スイッチが入っていた。髪の一本一本から吸血鬼に成り代わった自分に気付いた。意識しただけで、それは急速に進行したのだ。瀬戸際で踏ん張っていたタガが外れて、一気に染まっていく。もう二度と、太陽を拝むことのない自分を知っても、別段ショックはなかった。
 そばにさつきがいるからだろうと、シオンは思った。まだ二週間の付き合いだが、きっと彼女との仲は長くなる。そんな予感があった。お互いに、二十七祖直系の死徒ということもあるかもしれない。いずれは領土争いでも始めるだろうか。城を持ち、眷属を従え、夜の街を跋扈する。そんな光景を、しかしシオンは一笑に付した。想像もできないからだ。
 この町で、ミハイル・ロア・バルダムヨォン――俗に言うアカシャの蛇が新たな転生体を得、既に死んだことは、知られていない。彼が転生したことにすら気付いていない者が多いからだ。それほど、彼が引き起こした怪異は小さく、小粒なものだった。
 転生した家が悪かったとしか言いようがない。遠野家。素材としては良かったし、順当にいけば問題なくその力の根を伸ばせたはずだった。だができなかった。ロアよりも遠野四季が強く顕在していたことも、要因の一つではあったように思う。できたことと言えば、遠野秋葉を先祖返りさせたことくらいだろうか。
 そこから先の話は置いておくとして、ロアはほぼ遠野家の内部で処理されて終わる。結果さつきの存在はほぼ隠匿されているというわけだ。教会にはシエルの口から伝わっているかもしれないが、それだけだ。連中が外部に情報を漏らすとも思えない。
 実際、襲ってきた連中。渡り鴉と言うらしいが、奴らはさつきをシオンの死徒だと思ったらしい。有り得ないことだが、彼らの情報ではそうだったのだろう。仮にも吸血鬼狩りを行おうという組織が間違った認識をしているのだから、さつきの存在はうまく隠されている。
 打って変わって、シオンがタタリに噛まれたことは、さつきのそれとは違ってそれなりに広まっている話だ。タタリ討伐に失敗し、噛まれたアトラシア。我ながら情け無い話だ。
 とにかく、奴らはシオンを敵と判断している。吸血されてからほんの僅かな時間で死徒へと変貌した規格外の存在を、奴らは知らない。あの程度の組織では当然だろう。シオンだってそんな話は知らなかったのだから。
 渡り鴉は想像通りの吸血鬼狩りのようだった。聞いたこともない組織だが、爪弾き者達が集まった魔術師集団なのだろう。吸血鬼騒ぎの起きている土地へ赴いて、討伐して、また次へ。根を下ろさない魔術師では、自分達の敵にはなり得ない。
 それでも気になる点がなかったわけではない。さつきに惨殺され、微かに生気の残るうちに読み取った情報は、虫食いのようにあちこちが欠けている。
「フライア……」
 記憶のあちこちに、フライアと記述があった。しかしその正体は掴めない。まるで、そこだけネットワークから切り離されているかのように、暗く落ちていた。ただただフライアとあるのみである。何者かがその記憶を消去して回っているのか。或いは彼ら自身が、シオンのような手練れを警戒して記憶にセキュリティを掛けているのか。どちらにしろ、隠されているものは大体の場合において大切なものだ。
 渡り鴉を刈り続ければ、やがて辿り着くだろう。そしてきっと、そいつとは相対することになる。魔術師の、そして吸血鬼のカンがそう言っている。
「死徒、か」
 感慨は無い。ゆるりとした浸食に、とっくに神経は麻痺していたのかもしれない。苛まれている間は、先の見通せない地獄のような日々だと感じたが、いざ死徒になってみるとなんということはなかった。穴蔵の引きこもりが、血を吸う化け物に変わったというだけ。世界に与える影響は、微々たるものだろう。頭に乗れば消される。それは、どちらでも結局変わらないのだ。
 しかしさつきにはできればそんな世界にいてほしくないと思う。あまりにも似合わない。彼女の純粋な一撃が人の頭蓋を砕くなど、こうして寝顔を見ている限りは夢想だにも出来ない。
