昼下がりの六時間目。ぽかぽかと室内を照らす陽光と昼食後の満腹感は、生徒達を心地よい居眠りへと誘う。教室で無事ノートに目を走らせているのは数えるくらいで、他は誘惑に負け机に突っ伏している。教師はやれやれと溜息もそこそこに、クラス名簿に眠っている生徒のチェックを付けていく。
 ア行が居ないこのクラスでは、乾有彦という学年内唯一の不良学生が、名簿の一番上にその名を輝かせている。欠席、或いは遅刻、睡眠。そのどれかで埋められている乾有彦の欄に、今日も×印を付けようとボールペンを持つ。途中まで書いて、一応確認を取ることにする。とることにして、教師の目が見開かれた。あのオレンジ色の髪が、背筋を伸ばして黒板を見つめているのだ。
「おい、乾?」
 教師は思わず声を掛ける、乾はピアスを揺らし、めんどくさそうに教師の方を見ると「何スか?」と気の抜けた返事をする。そんな不遜な態度もいつものこと、今はそれよりも重大なことがあるとばかり真剣な顔を、教師は作りだした。
「お前、今日は寝ないのか?」




 そのあまりの言葉に、オレは思わず間抜け面を晒して教師を見た。今日は寝ないのかとは一体どういう了見なのだろうか。オレはそんなに夜行性な生き物に見えるというのだろうか。強ち外れても居ないのではあるが。
 生き残っている生徒がクスクスと笑う中、オレはいつものように冗談を飛ばす気にはなれず、「気分じゃないんで」とぶっきらぼうに言って、再び考えに耽った。
 比較的離れた位置に座る遠野の視線を感じたが、今日ばかりは相手をしている余裕はない。あくまで私見だが、個人的にはビッグバンクラスの衝撃がオレの全身を駆け巡っているのだから。
 単刀直入に言えば、不肖乾有彦は恋をしたんだろう。この世に生をうけてから十七年。初めてのことだと言っても、多分それは過言じゃない。
 これまで、別段女性関係で苦労したということはない。なんとなく成り行きで付き合って、なんとなく成り行きで抱いて、なんとなく成り行きで別れてきた。勿論、一緒に居るうちに情も移って、相手に好意も持ち始める。乾有彦は、それが恋だと思ってこの十七年間を生きてきた。けれど、違ったのだ。恋とは、相手を想うだけで胸がきつく締め付けられ、その人が微笑みかけてくれるだけでそれはそれは昇天してしまいそうなほどに高ぶる。そんなものを言うのだと、オレは昨日のあの瞬間に理解した。黒板に視線を向けながら、その黒板に書かれた『琥珀』の文字と、教科書に載る『琥珀』の美しい輝きを眺める。相応しい。その一言に尽きた。



 事の起こりは、ただなんとなく友人であるアイツの屋敷に遊びに行ったときだ。ホントウになんでも無い気持ちで、暇を潰しに訪ねた。遠野は嫌がる素振りを見せながらも結局は入れてくれて、自分の家が兎小屋に見えるほどの大きさを誇る屋敷のリビングで、如何にも高そうな葉を使った紅茶を飲んでいた。
 その時だ。台所で洗い物か何かをしていた彼女が、居間に出てきて、ニコリと微笑んでお代わりを注いでくれた瞬間。たったそれだけの何気ない動作なのに、俺の心臓は早鐘を打ち鳴らすかのように鼓動し、脈拍が上がり、気が付けば彼女の手を握りしめていた。柔らかく、ふわっととろけてしまいそうな手。

「琥珀さん。結婚しませんか」 



 テレビも、ラジオも、お気に入りのCDも、買ったばかりのゲームも。何もかもがどうでも良く感じる。オレは壊れてしまったのか。いやそうではない。これは所謂恋の病なのだ。と考えたところで、思わず鳥肌を立てた。
「オレがこんなコト言い出したんじゃ世も末だ……」
 食事まで喉を通らないのは正直重傷だ。眼鏡の女たらしが笑っているのが思い浮かぶ。こんな自分を誰が想像できただろうか。自分自身でも戸惑ってしまう程に、思い焦がれていた。
 何度か会ったことのある人だったし、その度にオレに向けられたものではなくても、笑顔が綺麗な人だなぁなんて普通の感想を抱いていた。それが、たった一回間近で微笑みかけられただけで、こうもおかしくなってしまうなんて。まさしく衝撃だった
「琥珀さん……ねぇ」
 絨毯の上に敷いた布団に大の字に転がって呟く。思い起こされるのはその名の通り綺麗な琥珀色の瞳と、白く透き通るきめの細かい肌。そして、藍色のリボンと、着物の首筋から覗く艶めかしいうなじ。綺麗に通った鼻筋。にこやかに、いつも明るく振る舞っているのに、どこか影を落とし、危険な色香を漂わせる唇。たった一瞬視界に映った琥珀さんの、そのどれもがオレの思考を停止させ、頭の中を真っ白にして何も考えられなくなる。
 寝ても覚めても頭は琥珀さんのことばかり。今までなら、何の気兼ねもなく行けた遠野の屋敷。けれど、あれから数日経った今。自分には無縁だと思っていた気恥ずかしさと、妙な遠慮が生まれてしまい、どうにも行きづらくなってしまった。オレが、その場の勢いのみでプロポーズをしてしまったことも、大きく影響していると思う。
 なんであんなことを言ってしまったのか。今こうして改めて思うと、後悔ばかりが募る。
 どこの誰が、突然手を握ってプロポーズしてくるような不作法者に好意を抱くってんだか。バカはやっても自分ではそれなりに考えて行動ができる人間だと思っていただけに、このショックは意外と大きくのしかかっている。そりゃぁもう、立ち直れないくらい。
「有彦さん、なんか大変なことになってますね。うんうん唸って、病気ですか?」
「契約を切ったってのにお前は随分気軽に遊びに来るじゃねぇか」
 オレは、突然視界に現われた、両手両足に馬のひずめ、尖った耳、ふさふさの尻尾を持ち、オレの体の上五十センチほどのところを浮遊している少女に、力のない眼光を向けながら低い声で言った。
「マスターが珍しく優しいんです。有彦さんのところになら行っても良いって言ってくれるんですよ」
 カツンカツンと前足を嬉しそうにかち合わせて、人外少女──オレが付けた名はななこ──が言う。だが、今のオレにこのハイテンション娘に付き合う気力はない。「そりゃ迷惑な話だ」そう言って大の字にしていた体を俯せる。
「有彦さん? 本当に調子悪くないですか?」
 横からのぞき込むようにしてくるななこの大きな瞳と目が合い、オレはふと訊ねてみることにする。相手は自称精霊で物の怪の類。聞かれたところで別段恥ずかしくは無いような気がする。こんなこと、人に言えた話じゃないから。
「ななこ、お前って人を好きになったりすることあるか?」
 言ってから。間違いに気付いた。コイツは見た目にもそういうネタが好きそうだ。再び頭を抱えそうになって、オレは自分の迂闊さに辟易した。
「わたし、有彦さんが好きですよ。あとは、多分まぁマスターもです」
 が、ななこから帰ってきたのは至極真っ当な答えだった。いや、オレはバカか。どこがまともだ。
「そういう好きじゃねえんだ。もう良い。気にすんな」
 ゴロリともう一度からだを裏返して、蛍光灯の光と、ななこと対面する。ななこはふわふわ浮かんで、オレの顔をジーッと穴が開くほど見つめてくる。その瞳には、矢張りどきっとする。人間だった頃はさぞ美人だったのだろう。一時は獣姦も考えてしまったほどだから、その美しさは本物だ。だが、矢張りななこに覚えるそういった感情と、琥珀さんに対して覚える感情は、根本の部分では同じでも、大きな違いを見せているように思う。
「あのー、有彦さんはもしかして恋しちゃってるんですか?」
 ななこはジィッと見つめたまま、真顔でそんなことを言う。
「バカか。オレはそんな低俗な男じゃねぇよ」
 本当のことをこんな馬に教えるのも癪だ。適当に言い繕うと、しかしななこは不気味に流し目をして、ふふふと怪しげに笑う。
「琥珀さんって……人の名前ですよねぇ」
 思わず顔に出た。ななこはふふふと笑う。その笑みがあまりにも邪悪だったから、一瞬反応が遅れてしまったが、オレはせいいっぱいにななこを睨み付ける。
「テメエ……いつから居たんだおい」
 ふふふーと間延びした声。こんな馬畜生にバカにされるなんてのは、生涯初めての屈辱である。
「ずっと見てましたよ。有彦さんの切なげな吐息とか。まるで恋する乙女でした」
 自分の中で、何かが音を立てて崩れていくのが解る。まるでオレに手を握られたときの琥珀さんのように、オレは石像の如く硬直し、ななこを睨み据える。しかしななこはフフンと勝ち誇ったような笑みを浮べると。
「にんじんください」
 笑顔でそう宣った。



