Hunting High and Low.



 頭痛だ。目覚めたばかりの頭を何度か小突いてその現実を受け入れると、志貴は部屋に備え付けられた日めくりカレンダーを見つめる。2/6(水)。日付の感覚までおかしくなっている。記憶の最後は日曜日だ。金髪の少女と出会い、死ぬ思いで逃げ帰って、キャスターに叩かれた。だがその後二日間はどうだったろうか。
「だめだ、思い出せない……」
 丸二日記憶が消失している。懸命に記憶を弄って、たった一日前の出来事を思い出そうとする。まずは簡単なところからだ。朝食はなんだった。脳味噌を回転させる。やがて浮かんできたのは焼き魚。橙色の身が美しい鮭だ。
 では、朝食をとったあとはどうしたのだろう。再び記憶を弄る。だが、そこから先はどうやっても思い出せない。靄がかった記憶とか、生易しいものではなかった。ナイフで記憶の線を切られたような、人為的なものが、そこには感じられた。
 気だるく重い体を引きずり、座敷へ向かう。そこにはすでに僧たちが揃っていた。だが席にはぽつぽつと空きがある。柳洞寺にやってきてそれなりになるが、初めてのことだった。朝は全員揃って朝食を始めるのが常だったからだ。そこに欠員が出ることなどなかったし、住職である一成の父は、そういったことに対して非常に厳格な性格だった。
「おはようございます」
 頭を下げて座ると、隣に座った一成が「おはようございます志貴さん」と力ない挨拶をした。
「顔色が良くないけど、風邪?」
「ふむ、昨日も聞かれましたが、志貴さんこそ平気ですか。俺は熱でもあるらしくて。眠れば疲れるし、その疲れを取ろうと思ってさらに寝るんですけど、悪循環そのもので」
 ──昨日も、ということは俺が三日間昏睡していたわけではなく、俺が記憶を失っているだけか。
 一成は大きな欠伸を垂れた。「失礼」
「不眠症か何か?」
「いえ……俺一人ならそういうことになるんでしょうが」
 一成の視線を辿り、絶句する。見渡せば、着席している僧たちは誰一人口を開かずに黙々と食事を続けている。それは異様な光景だった。50からなる人々が、誰とも目を合わせず、ただ手元の食べ物を口に運び、咀嚼し、嚥下する。瞳は曇りガラスのくすんだ輝きで、まるでぜんまい仕掛けの人形だった。人形の方がまだ表情があるかもしれない。ただそれだけしかできないとばかりに、延々とその作業を繰り返す。そこに、あるものを見つけた。誰かに生きることを強要される。行動を制約される。いつだったか、妹に血を与え続けた自分のヴィジョン。
 吐き気を催した。いつもより大雑把な食事を、口に運ぶことが躊躇われた。そうしたら自分も彼らの仲間入りしてしまう恐怖を感じた。
「志貴さんも具合が悪そうですよ」
「ああ、頭痛がね、するんだ」
 自嘲気味に笑って、志貴は何気なく眼鏡を外した。手で顔を覆い、蒼く変貌しているだろう瞳を隠しながら今にも倒れそうな僧たちを視た。予想通りの光景が広がっていた。誰にでもある死の線。突けば全ての物理法則を忘れて「死ぬ」線。それが、常人よりも遥かに色濃く浮かび上がる体を、僧たちは懸命に動かしていた。
 ふと平静を装う葛木宗一郎を視界に見とめて、志貴は僅かに眉根を寄せた。何故平然としているのか。恐らくこの中で最も苦しいのは葛木宗一郎だ。太く、濃い線が腕といわず顔といわず全身に走っていた。更に異常なのは、それらの中心に黒々と穿たれた点があるということだ。まるで、死の線という支流の根源──即ち本流のように存在するそれ。まるでブラックホールだと、志貴は目を疑う。そして猛烈な痛みを目に覚える。死を理解したはずの体が拒否反応を起こすほどの怪異、異常。反射的に眼鏡を掛けなおす。
「なんだ……今の」
 あれならば、ナイフを使うまでもない。指でさえ殺せるのではないだろうかと、ぞっとしない感想を飲み込んだ志貴は、ついでに味噌汁を勢いよく飲み干した。
 いや……あれには覚えがある。シキを殺そうとしたとき。ヤツの胸の脇にあった点。それだ。
「ん、案外に元気ですね」
「空元気ってやつだよ」
 一成の無理やりの笑顔に付き合うと、脊髄のあたりで鳴っていた警鐘が収まる。志貴は愁眉を開いた。
 朝食を終え、学校に向かう一成と葛木を見送る。
「キャスター」
 背後のキャスターに声をかけて、ギッと歯を噛み締めた。
「今日は学校に行く。これ以上は、耐えられない」
 キャスターは答えなかった。



