文句があるとすれば、相も変わらぬ兄の放浪癖と女癖……は少し言い過ぎだろうか。一応誠実ではある。
 対外的な色々に考慮して恋仲であることを隠すと言い出したのは秋葉だったが、それに顔色一つ変えずにわかったと頷かれると立つ瀬が無いものだ。当時はそれで少し拗ねたりもしたが、今はもう慣れた。野良猫がもう一匹この屋敷に住み着くことになったとしても、それはもう仕方のないことだ。哀れなものを、どうしても兄は見過ごせないようだし。その哀れなものが吸血鬼だろうと、それも二匹目だろうと、もうどうでもいい。しかし吸血鬼と聞いて思わず連れ帰ってくるのは、まさか自分のせいではあるまいか、と心配になることもある。
 兄には迷惑をかけた。生涯をかけて恩を返さなければならないだろう。それは何の苦にもならない。少なくとも、遠野秋葉は遠野志貴を愛しているから。
「琥珀? 大丈夫?」
 ふと背後の気配が遠くなって振り返ってみると、使用人は肩で息をしていた。物思いに耽る余り、彼女には酷な速度で歩いていたらしい。
「はい。大丈夫です秋葉さま」
 汗の浮いた額を光らせて、穏和な笑みを見せる琥珀。普段なら妖艶に見えるその笑みも、心なしか弱々しい。彼女の体はそう強くはない。遠野の化け物が自分勝手に歩いていけば、当然のようにこうなる。
 普段ならこんなことは有り得ない。彼女を気遣うくらいの余裕は、最低限のものとして持ち合わせているからだ。それが疎かになっている理由というのは、矢張り前述の野良吸血鬼弓塚さつきと、いつからかこの町に巣くった正体不明の集団のせいだ。真夜中の日付が変わった頃に出歩くようになったのは、丁度一週間ほど前から。つまり、弓塚さつきが襲われたその日からだ。秋葉の目と耳はどこにでもある。
 さつきを屋敷に迎え入れたのは、この不審者どもからさつきを守るため。というのは志貴の言い分であり、秋葉としてはまた違う。単純に餌になるからだ。実際、襲われているのだから二度目もあり得る。シオンはその辺はわかっているはずなので、屋敷を空けても問題はない。番犬代わりくらいにはなってくれなければ困る。
「ごめんなさい。少し考え事に集中していて」
「申し訳ありません」
 深く頭を下げる琥珀を薄く微笑んで見つめて、再び歩き始める。
 戦うために、彼女を連れ回さなければならないのは精神衛生上よろしくない。今回の騒ぎ、相手が誰にしろ殺し合う必要があると、秋葉は踏んでいた。どうにも臭すぎるのだ。定期的に何か異変が起こるこの町のおかげで、土壇場の匂いにも慣れたものだ。ただそうなると琥珀は邪魔になる。家で待っていてほしいところなのだが、琥珀無しで力を使いすぎると、少し怖いことになる。裏返るのは、もう二度とごめんだ。だから、彼女にはこうしてついてきてもらわなければならない。
「まったく、どうしてあの女がいないときに限ってこういうことが起きるのかしら」
 しばらく歩いて、秋葉が不意にこぼした。手がかりは無し。一週間も歩いて、一つもない。家の力も大げさにならない程度には使っているのだが、まるで尻尾を掴ませてくれない。こういうときに、あの似非修道女がいれば楽なのだ。アレの探知能力はずば抜けている。情報を聞き出すのに難儀するだろうがそれはそれ。シエルが解決してしまうならそれでいい。のだが生憎そのシスターはしばらく姿を見せていない。アレでも多忙な身であるらしいので、そう都合良くはいかない。一応、彼女の狩猟対象が少なくとも三人もいるこの町を、手放すとも思えないのだが。
「問題は無いかと。いざとなれば、志貴さんもいらっしゃいますから」
「ああ――」
 あの放蕩兄め。志貴は家を空けている。志貴には一言も漏らしていないはずだったのに、何故か秋葉と同じ、一週間前から夜に家を空けるようになった。こうして町中歩いてもバッティングしないのは、恐らく向こうがこちらを避けているせいだ。忌々しいと秋葉は思う。自分は腐っても遠野家の当主だ。それを差し置いて、傲慢にも無断で夜の見回りなどという行為に出ている兄が、心底憎たらしい。
「言っても聞かないんだもの」
「大丈夫ですよ」
 くすくすと琥珀が笑う。この琥珀にも困ったものだ。志貴を信頼し過ぎる。使用人からバカにされるよりは余程いいが、当主の身にもなってほしいものだ。
「兄さんめ、調子に乗っているといい。いつか、寝首を掻かれるんだから」
「あら、そんなことになったら秋葉様はどうなってしまうんでしょう」
「さてどうかしら」
 屋敷の門を琥珀に開けさせて中へ入る。
「あら」
 琥珀が気付いて呟く。庭の向こうに、人の気配がした。
「まったく。こんな夜更けに何をしているのか」
 溜息を一つ。秋葉は談笑する吸血鬼二人を一瞥だけして、興味なしと歩き出す。琥珀はしばらく二人の様子を窺っていたが、やがて秋葉に続いた。

