アサシン──佐々木小次郎は山門に腰掛け、生まれて初めて斬った柔肌の感触を噛み締めていた。
 快楽など無い。悦びも無い。あるのは空しさと、ほんの少しの達成感。この先、己がなすべきことに対する好奇心。既に失せたキャスターのことは頭に無かった。ただ斬った肌の感触のみを剣とともに佩いていた。
 キャスターのマスターへの興味は尽きなかったが、所詮は畑違いの者。一目で筋違いの才を見抜けるほどに卓越しているわけでもない。故にベクトルは剣士(セイバー)を名乗る少女一人に向けられていた。
 再び立ち寄る。その自信があった。故にアサシンはキャスターの後を追わず、少女の帰りを待つことにした。
 境内に人の息吹は無い。皆寝込んでいる。ある者は熱を出し、またある者はぼうと呆けたような格好で眠っている。柳洞寺は閑散とした冷たい風に凪がれていた。だがそれも、じきに元通りの姿を取り戻すだろう。
 市内一体を包んでいたもの悲しげな邪気は既に霧散し、今は残滓が方々に散るのみ。なんのかんのと悪役に徹しきれない女狐の甘さを肴に、アサシンは清浄な空気を吸い込んだ。思えば召喚されて始めて吸う空気でもあった。キャスターに汚染された空気ではなく、大気そのもの。だが、そこはかとなく香る苦味に、アサシンは舌を打った。
「住めば都か。あんな空気でも、私にしてみれば羊水のようなもの」
 ありがとうなどと、初めて人間らしい言葉を発したキャスターの顔を思い出し、アサシンは笑った。高らかに笑って、やれやれと山門から地に降りた。石段の左右を取り囲む雑木林。そこに異様の気配を悟って。
「邪魔立ては、させぬ」
 彼女の覚悟を穢されぬために、アサシンは刀を抜いた。




Hunting High and Low.



 
「死、んだ?」
 震える顎を僅かに上下動させて、辛うじてそう零した。吐息にさえ痛みを覚える体には、声帯を震わせるだけで内側から肉を燃やされるような痛みが走った。だがそれ以上に、確認するように吐かれた言葉が四方八方から圧力をもって纏わり付いてくることが、志貴には苦痛だった。
「令呪、無いのか?」
 安堵とも愛惜ともつかない表情を浮かべるセイバーの背後で、士郎が呆然の声をあげた。振り向いたセイバーの頷きに自身の見間違いをも否定された志貴は、足元から瓦解しようとする何かを防ぐべく、床を俄かに強く踏みしめて、大きく深呼吸をした。
「これ、解いてくれないか。もう、俺はマスターじゃなくなったんだろ」
 両腕を拘束する赤い光を睨みつけながら言う。深呼吸の後の言葉はひどく冷淡な響きだった。
 志貴の言葉にセイバーと士郎は顔を見合わせる。そういうわけにはいかないと結論付いたところで、階上で扉のあく音がした。
「……あなた、教会を知ってる?」
 階上に繋がる階段に設置された鉄扉が押し開けられる気配のあと、遠坂凛が僅かに憔悴した顔を覗かせた。
「丘の上の教会なら、一度行ったよ。魔術師でもないから門前払いだったけど」
 志貴がむせながら返すと、凛は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「綺礼のやつ、わかってた癖に……。まあいいわ、そこに行けば保護はしてもらえるから、好きにしなさい」
「おい、遠坂、いいのか?」
 士郎が驚いたように口を挟む。その声には喜色が混じっていた。凛は士郎をちらと一目だけ窺うと、再び志貴に視線を戻した。
「だってその人街の状況をまったく何も知らないんだもの。それに、もう治癒さえ働いてない。キャスターが死んだのは間違いないわよ」
「凄い速度で治ってるぞ?」
「それはわたしの魔法陣の力」
 凛はリボンを揺らしながら階段を降りてくる。その瞳は真っ直ぐに志貴を見ているのだが、真実見ているのは士郎の方なのだと、志貴ははっきり感じ取っていた。目で見ずに、耳で士郎を窺っている。それは級友に対する態度ではなかった。喩えるなら、恋敵の一挙一動を牽制するような。歯車が狂い掛けている。志貴を二の次にしてしまえるような事件があったのか。
