一話 レイヴン

 視界が滲む。やったことはこの前の一人と同じ。人間を殺すのはとても簡単だった。呆気なく千切れる。潰れる。だからシオンを笑顔で迎え入れられるはずだった。終わったよ、と微笑むつもりだった。その予定だった。
「そんなわけ、ない……」
 何を勘違いしていたんだろう。そんなことができるはずない。五人も殺した。脅かすつもりだった? それこそ間違いだ。さつきの頭には、もう殺すことしかなかった。志貴のために。違う。自分のためだ。せっかく手に入りそうだった安寧。それを潰されたのがひたすら憎くて、皆殺しにしないと気が済まなかった。その思考こそ壊れきっていると気づけなかった。
 部屋は明るかった。五人はさつき達の襲撃に気づいていた。けれど構えられなかった。五階に入ってから察知して逃げる。そのつもりだったんだろう。けどそれでは遅かったのだ。
 さつきが踏み込んだとき、部屋は明るかった。五人は五人とも驚いた顔のままさつきを迎撃しようとした。けれど、それすらさつきは許さなかった。まず一人の腹を突き破った。二人目の首を引き千切った。三人目の胴を寸断し、四人目も同じようにした。そして五人目の頭をもいだときに、見た。
 部屋が明るいせいで、窓ガラスにはさつきの姿がくっきりと映っていた。さつきは化け物になっていた。見たこともないほど赤い瞳は瞳孔が開ききり、心底愉快そうだった。口は釣り上がり、歯をむき出しにして嗤っていた。顔に、腕に、全身に返り血を浴びて、さつきはまるでおもちゃで遊ぶかのように、人間を殺したのだ。
 何かが壊れる音がはっきり聞こえた。覚めてはいけないと思う頭と、完全に冷え切ってしまった体が、さつきを狂わせた。
 正気という狂気に立ち返って、さつきは泣いた。自分が何をしているのかさっぱりわからなかった。こうも容易く人の命を奪う決断をして、それを実行している自分が信じられなかった。
 廃ビルで初めて人を殺したあのときもこんな顔をしていたのかと思うと、頭がどうかしてしまいそうだった。
「弓塚!」
 我に返る。振り返ってみれば、志貴が追いかけてきていた。人の少ないところを選んで逃げたのが裏目に出た。志貴はナイフを持ったまま、全速力で追いかけてくる。
「こないで」
 呟いて、更に速度をあげる。風のように走りながら、涙をこぼす。見られたくなかった。見せたくなかった。あんな、化け物に成りきってしまった自分など。
「待て、って言ってるのが!」
 頭上を何かが飛び越えていく。相変わらず無茶苦茶な身体能力だ。志貴はさつきを飛び越えて、立ちはだかった。
「聞こえないのか」
「遠野くんこそ、こないでって言ってるのに」
 立ち止まって、真っ向から志貴と対峙する。眼鏡の青年は、さつきの知る志貴とは少し違っている。数年間の時が、志貴を成長させていた。さつきは変わらない。アカシャの蛇とか呼ばれている吸血鬼に噛まれたときのままで、成長も老いも知らない体になった。なんて寂しいことだろう悲しいことだろう。大好きだった遠野志貴は大人になっていくのに、人間の輪の中から外れてしまったさつきは、もうずっと彼と同じ時間を生きることはできない。
 いっそ死ねば楽になるんだと思う。何度も、何度も何度も何度も何度も、血を絶とうとした。日光を浴びようとした。けれどできない。怖い。こんな体になっても死んでしまうのは恐ろしい。
 未練ばかりのこの街を捨てようとして、あちこち彷徨ったことだってあった。けれど結局三咲町に戻っていた。意志薄弱もいいところだ。自分には、何も決められない。己の進退すら決められない。なんて弱い。なんて脆い。
 でももういい。
「遠野くん」
「落ち着いたなら帰ろう。皆心配する」
「志貴、くん」
 ゆっくりと、志貴の手が眼鏡に伸びていく。そう、それでいいんだよ遠野くん。さつきは有りっ丈の殺気を込めた目で、志貴を睨み付けた。志貴の中の生存本能が、警鐘を打ち鳴らすほどに強く強く。
 志貴の手は震えていた。数年前、さつきを見逃したときとは状況が違う。さつきはあのときよりもはるかに強大になっている。
 眼鏡を外し、一瞬目を伏せた志貴は、顔を上げてさつきと向かい合った。寝静まった住宅街のど真ん中で、二人は睨み合う。
 まるであのときの再現。あのときと違うのは、さつきが正気であることくらい。だがその差が決定的だった。さつきは覚悟を決めた。志貴を殺すか、或いは殺されるか。どちらでもいい。志貴には責任を取ってもらおう。あのとき殺さなかった責任。身勝手でもいい。もう遠いところへ行ってしまった志貴への、最後のわがままだ。
「志貴くん」
「……わかった」
「うん。じゃあ、死んで」
 地面を蹴る。コンクリートが砕けて散った。涙が一粒、砕けたアスファルトに落ちる。
