風が凪いでいた。アサシンは空を見仰いだ。灰褐色の雲が敷き詰められた空を見上げて大きなため息を吐いた。
 門番でいろという令を拝命してからこっち、境内に足を運んだのは初めてのことだったが、それを咎める女狐は、赤子のごとく身を投げ出して眠りこけている。
「よもや──」
 石畳に眠るキャスターへと近付き、アサシンは嘆息した。
「小僧っ子にあしらわれるとは思わなかったぞ」
 アサシンが女狐と称した女は、まるっきり赤子だった。体を横たえて眠る。事もあろうに、ローブの奥からは涙が一筋流れている。令呪の縛りとは言え、このような顔を見せられるとは露程も思わなかった小次郎は改めて頬を凪ぐ風に身を委ねた。
 今朝方までは愚物に過ぎなかった小僧が、知った途端にこれでは、たかだか魔女ごときに掌握できる相手ではなかったということだ。
「まこと愉快なことよな、キャスター」
 ピクリとも反応しないキャスターを見下ろし、アサシンはくつくつと笑った。ひとしきり笑うと、アサシンはキャスターを引き起こして肩に抱く。
「これで貴様も目が覚めよう」
 もう一度笑って、アサシンは寺の本堂にキャスターを寝かせた。その顔を二たび見ることもなく、アサシンは山門へと引き返す。途中、一陣の風が山を吹き抜けた。心地よい冷気。寒さを感じる体ではなかったが、その冷気の正体に僅か頬を引き締めて、アサシンは再び踵を返す。
 本堂に入り込み、情けない姿をさらすキャスターの脇に腰掛けた。キャスターのフードをはぐる。涙のあとを残したまま眠りこける女は、見るも美しい女性だ。初めて見た素顔に少なからず驚くが、アサシンはすぐに表情を引き締める。背中の物干し竿の柄に手を添えながら立ち上がった。
 キャスターを殺せば、己の存在は露と消える。
「覚悟はできていよう」
 ひたすらに研鑽し、研鑽の上に研鑽を重ねとうとう手にした秘剣。それも人相手に振るうことなく消えた。
「全てはこの機会のために……構わぬ、人の生で目的を見出せたことこそが至福。燕を切れるだのと、つまらん技に注ぎ込んだ人生よ。だが──」
 たとえ怨霊と化したとしても、その願いこそが生だった。
「機会を与えたのはおまえだろうキャスター。ならばその責任くらいは果たせ」
 迷いは消えた。アサシンは背に佩いた長刀を抜く。薄暗い堂の中で鋭く輝く刀。それを流れるような動作で上段に構える。あくまでも流麗に、美しく、舞うように構えられた刀を、
「許せ」
 打ち下ろした。




Hunting High and Low.



 息を吐く。呼吸を合わせる。熾天覆う七つの円冠(ロー・アイアス)を解除し、志貴の呼吸を見る。僅かな呼気にも耳をそばだて、微細な筋肉の収縮を捉えるべく透視する。解析不能は相も変わらず瞳。能力を図ることはできないが、何かを視るタイプの魔眼であることは間違いない。背後からの投擲を避けたことから想像するに未来視の確率が高い。
 もう一息吐いて、アーチャーが突進する。右手に持ち替えた陰剣莫耶を真横に構える。志貴は様子を見るように動かない。地面を蹴り、真正面から飛び込むと同時に、横薙ぎの一閃を放つ。志貴はバックステップで容易く避けた。
 空間把握の能力がずば抜けていることは凛を真上から狙った動きでよくわかった。どこにどう飛べば最速でいられるかを理解した、無駄の無い動き。それに加え、魔眼と魔術による補正。生身でもそれなりの機動力を誇るだろう身体は、英霊並の速度を持っている。
 ──これ以上は考察のしようが無い。
 舌を打ち、再びアーチャーが駆ける。一歩で間合いに入り込み、二歩で踏み込みの体勢に入る。下段から斬り上げられた短剣を、志貴はスウェーで避ける。そこで、ようやく志貴の腕が動いた。アーチャーの右側に避けた志貴は、弓なりにしなった上半身をバネにして、心臓を突き刺そうと腕を突き出した。