 シオンはそっと、さつきが眠るベッドに腰を下ろした。小さな寝息にあわせてシーツが上下する。粟色混じりの髪の毛を枕にふわりと広げ、穏やかな顔で眠っている様子がどうにも愛らしい。鼻をつまんでみる。五秒ほどもそうしていると、指から逃れようと寝返りを打つ。思わず噴き出してしまって、シオンは慌てて指を離した。
「いけない。何をしているんだ、私は」
 ほうと息を吐いて立ち上がる。暗幕の向こうでは、丁度太陽が昇った頃だろう。眠気がゆるやかな波のように押し寄せてくる。あくびを一つ、ついでに大きく伸びをして、シオンは服を脱いでいく。
 ブラジャーも脱ぎ捨て、ショーツ一枚の姿で、シオンは姿見の前に立ってみた。いつ見ても変わらない、時間の止まった肉体。惜しんでも惜しんでも取り戻せない、人間の肉体。
 高級そうな箪笥に綺麗に並べられた衣類。その中から、いつだったか琥珀が買ってきた白いネグリジェを取り出して着る。
「……そういえば、そちらは私のベッドですよ、さつき」
 いつもの感覚でベッドに入ろうとして、さつきに占領されてしまっているのを思い出す。元々この部屋はシオンが使っていたものだ。琥珀の地下室にほど近い、比較的陽の当たらない一階の部屋。シオンが住むことになったとき、志貴がせっせと準備したため、遮光効果は完璧。
 まっさらなベッドと、さつきが眠るベッドを見比べる。間に五十センチほどの隙間を空けて、二台は隣接している。しばらく二台を見つめて、シオンは意を決したようにいつものベッドに静かにそろーっと潜り込んだ。
「今日だけ、失礼します」
 胸の奥が冷え切っていて、やけに寂しかった。誰かに慰めて欲しい気分だった。シオンだって、そんな気分になることくらいある。甘えられる相手がいなかっただけのこと。けれどさつきなら、甘えることも許してくれそうだった。もちろん、表立ってそんな態度を取ることはできないけれど、寝ぼけてベッドを間違えることくらい、誰にだってあるのだから。
「おやすみなさい、さつき」
「……おやすみ〜」
 思いがけず反応があって、シオンは目を白黒させた。ごろん、ともう一度寝返りを打ったさつきの腕が、シオンの体に巻き付く。シオンは柔らかなぬくもりを噛み締めながら、ゆっくり目を閉じる。すぐに、部屋には二人の吸血鬼の寝息が響き始めた。


***


 久しぶりにベッドで眠った感想は最高だった。疲れの取れ具合が違う。体中がリラックスしていて、素晴らしい気分だった。
「んー……っと、うわ」
 シオンがいた。びっくりした。しかも何やら色っぽい格好をしている。さすが外国人だなぁ、などとズレた感想を抱いて、さつきはゆっくり身を起こした。シオンが身じろぎして、少し呻いた。色っぽい。歳は同じくらいだと思うのに、やけに女らしい一面に驚いたりする。思わずもう一度横になって、シオンの寝顔を眺めた。
「小さい顔、まつげ長い、鼻高い……むぅ」
 改めて見るシオンはやっぱり綺麗だ。寝ているときも起きているときも、まるで彫刻のように美しい。そして今は、着ているネグリジェのせいで色気倍増だ。ていうか胸大きい。じっとシオンの胸を見つめる。穴があくほどに。86センチと出た。これはいかん。けしからん。とかなんとか思いながら、さつきはシオンの乳房をぷにぷにしてみる。
「ん」
「わ」
 シオンの目が一瞬開いて、すぐに閉じられる。危ない。何をしてるんだわたし。さつきははあはあと荒い息を吐きながら、指を引っ込めた。柔らかかった。シオンを起こさないようにゆっくりとベッドから起き出して、ぐっとのびをする。それから暗幕に触れて、熱がないことを確認。勢いよく引く。
「良い夜だなー」
 満天の星空……には少し遠いけど、月明かりの眩しいしっとりとした夜だった。といっても陽はまだ落ちたばかり。人間は夕飯を終えて団らんの一時というところだろう。