***



 果たして訪れた学舎に、人の気配などなかった。あるのは人だったものの胡乱な息遣いと、その中に紛れ込んだ魔獣一匹。遅れたことを後悔する時間も惜しい。事は既に起こっている。
 散々に撒き散らされた腐臭。肉を焼き、骨を溶かす瘴気。しかしそれが外に漏れ出すことはない。紅蓮赤々の結界は校庭を、校舎を、敷地全てを包み隠していた。傍目には粛々と、しかし獰猛な牙を体内で振るっている。その様はさながら肉食と化した大鯨か。
 泰然と佇む風情でいながら、志貴は大きな焦りを内心に感じていた。校門から向こうに一歩も踏み出せないほどの恐怖。筋肉は弛緩しているのかはたまた凝固しているのか。兎角一ミリたりとも動こうとしない。
「入っても平気かキャスター」
 言ってから、志貴は後悔した。不様だ。ここに来て怖気づくなど間抜けにも程がある。
「平気よ。この程度の結界──」
 平然と答えようとするキャスターの言葉をさえぎるように、硬く握り締めた拳を自分の頬に叩き込む。想像よりもはるかに強い衝撃に面食らいながら、しかしすっきりと目が覚めた自分を確認すると、眼鏡を外した。
 瞬間、ぐらりと世界が歪んだ。
 それは間違いなく濁流だった。目玉にナイフを突き刺され、上下左右に押し開いたあと、出来上がった穴に泥水を注ぎ込まれる感覚。蹂躙され、陵辱され、暴虐の限りを眼球に尽くされる。引き抜かれ、踏み潰され、ぐりぐりと押し付けられるナイフの痛みは言うに及ばず、流し込まれる濁流に混じった恐怖の発露。曰く、助けてくれと。心根から叫ぶ数十、数百の喚き声。
 それが、この先に潜む惨事のあらまし。志貴は発狂寸前で目を一際強く見開いた。余計なものを視てはいけない。視るのは死だけで十分だ。それだってとんでもない苦痛だというのに、他人の恐怖まで共有していられるか。
「何をしているの?」
「なんでもないよ」
 平然と一歩を踏み出す。赤い皮膜の中に体を潜り込ませる。鮮烈な赤が視界を染めた。途端襲った吐き気は、キャスターが手をかざすと消えうせた。この中で、自分は生きていられる。その事実が、ひどく嬉しかった。
 校庭を一息で走りぬけ、昇降口から校舎に駆け込む。異常は更なる異常と悪臭をもたらし、志貴は嘔吐感に堪えながら、手近な教室の扉を開け放った。最初からそういうものだと理解していた上に、今の志貴には真っ黒の塊にしか見えないことが幸いした。その分頭痛は酷くなる一方だが、こんなものを直視するよりは、そのほうがよっぽど良いと思える。
 一面に横たわる人人人。仰臥するのはいずれも同じ制服を着込んだ学生。だというのにその有様はまるで化け物だ。死に覆い尽くされ、漆黒に塗り固められた肢体。ピクピクと細かく痙攣するものが居るのなら、微塵も動かず死を享受しようとするものもある。
 死体の海。その表現が最もしっくりくる。まだ死者は居ない。だが志貴に視界に映るそれらは間違いなく死人であり、あと数時間もすれば事実になるだろう。
 ──そう理解しようとした。そう考えるべきだとわかっていた。彼等のどこに、こうなるべき非があったのか。或いは死ぬべきであるような人間もいたかもしれない。だが今このとき、ここでたかが奴隷(サーヴァント)の糧になるべく生まれてきた人間など、居るはずがない──。と、こう考えてしまえば、自分は怒りで何もかもを見失うとわかっていた。だから志貴は努めて平静に振舞う。
「落ち着きなさい」
 この惨状に臆したのか、キャスターの声が震えている。
「落ち着いてる」
 底冷えのする声で返して、志貴は踵を返した。教室を出ると右手はナイフを握っていた。左手は血が滲むほど握り締められていた。最後に振り返った教室の片隅では、柳洞一成らしき闇が仰臥していた。ピクリとも動かない。しかし冷静だった。教室で倒れていたのは男子十七名女子十六名。そして、教師一人。三十四名中十二名の肌はぐじゅぐじゅと音を立てて爛れて、まるで出来の悪いプリン。そこまで確認して、物音に気付いて意識をカットする。いくつか上の階からたんたんと走る音が聞こえる。
「……二体居るわよ、サーヴァントが」
 キャスターの声を無視して、廊下を走り、階段を駆け上がる。僅かな足音も立てず、僅かな気配すら探らせず、志貴は影になって走る。赤い廊下。赤い窓。赤い天蓋。その中で黒い影は、ひどく浮いていた(・・・・・)
 階段を二つ駆け上ったところで、新たな気配が真上に現れた。
「……上……?」
 まるで道化じみている。あまりにも唐突なそいつの出現に際して、志貴が思ったのはそんなことだった。あろうことか天井をすり抜けてくるなんて馬鹿げた芸当を、そいつ自身も皮肉げに自嘲している。
「志貴、跳びなさい」
「必要ない」
 ナイフを突き出し、女が振り下ろした巨大な釘のような短剣を打ち払う。女──何らかのサーヴァントは窓ガラスを蹴り、数メートル後退して着地した。
 薄紫色の髪に、露出度の高い身なり。目を覆い隠した大きな眼帯は、あまりにも不気味だった。
「……鼠風情がなかなかやるようですね。何の用です」
 片膝をついて着地したサーヴァントは、ゆっくりと余裕の体で立ち上がる。女性にしては高い身長は、その黒い衣服との相乗効果で、志貴を押し潰さんと威圧していた。
「この結界はお前か?」
「そうなります。まだ十分ではないので情けない限りですが、私が展開したものです」
「今すぐこの結界を解け」
 だがこの程度、あの少女に比べれば──いや、比べようも無い。アレは別格だ。だから、先に少女と出会っていた幸運に感謝した。そして生き帰れた自分の悪運の強さに辟易した。
「出来ない相談です」
「……だと思った」
 いつになく好戦的な自分を感じていた。余りにも頭にきて、メーターが一周してしまったのか。普段ならば考えられないようなことを、志貴は頭の中で妄想していた。
 目の前の、サーヴァントとはいえ美しい肢体。露出した胸元。腰のくびれから艶かしい曲線を描く臀部を視界に納め、更にタイトスカートから覗く柔らかな大腿を嘗め回すように見つめる。あまりにも白い。あまりにも美しい。眼帯の下の素顔もさぞ素晴らしいだろうと夢想すると、それだけで果ててしまいそうなほどの官能がつま先から脳髄までを焼いた。
 白い肌にナイフを突き立て、溢れ出す鮮血で新雪の肌を赤く赤く染め上げてしまいたい。お前が引き起こしたこの惨事とまったく同じ色に染め上げて、断末魔の悲鳴をこの耳に聞きとめたい。

