昼間にも関わらず、鬱蒼と茂る木々によって太陽が翳っていた。マスターの言を借りるならここはアインツベルンの森。結界によって包囲されたアインツベルン家の隠れ家といったところだ。その奥深く、ダウジングでたどり着いた広場に忽然と姿を現したのは城だった。ランサーは「ほう」と賞賛の呼気を漏らした。
「こいつはいいセンスだ。なぁ」
 背後で泰然と佇む巨漢に同意を求める。巨漢は斧のように巨大で無骨な剣を握り、ごうごうと灼熱の吐息を噴いていた。ランサーの賛辞は城へのものと同時に、その巨漢に向けられたものでもあった。或いはその巨漢の主に。
「随分上等な魔術師に出逢ったらしいな──」
 軽い足取りでランサーが振り返った。
狂戦士(バーサーカー)
 呟くと、ハリケーンのような雄風がランサーの頬を凪いだ。それをスウェーで避けたランサーは、そのまま十メートルほど後退する。四肢をついて着地すると、首筋にチリっとした痛みを覚えた。確かめると、首の肉がごっそりと抉り取られていた。音を立てて吹き上がる鮮血を見ると、ランサーは慌てた風もなく血を指ですくって文字を刻む。文字というにはあまりにもお粗末。直線を組み合わせただけのそれは、しかしランサーが指を止めるとその効力を発揮した。
「楽しいぜ。いつだって真剣勝負ってのは心が躍る」
 削り取られたはずの喉を震わせ、ランサーは口元をゆがめた。


 その映像は途中で途切れた。城の主に気付かれたのだ。キャスターは嘆息し、目を開けた。ランサーに、バーサーカー。どちらも強敵だ。バーサーカーは完全に狂化していればまだ御せるものだが、どうやらランサーの言うとおりマスターの性能が素晴らしい。現状で打開する術は無い。ならば、マスターを狙うまで。だが志貴には内緒にすべきだ。あの男は、きっとそれを良しとしないだろうから──。




Hunting High and Low.1



 志貴は時折すれ違う学生服を興味深く観察しながら、校内の一角に設けられたベンチに腰掛けた。生徒会の客という名文で一成に連れられてきたここは穂群原学園。キャスターは烈火の如く反対したが、寺に篭もっているだけというのは性に合わない。と言っても戦いたいわけではなく、何かしていないと気が狂ってしまいそうになるだけだった。
「学校も懐かしいな」
 秋葉が堕ちて以降、学校には通っていない。最初の半年はただ秋葉に己の血を飲ませる日々だった。離れに泊まり、来る日も来る日も血だけを求める秋葉の相手をする。見かねた翡翠のビンタが飛ぶまでは、ずっとそうしていた。
 つまり、目が覚めたのは彼女のおかげだったのだろう。腐りきった脳味噌はショックからか多少なりとも働くようになっていた。最初に槙久の書物を片っ端から読み漁った。それで約一月もかかったのだが、結局秋葉を元に戻す手掛かりを見つけることはできなかった。もともと期待もしていなかったが、何かしら手掛かりくらいあるだろうと考えていただけに、落胆は大きかった。
 あの勝気な妹が死んでしまう。考えてしまうたび、全身を言いようのない虚無感と焦燥が駆け抜けていく。腕がざわつき、涙があふれそうになる。今すぐ他のサーヴァントの所へ赴いて、その首を刈り取ってしまいたい気持ちも無いではなかった。心が荒んでいるのは自覚していた。おれらしくもない。志貴は呻いた。しかしどうすることもできないのだった。
 愛した、いや、愛している女性が殺されようとしているのに、のんびりしていられるわけもない。気持ちばかりを走らせると、キャスターを手に入れることはできた。だがそこまでだ。ランサーとの戦いで己の無力を痛感した。そして取ることができる作戦といえば、引きこもって敵が網に掛かるのを待つだけ。それが最善だとわかっていても、やり切れない空しさが胸のうちを占める。
「は──」
 一成に話はつけてもらっているが、部外者が校内をうろついていてはいい加減に目立つ。通りかかる在校生たちの好奇の視線に耐えかねた志貴は、気の抜ける掛け声で立ち上がり、辺りを見回す。
「……なんだ?」
 グラウンドから校舎。そしてその裏手。視線を動かすごとに空気が音を立てて凍り付いていくのを感じた。凍りつくというより、研ぎ澄まされていくというほうが正確だ。とにかく違和感を覚えたときには、辺りから音が消えうせていた。生徒の叫び声はおろか、街を走る車のエンジン音も、あろうことか風の息吹さえも消えうせた一瞬。その数奇な瞬間を克明に捉えた志貴は、ハッとして後ろを見た。
 ──タン。
 と小気味のいい音がしたのは志貴が振り向くのと同時だった。清冽な静謐。音はたった一度聞こえただけだと言うのに、まるで計算し尽されたリズムのように心に染み渡った。静寂の間隙を縫って放たれた音源を求めた志貴は、視界の片隅にしっかりとそれ捉えていた。やや赤みがかった黒髪の、恐らく同い年くらいの少年。
 ──何の音だ?