 ほんの一歩で数メートルも飛び出すと、さつきはそのまま拳を叩き付けた。
「む」
 アスファルトに。
 志貴はすんでのところで後ろに跳躍。難を逃れている。志貴にも色々あったとは聞いている。何度も死ぬような目に遭ってきたと聞いた。だからなのか、志貴は戸惑いは見せるが動揺はしていなかった。ちょっと頭にくる。もっと動揺してほしい。心を揺さぶられて欲しい。
「逃がさない……っ!」
 絶叫。爪を開き、一息で肉薄する。だらん、と垂らした腕を無造作に振るう。志貴のシャツがばっさりと裂ける。
 ――届いた。
 志貴は更に下がる。さつきは足を止めた。頬に志貴の血が付着していた。迷わずに指ですくい、なめる。そうしてから、微笑んだ。
「もっと、ちょうだい」
 志貴がため息を吐いた。気持ちは分からないでもない。せっかく助けてやったのに、恩を仇で返すというのにも限度がある。
「その程度なのか? 弓塚。欲しければ、殺す気できてくれ」
 少し違ったらしい。さつきは嬉しそうに微笑む。
「うん」
 風が唸る。もっと早く。より速く。志貴とぶつかり合うほど接近したさつきは、今度は腕を一直線に突き出した。志貴はナイフでそれを器用に受け止める。続けて左手を振ると、志貴はもういなかった。
 咄嗟にしゃがむ。頭のあったところを、ナイフが通過。髪の一房を持って行かれる。
 足を出す。志貴はいない。掴もうとする。やっぱり志貴はいない。
「ずるい」
「なんだって?」
 むかむかむかむか。
 さつきは胸の辺りがもやもやして仕方なかった。当たらない当たらない。最初の二発で、まるで全てを見切ったかのよう。余裕綽々で全てを避けられて、苛々が募っていく。
 一発、二発、三発、四発。緩急を付けてみたり、フェイントを入れてみたり。思いつく限りの方法を試す。
 五分、十分。攻防は延々と続いていく。
 そうしていく内に、熱くなっていた頭が冷めていく。少しずつ冷静にものを考えられるようになってくる。暴風のようだったさつきの攻めは、だんだん力を失っていく。
 なんでこんなことしてるんだろう。
 熱に浮かされていた頭が冷めて、さつきははっきりと思った。手を止め、足を止め、志貴を窺い見る。さつきに切り裂かれ、ぼろぼろになった服のせいで、志貴はパンキッシュな格好になっていた。肩で息をしながら、ぜーぜーとナイフを握る姿がおかしい。
「気が済んだのか?」
「え、いやその……ご」
「ご?」
「ごめんなさい!!」
 土下座。アスファルトに全力で頭突きをする。アスファルトにひびを入れる土下座に、志貴が一歩引いた。いや完全に引いた。
 何が「じゃあ死んで」だ。「もっとちょうだい」だ。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。頭がどうかしていたとしか思えない。完全に自分を見失っていて、まるであのときと同じだった。
 志貴はさつきがパニック状態にあるとわかっていたのか、ナイフを収めると、はあ、と深いため息を吐いた。よく見れば志貴は余裕なんかじゃなかった。心臓の鼓動は異常なほど早く、発汗も凄い。さつきの台風のような攻撃に晒されていたのだから当然だが、さつきにはそれが不思議だった。志貴なら、自分くらい簡単に殺せると思っていたからだ。
「あの」
 さつきがおでこを擦り付けたまま、蚊の鳴くような声を出す。
「怒って、る?」
「怒ってる」
 ひい、とさつきは更に頭をめり込ませる。眼鏡をつけた志貴はもう一度ため息を吐いた。
「頭上げてくれ。帰ろう」
「……うん」
 嬉しい言葉だったが、気は進まなかった。このぼろぼろの志貴を見たら、誰だってさつきがやったと思うだろう。実際さつきがやったのだから仕方がないが、秋葉の怒りに震える姿がありありと浮かぶ。それ以前に、こんなことをしでかして、志貴に嫌われていないだろうか。突然死んでなんて言われたら、絶交ものだと思う。あの服だってもしかしたら凄く高いのかもしれない。あまりそうは見えないけど、志貴はおぼっちゃんなんだから。きっと服じゃなくてお召し物とかなんとか言ったりして、メーカー品なんかじゃなくて、一着一着どこかの凄いデザイナーなんかが手作りの……。
「弓塚?」
「あ、ごめん。あと、ごめん」
「弓塚、変だぞ」
「うん。ごめんなさい」
 志貴が頭を抱える。でも仕方ないじゃないかとさつきは思う。謝るくらいしかできないのだ。申し訳なくて申し訳なくて、どうにかなってしまいそうだった。
 すたすたと歩いていく志貴に、いくらか躊躇しながらついていく。その足はすぐに止まった。
「あれ……?」
 振り返って辺りを見回す。誰もいない。視線を感じたはずなのに。気配も一瞬で消えた。さつきは疑問符を掲げたまま、遠く離れていく志貴の背を追った。