 午後六時の商店街は、非常に込み合っている。原価割れしてるんじゃないかってくらいのタイムセールが始まると、ここら一帯の主婦達が一斉に集まってくる。それはもう怒濤の勢いで、買い物をするときは絶対に飲まれたくはない。仮にも自炊している身なので、そこらへんは勝手しったる何とやら。タイムセール開始よりも早くスーパーに寄り、にんじんを纏めて買い物かごに叩き込むと、レジに向かう。高々にんじんとはいえ、こう数をそろえると出費もなかなかバカにできない。いつだったかななこがウチに居座っていた頃のことを思い出す。毎日馬鹿みたいににんじんを食べるアイツの所為で、オレの土木で稼いだ給料はことごとく消え去っていった。
「ったく、精霊なんだったら恩返しの一つでもしてくれってんだ」
 誰にともなく愚痴を放って、スーパーを後にする。ゾロゾロと集まり始めた主婦。あぶねーあぶねーと溜息をつくと、オレは近所のゲームショップに足を運ぶ。
 新作の棚に売り切れの紙切れと共に並ぶブラッディロワイアル4は、既にやり尽くした。新作を買う金は既に無いから、取り敢えずやり終えたBR4を売ってしまおうかということで、このゲームショップに来てみた。発売後10日以内ならば定価の七割以上で買い取ってくれるこの店。取り敢えずロッパチの七割で買えるゲームでも漁ってみるかと、新作コーナーを後にしようとしたとき。オレの瞳が何かを捉えた。着物姿に割烹着。買い物鞄の中のネギやら大根やら。そんな、明らかに場違いな琥珀さんが、ゲームショップの自動ドアを開け、店内に入ってきた。
 思わず硬直してしまっていたオレは、入り口目の前の新作コーナーに居たために、入ってきた琥珀さんと真っ先に目が合ってしまう。琥珀さんは真顔で呆然とオレを見たあとに、笑顔で会釈をする。傍目には気付かない程度の違和感だったけれど、オレはしっかりと気付いてしまった。その笑みが、微妙に能面のような雰囲気を持っていることに。あの抜けるような、太陽のように輝く笑みではなく。どこか無機質な、寂しい笑みだったことに。
「こんちわ。買い出しッスか?」
「あはは、見られちゃいましたね。志貴さん達にはないしょにしておいてくださいね。秋葉様の耳に入ると怒られちゃいますから」
 照れたように笑う琥珀さん。それでも、その表情は硬い。本当に、本当に注意してみなければ解らない程度なのに、今のオレはそんな変化に一々気付いてしまう。だが今はそれよりも、彼女に会ったらやることがあったはずだ。
「あ、琥珀さん。この前はスイマセンでした。ちょっと、気が動転してたんスよ」
「いえいえ、驚きましたけど、気にしないでいいですよ。少しだけ嬉しかったですしね」
 笑顔の琥珀さん。けれど、その笑顔も言葉も嘘だ。気付かなくても良いことに気付いてしまう体。気付いてしまうから、オレもどこか敬遠してしまい、微妙な空気がオレ達の間に流れる。
 そんな琥珀さんは、チラリと新作の棚に視線を投げる。その先にあるのはBR4。
「ぁ……」
 売り切れの紙切れが目に入ったのか、琥珀さんは小さく声をあげた。残念そうな、悲しげな声。そういえば、昔遠野が言っていたのを思い出す。屋敷の使用人で、一人ゲームがとんでもなく得意な人がいると。先程の声は、誰かに頼まれていたものが無かったって響きじゃない。楽しみにしていた物が手に入らなかった子供のように純粋な声。つまり、遠野の言う『ゲームが無茶苦茶上手い使用人』ってのは琥珀さんのことってわけだ。
「琥珀さん」
「はい」
「少しだけ店から出ないスか?」
 あからさまに怪訝そうな顔をする琥珀さん。どうやら嫌われているようだ。肩を落としたのも一瞬、琥珀さんを促すと、店の外に出る。
「なんですか?」
 欲しかったゲームが売り切れていた所為もあるのか、いつでも浮べている笑みもなく真顔でそう言った琥珀さんの気迫には、少し気圧されるものがある。しかし、オレは琥珀さんが欲しがっていたものを、何の因果かこの手に持っているのだ。
「オレ、発売日に買ったんすけど、もうやり尽くしたんで売るつもりだったから。貸しますよ」
 ずいっと、にんじんに埋もれていたBR4を差し出す。琥珀さんはオレの手の中にあるそれに驚き、続けてオレの顔をマジマジと見つめた。
「良いんですか?」
「もちのろん。どんどん借りちゃってください」
 ニヒッと自分でも少し下品かと思うくらいにオレは笑った。すると、琥珀さんの無表情に一瞬で笑みが広がる。それは、この前紅茶を注いでくれた時と同じ笑みで、思わずオレは顔が真っ赤になるくらいに動揺した。
「良かった。最近忙しくて買いに来れなかったんです」
 喜色満面で、しかし少し遠慮するようにオレからBR4を受け取ると、琥珀さんは涙でも浮かべているんじゃないかと思うくらいに感激した。
「あ、でも良いんですか? わたしが借りちゃうと売れなくなっちゃいますし。発売日から10日は明日で過ぎちゃいます」
「遠慮なんかしないでいいんすよ。売られるよりも琥珀さんに遊んで貰った方が多分ソイツも喜びますって」
 ついさっき目を合わせたときの能面のような笑みはもうどこかに消えていて、琥珀さんは本当に恐縮したようになんども頭を下げると、夕闇の商店街に消えていった。
 どこか晴れ晴れとし気持ちで帰宅の徒に着く。少し遅れてしまったが、ななこにも感謝しなくてはいけない。帰ったらにんじん料理でも作ってやろうかなんて、このオレにあるまじき甘い考えだとも思ったが、今日ばかりはそれも良いか、なんて思っている自分も居た。
「琥珀さん。美人でした」
 にんじんのバター炒めを、なんとも美味そうに頬張るななこは、ふと思い出したようにそう言った。なんとなくどこかに居るんだろうななんて、そんな予感もしていたから驚きはしなかったが、出来ることなら殴り飛ばしたいという思いはあった。しかしそれも、自分からあのばかでかい銃に付着した血痕をぬぐい去った時点で不可能。バター炒めなんぞ作ってやらなければよかったという結論に達したオレは、盛大な溜息を吐いた。
「だから言っただろ。オレはそんな俗物的じゃない。だからオレが惚れた女は世界一なんだよ」
 吐き捨てるように言って、もぐもぐと蹄になっている前足で器用に輪切りにしたにんじんを食べるななこを眺める。
「あれなら有彦さんが恋をしてしまうのも無理はありませんね」
 ふむふむと感心するように頷いたななこは、お代わりを所存する。てな上目遣いでオレを眺める。こいつが握ったからといってどうなるものでもないが、仮にも弱みを握られているし、それにさっき琥珀さんと話しをできたのはこいつのおかげだ。その分にとにんじんオンリーのバター炒めなんていう不可解な物を作ってみたが、どうやら意外に美味かったらしい。それに、どうせそうくると思って、買ってきたにんじんの三分の一は既に調理してある。
「わーったよ」
 ぶっきらぼうに吐いて、オレはにんじんを取りに一階へ下りた。まだまだ湯気を立ち上らせているにんじんの残り全部を皿に盛ると、二階に戻った。目を輝かせたななこが、抱き付かんばかりの勢いで飛んでくる。
「有彦さん好きですー」
 都合の良いことばかり言う。オレは苦笑いして、ななこが頬張る姿を見つめながらも、矢張り頭の中では琥珀さんの笑顔をちらつかせていた。もう少し話をしていたかったかもしれない。そんな思いもあったが、今のところはアレで良い。そう思うことにした。
 男気に欠けるが、布石は既に遠野に渡してあるのだから。我ながらベタなネタだとは思うが、致し方ない。