 遅れた感想を飲み込んで、志貴は少年へ駆け寄った。駆け寄って初めて、彼が建物の中にいるのだと気付いた。どうやら自分の目は障害物全てを排除して、彼という音源だけを求めて馳走していたらしい。平べったいが横幅のある瓦屋根。校内にあるが故そこだけ異様な佇まいの建物を前に、志貴は眉を顰めた。周囲をそろそろと回ると屋根があるのは一部分だけだということに気付く。屋根の無い場所から中をうかがい、成る程と納得する。屋根のあるところ──射場に立っているのは先ほどの少年だ。身長の五割増ほどの弓を掲げ、残心の体勢で両手を大きく広げた少年は、やがてほうと小さな息を吐いて弓を下げた。
「んー、相変わらず皆中か。みんな、部外者の士郎に負けてちゃダメよ」
 そんな声が聞こえたが、弓道場の中は静寂に包まれていた。無理も無い、と志貴は矢の刺さった的を見た。ど真ん中。寸分の違いも無くど真ん中に突き刺さっている。しかも突き刺さっているだけではない。そう在るべきものとして、そこに刺さっている。例えばそれは先日ランサーと相対したとき、自分の運命が死すべきものと決め付けられていたように。
 士郎と称された少年こそ平然としているが、それが並の技ではないと誰もが理解している。部外者の志貴でさえ背筋を粟立たせる技に、学校の部活とはいえ経験者が気付かない道理はない。声をあげた女性が能天気な反応をできるのは、見慣れているか、自身も何らかの域に達しているからだろう。
 少年がチラと志貴を見た。澄んだ瞳だった。あまりにも澄んでいたので、志貴にはひどく薄っぺらに思えた。恐らく士郎という少年にも、志貴の瞳は嫌なものとして見えたのだろう。少年は眉を顰めると、先ほどの女性の方を向いた。
「約束どおり射たから、さっきの話はちゃんと教えてくれよ、藤ねえ」
 黙りこくる部員たちの視線をばつが悪そうに受け流しながら少年が言った。もう一度見たいものだが、あの様子ではそうもいかないらしい。女性のセリフや私服姿というところから鑑みるに彼は弓道部の正規部員ではないようだ。体を正門に向ける。
「あんた、誰だ」
 背後から声をかけられたのはそのときだった。
「誰だ」
 なんでもない言葉のはずだが、とくんと心臓が鳴る。音が遠ざかる。耳栓でも付けられたように、声が遠い。どこにでも居る少年の声だ。なのに、胸につっかえるのは何故。
「学校の人間じゃないだろ」
 三言目。ようやく振り向くつもりになって、予想とは違う光景に辟易した。立っていたのは黒髪のあの少年。まだあどけない顔つきだ。少年は不思議そうな目でこちらを見据えていた。その目は、あんまりにも真っ直ぐだった。けれど空虚だった。悲しい何かに囚われた瞳が、くすんだ硝子球のような目が、志貴の蒼い目を貫くのだ。嫌な瞳だった。或いは羨ましいのかもしれない。
「最近危ないから、こんなとこ生徒でもないのにうろついてると捕まるぞ」
「衛宮。その人は俺の客だ」
 反応の無い志貴に対して少年がようやく怒りの片鱗を滲ませたとき、聞きなれた声がした。それは少年にしろ同じだったらしく「一成。ほんとか」と少年らしい声を出した。
 校舎のほうから歩いてきた柳洞一成が、何か不可思議なものでも見る顔で大きく頷く。
「本当だ。俺は嘘などつかん」
「そうだな。じゃあ信じる。でも、ほんとに危ないから、あんまり変なことはしないほうがいい」
 自分と彼らの間に、何か分厚い皮膜のようなもので衝立が置かれているような感じがした。声もにごって聞こえる。自分に向けられた言葉だと、最初気付かなかった。ほかの事に気を取られていたからだ。足が震える。そうだ、別に『あんた、誰だ』と尋ねられて困るようなことはしていない。問題はそんな言葉ではなく──
