黒い巨人の姿や、凝り固まった黒い瘴気は跡形もない。キャスターとセイバーが根こそぎにした。街は平和である。
 あれから一月と少し。冬木市も春の訪れを随所に見ることができるようになった。
 あっという間だった。協会から派遣されてきた調査員の応対やらで、息をつく暇もなかったといえる。それもこれも、士郎のせいだった。固有結界。聖杯戦争の調査にきているとはいえ、そんなものを扱える魔術師を見過ごしてくれるほど、甘くはない。勝者はセイバーとキャスターを従えた遠坂凛。そういうことになった。
 毎日が緊張の連続だったが、持ち前の性格上並大抵のことでは動じない自信があった。何とか誤魔化しに誤魔化し切った。バゼットという魔術師の行方を尋ねられたが、ランサーの元マスターだろうということしかわからなかった。果たして調査員は引き上げていった。
 慎二がライダーを使って引き起こした事件によって、暫くの間休校となっていた学校も、今日ようやく終業式を迎えた。わたしは制服に身を包み、下校路を歩いている。もちろん、一片の曇りもない成績表を手に、だ。見せる相手のいない成績表に意味は無かった。担任はどこにだって進学できるぞとほくほく顔だったが、わたしの進路は決まっている。ロンドン。調査員たちは、わたしに推薦状を渡して、去っていったのだ。
「はぁ〜あ……自由にできる最後の一年か」
 ロンドンに行けば、毎日地獄のような日々だろう。見渡す限りが魔術師の世界。想像しただけで嫌気が差すが、行くからには原色を貰うという目標もあった。辛くとも、充実した日々。それはとても魅力的なのだが、今のわたしにはやることがある。
「ただいま」
 引き戸を開けて入ったのは士郎の家。どこかの誰かが跡形も無く破壊してくれたわたしの家は、まだほとんどあのままにしてある。さすがに重要な文献などはサルベージしたが、粉みじんになっている屋敷を修復するのは骨が折れる。業者に頼んでしまえばいいのだろうが、生憎とそんな金はどこにもなかった。
「おかえりなさい遠坂先輩」
 居間からエプロン姿の桜が顔を出す。彼女は姉さんとは呼ばない。遠坂先輩、と今まで通りに呼ぶのだが、そこに以前よりも暖かみを感じるのは、気のせいではないと思いたい。
 桜は、四十六の犠牲を引きずっている。きっとこの先、その点で救われることはないだろう。だが、彼女は以前より笑うようになった。
 印象的なのは、最後の夜のことだ。
『何故、あの人はわたしを殺さなかったんですか』
『何故、わたしの胸にナイフを突き立てるあの人の目は、泣いているように見えたんですか』
 桜が、そう訊ねてきた。怖かっただろうなあと思う。わたしも一度アイツに殺されかけたことがあったが、あの目は本当に怖い。
 だから、話した。悪いとは思いながらも、アイツに妹がいること、妹を救うために聖杯を望んだんだ、ということを掻い摘んで話した。きっとあんたに、妹を重ねたんでしょ。
 それを聞いた桜は突然泣き叫んだ。泣き叫びながら魔術回路を起し、懸命に何かをしていた桜の姿を、そしてすぐさま気絶するように目を閉じた桜の安らかな寝顔を、わたしは忘れることが出来ない。
「ただいま、桜。ん、いい匂い」
「ええ、腕によりをかけて作りましたから」
「このままじゃ中華も桜に負けそうね」
 またまた、なんて笑いながら、桜が引っ込んでいく。
 ちなみに士郎とのことでは、まだわたしは警戒している。
『いいです。わたしもう諦めましたから』
 桜はそう言ったが、無論油断はしていない。
「士郎は?」
「道場にいるみたいですけど」
「ありがと」
 礼を言って、道場に向かった。
「おかえり。遅かったな」
「ただいま。先生に呼び止められてて」
 木の匂いのする道場。その中央で、士郎は木刀を握っていた。足元には大きなドラムバッグ。準備は万端らしい。
「準備、できたみたいね」
「勿論」
 士郎が僅かに顔を伏せた。
 あの日、志貴は結局姿を見せなかった。物音に気付いた凛が玄関に出たときには、気絶した士郎が寝かされているだけだった。
「ようやく万事整いましたか」
 背後から、セイバーが声を掛けてくる。
『見届けてみろ。答えがあるかもしれんからな。彼が私に遺した言葉です。私は、その言葉の意味を確かめたい』
 今は、わたしの使い魔となっている。
「今度は俺達が助ける番、だろ?」
「ええ。アイツ大金持ちなんだから、家、弁償させないと」
 どこかで死んでいるかもしれない遠野志貴を見つけ出す。留守は桜に任せる。少しだけ長い旅になりそうだった。





un epilogue.