 夕食の片づけが終わり、戸締まりも確認すると、わたしはいそいそと自室に駆け込む。偶然会った乾さん。先日のコトがあっただけに、少し戸惑いはあったけれど、実際は矢張り志貴さんが話すとおりの変だけど話の解るヤツ。そんな評価の通りの人だった。
 物に釣られた。そんな表現もできるかもしれないが、間違いなくわたしの中で乾さんは先日のことで落としていたと思われるその株を上げた。なんとも単純。自分を笑いたくもあったけれど、今はずーっと楽しみにしていたBR4に手を付けることの方が先だった。

カタカタ

カタカタ

 シリーズ通して大きく変化しないシステムに直ぐ慣れてしまうと、わたしは直ぐに全作通して愛用しているキャラの操作性を確かめる。コンボのタイミングがシビアになっている気がするけど、相変わらず使いやすい。
「こ……ん」
 次に新キャラを使ってみる。癖のあるキャラが多く、どうにも扱いづらい。乾さんは既にやり尽くしたと言っていたけれど、もしかすると新キャラの攻略法ももう解っちゃってるのだろうか。
「こは……さん」
 だとすると、相当このシリーズをやり込んでいると思う。ぼうっと頭に浮かんだのは、真剣な顔の乾さん。突然私の手を握った乾さん。
『琥珀さん。結婚しませんか』
 冗談には聞こえなかったあの言葉。あまりの不意打ちと、その瞳のあまりの真剣さに言葉を失った。今日も、まさかの不意打ちで思わず硬直してしまう。こんなのはわたしらしくない。わたしは、仮面を作ることにかけてはこの屋敷一だと思うのに、実は知っている世界が狭かったのか。
「琥珀さんってば」
「え……?」
 唐突に、耳元で聞き慣れた声。慌てて振り返ると、真後ろからわたしを覗きこむようにしている志貴さんの姿。危ない。ボーっとしていた。これが秋葉様だったりしたものなら、ゲーム機ごと捨てられてしまいかねない。
「どうしたんですか、志貴さん」
 しかし、志貴さんは同志。秋葉様や翡翠ちゃんに隠れて、一緒にゲームをすることもある。少し心配そうな志貴さんの表情は無視して、問い掛ける。
「いや、なんか琥珀さん変だから」
 本当に堕ちたものだと、自分を笑う。自分が変だなどと心配される日が来るなんて。いつでもどこでも変わらない笑みの琥珀はどこに行ったんだろう。
「そんなことないですよ。それより志貴さん。一手御教授願えますか」
 ふふっと笑って画面を指してみせると、志貴さんはやれやれと頭を掻いた。
「ご教授願うのは俺ですよ」
「大丈夫ですよ。わたしも今初めてやったところですから」
 本当はずっとやりたかったけれど、近頃は屋敷の内装に手を加えたり、要らないものを整理したりと、忙しくてとても買いに行く暇がなかった。いくらなんでも屋敷のお仕事と自分の趣味を秤に掛けるような真似をするわけにも行かず、今日という日までずっと我慢をしてきた。
「え? 今日買ってきたの?」
 本当はその予定だったのだけれど。
「いえ、買いに出たら売ってなかったんですよね」
「じゃあ、どうして?」
 少しの戸惑い。志貴さんも乾さんがわたしに向けた言葉を見ている。志貴さんなら、あの言葉が本気か否か、判るはずだ。いや、本当は自分でも解っているけれど。
「乾さんに借りたんですよ。さっきゲームショップに立ち寄ったらばったり会ってしまいまして」
「有彦に? なんだ、案外上手くいってるじゃん二人とも」
「違います!」
 思わぬ剣幕で怒鳴ったわたしを見て、志貴さんは目を白黒させる。やってしまった……。
「すいません」
 志貴さんは悪かったなんて謝ると、コントローラーを握ったまま口を開いた。
「琥珀さんがさ、本気で驚いてるのって多分俺初めて見たと思うんだ」
 それは、きっと乾さんが結婚しませんかなんて言った時のコトだろう。あまりに唐突に、しかも自然に出された言葉に、わたしは冗談ととるのも忘れ、ただ呆然と乾さんの顔を見つめてしまっていた。
 志貴さんは乾さんの言葉に冗談だろうと大笑いをして、けれど乾さんの真剣さにその声にも力が抜けていって。最後は力無く「本気か?」なんて……。
 秋葉様にいたっては、口に含んでいた紅茶を志貴さんの顔に噴き出す始末。翡翠ちゃんが驚きのあまりコップを割ってしまったために、わたしはなんとか逃げるようにその片づけに走った。真っ赤になった顔を、誰にも見られないように。
 今思っても、わたしらしくない。
「あはは、当たり前ですよー。殆ど面識の無い方に突然結婚しないかなんて、わたしじゃなくても驚きます」
「でもさ、琥珀さんならいつも笑って誤魔化すでしょ。いくら大事なことだろうと、琥珀さんは絶対になんだかんだと乗り切ってしまうのに。あの時はたじろいでた」
「だから、突然だったから困っちゃったんですよ。お代わり注いで差し上げただけなのに」
 志貴さんなんだかおかしいですよー。そう告げると同時に、私のキャラが、志貴さんのキャラを血祭りに上げる。それこそ、地に足を着かせる前に。
「俺ね、あんなに真剣な乾を見たのもすげぇ久し振りなんですよ」
「あはは、あれは冗談でしょう?」
 多分それは……違う。
「アイツね、今まで何人か女の子と付き合ったりしてるんです。それこそ、そういうことに掛けちゃ俺なんて足下に及ばないくらいに遊んでるヤツだから。最近は立場逆転だなんて嘆いてるけどね」
 コンボに失敗する。地に降りる志貴さんのキャラ。
「学校でもね、ずーっとなんか考え事。あんなアイツ気持ち悪いけど、今までどんな子と付き合ってもそんなことになるようなヤツじゃなかった。女に溺れたらお終い。が持論でね」
 黙り込む。そんなこと言われたって、わたしはとっくに恋愛なんていう感情を切り捨てちゃったんだから、どうすることもできない。槙久様と契約を結んだあの時。翡翠ちゃんがおかしくなってしまったあのころから、私の中には普通の女の子の感情が無くなってしまっていたんだから。
「もし乾さんが本気でも、わたしはそういう目で乾さんを見ることはできませんよ」
 志貴さんは寂しげにわたしを見て、コントローラーを置いてしまう。
「ねぇ、琥珀さん」
「はい」
 志貴さんが取り出したのは、パンフレット。何だろうと受け取って見る。いくすぴあり?
「有彦に渡されてさ。琥珀さんが嫌そうだったら渡すのやめようかと思ったんだけど。デート、してみたら」



裏姫ヒール
月蝶舞夜



 休日の午前。普段は学生客達で賑わう駅前の喫茶店は、たまの休日を遊びに出た少年少女によってその殆どの席を埋めていた。賑やかな喧噪の中、どのテーブルでも思い思いの会話を楽しみ、アイスやパフェ、紅茶やジュース、或いはパスタなんかを頬張る彼等の中に一組、会話もなく傍目にも気まずそうに紅茶を飲むカップルが居た。
 乾有彦と遠野琥珀。己のため、或いは雇い主の策謀でこの場を用意された二人は、この喫茶店で待ち合わせ、時間よりも二十分早くこの場に揃うと、適当な挨拶を済ませ、以後ずっとこの調子である。
 人見知りせず、誰に対しても明るく接することができる琥珀と、それこそ誰であろうと物怖じせずに会話することが可能な有彦の組み合わせは、両者共通の知人である遠野志貴曰わく「最高」だったのだが、離れた席で監視する志貴と秋葉。そして、琥珀の双子の妹である翡翠の目に映るのは、いつまで経ってもかたことの会話しかしようとしない、見ているだけで焦れる二人の姿だった。
「あんな姉さん、初めて見ます」
 流石に目立つということで、いつものメイド服ではなく白のワンピースに身を包んだ翡翠の言葉は、秋葉と志貴の代弁でもあった。
「あの琥珀が、朝から溜息ばかり吐いていたのよ。そんなに嫌なのかしら」
 秋葉は大きく頷くと、オレンジジュースを口に含んで言う。
「いや、あれは多分イイ感じの反応なんだろうけど、やっぱり突然プロポーズしたからなあの馬鹿は」
「戸惑って当然……ということですね」
 志貴がパスタを頬張りながら言うと、秋葉も頷くように答える。
「でも姉さん。朝からずっと服を迷っていたようです。嫌な相手でしたら適当に済ませると思うのですが」
 翡翠はウェイトレスが運んできたサンドウィッチを小さな口でモグモグと咀嚼する。要らないというのに、喫茶店に来て何も注文しないのはおかしいと言う志貴に推され、ウメサンドはないかと訊ねてみたが、無いらしく、渋々選んだタマゴサンド。
「でも、ああしていると琥珀がわたし達を仕込んだ腹黒策謀家だなんていうのはとても嘘のようですね」
「照れてる女の子だもんなぁ」
「姉さん……演技巧すぎます」
 三者三様に有彦と琥珀を見つめ、それぞれの食べ物を頬張る。その視線の先では、やはりもじもじと落ち着かない琥珀と、参っちゃいましたって顔をしている有彦の姿。その有彦の瞳が、秋葉の顔を捉えて、ニッと笑った。
「あ──」