「シロウ」
 こいつだ。
 ずっと弓道場の中からこっちを見つめていた彼女。だが身に着けている服のせいもあるだろう、姿は見目麗しい可憐な少女だ。
「突然飛び出して、どうしたのですか」
「見慣れない人が見てたから誰かと思っただけ、なんでもないよ。一成の知り合いだってんなら悪い人じゃない」
 一成が同意するように頷いた。
「……そうですか」
 しばらくの沈黙を経て、少女がぽつんと言った。志貴は初めて少女を瞳を直視した。少女も険しい表情で志貴を見つめていた。逃げ出したいと心底から思った。
 人を探るときはまず目を見る。目は全てを写す。力も、意思も、弱さも。全てを瞳は映す。ならば彼女の目も同じだった。瞳は噤まれた口以上に闊達に語っていた。
 美しい碧玉はまるでアレキサンドライトの輝きだ。日の元では清冽なえもいわれぬ鶸萌黄(ひわもえぎ)。それが生み出す静謐は清純さと気高さにおいて何よりも勝る。しかし内に抱いた凄烈な赤色は、内包する獰猛さを滲み出させる。その洋服は彼女に良く似合っている、しかしまるで似合っていない。獅子に衣装など要らぬ。
 もう、正体など解ったようなものだった。異常。異様。彼女が在るだけで、そこに在るべき死が消えていく。恐らく眼鏡を外せばもっと顕著にそれを感じ取れるだろう。
 後退したい感情を、最後の理性で押し留める。ここで動けば、音もなく疾走する彼女に潰されるのか、或いは撃たれるのか……いや、彼女には剣こそが似合う。自分が想像し得る最高の剣を彼女に握らせてみればほら、こんなにもよく似合う。
「衛宮。それより彼女は誰だ」
 志貴と少女の空気が凍りついたことに気付かないのは、一成のみだった。しかし少年のほうも、それほど志貴を警戒しているようではない。今はそれが頼りだった。何も知らない無垢があることで、この場は膠着する。ただ、その先に繋がるものが無い。このまま一成と共に帰宅するしか道は無かった。先ほどから寺で待機しているキャスターの声が聞こえない。喋れば勘繰られると黙っているだけなのだろうか。或いは目の前の少女が展開した結界か、はたまた別の魔術師の手によるものか。とにかく、この場は逃げに徹するに限る。
「今うちに住んでるんだ。切嗣(オヤジ)が昔世話した子らしい」
 少年は平静を装ってそう言った。一成はへえと興味深そうに少女の目を覗き込み、ふむと唸った。
「まったく、隅に置けない。なんだかんだと言っておきながら、よりにもよって外国人とは」
「な──彼女はそんなんじゃない。そっちこそ、この人は?」
「葛木先生の弟で、遠野志貴さんと言う」
 もう小指の爪ほども残っていない理性で、ナイフを抜くことは堪えた。今は、一欠けらの動揺も顔に出してはいけない。とっくに向こうも気付いてる。魔術師には見えないから安心。そういうわけじゃなかった。遠野志貴という人間が持っている違和。それを少女は一目で嗅ぎ取った。志貴が彼女の違和を嗅ぎ取れたように。
「遠野?」
「血が繋がってないんだ。士郎くん……だったかな」
 衛宮士郎の疑問に答えながら、志貴は少女に視線を送った。少女はまるで無表情のまま志貴を見つめてくる。怖いと、正直に思えた。喩えるならば、代行者に狩られる名も無い死徒の気持ちかもしれない。なぜか、彼女を前にすると自分が絶対悪にでもなったような気になる。英雄の重みをわが身で感じ、志貴は息をするのも覚束ないように感じた。
「衛宮士郎であってる。それより──」