「遅かったな」
「いつお戻りに?」
 リビングでは、志貴が頭から湯気を立ち上らせていた。風呂上がりの石けんの香りが、鼻腔をくすぐる。
「ついさっき。何か収穫は?」
「ありません。そういう言い方をするということは、兄さんも駄目だったのですか」
 まあね、と志貴。夜中に出歩いていることについて、最早悪びれる様子もない志貴は、秋葉と協力態勢にあるつもりでいるのだろう。人が何も言わなければすぐこれだと呆れ半分、秋葉はソファに腰を下ろした。
「琥珀さんもお疲れ様」
「いえいえ」
 少し遅れて部屋に戻った琥珀は、声をかけられにこりと返し、台所へ消えていく。
「そういえば、翡翠はどうしているの? 兄さん」
 用のないときは大抵志貴に付き従っているはずの翡翠の姿が見えない。きょろきょろしながら問い掛けると、志貴は「ああ」と心配そうな反応を見せた。
「俺も聞きたかったんだけど、秋葉にどやされたってワケじゃないのか。だとすると、どこか具合が悪いのかもしれないな」
「今はどこに?」
「部屋で寝てるはずだけど。今夜はお先に失礼致しますとか言って、見回りに出る前に」
 ふむ。と秋葉は唸る。それはおかしい。あの子が志貴より先に床につくなんてことは考えられない。言って止めなければ延々返りを門の前で待っているだろう。それが、主人が出掛けるよりも前に眠るなど、場合によっては仕置きが必要なところだ。
「心配ね。琥珀?」
 とはいえ、翡翠の忠臣っぷりは誰もが知るところ。やり過ぎな面もあるが、仕置きをするほどのことはない。
「はい?」
「何か知っている? 翡翠のこと」
「んー、なんだか最近体調が優れないと言っていましたけど、診ても特に問題はなさそうだったんです。ストレスでも溜めているのかな、と思って色々聞いてみたりはしたんですけど、そういうわけでも無いようで」
 お手上げ、ということらしい。
「何故黙っていたの?」
「お二人を煩わせることでもないと思いまして。申し訳ありません」
 その通りだと秋葉も思う。翡翠のことを誰よりも知っているのは琥珀なのだから、彼女に任せるのが一番いい。その彼女が知らせる必要はないと判断したのなら、問題はないのだ。自分ではどうにもならないと思ったとき、琥珀なら必ず秋葉に頼る。
「お紅茶入りました」
 トレーを手に台所から出てきた琥珀は、湯気を立てるティーカップをふたつ、テーブルの上ににこやかな表情で置いた。



***


 眠れない。まったく眠れない。眠気はある。体は眠いと言っている。でも、目を閉じられない。閉じるとまた、夢を見る。ああ、嫌だ。
「姉さんは心配してたけど……」
 シーツを抱き寄せて、天井を見つめる。ほう、と意図せず溜息が漏れた。
「ただの寝不足だなんてとても言えない」
 バレたら秋葉に仕置きを受けることにもなるだろう。とて、ただの寝不足でもないことは確かだ。
 毎晩夢を見る。人を殺す夢。いや、正しくは人を殺せと命じられる、教育される夢。そう、教育だ。あれは野生の猛獣が子に狩りの仕方を実践してみせているような感覚に近い。自分はただその感覚に同調して、誰かの体験を追体験する。
 この現象には心当たりがある。一年以上も前のことになるだろうか、志貴が屋敷にやってきた頃の話だ。志貴は毎晩のようにうなされている様子だった。奇妙な夢を見るとも言っていた。シキが見せた夢。彼が蘇ったのか。でも、翡翠に夢を見せる理由はない。そもそも、自分と彼にはつながりはない。
 ごろん、と寝返りを打って、翡翠は床を見つめた。掛け時計の秒針が刻むリズムに身を任せれば、数秒で眠りに落ちてしまいそうだ。
「音?」
 不意に、翡翠は足音を聞いて体を起こした。廊下をこつこつと、誰かが歩いてくる。ぴたりと止んだその場所は、翡翠の部屋の前。
「姉さん?」
 心配そうな声を出すも、返事はない。翡翠は体に力がこもるのを感じていた。ギュッとシーツを握りしめ、ジッと扉を睨む。ドアノブが軋むような音を聞いたとき、翡翠は心臓が破裂するかと思った。琥珀や志貴や秋葉はこんな盗人のような開け方をしない。ノックをする。常識として。
 ドアが軋んだ音をあげ、ゆっくりと開かれていくのを、翡翠は音だけでしっかりと把握していた。ごくりと、生唾を飲み込んだ翡翠の目に飛び込んできたのは――。