 秋葉の驚きに染まった顔を見て、有彦はそちらの方を指差している琥珀に向き直った。
「いますね」
「あはは、やっぱりですか」
 琥珀は苦笑いを浮べて、横目でちらりとそちらを窺う。二人で行くのは怖いからと、三人には無理を言って監視をしてもらっているのだ。有彦に悪いとも思う琥珀だが、こうしてその存在を見せつけておけば、変な行動に走ることもないだろう。生来の計算高さが生んだ予防手段である。正直、今更もう一人や二人くらいどうでも……そんな寂しい感情も無いではないのだが。
「さて、なんか金魚の糞が数匹居るようですが。ま、行きましょう。まだ十時だから……向こうには十一時には着きますよ」
「そうですね、行きましょうか」
 照れたように言った有彦にあわせて、琥珀も立ち上がる。レジの前でがま口を開こうとする琥珀を、有彦がやんわりと制す。
「このくらい出しますよ。無理言って着いてきて貰ってるんだから」
 ピアスを揺らして有彦はニッと笑う。強面に似合わず、爽やかな笑み。少しだけ胸がチクリと痛んだ。
 駅に着くと、既に切符を用意していた有彦に誘われるがまま電車に乗る。有彦は辺りのことに詳しくないという琥珀のために、見える物見える物の説明をしていった。素直に感心しながら、暖かい笑みでその言葉一つ一つに頷く琥珀と有彦は、先程のギクシャクとした雰囲気も解け、仲のいい友達程度には見えるようになっていた。
 窓の向こうで輝く太陽の燦々と照らす光を浴びて、琥珀の笑顔は輝く。有彦は仕草の一つ一つにドギマギとしながら、それでも目に見える物の説明をしていった。やがて、電車は大海原と並行して走るようになる。海が見えれば、もう次の駅で降りるだけ。有彦は見えてきた一大ショッピングモールを指差して、知る人が見れば気持ち悪いと思うくらいの笑顔でしゃべりまくった。



「志貴さま。海です」
「海よ兄さん」
 秋葉と翡翠は、任務そっちのけで大海原に目をくぎ付けにされていた。初めて見る海。秋葉はともかく、翡翠はそうだった。広く、大きい。果てしなく広大な、水平線まで何も遮るものの無い海は、翡翠の世界の概念をことごとく打ち壊す。電車に乗るのも初めてなら、喫茶店に入るのだって初めてだった翡翠。正直に言うと、既に姉のことは頭になかった。しかも、この後は若者のデートスポットとして評判のショッピングモールで遊ぶという。琥珀の監視という名目ではあるし、秋葉という邪魔者も居るが、それは志貴とのデートに変わりなく、志貴に対して、告げられぬ密かな思いをよせる翡翠は、ウキウキと胸がたかぶるのを抑えられないで居た。
「翡翠、大丈夫?」
「はい志貴さま。大丈夫です」
 些かとろんととろけてしまいそうな翡翠の瞳を見て、志貴は戸惑うが、もう数分としないうちに電車は駅に着く。
「次の駅で降りるからね、準備をしておいて」
「はい」
 白いワンピースの翡翠は、それはまるで絵画の世界から飛び出してきたかのように綺麗だった。普段無口で感情を表さない翡翠が、海を見て傍目にも解るほどはしゃいでいる。それだけで志貴はなんだか幸せな気分になってしまったが、頭の中では置いてけぼりにした吸血姫がぶーぶーとがなり立てている。そのうち埋め合わせをしなければならないなと考える頭で、しかし志貴はしっかりと琥珀と有彦を観察していた。
 琥珀はちょこんと二人掛けの座席に座り、向かいに座る有彦の話を興味深そうに聞いていた。時折笑みが零れる辺り、しっかりと楽しんでいるように見えたが、琥珀のポーカーフェイスは伊達ではない。翡翠も負けていないと言えば負けていないのだが、翡翠と琥珀のポーカーフェイスではその意味が全く違う。普段オモテに感情を出さないけれども、メーターが振り切れ怒ったりすればちゃんと口調や表情に表れる翡翠。しかし琥珀の場合は何があっても笑顔で片づけてしまう。たとえ嫌なことがあっても笑顔。嬉しいことがあれば勿論笑顔。泣きたい気分でも笑顔。果たしてあの笑顔が本物なのか、志貴には判断が付けられないで居た。
「秋葉、どう思う」
 翡翠と一緒に海を眺めていた秋葉は、何か用かしら? と不機嫌な顔で言う。完全に目的を忘れた妹に思わず殺意を抱くが、ここは抑えることにした。
「あの二人だよ。琥珀さんの笑顔は本物かって」
 秋葉は「あぁ」と如何にも忘れていましたというような態度で隣の車両を眺め、ふむっと唸った。
「琥珀のことは私よりも翡翠の方がわかるんじゃないかしら兄さん」
 秋葉は、つられて隣の車両を見ている翡翠に振る。翡翠は僅かばかり眉間にシワを寄せている。
「姉さんの心が読めません。ですが、あの笑顔はまだどこかに引っかかりを感じてるという風に私は感じます」
「それはそうでしょうね。私だって突然乾さんにプロポーズされたら困り果てます」
 そりゃそうだ。志貴は一人納得して、到着のアナウンスを聞く。二人が席を立つのを見計らって、駅に降り立った。辺りには、人人人。家族連れや、恋人達。仲の良い友人達と多岐に渡っているが、そのどれもが楽しそうに笑っている。遥か前方を歩く二人を見て、こうしていればまるっきり溶け込んでいるのになと、改めて琥珀の仮面の凄さを思い知った。果たして本当に仮面なのか。それは定かではないのだが。