 速く、正確な突き。だが甘いとばかりに腕を振り下ろし、ナイフを叩く。金属音が響いてナイフは腕ごと弾かれる。追い討ちの薙ぎを放つが、そこに志貴は居ない。無意識に動いた眼球が、背中に回ろうとする志貴を捉えていた。視界の下隅。あの前傾し過ぎた姿勢で、志貴が駆ける。
「──フン」
 右腕を再度打ち下ろし、志貴を追撃する。志貴のナイフは莫耶に吸い込まれるように動き、アーチャーの一撃を容易く受け流した。絶妙の力加減で、下手をすれば折れてしまいかねないナイフを防御に使う。
 志貴の目と目が合う。未来を視ようとする瞳がぎらついた輝きを見せて、刹那襲った悪寒に莫耶を振り回した。狙うのは急所。ランサーとの戦いならばいざ知れず、人間を相手どるならば受けに徹する必要は無い。首を狙い、手首を狙い、心臓を狙い、足を股間を、思いつく限りの急所めがけて干将は振るわれる。竜巻のような風を孕んだ猛攻を前に、回避を諦めた志貴が立ち止まり防御し始める。場が膠着する。響くのは落雷のような金属音。一撃ごとに衝撃が空中に伝播し、耳朶をゆする。互いに踏み込めず、退けない斬りあい。それこそが、アーチャーが整えた磐石の如き策。
 窓の向こう。黒い陽剣干将が飛来してくるのを感じ、アーチャーはほくそえむ。互いに動けない状況を作り出す事こそがアーチャーの狙い。ライダーの二刀を防いだ志貴を相手に、単純な打ち合いでは勝率は低い。故に、奇策で以ってこれを討つ。
 小さく細かく。志貴のナイフをも凌駕する速度で莫耶を振るいぬく。十の牽制の中に一の必殺を交え、落雷は最早雨のようだった。未来を視ようが動けない勢いと力で、志貴を圧倒する。志貴は的確に必殺を見抜く。否、全身全霊をかけて見抜く以外に手は無い。たった今校舎内に侵入してきた陽剣干将の姿も、志貴には見えているだろう。そして、それに貫かれる己も視えているはずだ。だが、視えていてもどうにもならないものがある。見捨てなければならないものがある。
 ──貴様はここで、己の命を見捨てる。
 志貴の表情は変わらない。だが焦りが透けて見える。ナイフに篭められていた殺意が薄れる。死をイメージさせる瞳から力が逸れている。つまり、志貴は結末を知った。貫かれ終わる己を知った。依然、表情は変わらない。そして、結末も変わらない。
「見えたか」
 呟く。剣戟は僅かにも弱めず、一撃一撃を必殺に替え、あわよくば志貴を殺すべく振り下ろす、振り上げる。
「聞こえたか」
 干将のその様は鎌鼬。空を切り裂き、莫耶を目指す。邪魔者は空気でさえ切り裂きながら飛ぶ。距離は一メートルと離れていない。アーチャーは猛然と仕掛ける。志貴はそれを防ぐ。一撃とて取りこぼせば即座に命を奪う攻撃を、志貴は決死に打ち返す。
 アーチャーの策が完遂される。ずぶ、と肉が引き裂かれる音がする。命が零れ落ちる音がする。背中から深紅の血液が噴水のように吹き上がり、志貴は盛大に吐血した。
 大きく揺らいだ志貴の体を見、最早死は免れないと悟ったアーチャーが莫耶を振り上げる。干将は尚深くめり込もうとしていた。それから逃れるための慈悲の行動だった。莫耶を振り下ろす。倒れる志貴の心臓を目掛けて突き落とされる莫耶。だがそれは、今までの猛攻に比べればひどく緩慢で薄らのろい攻撃だった。
 鋭い眼光。陽の下にあって輝きさえ見せるそれが、一際強く力を放った。
「遅い」
 その声に悪寒を感じたときには遅かった。志貴のナイフが爆薬推進でも得たかのような速度で伸びてくる。莫耶に吸い込まれるようにとび、そして通過していく。衝撃は無かった。志貴の腕は振りぬかれているのに、アーチャーの右手は何の感触も得ていなかった。莫耶を握る感触(.......)さえも、アーチャーの右腕には無かった。徒手空拳の体で、アーチャーは右腕を突き出していたのだ。
 志貴の左腕が動き、背中の何かを掴んだ。引き抜かれた黒い剣。それに志貴はナイフを突き立てる。それで、干将は死んだ。跡形も無く消え去り、その破片も残さず、この世界から消え去った。いったいそれは、どれほどの異常か。