 とにかく頭がぼうっとして──

「志貴? 何をバカな。戦うつもりですか」

 気持ちが良い。

 左足に重心を置き、体を折りたたむ。力いっぱい地面を蹴りつけて、十メートルも彼方に居る女サーヴァントに斬りつける。体が軽いのはキャスターが魔術でも掛けたからか、或いは──。
 順手で握ったナイフを思い切り突き出す。サーヴァントは構えるまでも無いという風に、だらんと腕を垂らした格好でいる。果たして右肩を狙った突きはサーヴァントの右釘で弾かれ、逆に志貴の心臓を狙って短剣が疾走した。上半身を捻ってそれを避けると、志貴は三歩下がる。
「驚いた。後ろのサーヴァントはキャスターですか。素晴らしい強化魔術だ。しかし今の動き、いくら強化を受けようとただの魔術師にできるものではない」
「有り難う。で、オマエ、何のサーヴァントだ」
 驚きの面持ちで立つライダーに志貴が訊ねる。
「ライダー。貴方は」
「志貴」
 直立不動だった体を豹のように前傾させ、女──ライダーは満足気に頷いた。
「ではシキ。貴方を殺します」
 目に見えるほどの赤い殺意が渦になって、ライダーを取り囲む。それがライダーの性能。直感にも似た一瞬の出来事だが、それで彼我戦力差を計るには十分だった。そして、彼女には然したる脅威を感じ得ない。
 獲物の射程も同じなら、機動力もそう変わらない。どんぐりの背比べだ。結界の展開に力を注いでいるためだろうが、これを好機といわずに何を好機とするのか。順手から逆手に握りなおしたナイフを顔の前にかざし、志貴は対抗するように構えた。
「おどきなさい、志貴」
 キャスターの言葉に応えるように前傾し、地面に鼻を擦るように疾走する。背中を通過する魔力の塊を知覚すると地面を蹴り、壁を蹴り、志貴はライダーに肉薄した。