 どうでもいいと、志貴は首を振った。キャスターの死は誰よりも自分が感じ取っていた。凛にとって志貴が二の次ならば、志貴にとってもこの状況は二の次でしかなかった。
 ここで生き残ろうと、キャスターがいなければ死んでいるのと変わらない、聖杯戦争から脱落すれば、志貴に残された道は死以外にない。
 秋葉の処断までも時間が無く、藁にも縋る思いで参加した戦争。これが最後のチャンスだったのだ。ここで逃せば、最後の選択肢として残しておいた方法を取るしかなくなってしまう。
 それも最早詮無い事だった。死はあれから遅れること一年。刀崎の翁の下で覚悟してきた。故に、最後の手段としての自殺を行使することに対する躊躇いはそう大きくない。
 兎角、哀れで仕方が無かった。何も与えられず、何も与えることができずに死んだ女が、また再び無意味に命を刈り取られて終わった。行ったことと言えば千に近い数の人間を布団に篭もらせたことのみ。その、何と哀れで意味の無い生か。
 あらためて喪失感が体を包んだ。
「一発、殴らせろ……バカキャスター」
 無意味。無価値。彼女が何を望んで召喚に応じたのか、最早知る術もない。ただ、それはとてもくだらない願いだったのだろう。それだけは、実感として志貴は断言できた。くだらない、けれど何よりも尊い願いを胸にして、彼女はこの世に再び現れた。それが、至らないマスターを得たせいで、なんてつまらない結末を迎えたのか。
「凛、私は賛成できかねる」
「奇遇だな、私もだ」
 ふと耳に、セイバーの澄んだ声と、アーチャーの聞くに堪えない澄ました声が聞こえた。
「聞けば、アーチャーは宝具まで使ったと。私は彼を決して見くびってはいない。彼は英霊たる力をもって存在している。その彼を、そこまで追い詰める人間を、野放しにはできない」
「ふむ、痒いが同意見だ。必ず障害になるぞ」
 二人は示し合わせたかのように異を唱えた。
「おい。もう戦えないんだぞ」
 士郎が口を挟んだ。セイバーの緑色の瞳を上から見下ろし、士郎は心底不機嫌そうだった。
「貴様も見ただろう。生身でさえ、こいつは英霊を脅かす」
 アーチャーが組んでいた腕を解き、士郎と相対する。即座に漂い始めた険悪なムードは、凛の言葉を待っていた。
「確かに一理あるけどね、わたしは無関係になった人間を殺すつもりはない。ただ、話は聞きたいからこの場にしばらく残ってもらうけどね」
 と、凛が重々しく口を開いた。しかしそれもどうでもいい。逃がされようと殺されようと、志貴の末路としては同じことだ。だが、逃がそう、殺そうなどと、未だにそんな議論を目の前でされている今ならば、志貴には脱出の策があった。
「ハ」
 ずぶずぶと、砕けた骨が体内で蠢く。突き出していた骨が徐々に皮膚内に埋まっていく。全身の痛みは引かない。しかし外傷はほぼ癒えようとしていた。魔法陣の効果。凛はそう言った。
 ジャケットの内ポケットになれた感触がある。間違えるはずも無い。僅かな傷跡の数さえ数えられるほどに付き添った、何よりも信頼できる獲物が、振るわれる時を今か今かと待ちわびている。
「なんて、無様」
 己ではない。遠野志貴という生粋の殺人鬼から武器を奪わなかった遠坂凛。彼女の過ち。このナイフで英霊の武器をいくつも殺していくのを見たはずの凛だが、目を重視し過ぎ、たかがナイフと甘く見た。或いは、性格のなせる業か。
 志貴が大きく体を揺さぶった。メガネが音を立てて床に落ちる。繋がっていない骨が軋む音を全身から聞きながら、それでも志貴は体を揺さぶった。目の前がツギハギだらけになる。骨折よりも性質の悪い痛みが襲い掛かってくる。それを堪えながら、志貴は思い切り体を揺すった。
 胸元からナイフが落ちていく。靴を脱ぎ捨て、落ちていくナイフを思い切り蹴りつける。拍子に刃が飛び出した。その先にあるのは大きな点。
 四人には悪あがきにしか見えていないだろう。だが志貴には視えている。
 足元にぽっかりと浮かんだ、この魔法陣の死が。
「ほう?」
 反応したのはアーチャーだった。だが遅い。志貴は自由になった体を前傾させ、ナイフとメガネを拾い上げる。倒れる勢いを利用して走ると、眼前に遠坂凛のあきれ返った顔があった。