 ──それが、どうした。
「見くびるなよ遠野志貴」
 アーチャーが駆ける。干将莫耶を振るう。二刀の攻撃は一刀のそれとは比較にならない速度だった。単純計算で二倍。そして、殺されようとも無限に生み出せる剣。それを、瀕死の重傷を負った人間如きが覆せる道理はない。
 それを悟ったのか志貴は六度打ち合うと距離を離す。一歩で十メートルも後退する離れ業をやってのけると、直後猪のような突進を見せる。ぼたぼたと血の足跡を作りながら突っ込んでくる志貴を、アーチャーは双剣で迎え撃った。突きの軌道を左手で逸らし、右手で逆に突く。だが堂々巡り。どうあってもアーチャーの剣は当たらず、心眼の前に志貴の攻撃も当たらない。
 渾身を篭めて放った一撃が、志貴のナイフに当たって消える。すぐさま次の莫耶を投影し、干将で牽制する。
 この状況に幸運があるとすれば、志貴と戦っているのが剣を生み出せるアーチャーであったということ。万が一、セイバーの剣さえ殺せるのであれば、彼女の敗北は必至だっただろう。ならば、己で良かった。目的を果たす前に、彼女に倒れられては意味がない。
 アーチャーは無表情にナイフを振る志貴を見据えた。
 察するに干将莫耶を消したのは魔眼の能力。だが、三度打ち、一度消される。故に、魔眼の能力は完全ではない。触れたもの、見たものを消すタイプのものではない。モノを消すためのトリガーがある。そのトリガーさえ引かれなければ、消されることはない。
 踏み込む。隙の少ない攻撃を重点的に繰り出し、志貴の反応を見る。しかし、志貴の挙動におかしなところはない。発動するのに何か唱えることも無ければ、体に変化も訪れない。
 焦れる。背中に大穴を開けた人間にここまで追いやられていることへの焦りと、底知れない能力への焦り。
 アーチャーは二刀を同時に振り下ろし、志貴のナイフを同時に弾く。そうして力の限りに後退した。そこに、ちょうど凛が居た。眼をまん丸に見開いて呆然としている凛の頭を軽く小突いて現実に引き戻す。
「アーチャ、あんた剣がたくさん消え……!!」
 志貴が駆け出した。アーチャーの左手には真紫の輝きを持つ弓。次第に魔力が固着し、干将と同じく光沢のないゴシックブラックに変化する。
「下がれ、生徒の命は保障できん」
 右手には青白い光を放つ矢。それを三本弓に番えると、アーチャーは息をつく間も無く弦を引いた。横に走る稲光。音も無く飛んだ矢は十。更にアーチャーは弦を引き続け、二十にも届く矢の雨は廊下いっぱいに展開しながら飛ぶ。逃げ場は無。後退して避けられる速度ではなく、真正面から受けられる数でもない。だが志貴は、己の進行方向にある矢のみにナイフを走らせた。一瞬その場で停止した矢は、切断されぽたぽたと地面に落ちた。
「うそ」
「凛。君もガンドで応戦しろ。手数は一つでも多いに越したことはない」
 アーチャーが矢を放ちながら叫ぶ。すぐさま頷いた凛が人差し指を突き出す。左前腕部に刻まれた魔術刻印が淡い蛍光色を伴いながら脈動し、魔力の式を組み上げた。空気を凍らせるほどの魔力の高鳴り。だが、それは志貴の放つ異常に相殺され、子犬の猛り程度にしか感じられない。
Fixierung,EileSalve(狙え、一斉射撃)――!」
 邪悪そのものの黒い弾丸がマシンガン掃射さながらに撃ち出される。先ほど志貴が消したガンドとは質の違う、最高級の殺意の権化。
 アーチャーの矢とあわせた総数は最早数え切れない。鼠の小躯であっても逃げ道など無い、魔術に侵され尽くした空間。黒と青の光が縦横無尽と飛び交うその様に消しきれないと悟ったのか、或いは何か奇策があるのか。志貴がナイフを見当違いの方向に振るう。それは教室の壁だった。
「何を──」
