り決め通り左側の、東洋人風の少女のか細い体に照準しはしたが、トリガーに指はかけていなかった。
 インカムから「撃て」の声が聞こえたとき、己の耳と雇い主の正気を疑った。思わず聞き返すも、返答は同じだった。「撃て」と。あの年若い少女を肉片に変えろと言うのだ。従えるはずがない。
 しかし、「奴らの目を一度だけ見ろ。それでわかる」と続いた声に従って少女の瞳を覗き込んだ瞬間、イルハンの指はトリガーを引いていた。
 己の行動を悔いた。何かわからないうちに、あんな少女を殺してしまったと嘆こうとした。だが弾丸は避けられた。暗視スコープの中だというのに赤い瞳が、直線距離にして五百メートルの彼方にいるイルハンを射貫いた気がした。ぞわ、と背筋が粟立ち、イルハンは逃げた少女を銃口で追った。これまで対峙した何者よりも不気味で恐ろしい存在だと、直感的に理解する。自分が食われる側の生物であり、彼女たちが捕食者であることを、骨の髄まで理解したのだ。
 細い木の向こうに隠された体を、木ごとに撃ち抜くつもりでトリガーを引く。音よりも早く着弾するはずの12.7×99mm弾は、しかし肝心の吸血鬼には掠りもせず、ただ木々を打ち倒していくばかりだった。
 少しずつ、二匹の吸血鬼が距離を詰めてくる。
 彼女たちの赤い瞳は、輝いてさえいた。赤く光る瞳は、軌跡を描きながらゆらゆらと揺れている。見てはいけない。思うものの、イルハンの瞳はまるで魅了されたかのように、愛らしいとさえ言える顔立ちをした吸血鬼の目を見つめてしまう。
「みつけた」
 吸血鬼の口が、はっきりとそう動いたのを、イルハンは確信する。その口がどんな言語を発したのかは知らない。日本語かもしれないし英語かもしれない。どちらもイルハンは話せないし理解できない。けれど、自分が彼女に捕捉されたことだけはわかった。
 距離は目測で四百メートル。おまけにこちらは高所。木々が邪魔するとはいえ、その密度は低く、射線は通りやすい。人一人を殺すには十分な状況であり、イルハンの腕ならば外しようもない。故郷ではマークスマンとして、隊の中枢を担っていたのだ。自分の一発が隊員数十名の命を左右する場面だって、一度や二度ではなかった。だから、四百メートルというイルハンのレンジ内において、丸腰の人間一人撃ち殺すことなど容易い。はずだ。しかし予感がない。自分があの少女に弾丸を撃ち込む像が見えない。想像の中ですら、自分は彼女に殺されるだけの存在だった。
「ばかな……」
 弾倉を交換し、コッキングレバーを引いて薬室に弾丸を送り込み、照準し、息を止め、トリガーを引く。一体何度繰り返した動作だろうか。巨象も一撃で仕留める一撃は、矢張り外れた。絶対の自信が崩れ去っていく。
 どうしたらいいのかわからなくなった。イルハンはトリガーから指を外し、立ち上がった。そして、肉眼で少女を確認しようとした。暗がりの木立を颯爽と駆け抜ける吸血鬼達を。
 アンブッシュしていた者達が、一斉に銃口を向ける。その様子は、ミツバチが群れでスズメバチを取り囲むかのようだった。これなら殺せるかもしれない。イルハンの脳裏に、微かな像が浮かぶ。
 彼らが使う弾丸は、雇い主によって特殊な加工をされている。魔弾と呼べるものらしい。魑魅魍魎にも効くのだそうだ。だがそれだけでは不足。何せやつらには当たらない。遠方からの一発では、とてもではないが捉えられない。ならば至近からの一斉掃射に限るだろう。
 だがそんな幻想は、容易く打ち砕かれた。半数が、発砲する前に崩れ落ちる。残り半数も、アサルトライフルの弾倉を使い切ることはなかった。
「なんて、こった」
「故郷へ帰りなさい。貴方には必要のない情報だ」