「バイト、行かなきゃ」
 寝ぼけた顔のまま、さつきはふらふらと部屋を後にする。部屋と同じように暗幕の張られた廊下を抜け、洗面所で顔を洗ってようやく覚醒。
「あら、おはようございます。よく眠れましたか?」
「おはようございます琥珀さん。はい、おかげさまでぐっすりです。こんなに眠れたの、人間だったとき以来だから、何年ぶりかですよ」
 ほくほく笑顔でもの悲しいことを言うさつきに、さしもの琥珀も暫しの絶句を強いられた。しかし琥珀の笑顔が強張ったことには気付かず、さつきはにこにこ微笑みながら歯ブラシを手にしゃこしゃこと歯を磨く。
「そうですか。そういえば秋葉様から何かお話があるそうです。支度が済んだら居間へ行ってみて下さい」
「話? なんだろう」
「内容までは聞いていませんけど、特にお叱りとかではないはずですよ」
 では、と琥珀が去っていく。なんだろうか、怒らせることは……たくさんした気がする。けど昨日のでちゃらにしてくれたと思ったのに。などと思いながら、さつきはうがいを済ませて居間へ向かう。と、途中ではたきを持った翡翠と鉢合わせた。
「おはようございます弓塚さま」
「おはようございます翡翠さん。こんな時間までお掃除ですか?」
 翡翠はどこかそわそわした様子で、あちこちに視線をやっていた。怖がられているのだろうか。
「秋葉さまも志貴さまも姉さんも、皆昨日の件を心配して仕事をさせてくれないものですから」
 うずうずしているというわけだ。どうやら隙を見て掃除を敢行しようとしているらしい。でも確かに、魔術師に妙な術を掛けられていたのだから、安静にしていなければならないと思う。なんでも、人形にしてしまう術らしい。もし気付くのが遅れていたら、翡翠は二度と自分の意志で動くことはなくなっていたのだとか。
「気をつけてくださいね」
「はい。それと、昨晩はわたしのために失礼を致しました」
「え? あー、気にしないで。わたしが勝手にやったことですから。むしろ、余計なことをしちゃったみたいですみませんでした」
 ぴく、と翡翠の無表情な顔の上で、眉毛だけが跳ねた。
「わたしも、腹に据えかねていましたから」
「え……?」
「それでは、失礼します」
 ぺこり、と頭を下げて、翡翠が廊下に消えていく。その背中をしばらくぽかんと見つめてから、自分が慰められたのだと気付く。人殺しを、容認するような人にはとても見えない。内心では恐ろしくさえ思っているだろうに。
「お、起きてきたのか。シオンは?」
「志貴くん……おはよう」
「っと、おはよう」
「シオンはまだ寝てるみたいだけど。何か有ったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……そういえば秋葉が呼んでたぞ」
「……怒ってなかった?」
「なんでだ? 特にそんな様子はなかったから平気だろ。あいつ、怒ってたら全身から滲み出すからな。ただ、あまり良い話じゃないんだ。詳しくはあいつから聞いてくれ」
 そっか、とさつきはひとまず胸を撫で下ろす。志貴と別れ、今度こそ居間へ向かう。秋葉は脇に琥珀を従えて、静かにティーカップを傾けていた。まるでドラマの中のお嬢様だ。などと思いながら、「おはようございます」と挨拶をする。
「おはようございます。この挨拶もシオンで慣れたけど、やっぱり変な感じがするわ」
 流し目でさつきを見つめながら、秋葉がくす、と笑う。確かに機嫌はよさそうだ。
「早くもなんともないですからね。でも、起きたときはおはようですよ、やっぱり。ところで、何かお話があるって聞いたんだけど」
「そうでした。弓塚さん、あなたコンビニでバイトをしているんでしたよね」
 今日も、これからバイトに出ようと思っていたところである。
「うん。三咲町に戻ってから始めたんだけど、それが何か?」
「あのコンビニ、今朝方全焼したわ」
「へ?」
 全焼?