「昼飯は取り敢えずさっき摂っちゃったから、どうします? ここは定番で映画でも」
「そうですねー、何がやってるんです?」
 つかず離れずこの一大ショッピングモールを、物珍しそうに着いて歩いてくる琥珀に、有彦は訊ねた。確か、ここの映画館では最近評判のホラーと、往年の名作の復刻版がやっているはずだ。前者は泣く子が更に大泣きする恐怖映画。後者は男が一人で見るには気が引けるラブロマンス。
「ホラーか、ラブロマンス。両方最近よくコマーシャルとかで宣伝してるヤツ」
「あ、わたし知ってます。そのラブロマンスの方はテレビで一度見たことがあるので、怖いのがいいです」
 ホラーと聞いた瞬間に目を輝かせた琥珀。有彦は思わず冷や汗を掻く。自慢ではないが、オカルト系は多少の免疫はできたとはいえ、苦手以外の何物でもない。女の子なら恋物語に憧れるだろうという目論見は見事に外れ、琥珀は喜色満面で映画館へと足を進めていく。
「マジかよ……」
 もしかしたらという覚悟はあったが、それでも怖い物が大嫌いである有彦は、早く早くと促す琥珀を視界に捉え、ぐぐぐと唸った。怖い。マジで怖い。そんな呟きが聞こえてきそうなほどに動揺している有彦を見て、流石の琥珀も不思議に思ったのか、近づいてくる。
「あー、乾さん怖いのダメなんですねー」
 琥珀は有彦を見上げてにこにこ笑うと、いきますよーと足取り軽く館内へ消えていく。
「あ、ちょ……」
 追いかけようとして、如何にも怖そうなポスターが目に入る。ごくりと生唾飲み込むと、覚悟を決めて有彦も館内へ消えていく。
 ポップコーンを買い、席に着く。隣ではきらきらと目を輝かせる琥珀。有彦はまるで生きた心地のしない椅子に座り、ポップコーンをジュースで流し込む。
「楽しみですねー」
「全然っすよ……」
 何が悲しくて怖い思いをしなければならないのか。喧嘩上等のアウトローも、こうなってしまっては形無しだ。怒濤の勢いでポップコーンをジュースで流し込み数分、開演のブザーが館内に響く。琥珀は待ってましたとばかりに喜んで、有彦は固唾を呑む。そして予告の後、有彦にとって地獄とも言える二時間半が始まった。
 翡翠は涙目で志貴にしがみつく。秋葉は平気なフリをして、フルフルと震えていた。二人に挟まれた志貴は、コーヒー片手に相変わらず冷静に、有彦と楽しげにりぼんを揺らす琥珀を見つめている。本物の化け物と戦ったことのある志貴にとって、映画なんてものは子供だましにしか写りはしない。それはそれで寂しいななんて思いつつも、秋葉と同じように身を固くして銀幕を睨み付ける有彦を眺めた。
 十かそこいらで出会って、それ以来腐れ縁が続いている。真剣に話をできる友人と言えば有彦くらいのもので、それは有彦にしろ同じだった。だからなのかどうかは解らないが、親友の初めて見る姿に、志貴は内心の興奮を感じずにはいられない。あの有彦が、食い入るように銀幕を見つめる琥珀をちらちらと横目で窺っている姿なんて、気持ち悪いに他ならない。しかも相手はあの琥珀なのだ。笑い魔女。そんな代名詞がピタリと当てはまる彼女は、何時如何なる時でも自分というものをその笑顔の下に隠す。その彼女を心の底から困惑させ、笑顔の絶対防壁を何の躊躇いもなく突き破る有彦。そんな芸当ができるのは、後にも先にも有彦だけだろうと志貴は思う。
 冗談ではなく、琥珀に見合う男はそれくらいに荒唐無稽ぶりを発揮出来なければダメなのだと思う。とはいえ、有彦は一見出鱈目に見えて、その実非常に思慮深いところがある。仲を許すような相手であれば、ここぞというときには必ず相手を導こうとする。ピアスに赤髪なんていうナリのためか、教師達に好かれるなんてことは天地がひっくり返っても無い有彦だが、それでも中には有彦がそこらの真面目な生徒よりも現実を見ていることに気付いている教師も居る。つまり、なんとも不可解なヤツ。それに尽きるワケなのだが。
 ギュッと、翡翠の腕を掴む力が強くなる。舞台は山奥。どこに逃げても追いかけてくる幽霊に、主人公が真正面から挑もうという場面。丁度、屋敷に逃げ込んだ主人公の眼前に、撒いたはずの化け物が突然現われるという驚く場面。一瞬騒然とした館内の様子からも分るように、コマーシャルでも流される序盤最大の山場だ。しかしそれも、矢張り志貴に何ら感慨を与えず。嫌なものに慣れてしまったと、僅かに嘆く溜息を吐くのだった。
「あ、に、兄さん」
 秋葉の間の抜けた声。隣を見ると、画面とは違う方を見て、秋葉がフルフルと震えていた。しかも赤面して。そんな場面じゃないだろうと思ったが、その方向は有彦と琥珀が座っている辺りだ。何事かと志貴も有彦の姿を確認して、思わずコーヒーを噴き出しそうになる。琥珀が、手にしたタオルで有彦の顔を拭いているのだ。それも、心底楽しそうに。先程の場面で、ジュースに顔でも突っ込んだのか、薄暗い館内で画面の目まぐるしい光に照らされる有彦の顔は、ぬらぬらと光っている。
 あららーなんて声が聞こえてきそうな琥珀は、上機嫌で有彦の顔を拭っている。秋葉の赤くなった顔が指し示すように、その姿はまるでいちゃつく恋人同士。秋葉は所謂女子校なんぞに通っているから、あまり免疫がないのだろう。しかし、志貴の目に映るのも昼休みの屋上で仲睦まじげに食事を摂っているカップルの姿で、そこに琥珀の演技は入っていないような気がした。
 ──あの琥珀さんが本気で楽しんでいる。
 そんな結論に達したとき、ほんの少し心がキュゥと締め付けられるような感覚を味わう。秋葉も同じなのか、どことなく寂しそうな顔で有彦と琥珀を見つめていた。なんとなく解った。これが、『娘を嫁に出す父親の気持ち』なんだろうと。
 やれやれなんて雰囲気でも、にこにこと嬉しそうな琥珀と、照れて真っ赤になっている有彦が、とても印象的だった。



 映画館を出ると、干からびたようになっている秋葉と、茫然自失といった具合の翡翠を連れて、志貴はファーストフードに入った。そこに、琥珀と有彦の姿はない。
「兄さん……あの二人を追いかけないと……」
 がっくりと肩を落とした秋葉が言って。そうです。と気の抜けた顔で翡翠も同意した。
「いや、今日はもう良いよ。帰ろう」
 しかし志貴はゆっくりと首を振ってそう言った。秋葉は「何でよ」とがなり。翡翠は何故かイヤイヤと首を振っている。
「あの二人の様子を見たろ? 元々琥珀さんが心配するようなことをするヤツじゃないし、さっきの様子なら平気だと思うんだよ」
「そんなことわかりません。オトコハミンナケダモノって蒼香が言ってたもの」
 コクコクと無表情で頷く翡翠。本当に意味が分っていて使っているのか。そもそもお前ら目的を違えてやしないか、疑る視線を向けると、二人ともスッと目を反らす。
「翡翠から見て琥珀さんはどうだった?」
「姉さん嬉しそうでした」
「アレも楽しいフリをしているだけだと思うか?」
 首を振る翡翠。ならば決まりだとばかりに志貴は今日何杯目かのコーヒーを飲み干した。
「今日の任務終了だな」
 秋葉と翡翠は一瞬顔を見合わせると、残念そうに俯いた。
「しかしだな」
 そんな二人に溜息をつく。
「折角翡翠がこんな遠くまで来てるんだ。俺達は俺達で遊ぼうか」
 弾かれたように顔を持ち上げる翡翠と、そっぽを向く秋葉。
「兄さんがどうしてもというのなら……」
 素直じゃないヤツ。本当は屋敷に籠もっているよりこうして遊んでいたいんだろうに。思わず溜息を苦笑いに代える。
「翡翠は?」
「志貴さまがそう仰るのでしたら」
 こっちもこっちで素直じゃない。どこかをおっかなびっくりふらついているだろう親友に頑張れよとエールを送ると、志貴は急いでジュースを飲み干す二人を柔らかな表情で見守った。



 ──あれ。
 琥珀が気付くと、周囲に志貴達の姿がない。まさかはぐれてしまったのか。しまったと思う一方で、別に良いかと思う自分が居る。いつ志貴達を見失ったのかも解らなければ、今の今まで自分は有彦と会話をしていたのだ。心配は無い。びくつく自分にそう言い聞かせるように言って、琥珀はまだ青ざめた表情をしてベンチに座り込んでいる有彦の顔をのぞき込んだ。
「あはは、ほんとにだめなんですね」
「びっくりどっきり系なら平気なんすけど。あぁいう雰囲気が怖いのは……」
「わたしは楽しかったですよ。映画館なんて入ったのはじめてでしたから。やっぱり画面が大きいと怖さ倍増ですねー」
 琥珀はりぼんを揺らしてきらきらと笑う。
「怖いってのに琥珀さん目を輝かせてるんだもんな。全く驚きますよ。怪談とか進んで話したがるタイプでしょ」
「そうですね。翡翠ちゃんとかは恐がりだから楽しいですよ」
「可哀想だ。同情しますよ」
 カタカタと震える無口な使用人を思いだして、有彦は十字を切る真似をする。
 道行く人々はカップルばかり。自分達もそう見えるのだろうか。琥珀も有彦も同時にそんなことを思っていた。琥珀のは純粋な好奇心。有彦のは願望という違いはあったが。
 にこにこと笑っている琥珀が自分のコトを見ていることに気付き、有彦は「何スか?」と訊ねるように首を傾げる。
「この後はどこにいきましょうか」
「女の子向けの店がせっかくこうたくさんあるんだから、ちょくちょくと覗いてみますか」
「いいですねー。ウィンドウショッピングというやつですね? わたし商店街しか知らないので嬉しいですよ」
 青い顔をしていた有彦はそれを聞くと途端元気になり、フフッと顔を綻ばせた。
「琥珀さんの好みとかわからないッスけど、一応女の子が好きそうな店はチェックしてきたつもりですから、任せて置いてください」
 ボムッと胸を叩いて、胸を張る。おーと琥珀はパチパチ手を叩く。ベンチに座るカップルの不審な行動に道行く人々は首を傾げたが、舞い上がった有彦にそんな恥ずかしさを気にする余裕もなく、二人は妙なテンションのままショッピングモールへと消えていった。