 夏がもうじき終わろうとしている。コオロギやキリギリスの泣き声が聞こえ始めた庭。夜風が心地いい。テラスで姉さんが淹れた紅茶を少しずつ飲みながら、わたしは空を見上げていた。満点の星空に、大きな丸い月。今夜は満月だった。
「隣、いい?」
 姉さんが問いかけてくる。手にはティーポットとティーカップ。頷くと、姉さんは「よいしょ」と小さく声を出して隣に腰掛けた。わたしたちは向かい合わない。こうして紅茶をいただくときは、二人並んで座って空を見上げる。それが通例になっていた。
 誰も居ない屋敷。翡翠と琥珀という二人の使用人しかいない、悲しい屋敷。わたしたちは、ただその日その日を過ごすことしか、できなかった。
 二人、言葉もなく空、いいえ、月を見上げる。満月。あの日も、満月だった。


 処断は二月十四日午前零時。二月十三日の午後八時には、秋葉様は離れの一室にて赤い着物に袖を通されていた。屋敷に集まった分家筋の人たちは、黒い着衣に身を固め、本館にいる。涙を流される方もいらっしゃったが、口汚く秋葉様を罵る方もいた。わたしたちは喪服に着替えさせられ、秋葉様の着付けをした。
 秋葉様は眠りこけている。ずっと。たった一度、何かの気紛れで目を覚ましたあの日をのぞいてずっと。
 涙がこぼれてくる。とっくに枯れ果てたと思っていた涙が、次から次から溢れ出してくる。
 何故秋葉様が殺されなければならないのか。誰に危害を加えたわけでもない。ただ眠っているだけなのに何故。
 恨み言は、口を開けばそれこそ洪水のように止め処も無い。だから、口を閉じて、姉さんと二人でひたすらに泣いた。泣きながら着付けをするわたしたちを、警護の一人が笑っているのが見えた。秋葉様の警護ではない。秋葉様が来賓に危害を加えないようにと、警護しているのだ。
 文句を言う口すらつぐんで、わたしたちはその後もずっと秋葉様のお傍を離れなかった。
 じっと、静かに呼吸を続ける秋葉様の寝顔を、見つめ続けた。
 秋葉様を連れ出してしまおうと考えたことも、一度や二度ではなかった。実際に、一度実行したことがある。けれど混血とはいえ所詮はただの人間と変わらない。わたしたちは容易く捕まった。
 障子から入り込む月明かりを見つめて、無力を嘆いた。
 何も出来ない。秋葉様が殺されてしまうのに、どうすることもできない。
 わたしたちにできるのは、ただただ志貴さまを待つことだけ。必ず救うという主の言葉を、無心に信じることだけだった。
 けれど、志貴さまは来ない。時計の針が一回り二回りしても来ない。志貴さまが一体何をされているのか、刀崎様からもついに聞くことはできなかった。戦っておるんじゃよ。と一度だけ言ったことがあったが、わたしにはそれが額面通りの意味なのか、それとも別の意味があるのか、判別できなかった。
 ただ刻々と時間は過ぎ、やがて時計の針が三周と四分の三回ったとき、藪から棒に障子が開かれた。立っていたのは、わたしたちをあざ笑った混血の男だった。
「時間だ」
 信じてもいない神に祈った。動こうとしないわたしたちに痺れを切らしたのか、混血の男がずかずかと部屋に入り込んでくる。
「わたし達がお連れします」
 姉さんの震える喉が、搾り出すように言った。
 涙が溢れそうになる。堪えた。この男の前では決して泣くまいと、必死に堪えた。
 二人で秋葉様を車椅子に乗せ、ゆっくりと押す。腐葉土に車輪を取られ、何度も止まった。そのたびに、連れ去りたいと心から思った。足取りは見る見る遅くなる。木立を抜けてしまえば、嫌でも目に入るだろう処刑台。そんなものは見たくなかった。
「姉さん」
「大丈夫、翡翠ちゃん。翡翠ちゃんが言ったんだから。志貴さんは、わたしたちに見破れない嘘なんかつかない。翡翠ちゃんは嘘だと思わなかったんでしょ? ならきっと、志貴さんは来てくれる。それで、花嫁をさらうみたいにして、秋葉様を……秋葉様を……」
「早くしろ」
 男が言う。押す。車椅子をゆっくり押す。
 やがて、木立を抜けてしまった。ここまで来るのに十五分もかけた。引き伸ばすのも、とっくに限界。
 中庭には、人がたくさん待ち構えている。それら全てが悪魔のように見えた。黒い服。黒い服。黒い服。皆警護のものだった。来賓は、久我峰さまと刀崎さまの二人だけが、この中庭にいる。他は皆家の中なのだろう。