「な、なんで。あ、それより今日の朝……松本さんが一人だ」
「店員が行方不明だそうですよ。火事の原因は放火と見られているそうですが、犯人は現在のところ、その松本さんという線が濃厚。しかし、十中八九奴らの仕業だと見て良いでしょう」
「やつらって、昨日の?」
「出火した時間、店内には客がいたそうです。それも五人連れの少年。彼らは入店したときはっきりと店員がレジにいたのを確認していました。数十秒後、陳列棚の一部が突然発火。防犯カメラには突然発火した陳列棚と、慌てる少年達、そして一瞬のノイズのあと消え去った店員が映っていたそうです」
 秋葉がティーカップを傾ける。
「……ノイズ」
「魔術といった手のものである可能性は高いでしょう。その上このタイミング、私は怪しいと思いますが」
「でも、なんで、コンビニ?」
「さつきが働いているからでしょう」
 入り口にシオンが立っていた。
「渡り鴉という組織だそうですが、翡翠を狙った件や、昨日のさつきに大人数を充てて私には単独の、しかも安全な人形で襲いかかってきた点から、外堀から埋めていくタイプと推測できます。本丸は元々私だったようですが、昨日の一件でさつきの危険性を認識し、さつきの死徒である可能性の高い店員を狙った」
「めんどくさいことを」
 秋葉が煩わしげに言う。
「私が根城としているこの屋敷の者、さつき、どちらも私の死徒である可能性がある。店員は先に述べた通りさつきの死徒の可能性が高い。目標の死徒を倒す場合、その血袋となっている下位の死徒や死者を倒すのは基本です」
 シオンは違和感なく秋葉の対面に座って、すらすらと続ける。
「ですが、翡翠にしろ店員にしろ人間だった。噛まれた形跡もない。今頃大慌てだと思いますよ。彼らの大義名分は、人間を傷つけないというところにあるのです。人間は傷つけず、死徒だけを狙う。だからこそ存在し得る。なぜなら、彼らは小さく弱い。本来魔術を否定する教会。そして魔術の公開を是としない協会。そういったより強大な組織から目こぼしされているのは、その力の矛先が死徒にのみ向いていたからです」
「それって、まさか」
「……ミスを悟った彼らの口封じは素早いでしょう」
 シオンは歯切れ悪く言った。これを言えば、さつきは必ず助けに向かうとわかっていたからだ。しかし、さつきはそれを事態の深刻さとして受け取った。
「待って」
 秋葉のよく通る声が、部屋を出ようとしたさつきの背中を打った。
「場所もわからないのに飛び出していく。まるで兄さんのようですねまったく。郊外にちょっとした山があるのは知っている? あそこに、身元不明の集団が出入りしているという情報を先ほど掴みました。そこが本拠地なのかはわからないけれど、行ってみる価値はあるでしょう」
「ありがとう」
 さつきが駆けていく。直ぐさま後を追おうとしたシオンは、ふと秋葉を見た。
「まったく貴方は……仕方がありません、私も行きます。志貴は在宅ですか?」
「ええ。こちらにも、来るでしょうからね」
 笑った秋葉の瞳は、ゾッとするほど冷たかった。


***


 タクシーを降りた瞬間、二人は左右に飛んだ。アスファルトに火花が散って、二人を狙った二発の銃弾は明後日の方向へと飛んでいった。
「やっぱりこうなるんだ……うぅ」
「当然でしょう。私達が歓迎される場所というのは、世界中探してもなかなかありません」
「だよね〜……はあ」
 さつきは早くも涙目だった。
「12.7mm弾ですね」
「えーっと?」
「当たると効くということです。普通の人間なら、当たった箇所で肉体が分断されます」
「あう……」
 山の中へ続く車道の左右に分かれ、それぞれ木を盾にする。対物ライフルで狙われては細身の木ではバリケードにはならない。二人は背を曲げ、地べたに這いつくばるようにして木から木へと移動をする。
「魔術師って、鉄砲使うの?」
「ここにいるでしょう」
 シオンがいつの間にか抜いていたブラックバレル・レプリカを指して言う。
「ですが、渡り鴉はどうやら魔術師だけの集団というわけではなさそうです。恐らく、特殊な力を持たない人間もいるはずです。秋葉は二十名と言っていましたが、それは大なり小なり魔術を使える者でしょう。それより多く、普通の人間が混じっている」
「最初の時に、わたしが殺した人みたいな?」
「そうです。あのとき、双子は雇っていると言っていました。捨て駒扱いで。どうも私は抜けていたようです。思ったよりも、相手は巨大かもしれない」
 シオンの赤い瞳が軌跡を描いて移動していく。人間がたくさん。さつきはがくっと肩を落とした。できれば、あまり殺したくない。また志貴に八つ当たりするのはごめんだ。
「うっとうしいなぁ」
 木々をなぎ倒す50口径弾の出所を睨みながら、さつきがこぼす。弾丸の軌道から山の中腹から狙っているのはわかるが、細かい場所が絞り込めない。
「ぞろぞろ出てきたようですよ」
 そこら中に漂っていた匂いの元、アンブッシュしていた人間達が、一斉に銃口をこちらに向けたのがわかった。
「問題なさそうだけど、どうしよう。殺しちゃまずいよね」
「昨日より冷静ですね。怒り狂うかと思いましたが」
「反省しました」
 ぺこ、と頭を下げるさつき。
「私には躊躇はありませんから、任せます」
「じゃあえっと、えーっと……骨折なら、いいかな?」
 良いわけがないが、良いのだ。だって二人は世にも恐ろしい吸血鬼なのだから。

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