***



 急いで階段を上り、廊下に出て、その光景に腰を抜かしそうになった。最初の疑問は、ライダーは何のサーヴァントと戦っているのだろうというものだった。獲物はナイフ。年齢は自分とそう変わらない。しかしその服装は、普段自分たちが身に着けるものと同じ──つまり、甲冑をはめているわけでも、情婦の如き露出をしているわけでもない。現代の若者らしい格好で、そいつはライダーと互角に渡り合っていた。
「サーヴァント……なのか、あれが」
 慎二のイメージとはかけ離れた光景だった。英霊というからには、伝説に出てくるような連中ばかりを想像していた。事実として間桐慎二が使っているサーヴァントはメデューサという怪物であり、伝説上の存在だ。だがあれは、あまりに自分と近すぎはしないか──。
 スニーカーを履いて、ジーンズを履いて、その上コートまで羽織っているそいつが、本当にサーヴァントなのか?
「ライダー何やってるんだおまえ! 早くそいつを殺せ!」
 ただわかるのは、あいつには英霊としての気質も、素質も何もないということ。口元に貼り付けた薄笑いは語り継がれるべき者のものではない。あれは犯罪者の表情だ。自分が妹を陵辱するときの表情だ。だがその動きだけは、サーヴァントじみていた。喩えるとしたらアサシンか。地面を蹴ったと思えば壁に張り付き、次の瞬間にはライダーの背後から刺突を繰り出す。動きはあまりにも滑らかだ。だからそれが、到底人間業ではないと、慎二は理解していた。
「シンジ……出てきてはいけません。キャスターが潜んでいます」
 男の突きを二本の短剣で捌きながらライダーが焦った声を出したが、慎二には最初からその気はない。あんな馬鹿げた戦いに自分から飛び込むなど、正気の沙汰ではない。だが、背後から迫る目障りなあいつらのことを考えれば、いつまでも階段の影に隠れているというわけにもいかないのが現状だった。
「追われてるんだ。セイバーと衛宮。それと遠坂に!」
 形振り構わずに叫んで、階段から飛び出す。廊下を走って手近な教室に駆け込んだ。
「追うなキャスター」の声を背中に聞きながら扉を閉め、足に当たった名前も知らない生徒の腕を蹴りつける。気が立っていた、なんで僕が追いかけられなきゃいけない。苛立ちを紛らわすためにもう一度その生徒の頭を蹴り付けようとして、ひんやりとした感覚が背筋を撫でた。
「こんにちは。ライダーのマスター」
「──え?」
 振り返れなかった。動けば死ぬ。背中に当てられた掌が、氷のように冷たい声とは裏腹、饒舌に語っていた。
「わかってるじゃない。聞き分けのいい子は嫌いじゃなくてよ」
「な、何の用だよ」
 自分で訊ねてバカだと思った。サーヴァントがマスターに近付く理由はただ一つだ。殺す。それ以外に何があるはずもない。
 体中の栓が一気に緩んでいく。下腹部に集中したそれが決壊する前に、なんとかそんな不様だけは晒すまいと歯を食いしばったとき、
「逃げます、シンジ!」
「慎二ィ!」
 二つの聞き慣れた怒声と共に、教室の扉と壁が蹴破られた。