***


「で?」
 秋葉は激怒している。リビングで正座させられているのは、さつきとシオンの二人だった。さつきはがたがた震えて、シオンのせいだシオンのせいだと呟いている。シオンはといえば素知らぬ顔で何か物思いに耽っている様子なのだ。
「まあまあ秋葉。何か理由があったんだろ? 弓塚」
「え、あ、うん。そうなんだけど……その、シオン、私説明できないよぅ」
 隣のシオンを肘でつつくも、ろくに反応が返ってこない。なんてことだとさつきはため息を吐きたいのをじっと我慢する。そんなことしたら秋葉に殺される。間違いなく。志貴にも殺されるかもしれない。今度こそ。何せ、翡翠の絶叫を聞いて全速力で駆けてきたらしい二人は、それぞれ青い目と赤い髪でもの凄い形相だったのだから。
「赤鬼青鬼という表現はなかなか」
「あらシオン。お仕置きをご所望?」
「いえ、特段所望するといったことは」
 意味のわからない挑発をするシオンを冷や冷やしながら見つめるさつきは、ふと部屋の奥で居心地悪そうに佇んでいる翡翠に気付いた。まさかこんな時間まで起きているとは想定外でした、とかシオンは言っていたがやっぱり無断で侵入なんかするのはよくないことだ。話があるならちゃんと入室したらよかったのに、とシオンに流されるがまま翡翠の部屋に突入したさつきは思う。当然、同罪だが。
「魔術師として少し翡翠の様子が気になっただけです。妙な術に掛けられている様子でしたから」
 シオンの発言で、志貴と秋葉の表情が凍った。きっと、台所では琥珀も同様だろう。部屋の温度が急激に下がっていくような錯覚に、さつきの冷や汗は加速した。
「どういう意味?」
「そのままの意味です。魔術と言っていいでしょう。何者か、まあ、相手はご想像の通りでしょうが、連中に何かされている」
 事の発端は、なんとはなしにシオンに尋ねたさつきの言葉だった。翡翠の様子が変だ、と。するとシオンは根掘り葉掘り聞いて、しばらく黙ったかと思うと翡翠のところに行こうと言い出した。それで、この様だ。
「巧妙に隠蔽されていましたが、直視して確信しました。人を操る類のものです。それほど難度の高いものではありませんし、つい先ほど解呪しましたから問題はないはずです」
「ん、それで黙ってたのか?」
 こく、と頷いたシオンを見て、秋葉もその怒気をいくらか抑えた。さつきがおろおろしている間に、何やら問題の一つは片付いたらしい。シオンが正座を解いて立ち上がっても、秋葉は何も言わなかった。
「具合が悪かったの?」
 秋葉が聞いたことのない優しげな声で翡翠に尋ねる。
「はい。ご迷惑をお掛け致しました」
 俯いて呟く翡翠を、秋葉は何か言いたげに見つめている。
「調子が悪いなら、もっと早くに言って欲しいんだけどな」
「まあでも、成長はしたんじゃない? 昔なら、倒れるまで何も言わなかったでしょうし」
「それはそうだけど」
 困ったやつだ、と頬をかく志貴をじーっと見つめて、さつきはなんだか寂しい気分になる。大人の一人もいないこの屋敷は、そのくせとても暖かい。すごくすごく暖かい。それはもう、自分には手の届かない暖かさ。志貴は吸血鬼にだって優しくしてくれるだろう。けれど、それは何か、違うような気がするのだ。なんとなく。
「さつき? どうかしましたか」
「ううん。なんでもない。みんな、仲良いなって眺めてただけ」
 目尻にほんの少しだけ浮かんだ涙を拭って、さつきは屋敷を出た。皆に「おやすみなさい」と告げて。そんなさつきの様子を、志貴はどこか心配そうな目で見つめていたが、さつきはそれには気付かなかった。
 二人は本館ではなく、離れに部屋を与えてもらっていた。これは一家の団らんに配慮したからで、追い出されたとかではない。地下という選択肢もあったらしいが、シオンは琥珀がよからぬことを企んでいると見抜いて離れにしてもらったとかなんとか。
「さつき、眠るのではないのですか?」
 足音も立てずついてきたシオンが尋ねた。
 さつきは離れには向かわず、そのまま正門へ向かっていた。足取りは力強く、シオンが戸惑うほどだった。
「決めたんだ」
 くる、と振り向いたさつきの顔を見て、シオンは魔術回路をオンにしそうになった。ぞわ、と肌に粟立つ感覚が、シオンの全身を包む。薄々は感付いていた。だがしかし、これほどなのか、と。
「わたし絶対、許さない」
 煌々と燃える瞳は、最早光を放っているようだった。丑三つ時の暗闇に、二つの珠が毒々しいほど赤く輝いている。
「殺すのですね」
 わかっていて、シオンは尋ねる。いいのか? と。だが答えは決まっているのだ。さつきは人を殺してしまった。人を殺していない。それこそが、教会の第七位、シエルなどという怪物が、さつきを見逃している唯一の理由だった。それはもう無いのだ。例え魔術師だとしても、人を殺したさつきを、シエルは問題視するだろう。魔術師の命などどうでもいいが、人を殺すのならお前は消すと、なんの感慨もなくアレは実行してのける。
 でもなんとなく気になったので、シオンは尋ねてみた。さつきは屋敷にいたときは決して見せない顔で、ゆっくりと頷いて見せた。
「そうですか」
 それだけを確認すると、二人は夜の町に消えていった。
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