 耳元で囁かれて、イルハンは目を見開いた。毛という毛が逆立ち、体中が緊張する。
 咄嗟に振り返る。死ぬのなら、その顔だけでも見てやろうと。イルハンを見つめていたのは、外国人風の少女だった。今までイルハンが目標にしていた、栗色の髪の少女ではない。
 思考がショートして、暗闇に落ちていく。数日後、外国人の集団が密入国の疑いで拘束された。もちろん、その中には記憶を失ったイルハンの姿もあった。





「全滅。人間では駄目か。しかし、まさかな。これほどの吸血鬼が一つの街で共存しているなど、酷い話だ」
 人形遣いアルナスは、嘆息し肩を落とした。渡り鴉が三咲町で吸血鬼狩りをするにあたり、本拠と定めたのがこの小さな山だった。こうも早く露見し、こうも早く潰されようとは、よもや幹部連中も思いもしなかったことだろう。
「レイミーにレイルーも既に撤退済み。あの双子め、良いザマだ、と喜びたいところだが、困ったものだな、逃げの手がないぞ」
 アルナスは撤退までの時間稼ぎにとここに捨て置かれたのだ。本来の目的は遠野の屋敷を襲撃することだった。そちらには二十ほどの人形を送り込んでいる。様子見程度の戦力だが、実際様子見のつもりだったのだ。下見を済ませ、じっくりと狩る。そういう予定だった。あの二匹が自らやってくるまでは。
 幹部達はこれを予見していたに違いない。きな臭いと感じながらも、逃がしたことを後悔する。アルナスは狂信的な他のメンバーとは少し違う。捨て駒にされるくらいなら、道連れにしてやりたいところだ。
 しかし自分は所詮下っ端だ。幹部連中には逆らえないし、そもそも吸血鬼を目前に逃げるなどという選択肢は、アルナスには無いのだ。その心を利用されているとしても、それでもあのゴミを一掃しなければ気が済まない。
 それは別に構わないとして、どうにも引っかかるところがある。大体、この町で活動するのに遠野を自由にさせるとは何事なのか。日本という国の情勢に明るくないアルナスをしても、この町における遠野の力はよく理解できる。あの家が、この町の王なのだ。王の庭を荒らすからには、当然王は怒る。話もつけず、拘束もせず、貢ぎ物もくれてやらずに、この町で動けるはずがない。
「まあそれも致し方なしか。よもや王が吸血鬼を匿っているとはな。これでは話のつけようもない、と言えば一応道理は通ってしまうのだ。恐ろしいな。何を考えているレイヴン」
 手はいくらでもあるのだ。頭と能力を使い分け、敵の足元からじわりじわりと締め上げていけば、どうにでもなる。なのにそれをしなかった。対吸血鬼のプロフェッショナルである渡り鴉が、そんなミスを犯すだろうか。有り得ない。これはミスではなく、故意に引き起こされた窮地なのだ。
「ならば! 死ぬわけにはいかないな! リース、トリニティ」
 アルナスが呼ぶと、二人の少女が真っ暗な部屋に現れた。人のぬくもりを感じさせない黄色の瞳は、正しく人形のそれである。アルナスの最高傑作。二体の人形は、主よりもはるかに強く速くそして忠実だ。先日シオンに差し向けた捨て駒とは違う、全てを投じた二体。使えばアルナスはしばらく力を失う。だが、代わりに必ずあの二体の死徒を殲滅してくれることだろう。
「行け、私の娘達。この父のために、全てをなげうって舞いなさい」
 音もなく去った二体を満足げに見送って、アルナスは別の人形を呼んだ。その人形に手はずを伝え、アルナスは目を閉じる。次に目を開ける日は、来るだろうか。





「こいつら、死者か?」
「どうかしら。シオンの言っていた人形、という可能性もあると思いますが」