「シロウ。彼は私と同じ境遇ということですね」
 じっと志貴の目を見たまま、少女が言った。言葉の裏に篭められた真意は、志貴に届いた。それは宣戦布告だろう。己のマスターに伝えるための言葉は、意図したものか偶然か、志貴の臓腑を縮み上がらせる結果になった。
 心臓が戦慄いた。背筋がたわんだ。殺されることに恐怖はない。いや、恐怖はある。しかし真に恐ろしきは、妹を救えなくなることだ。それが、自分が消え去るよりもよっぽど怖いのだ。
 表向きは平気な顔で、志貴は生唾を嚥下した。心臓が飛び出そうだ。噛み締めた歯が割れそうだ。だが、そんな志貴の心情を知ってか知らずか、
「帰りましょうシロウ」
 少女は平坦な調子でそう言った。



***



 風は体を劈く。あまりにも冷たくて、目を覚ました。貸し与えられた部屋前の縁側で、座ったまま眠り込んでいたらしい。凝り固まった首を揉んで、思わず震えた。昼の穏やかな風が恋しくなった。だが月が綺麗だった。時計を確認しようとして、寺にそんなものがほとんど無いことに気付く。
 仕方無しに頬に触れた。何時間も前に叩かれたのにまだ熱い。キャスターのビンタは強烈だった。翡翠のビンタも真っ青だ。志貴は軽口を叩いて、笑えず沈黙した。
『言ったはずよ。声が聞こえなくなったら戻りなさいと』
 ふさぎ込んでいたキャスターが久しぶりにらしい表情を見せたのだが、喜ぶ気にはなれなかった。戦況が最悪になった。一成は言った。葛木の弟だと。ならば居所は露見した。教師の住所など、学校に確認をとれば、よっぽどの素行不審者でない限り教えてくれるだろう。それを見越してあのサーヴァントは退こうと言った。だから命だけは助かった。けどそれだけだ。もう本当に後が無くなったのだ。
「……なんて、不様」
 本当に間抜けだ。自分の感情を抑えられなくて外に出て、途轍もなく巨大な厄介を連れ込んだ。キャスターの怒りは尤も。志貴を叩いて以降はずっと境内で何かしているようだが、声をかける気にはなれなかった。敵に備えているんだろう。なら、自分も何かしなければならなかった。
 縁側からだらんと垂らしていた足を踏ん張り、大きく伸びをする。はだしで土を踏みしめて、果たして何ができるのだろうかと考えた。
 改めて考えると何もないものだ。サーヴァントと戦うにはあまりにも頼りないナイフに、使うと自分が倒れかねない魔眼。それと、ほんの少しの体術。
「参った。これじゃほんとに、足手まといだ」
 昼間の少女に感じた恐怖を考えてみれば、サーヴァントという連中の出鱈目さがよくわかる。いや、実際に彼女がサーヴァントだと決まったわけではない。サーヴァントならば、人気の多い場所では霊体化すべきなのだ。実体化していれば一般人にも見えてしまうし、魔術師にでも見つかれば、すぐさま正体がばれるだろう。
 正体がばれるというのは厄介な話だ。例えばキャスターは神殿から龍脈に魔力を通すことで街中を見渡せるが、霊体化していればキャスターでも多少探知しづらくなる。とはいえサーヴァントには霊体化したサーヴァントも見えるらしいので、効果的というわけでもないが、それでも多少のかく乱にはなる。だというのにあの少女はそれをしていなかった。よほど自信があるのか。それとも無関係な一般人であるとも、言えなくもない。サーヴァントと断じるのは早計なのか。だが何にしろ、姿を見せるだけで人の肝を冷やすような人間は、まともな者ではないだろう。