「悪いね。まだ、死ねない」
「そ。好きにしたら?」
 凛が意地悪く微笑した。コンマ一秒と顔を見続けずに階段を駆け上がり、志貴は玄関を目指した。だが、階段が終わらない。異変に気付くより先に足を速める。既に二十段は駆けたはずだが、一向に抜ける気配がない。
「残念だけど、ここはわたしの『家』だから」
 明りが遠ざかっていく。背後には奈落。闇が濃くなっていく。にんまりと、底意地の悪い笑みが背後にあった。再び階段を見上げる。既に果ては見えなかった。それは永遠に連なっているように、天国への階段のように見えた。
 覚えのある感覚だなと、志貴は思った。体内に“何か”が入り込んでいる違和感。そう、アレは確か──クラスメイトを殺したときだったろうか。
 ならば方法は容易い。あの時脳裏に浮かんだ選択肢。そいつを選んでやればいい。
 志貴は己の体を見下ろした。臍のやや下。丹田で何かが蠢いていた。それが毒。体内に侵入した、恐らくは幻覚か何かの魔力。息をする間も無くナイフを突き刺す。感触は無い。血も出ない。殺したという実感だけがあった。それをもって見上げると、天国への階段は姿を消していた。あるのは短い石段。
「そんなものも殺しちゃうわけ」
 凛の声は相変わらず背後にあった。どこから自信が涌くのか、その表情に焦りはない。むしろ笑ってさえいる。
「少し、自信過剰じゃないか?」
「もう一度言うけど、ここは、わたしの家だから」
 諭すような口調は強がりではない。そこで気付く。上下左右。三百六十度を囲む殺意の塊。ぞくりと首筋が粟立った。最たるものは二体のサーヴァント。他にも数多の魔術が遠野志貴を殺そうと待ち構えている。
 志貴は目を閉じた。
「試したのか?」
 行き止まりだった。やがて覚悟を決めた。正面には目を見開いたセイバーがいた。殺意を針のように飛ばしながら、彼女は志貴を睨んでいる。その向こうには、唯一の逃げ道となる階段。
 諦めの感情が燃焼し、殺意に反応する自分がいた。志貴は落ち着けと何度も心で繰り返し、そして今にも切りかかってこようとするセイバーの一挙一動を凝視した。
「シロウ……申し訳ありません。私は貴方の命に背く」
 セイバーは志貴を睨んだまま謝罪し、不可視の剣を両手で構えた。
 腕が、足が、全身が震えていた。マッサージ器のようだと場違いの感想を得た志貴は、彼女を乗り越えて階段を登りきれるかと一瞬で思考した。結果はわかりきっていた。不可能だった。
「待てよセイバー。殺す気なら、令呪を使ってでも止めるぞ」
「殺しはしません」
 士郎の声をおぼろげに聞きながら、志貴はじりじりとすり足で下がる。セイバーが腕を動かして牽制するが。
 隙など無い。だが神経は研ぎ澄まされ、五感が過剰なまでに敏感になる。キャスターの魔術は既に切れている。だというのに、体には力が漲っていた。痛みは残っている。血液が沸騰しそうな痛み。だがここしかないと、これしかないと、体が判断した。ぐんと腰を落とした瞬間、
「やめろ!」
 士郎の怒号は志貴を止めるもので、
「待ってセイバー。私は彼に話があるの」
 凛の言葉はセイバーを止めるものだった。二人から言われたセイバーは何度も志貴をにらみつけながら、ようやく不可視の剣を消したようだった。
「一言言わせてください、凛」
「なに?」
「ソレは、危険です」






 志貴の戒めは解かれた。心を読んだみたいに、凛は殺意の欠片も見せなかった。知られたのだった。志貴にもう戦う気がないと。何より、抵抗しても無駄だということが、先の一件で志貴には身に染みて解っていた。凛の一声で発動するトラップだけで死にかねないというのに、英霊が二体も留まっている家。そこでの抵抗は無意味だし、志貴は抵抗してまで誰かを道連れにする気は無かった。
 聖杯戦争を生き抜けそうに無かったら一人で死ぬ。参加すると決意している間は人殺しも厭わない覚悟があったが、無意味な殺人を犯すほど狂っているわけでもない。今の自分が正常に無いことはわかっていたが、それくらいの分別はあるつもりだった。