 遠野の庭には、数十匹の人のようなものが入り込んでいた。おぼつかない足取りに焦点の定まらない目。明らかに人間ではないそれらと、秋葉と志貴は並び立って真っ向から対峙していた。秋葉の髪は真紅に燃え、冷笑を浮かべる様は兄であり恋人でもある志貴をして心胆を寒からしめるものだった。かくいう志貴も、ナイフを構えて斜に構える様子は堂に入っている。
 混血の者を召喚してはいない。屋敷にいる超能力者は志貴と秋葉、そして地下室に逃がした琥珀と翡翠のみだ。それで十分と、秋葉が判断したからだ。そしてそれは正しかった。人形では二人にかすり傷すらつけられないだろう。
「兄さんが出るまでもありません。全て、焼き尽くします」
「それはいいけど、本当に琥珀さん達大丈夫か?」
「奴らの目的はシオンの死徒を狩ることなのでしょう? そうすればシオンの力は落ちる。ま、この町について少しでも調べてみれば、私が血を吸っていたことくらい、簡単に調べがつくでしょう」
 志貴へ与えた生命力を補うため、かつて秋葉は琥珀の血を必要としていた。それが不要となった現在、琥珀の血を吸うことはなくなったが、遠野の当主が吸血鬼であるという噂は怪談のレベルで存在している。
「じゃあ何か? こいつら、おまえが目的だっていうのか」
「さあ? それに彼らにもスポンサーがいるのでしょうし、申し訳が立たないのでは? 吸血種の一人くらい、狩っておかないと」
 言いながら笑う秋葉は恐ろしい。普段はかわいいやつなのに、敵には容赦のないやつだ。と軽くのろけたところで、その敵が呻きながら動いた。
「うるさい」
 秋葉が睨み付ける。たったそれだけで、人形はぐにゃりぐにゃりと踊りながら、べちゃりと崩れ落ち、気化する。志貴はその隙に敵の只中に飛び込んでいた。
「ちょっと、兄さん?」
「俺は燃やすなよ」
「私一人で十分だって言ってるのに」
 秋葉は腕組みをしたまま、次々に人形を燃やしていく。睨み付けるだけで、対象は熱を奪われる。根こそぎに、徹底的に。なんて恐ろしい能力だろう。秋葉に視認されてしまったら、死ぬしかないのだ。実際、今の秋葉と戦って勝つ手段が、志貴には見あたらない。人形に紛れて攻撃してみても、きっと秋葉に届く前に熱を根こそぎ奪われて灼熱地獄に落ちるのだ。
 志貴はそこら中に見える死の線目掛けてナイフを振り続ける。人形達は緩慢な動作で、しかし絶大な力を誇る腕を振り回す。だがそんなものは志貴に掠りもしない。秋葉の掩護が、それをさせないのだ。
「残り五体。大丈夫か、秋葉」
「誰に言ってるの? まったく。兄さんこそ、息が上がってるんじゃないですか?」
「すこし――」
 冗談めかして返そうとした志貴の耳が、音を拾った。見れば、秋葉も屋敷を振り返っている。音の正体は、硝子の割れる音だ。
「くそ、秋葉、ここは任せる」
「急いでください」
 バックステップで群れから離れると、志貴はそのまま疾駆した。琥珀には拳銃を渡してある、と秋葉は言っていた。だがそれは時間稼ぎにしかならない。玄関の戸を破り、ロビーを抜けて廊下に入る。すると、そこには予想とは少し違う光景が広がっていた。
 廊下に突き立てられているのは、見覚えのある剣だった。おかしな重心を持った、投げることを目的に作られた剣。それを扱う人間に、志貴は心当たりがあった。
 だが肝心の所有者の姿は無い。志貴は再び駆け出して、地下室の扉を蹴り開けた。
 銃声がして、銃弾が頭部を掠めて飛んでいく。目を見開いた志貴は、同じく唖然としている琥珀と目と目を合わせて硬直した。
「し、志貴さん!?」
「姉さん! なんてことを」