 とにかく、そんな連中を相手取るに、キャスターと自分では多少心許ないのは確かだった。いくら直死の魔眼でサーヴァントの死を視ても、接近できなければ意味がない。キャスターの魔術で相手を固定することはできるらしいが、対魔術を持つサーヴァントには無駄ときている。そのための神殿とは言っても、志貴はそこまでの効果を期待していなかった。何せ、この寺にはただキャスターの気配が充満しただけで、何か本質的な変化を遂げたわけではない。むしろ自分の存在をキャスターが振りまいているようにさえ、志貴には感じられる。
 よくないことだ、と志貴は忸怩した。キャスターを疑っても仕方がない。元々参加する資格さえなかった自分がここに居られるのはキャスターのおかげなのだ。それ以上の高望みはよくない。今は自分で何か作戦を練らなければ、任せっきりでは立つ瀬がないというもの。
「……そういえば」
 何かないかと頭を巡らせて、ふと思い浮かんだ。ナイフよりよっぽど上等なものを、自分は手に入れているではないか。
 志貴はいそいそと立ち上がり、部屋の中へ入っていった。



***



 川の字に眠っていた布団から抜け出したあと、一目散に目指したのは柳洞寺だった。月が美しい。こんな夜は、剣の冴えも格別だろう。少女はそんなことを夢想しながら、飛ぶようにして走った。
 マスターは当てにならないと早くも断じさせてもらうことにした。昼間、露骨にマスターとわかるような人間を前にあの態度。いつ己の身の上を語り出すかと気が気ではなかった。我がマスターとして相応しいか否かで言えば明らかに相応しくない。しかし愚物だとて主は主だ。サーヴァント──それ以前に騎士である自分には従う義務があった。嘗て自分に付き従った騎士たちのように。
 良い騎士は、己で考え行動する。全てを上意下達の柵の中にしてしまえば、そこで主の器など知れるのだ。良い君主でありたいのならば、自由意志で動こうとする部下を上手く操らなければならない。だが愚物についた騎士は己で考え動くしかない。主を導くために動くのだ。それに、マスターとしては二流以下でも、その他の面で自分のマスターの人柄は嫌いではない。部下を自然に動かす気質も、それはそれで主の気質だろう。でなければ、護るなどという言葉を軽々しく口にはしない。
 故に少女──セイバーは柳洞寺の山門を目指して疾風と化していた。雑木林が背後に流れる。急勾配の階段など、セイバーにとっては平坦な道と何ら変わらない。風よりも速く駆け、やがて立ち止まった。頭上に人影があった。見下ろす瞳は冷ややかなものだ。
 セイバーは小さく腕を震わせた。己を奮い立たせる雄叫びは、彼女には必要ない。その身は剣。彼女は抜けばいつでも戦える。両手で握られたそれは、哀れ眼前に立ちはだかった者に制裁を加える時を待っていた。故に、震えたのだ。
 血を求めるのではなく。戦を求めるのでもない。ただ彼女に振るわれようとして、震えた。
「これは、見込み違いか」
「いや、お前の判断は正しい」
 山門と月の光を逆光に迎えた迎撃者は、姿を見せずに啼いた。これもまた雅な声だが、如何せん邪気が強い。この山一帯を包む瘴気にも似た悪臭と同質のものを、彼は抱えていた。
「抜ける気なのだな」
 立ちはだかる男が尋ねた。くつくつと、愉快げに喉を鳴らすのが聞こえる。何が可笑しい。訊ねようとしてやめた。それは無粋だ。
「素晴らしい目だ。今宵召喚に応じた身だが、どうにも不都合がありすぎたらしくてな。こういった邂逅は望めんと腹を括っていたのだが……なかなかどうして面白い。ヤツは好かんが、感謝の一つくらいはしてやるべきか」
「……戦う、と?」
 陶酔するように詠う男を見上げて、セイバーは訊ねた。男は何を況やと片眉を吊り上げた。
