数時間前...
 両手両足を鎖に繋がれ、眠っている。体に感じる重みは令呪の縛りだろうか。
 いわゆる覚醒夢の状態だった。志貴の命令で体は眠っているが、意識は目覚めている。元々眠りを必要としない体がそうさせたのか、とにかく意識は明瞭だった。
 意識体の顔をあげた。鳥の囀りが耳に届く。川のせせらぎが静かに聞こえ、木々がそよ風に揺られている。ああ、懐かしい。キャスターは小さく吐息を漏らした。
 果たしてここがどこなのか、詳しく知っているわけではない。だが、竜に曳かれてやってきたこの森で、魔女メディアは人としての生を終えたのだ。誰に看取られるわけでもなく、孤独に死んだ。
 けれども、その死に様に後悔があったわけではない。犯した過ちに比べれば、その死は穏やかでさえあった。だから、メディアはその生にこそ執着があった。
 女神に翻弄される人生。そこにどんな意味があったのか。自己などというものは欠片もなく、女神の都合、英雄イアソンの都合のみで終わった人生だ。
 家族を皆殺しにした果てでたどり着いたのがこの森だった。穏やかで諍いも無く、落ち着いた静謐の場所。
 よりにもよってこの世界へ帰ってきた己の未練を笑って、キャスターは動かない体を鎖に預けた。
 志貴はどうなっただろう。
 ふと思って、令呪の具現である鎖をぎゅと握ってみる。キンと冷たい痛みが手のひらに残る。なんとも突き放したような痛みに、思わず胸が痛くなった。
 まるで志貴が怒っているようだった。キャスターは肩を竦める。事実その通りだろう。あまりの怒りに、後先考えずに令呪を使ってしまったくらいだから、随分怒ってる。
「なぜ……ばかなことを」
 原因が自分にあるとしても、キャスターにはその行動が信じられなかった。志貴は死んだはずだ。二体の英霊に囲まれ、生きて帰れたのなら志貴は人ではない。万に一つ生き帰れたとして、そのときには令呪は失っているだろう。つまり、志貴とキャスターの繋がりは失われている。
 キャスターは安堵している自分に気付いた。志貴と離れられることに安堵していた。少し違う。自分は、遠野志貴を解放できることに安堵している。
 ようやく見つけた人形のマスター。カタチだけのマスター。眠りの歌を心地よさそうに聴き、そのまま呪いをその体に受けた。それで、遠野志貴はキャスターに従順な人形になった。それだけで万全だった。志貴は適度な魔力供給を可能とするタンクなのだ。あとはずっと眠っていればいい。柳洞寺の護りはあの胡散臭いアサシンが行うだろう。英霊ですら無いが力だけは本物なのだから、足止め程度はどんな英霊相手でもこなす。あとは、キャスター自身の力で迎撃していけばいい。だから、本当は遠野志貴の力など必要ではなかった。不可思議な力に興味はあるが、不確定要素に賭ける……何より人間などに頼るということが、キャスターにはできなかったのだ。
 ならば何故、志貴が学校に向かうと言ったとき、それをムリヤリにでも押し留めなかったのか。
 矛盾だった。
 志貴を人形のままにしておきたいと思っていたのに、彼の意見に耳を貸している自分。
『いやなに、何と言うべきか……おまえも人なのだと思ってな』
 アサシンはそう言って笑っていた。姿が見えていたら恐らく腹を抱えていただろう。それほどに、あの番犬は可笑しそうだったのだ。普段ならばアサシンに令呪の一つくらい使ったかもしれない。しかし、自分自身疑問を感じていたために、何をするでもなく志貴の言葉に耳を貸した。それで、
「この様……」
 キャスターは鎖を握った。冷たい。ギチギチに氷結した鎖がキャスターの体温で雫になる。腕を伝う鎖の感触に身を震わせた。ふと、首筋にも一筋の雫が流れた。
 つまるところ、自分は試してみたかったのだ。遠野志貴が、人の魂を吸い取るという異常を前にどのような行動を取るのか。いざとなれば空間転移をすることで撤退も可能だった。故に、効率的ではないが志貴の策を飲んだのだ。
 効率的などという言葉を使うのもばからしい。それは本当に好奇心だった。聖杯戦争に勝つための一歩ではなく、むしろ崖っぷちからの後退。けれどそれでも確認しておきたかった。怒り狂うことくらいは解っていたが、知りたかった。