 セイバーと士郎。更にはアーチャーまで下げて、凛と志貴は地下室で会話していた。ご丁寧に紅茶まで用意されている。毒でも入っているのかとも思ったが、生きる理由を失った志貴にはどうでもいいことだった。取っ手を軽く握り、左手で受け皿を持ち、カップを口元に運ぶ。凛が感心したような顔で見つめていた。
「ふうん、お行儀がいいのね?」
「家がそういうのにうるさかったんだ」
 口に仄かな薬草の香りが残る。志貴は作法こそ知っているが知識については素人だった。ハーブティーか何かだろうといい加減な当たりをつけて、カップを床に置いた。
「ふうん、良家の殺人嗜好者ってわけ。ありがちね。この国で良家なんて呼ばれるところは大抵いわくつきだから」
 凛が同じように紅茶を飲む。その仕草は様になっていた。志貴はそうなんだと気のない返事をした。今更殺人嗜好者だと言われて否定する気にもなれない。凛やアーチャーを殺すことを、はっきりと意識して動いていたのだから。
「何で聖杯戦争なんかに興味持っちゃったの?」
「人づてに噂を聞いたからだよ。何でも願いが叶う聖杯を手に入れられるんだ。誰だって試してみたくなる」
 ふうんと再び凛が訝るように反応する。嘘を見抜いた顔だった。
「この写真の誰が絡んでるの?」
 凛がポケットから紙切れを取り出す。志貴は驚きの面持ちで胸ポケットを漁り、そこにあるべき写真の感触を得られないと、凛が差し出した一枚の写真を凝視する。それは四人で撮った最初で最後の写真。
「敵わないな……。魔術師ってのはみんなそうなのか?」
 ひったくるように写真を奪い取り、志貴はそれを大事に両手でつまみながらぼそりと呟いた。
「赤い髪の子だよ。秋葉っていうんだ」
「彼女……ってわけじゃなさそうね」
「いや、あってる。妹だけど」
 志貴はばつが悪そうに漏らした。
「そ。別に人の趣味をとやかく言う気はないけど──」
 凛が紅茶を啜った。
「その子、鬼でしょ。写真越しでもわかるくらい強烈な匂い」
 志貴の眼光が凛を射抜く。志貴は首をすくめた凛から写真の少女に視線を落とした。
「さっき、なんでナイフを奪っておかなかった?」
「必要なかったでしょ」
 凛はさも当然とばかりに言った。
「キャスターは死んだ。だったらあなたを野放しにしたってわたしにはもう関係ない。わたしを殺してでも令呪を奪う覚悟は、遠野志貴には無い。覚悟っていうのは透けて見えるものだから」
「不確定要素に賭けるなんて、魔術師の行動じゃないな」
 志貴は嘲笑うように言う。衛宮くんのせいかもね。と凛は言った。
「俺が君を殺す気だったとしたらどうしてたんだ?」
「どうにもならないわよ」
 ここはわたしの家だから。
 言外に凛が告げて、志貴は再び黙り込む。実際その通りだ。志貴は内心で凛の言葉に頷いた。
 自分にはそこまでして続ける覚悟は無い。死は覚悟したが、殺人の覚悟は生半可なものだ。見透かされていた。遠坂凛には見透かされていた。ならセイバーは何故遠野志貴を殺そうとしたのか。善い少女だ。一目で解るほどに善い少女だ。だからこそ、主の命に背いてまで斬りかかってきた意図が掴めない。
「そうそう、気になってたんだけど、その目元から?」
「これを手に入れる前から不思議なものは良く見た……と思う」
「生まれつきじゃないってことはきっかけがあるんじゃない?」
 志貴は簡単なことだとつないだ。
「死んだから」
 凛は少なからずショックを受けたようだった。目を白黒させる仕草は面食らっている証拠だが、その一方でその意味を深く吟味してもいる。少女と魔術師が混同する遠坂凛を志貴はしばし眺める。深く、強い瞳。こんな目をした人間を、志貴は何人も知っている。何でも映す硝子球のようでいて、その実何も映さない曇り硝子。かなしい宿命を持った哀れな人間達。
 血の宿命。魂に刻まれた運命という名の羅針盤。そんなものに振り回されて破滅していく人たち。妹もそんな人間たちの一人だった。
 凛も、そんな人間と同じ目をしていた。
 やがて凛は目をスッと細める。年端も行かない魔術師は、それを「真実」と取ったようだった。
「そう、繋がったのね……」