 ふと見下ろして、自分もその黒い服を着ているのだと気付いて、発狂してしまいそうなほど悔しかった。秋葉様の死を弔うつもりなんてないのに、何故こんなモノを着なければいけないの。
 黒い服のうちの一人が近づいてきて、強引に秋葉様を抱き上げた。
「あ……」
「やめ、て」
 無慈悲に、背中が遠ざかっていく。秋葉様の赤い着物が、赤い髪が、夜風に吹かれてふわふわと揺れる。向かう先は、小さな石造りのベッドだった。そのベッドの横には、二メートルはあろうかという剣を携えた男がいた。
『首を刎ね落とすんだそうですな。いやはや、恐ろしい』
 昨夜の久我峰様の言葉を思い出した。
 あの剣で、首を──。
「や──いや、いやぁあああ!!」
 絶叫した。恥も外聞も、そんなものどうでもよくなっていた。元々世間体など無いわたしが、気にするものなどなにもなかったのだから。
 姉さんは目を見開いて震えていた。その口が震えて歯と歯を打ち鳴らす口が、小さく呟いたのを、わたしは絶叫の中で聞いた。
「たすけて、しきさん……」
「助けて! 志貴さま! 助けてください……! どうか……」
 そんな叫び声を、痛ましく思ったのか、刀崎様が一歩踏み出そうとした。わたしは縋るようにそちらを見る。助けてくれと、目で訴えかけた。無駄だと知っていても。
 けれど刀崎様は、足を踏み出そうとした格好のまま、停止していた。その目が、どこか遠くを見ている。その眼に移っていたのは、恐れと、愉悦。
 腐葉土にへたり込むわたしの耳が、背後で葉を踏みしめる音を聞いた。
「本当に、ごめん。信じられないくらい、遅れた」
 バネ仕掛けの人形のように振り返る。いた。立っていた。半年もの間行方知れずだった主が。待ち焦がれた志貴さまが、見慣れない青い瞳でわたしたちを見下ろしていた。
「しきさ……ま。お帰りなさいませ……よくぞ、間に合ってくださいました」
 姉さんの瞳からは涙が溢れている。口元を抑え、ぽろぽろと涙を流す姉さん、そしてわたしを、志貴さまはしゃがみ込んでゆっくりと抱きしめた。
「辛かったよな。俺がしっかりしてなかったせいで、本当にごめんな。突然出て行って、ごめんな」
「そんなことありません。志貴さんは間に合ってくれました……間に合ったんです」
 志貴さまの肩は震えていた。本当はわたしの体が、姉さんの体が震えていただけかもしれない。けれど、志貴さまは言葉を詰まらせて、じっとわたしたちを抱きしめていた。
 長い抱擁の間、誰一人動かなかった。秋葉様は冷たい石のベッドの上で、小さな寝息を立てている。
「まったく、どうしようもないヤツだなあいつも」
 志貴さまは苦笑しながら、ゆっくりわたしたちから手を離した。頬に、べったりと何かが付着していた。ハッと、見上げる。月明かりを受けて、志貴さまの体のいたるところに、てかてかと光るなにかがあった。血。血だった。
 立ち上がった志貴さまは、ふらりと体勢を崩した。咄嗟に立ち上がり、支える。力を抜いた男性を支えるのにわたし一人では辛かったが、姉さんもほとんど同時に抱きとめていた。
「ごめん。大丈夫」
「大丈夫ではありません志貴さま」
 姉さんが、突然わたしの口調を真似て喋った。訝しげなわたしに反して、姉さんの表情は真剣そのものだった。わたしは口をつぐむ。
「志貴さま?」
「ああ、大丈夫だって。翡翠は本当に、心配性だな。俺はあの寝ぼすけを起さないと、いけないんだ……」
 姉さんが息を呑む。わたしも同様だった。確かに志貴さまの見慣れた服装ではないかもしれない。だから間違えた。そういうこともあるかもしれない。けれど、もし、もしそうじゃなかったとしたら、志貴さまは──。
「二人は、どうする」
 不意に、志貴さまが小声で訊ねる。
「本当に、この人数から秋葉様をさらうおつもりですか?」
「そのために、帰ってきた。二人が望むなら、一緒にいこう。けど、いつ死ぬかはわからない。それでもよければ──」
 わたしは考えた。外に出る。志貴さまの目のことも忘れて、考えた。けれど、どうやら姉さんはとっくに答えを出していたらしい。志貴さまの言葉を遮るように、言った。
「わたしは行けません」
「姉さん?」
「わたしは、この屋敷の使用人です。いつか秋葉様と志貴さんが帰ってくるそのときまで、この屋敷をピカピカに磨かなきゃいけないんです」
 強い意志。一瞬顔を伏せた志貴さまが、小さく悲しげに微笑んだ。
「ありがとう、琥珀さん。必ず帰ってくるよ。でも、掃除は頼むから翡翠に任せてくれ」