 一つ問題があったとすれば、セイバーとアーチャーの出現。そして彼らが、キャスターの所業を知っていたということ。結果的にキャスターは疑問を解くことができた。己の終焉とともに。
 志貴は静かに憤怒した。それを見て、自分はどうした。小娘のように震えていなかったか。かたかたと震えながら横目で志貴を窺う自分。あまりにも間が抜けている。けれど、仕方が無かった。志貴の考えが透けて見えたから。そのあまりにも透明な心に、キャスターの心が負けてしまったから。
 ──死
 あるのはそれだけ。『死』というたった一つの単語以外に、志貴には何も無かった。つまりキャスターは死の恐怖を感じた。志貴に殺されると思った。けれど振り向いたその瞳にはまったく別の感情があった。無論激怒している。それでも彼の瞳は「あとで思い切り引っ叩いてやるからな」なんて、あまりにも笑えないことを言っていたのだ。
「ああ──」
 声が篭もっていた。情けない。鎖から溶け出した雫かと思っていたけれど、
「なんで泣いてるの……私」
 頬を伝った涙が首筋を流れていただけのこと。
 簡単なことだった。自分は単純に人に甘えたかっただけ。こう言えばなおのこと情けないし、それが全てとは思わないが、真実だったのだろう。
 胸の奥が熱くなる。顔はどれほど醜いだろうか。
 キャスターは鎖を打ち鳴らした。呆けている場合じゃないと、焦りを覚えた。けれど、令呪の縛りは消えない。文字通り鎖の縛りで、キャスターを拘束して離さない。
 何度も何度も魔術詠唱を試みるが、意識体でしかない今の自分には簡単な魔術さえ使えない。なんて抜け目無いと志貴を皮肉りながら、キャスターは鎖を打ち続ける。
 何度も何度もそうした後、とうとう諦めかけた頃にじゃらんと鎖が鳴った。足元に、断ち切られた鎖が落ちていた。全身を雁字搦めにしていた鎖が全て、解けている。
 何が起きたのか探る前に、キャスターは次の手を考え始める。鎖はなぜか解けたが、それだけでは夢からは覚めない。
 辺りを見回す。よく肥えた大木に、冷たそうな水流。そんなものばかりがある世界。あまりにも平和すぎて、現実に戻れるほどのショックが無い。
「どうす──っぐ」
 声を出した瞬間、その声が途絶える。足元の鎖にぱたぱたと赤い液体が降り注いでいた。まるで雨のように、勢いよくキャスターの首から吹き上がった血が、あたりを真っ赤に染めていく。
「え──?」
 首に手を当てる。ぱっくりと裂けた首からは、止め処なく血が吹き上がる。シャワーのように、滝のように。それは、たとえサーヴァントと言えど命を失いかねない傷。
 視界が歪む。朦朧とした意識が夢の世界を保てなくなる。せせらぎは慟哭に変わり、水流は鮮血が溜まる音。傷口から血のかわりに闇が溢れていく。それによって世界が黒く塗りつぶされてゆき、存在が希薄になっていく。
 ──消える。
 震えるための体も消えた。感覚だけが闇の中を浮遊する。見渡す限りの闇の中に落ちる。寒い。呟く口も無い。痛いと思う神経も消えた。
 キャスターは自分がこのまま消えていくのだと感じ、意識の目を閉じた──。
 が、次の瞬間に襲ったのは強烈な光だった。そして首筋からぼたぼたと流れ出る己の血液だった。慌てて手で押さえ付け、唱えなれた癒しの魔術を行使する。魔術を、行使した。その事実に気付き、キャスターは勢いよく目を開けた。
「ふむ、死ぬかとも思ったが、なかなかどうしてやるものだ」
 侍が見下ろしている。この国で嘗て名声を得た剣豪の贋作。そも、その剣豪さえ存在しなかったのだから、この存在は一体何か。唐突にそんなことを考えて、しかしすぐに唖然とする。アサシンは異様の長刀を鞘に収めるところだった。
「まさか私を」
 ──斬ったのか……と。
 アサシンが動きを止める。
「礼を言われこそすれ、怒鳴られる筋合いはない。不甲斐無い姿を見せてくれるな、主」
 やれやれとため息を吐いたアサシンは、そのまま踵を返した。飄々と。
「待ちなさい。あなた、自分が何をしたかわかって?」
「貴様を眠りから覚ませてやっただけの話よ」
 アサシンが振り向いた。
「誰がそんなことを! 危うく死ぬとこ……ろ」
 勢い良く詰め寄ろうとした足が止まる。キャスターは目を見開いてアサシンを見た。死ぬところとは何か。それこそがあの世界。死を待つためのあの世界だ。ならば、解き放ってくれたのはアサシン。