 ぼそりと呟いて、凛は立ち上がった。
「他には聞かないのか?」
「知っても無意味でしょ。わたしにはわたしの到達点がある。モノを殺す魔眼なんて、そんなの理解できない」
 凛が左腕を中空に晒す。ぼんやりと浮かび上がる魔術刻印。
「悪いんだけど、眠ってくれる?」
 平然とそう言われて、思わず苦笑する。
「唐突だな。もっと優しい方法は無いのか?」
「無いわよ」
 痛烈な言葉だった。
 キャスターはどうなったのだろう。諦めた志貴はふと考えてみて、背筋を粟立たせた。
 令呪が消え去った左手の甲。そこが、じりじりと痛んだ。常に繋がりを感じていた全身が、ぶるぶる震え始める。
 キャスターが騒いでいるんじゃないかと思った。私はまだ生きているのだから、まだ死ぬなんてことはさせない。そう喚いているんじゃないかと。
 志貴はバカな考えを鼻で笑った。けれど、笑いきれなくもあった。キャスターが生きている。少しでも思ってしまった脳味噌は、その考えを捨てられなくなった。
 ありえないと解っているのに捨てられない。なぜか。志貴は死ぬのが怖い。志貴が恐れるのはそれだけだ。たとえ妹のためだろうと、志貴は死にたくない。だからこそ、今も志貴はのうのうと生きているのだから。けれど、ここまでくれば死ぬしかない。だが、もしキャスターが生きているなら。志貴に死ぬ理由は無い。生きる理由が生まれる。

 生きていてもいいのだという、免罪符を得る。

「本当に、かっこ悪いな俺」
 ずんと胸に何かが飛び込んできて、志貴は気を失った。







「やはり、殺しておくべきだったな。生かしたせいで、くだらない情に絆されている。だから君は甘いというのだ」
 耳がいたい。アーチャーの言葉は一々正論で、自分でだって自分の感情がわからない。さっきだって、少し魔力を凝縮させてやれば、志貴は死んだのに。
 込み入ったことを聞きすぎた。遠野と聞いて河童やらの関係かと考えたが、どうやら『あの遠野』の関係だったらしい。
 この国には数多の魔的家系が存在するが、その中でも遠野家といえば有名なものだ。何しろ時折テレビなんかでその名を見ることもある。だが、それよりも魔の部分を、この国に住まう魔術師として凛は伝聞していた。
 先祖還りといえば、狂人のことと言っても過言ではない。魔術的に言えば己の起源に立ち返った者のことを指す言葉だが、そう変わるものでもない。元々自身に内包されていた魔に負けた人間のことだから。
 それを人間に引き戻すことは不可能と言われている。そう考えれば、あの男が聖杯戦争に参加した理由も、いくら叩きのめしても向かってきたことも自ずと見えてくる。
 愛。それも恋愛感情と家族愛がブレンドされた厄介この上ない愛のために、あの男は立っていたんだと思う。
「聞いた? 本当に変態だった」
「フン。こんなものに参加する人間は、多かれ少なかれ変態の素養を持っている。今回で言えば最たるものは衛宮士郎だろうがな」
 アーチャーの軽口に自嘲が混じるが、聞き流す。今は、その話題に触れたく無いからだ。
 妹のために死ぬ覚悟。恋人のために死ぬ覚悟。どちらともそう簡単にできるものじゃない。
 自分そっくりだった髪の毛が、すっかり向こうに染まってしまった妹を思い出す。さて、わたしは妹のために命を投げ出すことができるだろうか。
「髪の毛の色を変えるってさ、やっぱり遺伝子弄らなきゃだめよね」
「染色ではないとしたら、そうだろうな。私はそちらの知識には疎いが……どうかしたのか?」
 あの家にそんな手練れがいるはずは無いのだが、因子を混ぜるくらいはできるということだろうか。或いは、妹自身がそう仕向けたか。凛は唸って、目を閉じた。
 頭の中で、自分そっくりの髪の毛をした妹を想像する。きっと美人だ。ほら、描いた容姿には非の打ち所が無い。元々美人だし、何よりこの遠坂凛の妹なのだから。
 うんうんと唸ってみて、なんだかんだ妹を愛している自分を確認する。肉親を愛さない人間はあまりいない。時折いるが、それは『違った家』に生まれた人だ。遠坂凛もその妹もそんな家の出身ということになるが、それでも凛は妹を愛している。では、妹が堕ちたときに命を投げ出す覚悟はできるだろうか。