「ここまでお膳立てをされ、太刀も合わせず何をする。所詮、私は無粋に粋を感ずる者よ」
「おかしな男だ。しかしここで争う気など毛頭にない。ただ、私は確認さえできればよかった。見つかってしまったのは失敗だが──」
 言葉を切る。
「とうに見つかっているのだろうから変わらない、か。豪気なことだ。益々気に入った。構わん、ヤツに見つかっていようと私がおまえのことをどうこう語るつもりはない。与えられたのは何人も通すなとそれだけだからな」
 代わりに語った男は、再び喉を震わせて笑った。まったく底の知れないと、セイバーは嘆息する。互いに万全ではないらしい。ここは退くが上策だ。
 セイバーが背を向ける。背中の警戒は解いていない。やがて男の敵意が薄れた瞬間に一歩目を踏み出そうとして、
「私はアサシン。名を小次郎──」
 信じられない言葉に再び振り返った。
 男は怜悧な瞳に涼しげな笑みを浮かべている。なんと月の似合う男だという感想を得たセイバーは、何をと問いかける口を噤んだ。
「佐々木、小次郎。次に見えるときは語らおう。無論、背に佩いたこの物干し竿でな」
 痛快に笑い、アサシンは消えた。名乗りを上げるサーヴァント、佐々木小次郎。あまりに鮮烈なその名前を噛み締めて、セイバーは再び風になった。
 衛宮邸に戻る頃には、時計の針は午前一時を指していた。音を立てないようにそろそろ屋敷に上がると、背後で甲高い音が響いた。何度か聞いた事のある音だったので振り向いて、セイバーは目を丸くした。自転車に跨った衛宮士郎が、セイバーをジッと睨んでいた。
「お前──」
 発つ時も気配は消していたはずだったので、セイバーは少なからず驚いた。だがすぐに、屋敷に張られている結界のことを思い出す。しっかりと門から出て行ったのだが、彼にはわかるのか。いや、そんなはずはない。内からのものまで警戒するほど、彼は魔術師的ではない。それにこの男は様子がおかしい。
「柳洞寺になんて、何の用で行ったんだ」
 セイバーは近寄らない。今の一言で確信した。こいつは偽者だ。
「我がマスターを侮辱する気か」
 だって私のマスターは、決して私に追いつくことなどできない。だからセイバーが柳洞寺に行ったことなんて、解るはずが無い。
 不可視の剣を抜いた。静かに燻っていた剣気が渦を巻く。圧迫感に、偽者が露骨にうろたえる。ああ確かに、その仕草は堂に入っている。人間の仕草としては大正解だ。けれど、とセイバーは偽者をにらみつけた。
「我が主は、そこまで真人間ではない」
 そう、サーヴァント同士の戦闘に介入するほどの、大ばか者なのだから。



***



「志貴」
 がさごそとバッグの中を漁り、それを見つけたとき、キャスターの声が背中に聞こえた。志貴は手に取ろうとしたそれをバッグに押し込んで、振り向く。キャスターはぎょっとした顔だった。
「起きていたの……あなた」
「さっきは悪かった。俺が勝手なことしたから、危うく死ぬところだった」
「……それは、生きて帰れたのだから良しとしますが……」
 キャスターは歯切れ悪く呟く。俺の頬を張ったときもこうだった。と志貴は冷静に分析する。引っ叩いた瞬間は烈火のごとく猛ったくせに、ふと我に返ったように俯いたのだ。キャスターはどこかおかしい。何か、隠し事がばれるのを恐れる子供のような──。
「キャスター」
 志貴の呼びかけに、キャスターは応えない。
「寝るよキャスター。なんだか、眠くて仕方が無い」
 不安を押し込めて、志貴はそう言った。





inserted by FC2 system