「私が行ってみるのもよいかと思ったが、生憎ここから出られぬ」
 アサシンは無表情に言って、両手を広げて境内を指した。
「そう、助けられたわね」
 キャスターがぺたんとその場にへたり込んだ。
「気にするな。そのままではあまりにも哀れと思ったゆえに。さて、これからどうするのだ主」
 打って変わって、アサシンは尻餅をついた格好のキャスターに手を差し出した。あまりにも豹変した態度をキャスターは訝しんだが、アサシンは変わらず無表情だったので、その手を取った。
「少し待ちなさい。志貴の……位置を」
 キャスターが目を閉じて何かを呟いた。その様を、アサシンは奇妙がる。
「魔術師……魔術師。まるで不可解な人種だな」
「私に言わせればおまえの方がよっぽど不可解よ」
 キャスターが目を開ける。アサシンは不服とばかりに眉を顰めた。
「聞き捨てならんな。その所業、人の為せる業か」
「あら、おまえだってそうじゃない。マホウと──居た」
 キャスターが露骨に顔をしかめた。
「あの小娘の家……か」
 唸り始めたキャスターを、アサシンはぼうと眺めた。キャスターは、常に隠していた顔をさらけ出していることに気付いているのだろうか。常に高圧的で、相手を威圧することでしか対等な会話などできなかった者が、かくも自然に振舞っていることに気付いているのだろうか。恐らく気付いていないだろう。アサシンは目を閉じた。
「アサシン。ここで、別れることになるわ」
 と、キャスターの小さな声が聞こえた。それは覚悟していた言葉だった。覚悟と言うより、許容しようとしていた言葉だった。
「そのようだ」
 アサシンは何事も無いというように返した。だが、キャスターは顔を伏せている。後悔でもしているのか。バカなことをとアサシンは笑った。
「……頭でも打ったか。それがおまえの判断なら、私は従おう。そんな顔は似合わん。どうせなら最後まで女狐であれよ。おまえが犯した罪は消えない。ゆえに、これが最後の罪と思え」
「理由を聞かないのね」
「必要も無い。覚悟が透けて見えるぞキャスター」
 素顔のままで、キャスターが顔をあげた。実にいい顔をしている。初めからこれならば、少しは協力してやる気にもなったというのに。
破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)
 キャスターが真名を紡ぐ。両手に握られる形で具現された奇怪な形の短刀。それが古代ギリシアの英霊メディアの持つ宝具。貫いた者の魔術的柵の一切合財を破戒する魔具。
 キャスターは、それを振り上げる。
「ありがとう、アサシン」
 そして、そのまま自らの胸に突き刺した。



 おもむろに目を開くと、セイバーの視線があった。学生服から私服に着替えていたが、鎧甲冑が無ければただの少女だ。
 深夜を回っているはずだが、疲れは見えない。代わりに、苦虫を噛み潰したように顔をゆがめている。志貴に気付いて、ハッとしたように顔を引き締める。
 初めて見たあの日は、こんなにも雲ってはいなかった。今日も、彼女が現れた瞬間は死さえ覚悟した。けれど、今の彼女は歪な何か、くだらないものに囚われているような気がしてならない。それも、志貴に関係の無いことではあるが。
 志貴の無表情としばらく相対してから、セイバーはゆっくりと口を開いた。
「一つ聞きたい。あなたは一体何故聖杯を求めるのか」
「俺のせいで死ぬ妹を助けるため。遠野志貴という存在を初めから無かったことにしてもいい。奇跡でもなければ、無理なんだ」
 セイバーは弾かれたように顔をあげた。何か言いかけて、口を噤む。
「街を覆っていた気配が消えた」
「知ってる」
 キャスターの紫色の匂いのことだ。街中から精気を吸い上げるために張り巡らされた魔力。令呪に続き、それさえなくなった。
「もう聖杯戦争を生き抜くのは不可能だ。他のサーヴァントでも見つけない限りは」
「君がなるか? 俺のサーヴァントに」
 鋭い視線に「冗談だよ」と返して、志貴は項垂れた。どう表現したらいいのかわからない感情が、背中から腹から這い上がってくる。
『伏せなさい、志貴』
 そう、しっかりと聞こえたのだから。
「またな、セイバー」




Hunting High and Low.