***



 血沸き肉踊る。そんな興奮はどこにも無かった。あるのはただ標的を解体してしまいたいと願う心だけで、殺し合いに対する感慨など何一つとしてない。
 一時的にでも昂ぶった感情はいまや冷え切っている。明鏡止水に到達したのかと思うほど粛々とした感覚の中で、ライダーの黒い閃光だけが残像を伴って走っていた。
 視界から消えたかと思えば背後から襲ってくるという戦法は、彼女の圧倒的速度あってのものだったが、志貴の研ぎ澄まされた五感はしっかりとライダーの一挙一動に反応していた。背後からの突きを曲芸じみた跳躍で避け、逆に彼女の脳天を打ち貫かんとナイフを突き出す。
「先ほどから無口ですね」
 右に聞こえた声に反応すると、背後でじゃらんと鎖の鳴る音が聞こえた。
「悦びを感じているようにさえ見える」
 次は頭上。三度の攻撃を全て弾きながら、志貴は眉を吊り上げた。不愉快だった。
 志貴が風ならば、ライダーは砂漠のようなものだった。どれだけの強風が吹こうとも、変幻自在に姿をかえる砂。互いの掠り傷は既に十を数えるが、打てども打てども致命傷に至らない。まるでいたちごっこのような殺し合い。ライダーにしろ同じ感想なのか、挑発という安っぽい手段に出たのは焦りの表われだった。
 つい今しがた教室に駆け込んだライダーのマスターは、まるで殺し合いというものを理解していない。無粋な乱入者とでも言おうか。とにかくつまらない。しかしそれでもマスターであることには違いないようで、ライダーは少年が現れてから目に見えて動きが悪くなった。キャスターがあとを追ったこともそれに拍車を掛けている。
 焦りや不安。何故そんなものを英霊に与えるのか不思議で仕方が無かった。聖杯戦争を勝ち残るという目的で召喚するのに、彼らには確固たる自我がある。それは明らかに余計だった。或いは設計者──神の暇つぶしなのだろうか。
 自我があるために、キャスターのようにマスターを裏切るサーヴァントもいれば、ランサーのように戦うことに至上の喜びを感じるサーヴァントもいる。そして自我があるために、些事に気を取られて殺すべき相手さえ見失うという愚を冒す。それは間抜けだ。興ざめでもある。