 翡翠と、慌てた琥珀が駆け寄ってくる。危なかった。蹴破るために上体を後ろに倒していなければ、完璧に顔面直撃コースだった。完璧な不意打ちは、避けるとか避けないとか以前の問題だ。背後で窓硝子が割れるまで、撃たれたことに気付かなかった。
「だ、大丈夫。すまなかった。ほんと、突然開けた俺が悪かった」
「ご無事ですか? お怪我は」
 琥珀が志貴をかき抱いて、頭部を恐る恐る見つめている。胸に抱かれ思わず頭を真っ白にした志貴だが、目的を思い出して琥珀を押しのける。
「奴ら、こなかったのか?」
「はい。その代わり」
「シエル先輩、か」
 琥珀が神妙に頷く。
「直接お会いしたわけではありませんが、ドア越しに声を掛けられました」
「……弓塚さんとシオンさんの行き先を尋ねられました。知らないとだけ答えましたが。志貴さんこれは」
「ああ」
 まずいことになった。さつきとシオンは、今大暴れしているはずだ。人里で、人を相手に。そこにシエルが到着したらどうなる。吸血鬼狩りの味方をするとは思えないが、さつき達を救うこともないだろう。むしろ、隙を見て二人を消すとしか思えない。
「上は秋葉がそろそろ片付ける頃だ」
 腰の抜けかけた体を起こす。
「どちらへ?」
「弓塚達のところへ行かないと」
「ですが、あの方は」
「大丈夫。なんとかする」
 いつかと同じように二人の頭を撫でて、志貴は屋敷を飛び出した。





「あの建物が拠点のようだ」
「ふうん。あんな人数が入れるのかな? あれ」
 二人の目前にあるのは、遠野の屋敷の半分もない小さな洋館だった。乗り越えようとしたら刺さってしまいそうな柵に、小さな庭。庭をまっすぐに伸びた小道の脇には、不気味に燃える蝋燭を含んだランプが置かれている。ついでに、少し霞がかっていて、とても雰囲気がある。まるで、吸血鬼でも出てきそうな洋館なのであった。
「……吸血鬼は、こちらですよ?」
「はっ。って、え? なんでわかったの」
 まさか、とシオンの腕のリングを見つめるさつき。シオンはため息を吐いた。
「これを使うまでもない。顔に書いてあります」
「え?」
 慌てて顔を隠す。その耳がぴく、と動いた。動物が、何かの気配を察したときのように。
「いち、に」
「強い魔力を感じる。強敵ですよさつき」
 ふふ、とシオンが嗤った。さっき麓で何十人か倒してる最中にも思ったのだが、今日のシオンはどこか別人のようだった。戦うのを楽しんでいるように見える。目はぎらぎらだし。
「さつき、よだれよだれ」
「はっ」
 慌てて口元を拭う。どうやらそれはお互い様らしい。
 ランプに照らされた小道を、ゆっくりゆっくり歩いてくる影を見つめた。霧だろうがなんだろうが、二人の真紅の瞳は克明にその姿を捉えている。現れたのは少女が二人。白いドレス、浅黒い肌に金髪を腰まで流した少女と、黒いドレスに真っ白な肌、黒髪を同じく腰まで伸ばした少女。二人は、肌の色も髪の色もまるで違うのに、まったく同じ顔とまったく同じ体とまったく同じ色の瞳を持っていた。どちらも黄色い瞳が、夕闇の中でやけに輝いて見える。
「お人形みたい。かわいいかも」
「人を外見で――ぐぁっ?」
 隣にいたシオンがかっこ悪く呻いて吹き飛んだ。
「シオ――ぐ、この!」
 小道に二人の少女の姿はなかった。さつきは咄嗟に交差させた腕に、これまでにない衝撃が突き刺さるのを感じた。肉を貫き、骨に響く衝撃。だがそれはただの跳び蹴り。金髪白ドレスが槍のように鋭い蹴りを放ったに過ぎない。
 金髪はさつきの腕を更に蹴って宙返り、同じくシオンを蹴り飛ばした黒髪と合流し、自分を指してリース。黒髪を指してトリニティと名乗る。
「死ね」
 ストレートに言い放つと、リースとトリニティは襲いかかってきた。

inserted by FC2 system