 琥珀はあらゆる物に興味津々で、あっちこっちとぱたぱた回っては、どれを見ても楽しそうに微笑んでいた。それは有彦が見ても綺麗だと思う物や、少し普通のセンスとは外れた物。それでもふわふわ揺れる琥珀のりぼんが嬉しくて、本当だったら女の買い物に付き合うなんてのが大嫌いな有彦も、心の底から楽しいと思える時間を過ごしていた。
「乾さん。あれかわいいですよ」
「いや、アレはどうだろうな」
 琥珀が指差したのは、憎たらしい小僧が所謂ファッキンに指を押っ立てている携帯ストラップ。確か有彦のクラスメイトに一人、これが好きで好きで集めている女子がいる。近頃の女の趣味はてっきり解らない有彦だが、それが流石にかわいいと言えるものではないだろうということくらいは解った。が、もしかするとこういうのが流行っているのだろうか。
「えー、かわいいですよ」
「じゃ、そういうことにすっかな。かわいいですかわいい」
 あからさまに顔を顰めて言った有彦の適当な態度に、琥珀はぷくーと頬を膨らませた。
「あー、乾さんそれ本気で言ってませんね?」
「わかっちゃうか」
 わかりますよー。琥珀は益々頬を膨らませて、フイッとそっぽを向いてしまう。そんな何気ない仕草だけで胸が高鳴って、なんとも言えない気持ちになる。
「そういえば聞きましたよ乾さん。乾さんは女の子遊びばかりしてるって」
 誰が言ったんだ。と訊ねようとしてそんなことをいうヤツが一人しか居ないと、有彦は溜息。
「いや、女遊びなんてことをした記憶はありませんけどね。そんなこと言ったら遠野の方が凄いっすから」
「あはは、そうかもしれません」
 この一年で妙に女っ気溢れる生活を送っている友人を思って、嘆くような声をあげる。今はアルクェイドだかっていう外人と付き合っているが、他にも志貴は有彦が知っているだけでも、行方不明になったクラスメイト。シエルという眼鏡美人の先輩にも好意を持たれている。更にはクラスメイトも数名。実際は他に秋葉、翡翠という二人も居るのだが。それは、有彦の知るところではない。
「琥珀さんも実は好きなんじゃないっすか?」
 有彦がからかうように言うと、琥珀はあははーといつも通りに笑って、けれど少し寂しそうに影を作った。
「わたしはそういうのとは無縁ですからね」
「そんなこといって、勿体ないッスよ。そんなに美人なのに」
 何気ない言葉。だが、琥珀は驚いたように目を見開いて、やっぱりあははーと笑う。
「あらあら、乾さんったらお上手ですね」
 そう言って、また何か見つけたのか、琥珀はぱたぱたと駆けていった。その後ろ姿を眺め、有彦は大きく息を吐く。
 ──無縁。
 言外に、自分にも言われたような錯覚を覚える。いや、もしかしたらそういうつもりで言ったのかも知れない。こうして一緒に居れば、嫌でも他の男共の視線が気になるくらいの美人。歳は少し年上くらい。だっていうのに馬鹿丁寧な口調に、眩しい笑顔。何もかもが新鮮に感じられた。
「乾さんこれー」
「うっしゃ、こんどはなんすか」
 見渡す限りのピアス。金銀七色。大小様々なピアスがところ狭しと置かれた空間だった。
「乾さんってピアスしてるんですよね」
「好奇心でね。プスっと」
 ピンと、2連のピアスを弾いてみせた。
「あ、こういうの嫌い?」
「いえ、そういうわけではないですよ。でも痛そうですよね」
 琥珀はピアッサーを手にとって、耳に当てる真似をして、フルフルと肩を竦めて首を振った。
「本当は痛くないッスよ。オレも根性試しのつもりだったけど、拍子抜けだったな」
 琥珀は苦笑い。そういうのは好きそうには見えない琥珀。仮にも良家の使用人なぞやっているのだから、そういう考えであってむしろ当然とも思える。何しろ遠野グループなんてのは、テレビでもちょくちょくと聞くような名前なんだから。
「でもピアスってかわいいのも多いですよねー」
 手に取ったのは、キューピットのメダルがぶら下がっている重たそうなピアス。そういうのは有彦の趣味ではない。シンプルなのが一番。そう語る有彦は、金の玉ピアスに、耳の外を覆う小さなリング。千円で両方買ってもお釣りが来る安物だが、お気に入りの品だった。
「でも、こればっかりはシンプルなのが良いですね」
「お、オレも穴をでかくしたりとかするより小さいのがぽつんて方が好きなんすよ」
 初めて意見が合う。琥珀が見つめているのは、ショーケースの中に大事そうに仕舞われた小さな、有彦が耳にしているのと大して変わらないピアス。色は銀で、材質もシルバーだから、高い。どうやら今買うとリングまで付いてくるっていうお買い得品。食指が動いたが、そんな余裕はない。今日のために、土木で稼いだ給料は殆ど消えているのだから。
「あ、ちょっとここで待っていてください」
 暫く眺めたあとに店を出ると、琥珀がキョロキョロと辺りを見回しながら言った。それでなんとなく察した有彦は、はいはいと返事をして、近くのベンチに腰掛けた。丁度視界を過ぎったのは、巨大な巨大な観覧車。



 陽が傾き始めた頃、二人は一時間程並んだ末、名物だという観覧車に乗り込んだ。臨海故の見せ場。海が目と鼻の先に眺められる観覧車。ゆっくりゆっくりと、地上一〇〇メートルという高さにまで昇っていく観覧車の中、子供のようにはしゃぐ琥珀を向かいに眺めて、有彦は心底志貴に感謝した。多分、志貴の助言が無ければ琥珀は断っていただろう。だって、自分だったらこんな変なヤツとデートなんてしない。だから、親友の心遣いに感謝した。
 今日一日。一緒に居て、横で微笑んでくれて、たまに少し怒ったような顔もして。ただ普通の友達、或いは恋人のように行動して、自分が琥珀に対して抱いている感情が本物なのだということに気付かされた。気付かされたもなにも、自分があれほど取り乱すだけでも十分に解っていたことだったが。それでもこうして機会を与えられただけで、狂おしいほどに愛おしく感じている。自分らしく無いのは解っているが、よく言うだろう──恋は盲目だと。どこまでも突っ走って、成就、或いは成就しなくても、そこに至ったときに漸く自分を反芻することができる。そこに至るまでは、まるで猪のように猪突猛進し、己の全てをその人のためだけにかける。それが恋なのだろう。世界は恋い焦がれるその相手だけを中心に回りだし、周りなんて存在しないかの如く、寝ても覚めても哲学哲学。まさしく今の自分だが、それはそれで気持ちの良いものだなんて、有彦は考えていた。
 こっそりと買っていた手の中のプレゼント。ギュウと握って、まだ早いと自分を落ち着けた。帰り、別れ際で良い。受け取るにしろ、受け取らないにしろ、それが良い。彼女にしてみても、その方が気が楽に決まっているのだから。だって、ここで断られたら、帰りが辛いじゃないか。
 沈みゆく茜色をその全身に受けて、ディープ・ブルーからタンジェリンに姿を変えていく大海原。遥か遠くに見える水平線は、しかしその先にも世界が繋がっていることを理解させる。自分はこの程度じゃない。そう主張する海の様子に、琥珀は大きく感銘を受けたらしかった。口を半開きにして、真剣な、どこか遠くを見る眼差しで、水平線の遥か向こうを見通そうとする。その真剣な姿は、美しくて、けれどどこか愛らしくて。大人の魅力を魅せながら、しかし子供っぽくきらきらと綺麗な笑み。それらが、今は西日を浴びて輝く琥珀という女性を最大限に魅せていた。
 思わずごくりと生唾を飲み込んで、今一体何を考えているのかと夢想する。海に向けて水平に向いたゴンドラ。僅かに首を傾けて大海原に視線を注ぐ琥珀は、まるで雲上人の如く神々しくて、その思考の邪魔をすることすら憚られた。