 凛が叫ぼうとした瞬間、二の句を告ぐまえに、志貴は教室の壁に体当たりを仕掛けた。壁が直線を無造作につないだような、歪な円形に切り取られ、型抜きの要領で倒れていく。常識外の方法で教室に逃げ込もうとしたその足に、ガンドが突き刺さる。ショックで体が硬直した瞬間、次いだ矢が逆の足の太ももに命中する。ぶちゅと肉の潰れる音がした直後、志貴が体勢を崩し、床に倒れこむ。太ももからは白骨が顔を覗かせていた。
「あ」
「……最早加減も無い。接近して殺されるなどと、笑い話にもならん」
「ちょ、アーチャー」
「凛。動いたら撃て。やつが教室に入れば厄介なことになる」
 言って、アーチャーが眼を閉じた。凛は釈然としない顔をしながらも、アーチャーの言葉に頷く。志貴の異常性をその眼で見れば、生かしておこうなどと考えられるわけもなかった。宝具クラスの武器をいとも容易く消した挙句、サーヴァントと対等以上の勝負をする人間。それは、最早人間などではないからだ。
 人間離れでは、サーヴァントには追いつかない。殺し合いにおける類稀なセンス。殺すことに長けた類稀な能力。そこに、キャスターという力が加わって、遠野志貴は英霊並の力を手に入れている。
 アーチャーの全身から魔力が吹き上がる。凛はそれを見て、とうとうアーチャーが本気なのだということを知った。
 恐らく、彼は宝具を使おうとしている。人間相手に、バカな話ではある。だが、笑えない。笑おうとも思わない。魔術師でもない人間一人を相手に、遠坂凛とアーチャーが苦戦を強いられたのだ。苦戦などという生易しいものではなかったかもしれない。一歩間違えれば死んでいた。だから、アーチャーは腹を括った。ならば凛もまた、覚悟を決めるときだ。
 志貴は動かない。ごうと空気が鳴った。アーチャーの左腕が掲げられる。
「──投影、開始(トレース・オン)
「え……?」
 驚きの声は果たしてその呪文に対してか、はたまた志貴の頭上に現れた無数の名剣に対してか。どちらでもいいと、アーチャーは断じた。アーチャーが瞳を開く、左腕で志貴を指差す。すると、天井から氷柱のように垂れ下がった十本の剣。それが、
「消えろ、遠野志貴」
 落雷のように落ちた。
 それは完膚なきまでに完璧な殺人だった。
 音が聞こえる。肉を裂き、骨の砕ける音。削岩機に人間をかければこんな音がするのだろう。人間の体を挽肉にしかねない最凶の暴力。凛は目を逸らしそうになる。その直撃を受けて無事で済むのは、人間はおろかサーヴァントでさえあり得ない。だが、それを見届けるのが遠坂凛の使命だ。生け捕りなど最初から望まない、時代錯誤の侍みたいな男。そいつは覚悟の果てに、こんな結末を迎えた。己のサーヴァントに裏切られ、それでも役割を果たしたのだから、遠坂凛はその死を見届けなければならない。
「とんでもないヤツ……」
 立ち上る土煙は、床を砕いた剣が生み出したものだ。濛々と立ち上る煙。その中に鮮やかな朱色が混ざっているように見えるのは気のせいではない。血煙。夫婦剣の直撃でその大部分を失ったと思わせておきながら、真っ赤な鮮血は飽きることなく吹き上がる。
 土煙が徐々に晴れていく。真っ赤な血が床を伝ってくる。じわじわと広がってくる血を見て、映画でも見ているようだと場違いな感想を得た。
 ふと耳を澄ますと、ぴちゃんぴちゃんという音がしていた。吹き上がった鮮血が天井から滴っているのか。その光景を思い浮かべ、忸怩たる思いで志貴が開けた大穴を見つめた凛は、あり得ない方向から音がしていることに気付く。背後。アーチャーと凛の背後で、血の滴る音がする。
 アーチャーは既に振り向いていた。凛も背後を見た。外壁が真円に刳り貫かれていた。歪ではなく真円に。その抜き型が床に無造作に落ちている。その上に、遠野志貴が立っていた。満身創痍の体に血で染まっていないところなど無かった。髪も服も腕も足もどこもかしこも深紅、あるいはどす黒く染めて、志貴は片足だけに体重を乗せて立っていた。右足は潰れていた。左腕もだらしなくぶら下がっている。
「そう、か」


"I am the bone of my sword."