***


「これはとても良いものが見られたな。重畳重畳」
 薄明るくなり始めた街に消えていく二人を見送りながら、フライラは呟いた。長身で、恐ろしく白い肌に、血色の悪い唇。黒い外套をはためかせた男。満足げに微笑んでいるその場所は空中だった。外套を羽ばたかせて、はるか上空から二人の戦いを見守っていたのだ。
「あの娘がいないのは想定外だが、これはこれでなかなか悪くはない。もう暫く、見物するとしよう」


***

 秋葉は激怒していた。これはまずい。さつきは冷や汗をだらだらと流していた。ほんの数時間のうちに、二度も秋葉を怒らせるというのはどう考えてもよろしくない。
 リビングの床に正座させられたさつきは、頭を垂れてちらちらと辺りを窺う。志貴は苦笑。翡翠は無表情。琥珀は微笑。秋葉は般若。シオンはお茶を啜っている。何故シオンが他人事なのかと訴え出たい気分だが、それは雰囲気が許してくれない。きっと、帰宅する途中で和解したのだろう。置いてけぼりだ。
 ここに来て気付いたことがある。志貴は弱い。この屋敷の中で。とても弱い。序列で言うと最下位にあたるはずだ。使用人よりも下である。だから、志貴が許してくれても、秋葉が納得いかなければなんの意味も無い。いや嬉しいけど。この場を切り抜ける手段として志貴を懐柔することは無駄なのだ。
「兄さんの服が大変なことになっていましたけど、あれは弓塚さんがやったということでよろしいのですね?」
「いや、だからな。俺が――」
「黙ってください」
 これである。
 志貴はしゅんとしてしまった。そしてさつきに目配せする。ごめん無理。志貴の目はそう言っていた。でも別にそれは構わないことだ。さつきが襲いかかって、ああしてしまったのは事実だし。それも、殺意を持って。情状酌量の余地はないので、さつきは頭を垂れて謝るばかりだった。
「これは、弓塚さんを屋敷に置くのを少し考える必要がありそうですね、兄さん」
 秋葉の鋭い流し目が志貴をなめた。ぶるっと体を震わせた志貴は、どうにか口を開く。
「まあまあ。秋葉様、弓塚さんは反省しているようですし、ひとまずは穏便に」
 そこへ、琥珀のやわらかな声が割り込んだ。志貴がホッと胸を撫で下ろしているのが見えた。
「何を言っているの。言いたくはないけど、危険です」
「おい、秋葉」
「兄さんを襲ったのは事実でしょう」
 さつきの頭ががくっと沈み込む。
「ですが、街に不審な輩が増えているのもまた事実。ここは一つ傭兵を雇う気分で弓塚さんを置く、というのは如何でしょうか」
「一番不審なの、私だと思いますけど……」
 こうなりゃ自棄だ、とばかりにさつきが自虐モードスイッチオン。
「確かに現状では志貴さんを手に掛けようとしたのは弓塚さんだけですが、彼女を追い出して敵に洗脳されでもしたらどうしましょう。志貴さんがこんなにぼろぼろにされちゃう弓塚さんが敵ですよ。怖いですよ〜」
「それは怖い。冗談抜きで。殺されると思うぞ、ほんとに」
 化け物扱いである。化け物だけど。
「……この町のことは私がカタを付ける。それだけの話です。その不審な連中の始末も私一人で付ける予定だったのに」
 だいたい、と秋葉が語気を強める。
「あれはそもそもあのシスターの仕事でしょうに。魔術だかなんだか知らないけど、どこほっつき歩いてるのかしら、ほんと」
 があ、とまくし立てる秋葉を横目に、琥珀が親指を立ててみせた。もう大丈夫? 何故だろう。
「さておき、ではこうします。シオン、弓塚さんの二人はこの屋敷への滞在を許可します。ただし、次に何かあれば容赦なく排除します。私を、本気で怒らせないようになさい」