「シキさま……」
 ──もういいでしょうか。
 そう続いた言葉の意味を、有彦は知り得ない。
 琥珀から視線を移し、真っ赤に染まる海を眺めた。今まさに陽が落ちようとする瞬間。最後の最後。別れを惜しむかのように一際強く。強く強く輝いた太陽は、間もなく水平に沈んで消えた。丁度、二人の乗るゴンドラが頂上に着いた瞬間だった。


「これ降りたら帰らないといけませんね」
「門限だっけ」
 ゴンドラがその役目を果たし、あと数十秒で下に着くというとき、琥珀がポツリともらした。琥珀の家は門限が八時。それを過ぎると屋敷に入ることすらできない。それを志貴から散々愚痴られていた有彦は、それを思い出して気のない返事をした。楽しかっただけに、終わりが切ない。夕闇差し迫る空とは逆に、スーッと目を覚まされる。ずっと続けば良いと思っても、楽しいことは終わりが来るから楽しい。そんな当たり前のことを考えるが、もしかしたら最初で最後になるのかもしれないこのデートは、矢張り終わって欲しくはなかった。
 扉が開けられ、降りる琥珀の手を引いて、そのまま駅までの道程を歩き始めた。途中で手を繋いだままだったことに気が付き、慌てて放す。スイマセンと謝ると、琥珀はいいですよと笑った。
 夜の時間。アフターファイブは人も多くなってくる。それも恋人達が。
 見渡す限りのカップル達に、二つの意味で手を繋いでおけば良かったかと思ったが、それもなんとなく今更だった。
 駅方面へ向かう人波に乗って歩く。少し速すぎるかとも思ったが、この人波に揉まれるよりはましだった。
「凄い人ですねー」
「夜はまぁ大人の時間っつーか、ガキ共の戯れの時間ですよ」
 行きの人混みでも驚いていた琥珀は、それこそ目を回してしまうんじゃないかと思うほどに驚いていた。これまで、これほどの人混みになどついぞお目に掛かったことがないのだろう。先程喫茶店で見かけた琥珀の妹は、志貴が来るまでただの一度も屋敷から出たことが無いという。買い出しをするために外に出るからといっても、所詮は商店街。その妹とそうそう代わり映えするものでもないだろう。寂しいことではないのだろうか。
「ははぁ。志貴さんもアルクェイドさんとこんなところに遊びに来るんでしょうか」
「いや、あの二人は市内で十分らしい。一回会ったけど、あの彼女ってのもちょっと抜けてるっていうかなんつぅか……まぁ、市内で十分っつーのがあの二人を示す良い言葉」
「あはは、アルクェイドさんはいい人ですよ。元気過ぎることもあって、窓を割られたりとかしましたけどね」
 あははー。何度聞いたかわからない間延びした琥珀笑い。和む。
「遠野が振り回されてるのが目に見える」
「ですね。って、あー券売機。凄い人ですよ」
 漸く見えてきた駅。その切符売り場は、まるでBR4発売日の如く長蛇の列。いやそれ以上か。琥珀はそれを見てあちゃーと肩を竦めるが、有彦は逆に胸を張った。ゴソゴソと懐から財布をとりだし、中から現われたのは切符が二枚。
「ちゃーんと用意してますって」
 いつの間にって驚いている琥珀の手に切符を握らせて、改札へ向かう。
「代金を」
 がま口を取り出す琥珀を、有彦が制す。
「奢らせてやってください。こういうときくらいカッコつけたいんですから」
「行きの分もお出ししてませんし」
「良いんですってば」
「わたし、一応社会人ですよ」
「オレは男だ」
 有彦は退かない。琥珀は溜息の代わりに少し疲れた笑顔。
「すいません」
 謝られてしまうと、なんだか格好良くない。そんなことを思った。

 電車の中は、帰りの客と通勤客でごった返していた。
「潰れそうです」
 琥珀が苦しげに呟いたのを見て、なんとか扉側を確保した。勿論、開かない方の扉。琥珀を椅子と扉とで直角になっているスペースの方にやると、有彦は他の客のことも省みずにグッと両手両足を突っ張った。これで、僅かではあるが琥珀は楽になるだろう。有彦の胸に抱かれる形になった琥珀は「すいません」と一言礼を言って、何かを考えるように黙り込んだ。その瞳が幾度かチラチラと自分を見ているのに気が付くと、気恥ずかしくて窓の向こうに視線を飛ばした。美味しいななんて思う感覚もどこかへ行ってしまって、差し迫る別れの時と、その時に覚悟を決めなければ行けない自分の立場に、有彦もフゥと小さな溜息を吐いた。
「おっさんの手がケツに当たってる」
 陰鬱とした気分を取り払うために吐いた言葉は、思いの外大きく響き。プッと噴き出した琥珀と、後ろの仕事帰りのサラリーマンに睨まれた。
「だめですよそんなこと言ったら。替わりましょうか」
 意外なくらい小さくて有彦の胸に納まっている琥珀が、見上げてもごもごという。その姿はまるっきり女の子で、抱きしめたい衝動をグッと堪える。自分でも驚くべき忍耐だ。
「男は女を護らなきゃってな」
 ギュゥギュゥと狭苦しい空間で、思わず臭い台詞が口をついて出る。フッと頬を和らげた琥珀の温もりを胸に感じながら、残りの数十分。辛くとも幸福な時間を有彦は過ごした。



 見慣れた駅に降り立つと、琥珀は有彦のおかげで平気そうだったが、その有彦の方がフラフラと足に来ていた。琥珀の立つスペースを意地で死守していたせいだ。迷惑この上ない有彦の行為だったが、琥珀は素直に好意として受け取ってくれたようだった。
「大丈夫ですか?」
「余裕」
 OLにハイヒールで踵を抉るように踏まれたときは流石に挫けそうだったが、他は耐えられないこともなかった。とにかく慣れていない琥珀を辛い目に遭わせまいと頑張った結果だったので、自己満足だとしても良かった。だが、有彦の脳が報せるのは、そんな体の痛みから来る警報ではなく、もっと内面的な物から来る警報だった。
 ここから、遠野の屋敷と自宅との分かれ道までは、約二〇分。正直あっという間である。そして、有彦にとって心を落ち着ける最後の二〇分であった。告白する。もうとっくに決めていた。隣にいてくれたら、どれだけ嬉しいことなのだろう。彼女が自分の横を歩く生活を想像するだけで、胸が躍る。
「七時半。ギリギリだけど間に合うか」
「はい、ここからなら三〇分で着くはずですから」
 てくてくと歩き始めた琥珀の横に並んで、歩き始める。心臓が、高鳴った。









エピローグ








「有彦さん、おかえりなさい。どうしたんですか? 涙浮べて、しかも息ハァハァして」
 そろそろかなーと思って、私は有彦さんの家に行きました。どうやらドンピシャリだったようで、有彦さんが階段を駆け上がってきます。何やらマスターも楽しみにしていたようですし、正直に言うと着いていきたかったんです。でも、デートだから絶対に来るな。そう言われて、勿論興味はあったけれど、一日マスターとお昼寝をしていました。たまに有彦さんどうですかねーだいじょうぶですかねーなんてお話もしながら。にんじんをあれだけ積まれてしまっては、着いてくるなという願いを反古にするコトなんてできませんでしたから。
 しかし、結果を聞きたくて仕方のないらしいマスターの命令で飛んできた私の目の前に現われたのは、わんわんと鳴きながら階段を駆け上がる奇怪生物。それと、どこから走ってきたのか、今にも崩れ落ちそうなくらいに荒い息。
「有彦さん?」
「く……」
 涙が一筋。
「チキショ……チキショォ!! アッハッハッハッハッハッハ!!!」
 床をどんどんと叩いて泣き叫んでいたかと思うと、突然高笑い。勿論、涙は溢れたまま。マスター、あなたの後輩は壊れてしまったようです。
「ふられたんですね……有彦さん」
 よしよしって慰めてあげるように言うと、有彦さんは触れない私に抱き付いてきます。触られないって解っていても、汗と涙が少し気持ち悪いです。
「ななこ……ななこ……オレ、もう死ぬ」
 そして、触れないのに頬を寄せてくると、そんなことを宣ったのです。けれど、私は見てしまいました。有彦さんのその手。涙をふきまくってビショビショの右手じゃない左手。なんか妙に小綺麗な左手。それと、ピアスが何かおかしい。前は金色が二つだったのに。片方が銀色に──。
「えー……有彦さんそれ……」
 あわあわと慌てると、有彦さんはギラと私を睨みました。鬼もかくや。そんな形相で。
「お前、もう二度と有彦さんなどと呼ぶな。呼んだら馬刺だ馬刺」
「わ、わけわかんないですよー」