 耳元でアーチャーが呟いた。
"Steel is my body,and fire is my blood."
 空気が変化していった。
"I have created over a thousand blades."
 己の存在が希薄になり、世界から乖離していく。
"Unknown to Death.Nor known to Life."
 圧縮され凝縮され行き場を失った大気がどこかへ流れていく。
"Have withstood pain to create many weapons."
 例えばソレは別の世界──。
"Yet,those hands will never hold anything."
 志貴は何かを感じ取ったように走り出した。異常は更なる異常を呼び、相乗効果で高まり尽くした魔力が炎となって地面を焼いた。
 だが凛には最早そんなことはどうでもよかった。その呪文があまりにも悲しくて、あまりにも切なくて。最高位の魔術を行使しようとする皮肉屋のサーヴァントに、ある人物の影が重なって……。
"So as I pray──"
「エミヤ……くん」
 頬を伝う涙は何なのか。地を走る炎が焼くものは何なのか。そしてなにより、
「unlimited blade works.
 その声を聞いているのが何よりも辛かった。
 赤銅に世界が変質していく。そこだけ世界を塗り替えるように、下書きの上にまるで違う絵画を塗りたくるように。炎が走ったその内部だけが、荒れ果てた荒野に成り代わる。
 遠く空で動く巨大な歯車。燃え盛る幻視の炎。その姿はさながら製鉄所。荒れ果てた土地に突如現れた製鉄所。大地に刺さるのは無数の剣だ。古今東西あらゆる名剣を作り上げては地面に突き刺さっていく。ただそれだけの空間。そこに存在を許されたのは、この世界の主と、遠坂凛。そして、呆然と足を止めた遠野志貴だった。
「固有結界……」
 凛もまた呆然の体で呟いた。アーチャーは閉じていた瞳を開け、背後で足を止めた志貴に向き直る。
「驚かされるばかりだよ。本当に」
 アーチャーはおどけるように言って、それから舌を打った。心底忌々しげに、遠野志貴に向けて殺意を剥き出しにする。
「イレギュラー中のイレギュラーだ」
「あんた、アーチャーじゃなかったの」
「私はアーチャーだよ。生前、ほんの少し魔術を齧っただけの、魔術師ではあったが」
「何が……ほんの少し。固有結界なんて、大魔術じゃない」
 アーチャーの左腕がゆっくりと掲げられる。志貴は相変わらずナイフを構えている。あれだけ縦横無尽に駆け回った志貴が、凛には小さく見えた。これだけ広い空間を前にすると、あの志貴が猛獣の前の兎でしかなかった。最早志貴には、脱兎のごとく逃げ出すしか術がない。しかし、このアーチャーの世界には、その逃げ場さえない。校舎の中にはいくらでもあった遮蔽物も、一面の荒野には存在しない。詰み。まさしくその通りだった。
「ハ──」
 だが志貴は笑う。絶体絶命の窮地に何を思うのか。自嘲めいた微笑は静まり返った世界で場違いに響き渡る。
「無様」
 それを己を卑下する言葉だとは思わなかった。高みを目指す引き金。小さな自嘲に篭められた万感の思い。ただ薄ら寒い笑みに身を震わせて、凛はアーチャーを窺う。既に平静を取り戻したアーチャーは、左手を掲げたまま微動だにせず志貴を見つめていた。
「モノを殺す魔眼……か」
 何かを惜しむような声色でアーチャーが言った。同時に、志貴が飛ぶ。一直線に、間合いを詰めるべく飛んでくる。だが、片足が潰れていては速度は半減どころではなかった。もとより、既に生きていられる傷ではなかった。この広大な世界も影響しているのだろうが、それは容易く捉えられる速度だった。