 凛は唸った。二つ返事でできると言うのは簡単だが、心底絶望的な状況──たとえば己の命と引き換えにしなければならないとき、自分はどうするだろう。遠野志貴はまさしく命を投げ出している。志貴が死ねばその妹であり恋人であるらしい彼女が人に戻るというのは理屈にならないのだが……とにかく志貴にはその覚悟ができているのだろう。それを、遠坂凛にできるのか。恐らくは、できない。
 自分の命と肉親とはいえ他人の命。そんなもの秤にかけるまでも無い。じゃあ、なんで遠野志貴にはできるのだろう。
「ううん。なんでもない」
 自分を非情と思ったことは無いが、慈愛に満ち満ちた人間だと思ったことも無い。妹を切り捨てるという発想は、もしかすると稀有で奇異なものなのだろうか。いや違う。魔術師というカテゴリーに生きる人間は、総じて自愛に満ちた存在だ。
 凛はベッドに身を投げ出す。まとまらない話は好きじゃない。凛は思考を止めて、天井を見つめた。
 セイバーと衛宮士郎は別室でのんびりしていることだろう。セイバーの荒れようからするとのんびりはできないかもしれないが、精々くつろいでいただきたいものだ。
「セイバーどうしたかわかる?」
「さてな。あの魔眼を知っているのか。彼女の容姿を見るにケルト神話と繋がりがあってもおかしくはあるまい」
 金髪に碧眼の少女。もしかするとケルト神話の英雄なのかもしれなかったが、女性の英雄というのはそう多くない。有名どころでフランスのジャンヌ・ダルク。その他はこの国ではほとんどが認知されていない。
 だというのに、セイバーの力は圧倒的だ。バーサーカーを相手に一歩も引かず、魔力不足の体で五分に打ち合った。ジャンヌ・ダルクが英霊となれば、それは恐らくセイバーではないだろう。彼女が持つものといえば、月並みだが旗というイメージがある。では、セイバーは何者か。
「あの取り乱し様は普通じゃなかった」
「何、星寄りだろうとなんだろうと、英霊は危険を察知する能力だけはずば抜けている。彼女のそれが反応しただけの話だろう。私としても、殺しておきたいんだがな」
 アーチャーが紅茶を啜りながら言った。
「衛宮くんのことは毛嫌いするくせに、セイバーのことは良く庇うじゃない」
「妬いているのか?」
「バカ言わないで」
「──それは残念だ。さて、私は遠野志貴の様子でも見てくるとしよう。また結界を破られては敵わんからな」
「殺さないでよ」
 アーチャーはしばらく黙り、
「了解だ、マスター」
 偽りの無い声で言った。



***



 殴られた頬がひりひりと痛んだ。帰ってくるや自分を殴った兄の後姿を見つめながら、今晩は先輩のところには行けないかなと、どこか外れた心配をする。
 間桐桜は平凡な学生である。引っ込み思案で、顔の半分を覆うほど前髪を伸ばした冴えない少女だ。日ごろあまり口を開かない彼女は、その女の前でだけ饒舌になる。
「ライダー、人は殺したの?」
 間桐桜は兄が部屋に戻るのを確認すると、スッと音も無く現われたサーヴァント──ライダーに尋ねた。
「いえ、邪魔が入って殺すまでには至らなかった。魔力の面では残念ですが……サクラの悲しむ顔を見なくてすむのは喜ばしい」
「邪魔って、先輩?」
「確かにセイバーとアーチャーの姿も確認しましたが、まるでノーマークだった相手に邪魔を」
「そう。でも良かった」
 言いながら、桜はぼんやりと視線を虚空に投げた。
 ──先輩以外に、そんな人がいるとは思わなかった。
「ああ、でもただ阻止したのかもしれないんだ」
 魔術師として、ライダーが力を持つことを許せない人間は少なくとも他に六人いる。
「いえ、明確な怒りを持って私に向かってきました」
 しかしライダーの返答は桜の予想をいい意味で裏切っていた。その“せいぎのみかた”みたいな変人の姿を想像しつつ、桜は包丁を手に取った。
「……そう」
 さて、今晩は何を作ろうか。




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