 さつきは宛がわれた部屋でベッドに横になっていた。ご丁寧に窓には分厚い暗幕が掛けてあって、外の光は一切届かないようになっている。隣のベッドにも綺麗に布団が敷かれているが、シオンはテーブルで何か書き物をしていてまだ眠らないらしい。
「さつき」
「ん?」
「秋葉はああ言っていましたが、私達を屋敷に置くのは監視のためです。私達も街に入り込んだ異物には違いありませんから」
「それでもいいよ。とりあえずは、許してくれたってことだもん」
 天井をぼーっと見つめながら、さつきが返す。もう日は昇っていて、とても眠い。
「それから、とても大事なことがあります。さつきを見ていてなんとなくわかりましたが、志貴のことが好きなのですね?」
 一瞬ばくん、と心臓がはねる。けれど、すぐに落ち着いた。
「ああ、うん。きっと、まだそうなのかな。あの頃よりは薄れたけど。でも、秋葉さんが恋人なんでしょ? それなら、仕方ないや」
「気付いていましたか」
「なんとなくね。ほんとになんとなく。ああでも、聞かされると結構ショックかも」
 む、とシオンは暫く何か考え込む。
「ショックついでに一つだけ」
「追い打ち……?」
「そうです」
 言ったきり、シオンは何も言わない。考え込んでいるのか。言いよどんでいるのか。珍しいこともあるなあと思う。なんだろう。実は秋葉のお腹に子供がいるとか。あ、まずい、ちょっと泣くかもしれない。
「秋葉は、声が大きい」
「え? あ……」
 さつきが頬を染める。ついでに、秋葉の鼻に掛かった甘い声が脳裏を過ぎる。
「翡翠や琥珀には聞こえないでしょうが、なんと言いますか、私達の耳なら確実に聞こえます。私に聞こえるのだからさつきに聞こえないはずはありません」
「えーと、その……あー……うわぁ、ぁー……まい、にち?」
「ほぼ。時刻は深夜零時から一時前後まで。概ね一時間ほどで終わります」
 当然のことながら、さつき達がもっとも元気な時間帯だ。
「うぅ、それはなんだか、きついなぁ」
「私でも気恥ずかしいくらいですから、さつきは……」
「言ってないよね? 聞こえてるって」
「プライバシーに干渉するつもりはないので、言っていません」
 うん。それはよかった。さつきは胸を撫で下ろす。でもどうしたものだろうか。そんなのを聞いて我慢できるだろうか。秋葉と絡み合う志貴を想像して、めまいがする。いやいや、しょうがないんだ。二人は愛し合っていて、私はそうじゃないんだから。
「そっか。うん、まあ覚悟はしておく」
「ええ。そうしたほうが良いでしょう」
 それじゃおやすみ、と布団を被って、けれどすぐにさつきは顔を半分だけ覗かせた。
「あの、さすがに今からなんてことは……」
「無いと思いますが」
 ほっと胸を撫で下ろして、目を閉じる。ぐるぐると昨日の出来事が頭の中を駆け巡っているうちに、さつきは眠りに落ちていった。その際に、シオンの声が聞こえたような気がした。
「ごめんなさいさつき。もう、二度とあんな目には遭わせない」

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