 アーチャーの左腕がゆっくりと下げられる。代わりにその両手に握られたのは夫婦剣だった。音も無くアーチャーが消え。決着となった。
 突きを避けられ、その胸を十字に切り裂かれた志貴が倒れ伏すのを見届けた凛は、目を閉じた。
「あんただって、甘いじゃない」
 そう強がりを吐いて、震える腕を掻き抱いた。
 それは遅れて襲ってきた恐怖だった。



***



 目を覚まして、磔になった己の無様を嘲笑う。自由が利くのは僅かに首から上だけ。両手両足を彼の偉人の如く張り付けられ、足元は不気味な魔法陣で囲まれていた。
「……なんてこった……骨、出てる」
 五臓六腑には生命力の欠片も感じず、筋肉はだらしなく弛緩し、骨はところどころが砕けている。左腕に感覚は無い。右脚にも感覚が無い。穴でも空いているのか、腹が冷える。鋭い痛みに顔をしかめながら、なによりも眼鏡が無いことに大きな焦りを感じた。
 自由の利かない腕を揺すってみるが、五寸釘を指先に突き刺されるような痛みが走るだけ。視界を遮るためには目を閉じるしかなかった。
 心臓の鼓動にあわせて全身を駆け抜ける痛みを堪えながら、志貴はぼうと呆けてみる。お気に入りのジャケットも、買い換えようと思っていたスニーカーも、みんな台無しになった。剣に突き刺され、黒い弾丸で打ちぬかれ、無事な生地を探す方が難しい状況のジャケット。自分の血でぐしゃぐしゃになったスニーカー。ソックスは血が凝固してガチガチに固まっていた。
「それより、骨」
 左腕と、右太ももから白骨が顔を覗かせている。道理で感覚が無いわけだと納得して、その傷口を見下ろしてみる。太い骨が、大腿部から真っ直ぐに突き出していた。恐らく砕けた骨の欠片なのだろうが、この怪我ではもう歩くこともできない。
「……負けた」
 ただ本能に任せて戦って、それで負けた。そも、遠野志貴が殺し合いをするなら、相手に姿を見られないことが前提だったのだ。だというのに、それに気付いたときには既に体はこの様だった。打ちぬかれた足を捨て、片足で二人の背後に回った。だが、出血はとうに許容量を超え、十本の剣が降って来たときには、殺し切れなかった八本の剣によって内臓にまで至る大怪我をしている。右腕と踏み込みの左足だけを死守したが、限界は超えていた。加えて、変質した世界。アーチャーの力が数倍にも膨れ上がる恐怖。今生きているのは病床の妹から吸い取っている生命力の加護に過ぎない。
「まだ、オマエに迷惑掛けてる」
 妹を救うために妹を犠牲にしているジレンマ。己の命一つ絶てば救えるかもしれないのに、それに賭けられない無様。
 忸怩たる思いで項垂れると、ふと足音が聞こえた。咄嗟に身構えようとしたが、囚われの体はズキンと大きな痛みを訴えるのみで、まるで動こうとしなかった。だが目は開く必要が無かった。目を閉じていても感じる気配。あまりにも高貴な、自分と対極の気配。
「起きたか」
 ──セイバー。
 噛み締めるように最強の称号を口にして、志貴は小さく息を吐いた。
「ああ、起きた。ここどこかな」
「凛の邸宅だ。しかし、よく生きていられるものだ」
 言いながら、セイバーが近づいてくる気配。目を閉じたままに身を竦ませて、何が起きても驚かない覚悟を決める。
「魔眼殺しか。凛が驚いていたほどのつくりだ。まさか貴様の創作ではないだろう?」
 だが、意に反してセイバーの剣戟は訪れなかった。代わりに、耳にかけられる慣れ親しんだ感触。志貴は思わず目を開いてメガネを確認する。視界からはツギハギが消え、正常な光景に戻っている。だが、安堵のため息をつくより先に、眼前で睨み付けてくる見知らぬ少女に面食らった。
「貴様、何を見ている」