 だから──

「失望させるな」

 (バラ)
 ナイフを一際細かく刻む。死の線をなぞらせてもらえるほどに甘い相手ではない。ならば手数で圧倒する。
 本来五秒かかる斬撃、刺突を一秒で繰り出す。その数十七。体が覚えている動きだけを、脳味噌を解介させずにただただ摸倣(トレース)する。イメージ下でしか行えないはずの動きは魔術によって容易く可能になり、閃光のような攻撃を三十四、五十一と打ち穿つ。
 鬼気迫る連撃に臆したのか、ライダーが焦りの渋面を向ける。気付けばとっくに結界は解除されている。最大出力で臨む志貴に、ライダーもまた生半の覚悟を改めたらしい。
 纏う闘気は黒く気高く。今までと比較にならない威圧感が巻き上がる。両の手に構えた短剣捌きも飛躍的に能率化し、志貴の一刀を、遥かに上回る立ち回りで捌いた。だが一度攻勢に入った勢いを殺しきることはできず、後退を余儀なくされる。いや、そうなるように仕組んでいるだけか。気付けばライダーと志貴はキャスターとライダーのマスターが対峙しているだろう教室の前まで移動していた。そこが磐石。一際強く志貴のナイフを弾いた両手が眼帯の前で交差される。
自己封印(ブレーカー)──む」
 まずいと思った瞬間、ライダーの動きが止まった。
「──時間切れです」
 瞬時に踵を返したライダーの視線を追って、それを見つけてしまった。予想外の出来事だった。恐怖がよみがえる。死を覚悟させるほどの恐怖。揺れる金髪。怒りにゆがめられた瞳。逆立った柳眉。見間違えるわけも無い。そいつは死神だ。少女の姿をした冷酷なマーダーだ。
「クッ!」
 校舎に入ってからずっと頭の中で囁いていた何かが、成仏するように消え去っていく。『助けてくれ』と囁いていた何十何百という情念、或いは怨念が根こそぎに浄化されていくような錯覚を覚えた。
 ライダーは手を止めた志貴に攻撃することなく飛んで、教室の壁に大穴をあけると、その中に飛び込んでいく。
「慎二ィ!」
 それと同時に、もう二つの影が教室に飛び込んでいく。それを追う余裕はない。何故なら眼前には粛然と佇む少女。美しい。なんて美しい。数秒前ならそう感じただろうか。だが今は、魔法の解けたシンデレラの面持ちで、不様に逃げ帰る策しかこの身には残されていない。
 魔法が解けた。その表現は適切だ。彼女という洗練された聖気を前に、遠野志貴に宿っていた矮小な悪など消し飛んだ。戦意も、害意も、結界の主に対する殺意も、全てが根こそぎ奪われたような錯覚。
「また遭ったな、キャスターのマスター」
 鈴が鳴るような愛らしい声は、しかし壮絶な殺意に彩られている。
「やっぱり、サーヴァントだったってワケか」
「私はセイバーのサーヴァント。先ほどのライダーとの戦いは非常に興味深いが……貴方は危険だ。だからキャスターには消えてもらう」
 まるで仇敵を見る目だった。痛い腹もないというのに居た堪れなくなって俯く。その隙にセイバーはライダーが開けた穴に飛び込んでいた。
「あ──クソ」
 慌てて後を追って、三人と相対していたキャスターの横に立つ。
「ライダーは?」
「逃げて行ったわ。よく無事だったわね」
「向こうだって深い傷は一つもないい」
 一体どんな芸当で俺はあの攻防を繰り広げたのか。まるで実感の沸かない感触を手のひらのナイフと共に握り締めて、志貴は立ちふさがる三人を順に見た。制服姿の男女二人に、甲冑の少女。男子生徒は先日弓道場で遭遇した衛宮士郎。甲冑の少女は想像通りセイバーのサーヴァント。あの結界の中無事なところを見れば、もう一人の少女も聖杯戦争の関係者だろう。
 その少女を窺う。少女は鋭く抉る視線を向けてきた。その顎が震えているのは、あまりの出来事に対する恐れだろうか。
「あんたが……街の人を……」
 だが、少女は意味のわからないことを言った。俺が? 街の人を──なんだ?
「待ちなさい小娘!」
 激しく猛ったキャスターが手のひらを少女に向ける、途端に空気が凍結し、セイバーと衛宮士郎が一歩前に出る。まずいと直感的に悟った。キャスターが撃てば少女は死ぬだろう。だがそのコンマ一秒後には自分が紙切れのように分断されて死ぬ。
「よせキャスター。殺す気かおまえ」
「殺さなければ、何をしてもいいってワケ……」
 慌てて叫んだ制止の声を、少女は嘲笑うように鼻で笑った。泣いているのかもしれない。とにかく自分の与り知らぬ所で少女の怒りを買ったことは間違いないらしい。勘違いであってくれと願うが、隣で怒りか恐れに打ち震えるキャスターを見れば、心当たりがあるらしいことはわかった。
「文句は無いわよね、もちろん。────アーチャー」
 少女の背後で空間が揺らいだ。頭蓋骨に響く音をたてて、その歪みは人形(ひとがた)を創り上げる。やがて赤を基調にした体躯が現れ、長身の男の輪郭を模って実体化した。屈強な赤い騎士。サーヴァント・アーチャー。
「ふん、哀れなものだな。その面では知らぬのだろう」
 赤い外套に浅黒い肌。白髪をオールバックに撫で付けた英雄は、現れるやそう言って口端を吊り上げた。
「何故自分が二人ものサーヴァントに殺されようとしているのか」
「アーチャーこの場は任せます。私はライダーを追う」
 セイバーは涼しい顔でアーチャーに言う。
「私は構わんが、いいのか凛」
「ええ、この程度の相手……あなたなら軽く捻り潰せるでしょ」
「行きましょうシロウ。彼らは凛とアーチャーが倒すでしょう」
「おい、倒すってそれは──」
 衛宮士郎が一人理解できない顔で聞き返す。生殺しとはこのことかと、志貴は一人納得顔で冷や汗をかく。冗談じゃない。何て物騒な会話をしてるんだと、叫びだしたいのを堪えてジッとそのやり取りを見つめた。
「殺すってことよ。衛宮くんは殺し損ねたけど……今度はそうはいかない。この二人は、越えちゃいけないラインを超えた──」
 まただ。
 ここまでくれば、キャスターか自分が何かを仕出かしたことは間違いない。こんな女の子が殺すと口にするからには、確固たる確証と、それだけの『事』があるのだろう。そして自分たちはその逆鱗に触れた。もう間違いはない。
「人の魔力を搾り取った。瀕死の重傷になるまでね」

 ──ああ、やっぱり。

 おかしいとは思っていた。学校に結界が張られているのなら、一成と葛木が体調を壊すことはあるだろう。しかし、柳洞寺の面々までもが倒れてしまった事実は、それでは説明できない。
 志貴は冷静な顔でキャスターの横顔を窺った。震えている。何を恐れるのか。これから訪れる一方的な虐殺──いや、報復に対してか。それとも志貴に自害を命じられることか。
 その目が志貴と合わさる。謝るでもない。開き直るでもない。ただ後悔に彩られた瞳だった。
 だから
「キャスター」
 左手をかざし
「俺が戻るまで柳洞寺で大人しく寝てろ」
 逃げろと命じた。
 
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