 落ち度は無かった。結界の強度も質も、常時の数倍の規模にしてある。敷地内にネズミ一匹でも入り込めば知覚できる。だが元々、魔術による直接攻撃など想定していなかった。魔術的衝撃を受け流す結界となれば凛を以ってしても難しく、維持費(まりょく)がかさむ。何よりそんなことをする「魔術師」は居ないはずだった。
 考えが甘かったと思わざるを得ない。志貴は魔術師ではない。協会に見つかればただで済む人間でもないが、魔術とは無関係の世界で生きてきた人間だ。だから、魔術師は身を隠すなどという理屈は通らない。
 半壊した屋敷を駆け回りながら、志貴の姿を探す。飛び出してきたアーチャーが「外だ!」と叫んだ。鬼気迫る形相だった。
「あの魔力量、おそらくキャスターが生きている」
「わかってる。ほんの一瞬だけど張り巡らせた感知野が消えた。志貴を見失ったの。だから逃げられた。こんなことできるのは魔術師(キャスター)しかいない」
 でも、と凛は続けた。
「志貴の令呪は消えたはず。胸糞悪いキャスターの気配も消えた。なのになんでキャスターが」
「キャスターは最高の魔術師だ。《契約を破棄》することも可能なのかもしれん。我々を欺き、マスターを救出するためにな」
「なるほどね。そうだとしたら、最弱なんていわれる割にえげつない。他人の契約も切っちゃうならまずいわね。あんたそのまま逃げかねない──って、酷い……」
 階段を駆け下りて、凛は怒りに顔を歪めた。アーチャーを召喚したときとは比べ物にならない惨劇。壁は焼け落ち、穴が空き、絨毯は溶け、穴は地下まで続く。途方も無い出力。
「最弱だからこそ、えげつないとも言える。まだ断定されたわけでもない、囚われるなよ」
 アーチャーは苦笑していた。
 これほどの魔力をもっていたら、たとえ気配を遮断しようと魔術師に嗅ぎ付けられる。敷地内になど入らなくても、感知できたはずなのに。
「アーチャー、キャスターを感じた?」
 アーチャーは首をふる。
「気配遮断と契約破棄。二段構えの捨て身の戦法と考えられるな」
「キャスターには単独行動のスキルは無いはずだけど。新しいマスター? いや、違う。マスターがいれば今度はわたしに見つかる」
「そうだ、キャスターは恐らく単独──だが単独で、それも空が焼ける程の魔力を放てば」
「瀕死ってことね。オーケーアーチャー。今すぐ志貴を追うわよ。合流する前にどちらかを」
 言葉に詰まる。アーチャーは既に武装していた。
「──殺しなさい」
「従おう」
 アーチャーが一足早く闇の中に飛び込んでいく。士郎とセイバーの姿を探すが、居間には見当たらない。
 攻撃で空いた穴から外に抜けて、目に魔力を通す。月の灯り以外に光点の無かった世界はぼんやりと輪郭と取り戻す。その中に駆けるアーチャーの後姿を見つけ、凛はすぐさま後を追った。
「志貴は」
「一足遅かったらしい。見ろ」
 アーチャーが指差した先で、士郎とセイバーが立ち尽くしていた。志貴の姿は既にない。



***



『伏せなさい、志貴」
 目を覚ました直後に聞こえた声だった。その後一瞬だけ、屋敷中の監視が消えた。向けられていた銃口も、足元の魔法陣も、全てが効力を失った。刹那、屋敷が轟音と共に崩れた。紫色の魔力は壁を貫いて地下室へと至り、セイバーを直撃した。ビクンと一瞬体を跳ねさせたセイバーは、すぐさま体勢を立て直し、剣を握ろうとした。だがその腕に、落ちた天井が激突する。隙を見逃さずに走って、屋敷から出た。あまりにも容易く脱出できた。門の向こうに人が倒れていた。ローブ無しで、薄い生地の服を着たキャスターだとすぐに気付く。
「しき」
 キャスターは蒼白な顔をあげて喘ぐ。キャスターと出逢った日と似ている。あのときも、キャスターは今にも消えそうな顔で志貴を見上げていた。
 見上げてくるキャスターの顔はいろいろなものに彩られていた。憔悴。恐怖。絶望。不安。そのどれもが負の情念だった。
 志貴は答えられなかった。人を何百人と昏睡に陥らせたキャスター。死者が居ないからと許される問題でもない。関係者をそうさせたのならば、まだ救いはある。そういう前提の下に集った者たちだからだ。そういった意味では、志貴を結局殺さなかった凛たちのほうが異常。戦争の名を戴くこの争いで甘えた考えは命取りだ。
 だがキャスターが巻き込んだのは無関係の人間だ。それを許せるほど、志貴は冷めた人間ではなかった。狂いきれてもなかった。ただそれでも、死を覚悟してまで自分を助けてくれたキャスターを信じたくて──。
「逃げるぞ、キャスター。話はあとだ」
「え……」
 今にも消えそうな彼女を抱きかかえて駆けた。





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