 セイバーは凛や、教室で昏倒していた生徒達と同じ制服を着付けていた。佇まいは深窓のお嬢様といった風情であり、鎧甲冑の厳しい少女を想像していた志貴は、目を見開いて上から下からその姿を確認する。
「そうしてると、かわいいもんだ」
 己の言動に非を見取ったときにはもう遅かった。首筋に「何か」が突きつけられていた。恐らくはセイバーの獲物。だが、姿が見えなかった。セイバーというからには剣なのだろうと想像するのだが、その切っ先から柄まで、僅かたりとも姿が見えない。
 だがセイバーは確かに踏み込んで、志貴に剣を突きつけたのだ。
 傍目に見ればセイバーは徒手空拳の眼光のみで志貴を威圧しているように見えるのだろうが、頚動脈を圧迫するのは間違いなく殺意の塊だ。
「あまり、調子に乗るな。私は今すぐにでも貴様を──!」
 セイバーの瞳に明瞭な殺意が宿る。美しい緑色の瞳に闘気と殺気が入り混じり、美しく輝く。死の暗示を真っ向から見据えながら、志貴は無表情に口を開いた。
「……今、何時」
「──夕食時だ」
 腹はすいていない。
「で、俺は殺されないのかな」
「令呪を使い切れば殺さないと。使わなければ私が腕を切り落とすことになるだろう」
 顔をしかめる。とっくに襤褸切れのようになった左腕なら切り落とされても痛みさえ感じないだろうが、腕を失うのは大きな痛手だ。
「セイバー。その辺にしてくれないか。お前が悪役みたいで、その口調は好きじゃない」
「シロウ……」
 セイバーが突きつけていた剣を納めながら振り返る。制服姿の衛宮士郎が立っていた。
「遠坂が新しい服くれるってさ。俺、そいつと話があるからちょっと外してくれるか」
「一人では危険ですシロウ」
「遠坂の魔法陣で捕えられてるんだ。大丈夫だろ。それに、アイツも見てるみたいだし」
 言って、士郎は部屋を見回した。『アイツ』を探しているようだった。セイバーは部屋の一点をにらみながら、項垂れた。
「……アーチャーとて、私は信用できない」
 セイバーが俯く。
「心外だな。そこまで言われては、私もそいつに手を出さないと約束せざるを得ない。何せ、協力関係とやらにあるらしいからな」
 くつくつという嘲笑が聞こえたかと思うと、部屋の片隅に現れたのはアーチャーだった。赤い外套を纏った、白髪の騎士。大仰な仕草で腕を組むと、アーチャーは背中を壁に預けた。
「それより遠野志貴」
 アーチャーが目を閉じたままくつくつと笑った。
「貴様、令呪はどうした?」
 くつくつ、くつくつ。いやらしい笑いが薄暗い部屋に響く。意味を図りかねた志貴が首を傾げると、訝しんだセイバーが志貴の左腕を強く握り、手の甲を穴が空くほどに見つめる。
 感覚が無くなった腕は痛みも伝えなかったが、飛び出した骨がギチと動くのを感じて、顔をしかめる。
「裏切りの魔女……か」
 再びアーチャーが笑って、志貴はようやくセイバーが握る己の腕を見た。だらりとぶら下がる手首を窺い、違和感に気付いた。
 血の気が失せていく。何故もっと早く気付かなかったのかと焦りを覚える。この数日常に感じていた繋がり。それが消え失せていることに何故気付かなかったのか。
「令呪が──」
 無い。
「キャスター……?」
「哀れなものだな」
 裏切り。頭に浮かんだ言葉を慌てて拭い去る。そんなはずは無い。だが、言い切れるのか。前マスターを殺したというキャスター。己の思い通りに動かない志貴に腹を立てたとしてもおかしくはない。だが志貴は別の可能性を脳裏に過ぎらせた。令呪が消える理由はもう一つある。
「キャス……タ」
 彼女の、死。




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