「ただいま帰りましたー」
 時刻は午後八時三分。居間に集まって今か今かと帰りを待っていた私達は、姉さんのその声にごくりと生唾を飲み込みました。秋葉様は不自然に震える手でカップを啜り、志貴さまは読んでいるところなんて一度も見たことのない夕刊に視線を落とされています。私もそうですが、有彦様が姉さんに交際を申し込むらしいということは、既に志貴様から聞いていることでした。ですので、秋葉お嬢様も志貴さまも、それが気になって仕方がないのです。まるで姉さんの親のようにでもなってしまった二人が可笑しかったけれど、私にはお二人を笑う余裕なんてありませんでした。何故か、自分のことのように胸が熱くなるのですから。
「おかえり、琥珀。三分門限を過ぎていますよ」
 秋葉様の声はどこか硬いです。そもそも、今日くらい門限は許してあげましょうなんて言ったのは秋葉お嬢様なのに。
 私はお二人にインスタントの紅茶を注ぐフリをして、ちらりと玄関の方へ視線を飛ばします。居間の扉は、まだ開きません。
「申し訳ございません秋葉様」
 姉さんの声の様子はいつも通りです。
「御夕食はどうされましたか?」
 居間に現われた姉さんも、矢張りいつも通り。変わった様子なんてどこにもありません。ただ私服でいるという以外に、何の差異も見つからない。
「お外で頂きました」
 相変わらず新聞を読んでいる志貴さまと、琥珀になんて興味ありませんという態度を貫く秋葉様に替わって、私が答えます。因みに、イカスミスパゲティを食べました。美味しかった。
「あら、翡翠ちゃん外食なんて初めてでしょう。楽しかった?」
 姉さんはイカスミなんて作ったことはなかったから、私はイカスミなどというものを知りませんでした。秋葉様がどうしてもと薦められるので食べてみて、まさかあんなことになるとは思いませんでしたが、同席しての食事は、とても心躍る物がありました。
「はい」
 普通に答えると、何やら秋葉様と志貴さまがジェスチャーを送ってこられます。
 ──どうなったのかを……きけ
 それを私にやらせるつもりなのでしょうかこの雇い主達は。仕方ありません。正直に言うと私も気になります。何やら閉ざしているのか、姉さんの心は読めませんし。
「あの姉さん」
「ごめんね翡翠ちゃん。わたし、少し疲れちゃっているみたいだから、もうおやすみさせてもらうね」
 とととっと、現われたと思ったらものの数秒で消えてしまう姉さん。唖然としているのはどうやら私だけではなく、秋葉様や志貴さまもです。
「琥珀、浮いた表情の一つも無いわね」
「有彦轟沈……か」
「そうでしょうか」
 二人はそれぞれ椅子を立つと、自室に戻ろうとされます。私はそれを遮るように口を開く。お二人はピタと立ち止まって、聞き耳を立てます。部屋に入ってきたときから違和感は感じていましたが、今のそそくさと逃げるような態度で、少し確信を持ちました。
「なんだか姉さん。手を後ろ手に隠すような感じでした」
 ──特に、左手を。



 一日中歩き回った足はパンパンになって、わたしは使用人用の湯船に浸かると、ほうと息を吐いた。
 溜まった疲れが癒されていくようだから、わたしはお風呂が一日の内で一番好き。今日の疲れは屋敷の庭掃除その他の仕事で溜まるそれよりも幾らか重い。矢張り慣れないことをしたからだろうか。
 豪勢にも、秋葉様の計らいで天窓から月が伺えるお風呂。まん丸に輝くお月様を眺め、わたしはもう一度ほうと息を吐いた。疲れたけれど、心地良い。こんなに晴れ晴れとした気持ちでお風呂に入るのは一体どれくらいぶりなんだろう。考えて、初めてかもしれないなんて、そう思った。
 あんなに凄い人混みも、誰かとたった二人で遊ぶなどということも、初めてだった。八年前、いつも窓から見つめて、羨ましいなと思っていた光景。翡翠ちゃんのために、諦めた光景。それは後悔していない。寧ろ、翡翠ちゃんを護りきれたことは、今でも私の中で小さな誇りとして輝いている。結果的に、翡翠ちゃんは変わってしまったけれど。
 でも、一度でいいから遊んでみたい、そう思ったことは何度もあった。でも、諦めた。諦めて、自分は一生をこうして費やすのだと思っていた。
なのにそれが今日、何でもないことのように手に入った。

 ちゃぽん

 手を翳す。
 月を掴むように、手を翳す。
 綺麗な満月が、私の手のひらにのる。
 美しく、艶やかに輝く月。
 けれど、私の左手にはもう一つ、輝くものがあった。

「楽しかった」

 ──心の底から。

 
 思い出すように呟いて、わたしはそっと目を閉じた。












 ここで良い。そう言う琥珀に折れて、有彦と琥珀は十字路で別れを告げようとしていた。
 すっかり暗くなった辺り。住宅街の真ん中で、しかし二人はなかなか別れの言葉を言えないでいた。
 おもい静寂。
 しかし、意を決したように有彦は、小さな包みをショルダーバッグから取り出した。小さな、手に収まるような包み。綺麗に包装されたそれを、有彦はゆっくり丁寧に剥がしていった。
 有彦は喋らない。琥珀も喋らない。静かな夜の十字路で、かさかさと包みを開ける音だけが響く。静寂の中、それはひどく大きく響いた。世界からそれ以外の音が消えてしまったかのように。
「ガラじゃない」
 やがて現われた矢張り小さな箱。正方形の、ちょっと上品な雰囲気の小箱。それを手に琥珀に一歩一歩近づいて、有彦は口を開いた。
「解ってるんだけどな。ガラじゃねえって」
 小箱を、開く。中に収まっている小さなそれを、大事に取り出して、有彦はそれを眺めた。琥珀は黙って有彦の一挙一動を見つめている。琥珀色の綺麗な瞳が──。
「でも、オレはこうしたいって思うわけで……」
 有彦はそれを差し出して──
「好きです。冗談じゃなくて、マジで。だから、付き合って欲しい」
 不器用な台詞。
 琥珀は少し目を細める。
「おかしいですねぇ、乾さん」
 感情を悟らせない、小さな笑み。
「初めての言葉がプロポーズで、次は指輪を差し出して交際の申し入れ」
 ──逆ですよ。
 付け加えて、琥珀は目を閉じた。有彦は腕を差し出したまま、動かない。
 静寂。再び世界から音が取り払われる。お互いに何を考えているのか。何も考えていないのか。ただ、静寂が全てを支配した。紙が擦れる音も聞こえずに──。
「わたしは。恋とかしない女の子なんです。そんなのはどこかに忘れてきてしまったんです」
 目を瞑って、何かに思いを馳せるように琥珀は呟いた。普段の明るい調子じゃなく、真剣な声で、言葉で。
「でも。今日一日で、思ったことが一つだけ……」
 ゆっくりと開かれた瞳には、柔らかい笑み。それは月夜に羽ばたく一匹の蝶の如き美しさ。
「乾さんなら……有彦さんとなら恋……できるかもしれません」
 琥珀の白く長く透き通る指。それを有彦に向けて差し出した。
「わたしで良ければ、おねがいします」

 ゆっくり。慎重に。琥珀の指に通される指輪。小さな蝶が刻印された、シンプルなシルバーリング。
 
 それは、月光を受けて何よりも綺麗に
 
 何よりも美しく

 月光舞い散る星空

 月蝶舞う夜空で、重なる二人のシルエットをいつまでも照らし出していた。




Fin

あとがき
 元々のコンセプトが「誰も書かないようなものを」というものなので、有彦と琥珀というとんでもないコンビになりました。いかがでしたでしょうか。
 本来ならば乾×ななこが王道なのでしょう。もちろんおれも乾とななこが絡むのは大好きです。その片鱗が有彦とななこの会話に現れていたりもしますがそれはまた別のお話。今は有彦と琥珀、通称イヌコハを楽しんでください。
 それでは。
2004/03/24 生ハム
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