 くすり、姉さんが笑う。つられて、わたしも笑った。悲しい笑み。きっと、志貴さまは帰ってこない。
 志貴さまは、石造りのベッドに歩き出す。その背中に、声をかけようかと迷う。
「志貴、さま」
 志貴さまが振り返る。
「必ず、お戻りになられてください」
「ああ、約束するよ」
 また、笑う。涙が溢れた。嘘だった。一目でわかってしまうほどに下手な、嘘だった。
 歩みは心細い。今にも倒れてしまいそうなほどに、か弱い。それでも歩く志貴さまに、迷いは見られなかった。問いかけたかった。その歩みは、死を受け入れての迷いなき歩みなのか。それとも、わたしに不安を与えるためだけに、嘘をついたのか。
 前者に決まっていた。けれど、後者であってほしいと、わたしは願った。
「志貴君。間に合ってよかった」
 久我峰様が、志貴さまに近寄っていく。
「こんばんは、いい月夜ですね」
「これならば、秋葉様も少しは楽に逝けるでしょう」
「だといいんですが、往生際が悪くてね」
 久我峰様が首を傾げる。志貴さまの不可思議な言葉に反応したのは、巨大な剣を携えた大柄な男だった。大剣を手のように操った大男は、何の躊躇いもなく志貴さまにその岩をも砕きそうな刀身を叩き付けた。
 大剣は大きな音と共に地面に突き刺さった。
 わたしには、その光景が信じられなかった。
 志貴さまは、何事もなかったかのように、秋葉様を抱き上げていた。愛しそうに、大事な宝物のように。
 わたしの目には、大剣が見当違いの場所に叩きつけられたようにしか見えなかった。けれど事実は違った。志貴さまは、避けた。目にも留まらぬ速度で振り下ろされたあの大剣を、何事でもないかのように、避けてしまったのだ。
 その異常を最も敏感に感じ取っていたのは大剣使いだったのだろう。疑うまでもなく、達人であるはずの太刀筋を、ぼろぼろの優男に避けられてしまう。荒事には疎いわたしにも感じ取れるほど、異様な光景だった。
「秋葉、行こう」
 志貴様が呟く。同時に、再び大剣が振り上げられた。志貴さまは気付いていないのか、微動だにしない。わたしが声を上げようとした瞬間──
「あ」
 ──志貴さまの腕が、なくなった。
 切り落とされたとわたしは本気で思った。けれど、これもまた違った。その更に一瞬後には、志貴さまの腕は元通りだった。いつの間にか、ナイフを握っている。そんなものでどうするのだろうと思ったときには、実は全てが終わっていた。
 大男が振り上げた大剣が、ばらばらに切り刻まれてしまったのだ。
「鬼神か──!」
 大男の声に、一部始終を見守っていた混血の男達が動き出した。その数五十。全てが、人を殺すことに長けた人たち。対して、志貴さまは秋葉様を抱えたまま。だというのに、わたしはもう安心だと思っていた。だから一度だけ、志貴さまに頭を下げた。


 その後の惨事を語る言葉を、わたしは知らない。
 唯一つ、大人と子供。失礼かとも思ったけど、あのときのわたしはそう考えていた。当然、子供とは五十人もいた混血の男たち。
 踊るように駆ける志貴さまに、誰も傷をつけられず、誰も触れられず。ただ右往左往した果てに倒れていく。
 月夜の世界に、青い二つの軌跡だけが、際立っていた。
「ねえ翡翠ちゃん」
 月を見上げたまま姉さんが言った。
「お二人はどこにいるのかな」
 わたしも、月を見上げたままで、答える。
「この月を、見上げているはずです。お二人で、仲良く」
 きっと、帰ってくる。あのとき志貴さまが吐いた嘘こそが、嘘だと信じていた。



***



 あれから半年が経った。
 足を引きずり、夜の街を志貴は歩いていた。傷が深い。血を出しすぎた。元々無い視界がぼやけることは無かったが、そんなものがなくとも、この体が限界だということは誰よりもわかっていた。
 刀崎翁が極秘裏に手配してくれた四つ目のアパートまで、残り十メートル。気絶させた追っ手は、川に放り投げた。死ぬことは無いはずだった。
 日に日に、追っ手が強力になっていくように感じる。現実は違った。志貴が弱くなっているだけだった。それでも、殺すことだけは避けてきた。傷を負わせることも、避けてきた。混血の力を、殺し続けてきた。戦意を喪失するその瞬間まで、殺し続けた。命を奪ってしまえと、誰かが心の中で囁く。そうすれば楽なのは、志貴自身わかっていた。だが押し止めた。日に日に強くなる殺人衝動こそを、斬り殺して生きてきた。
 そうできたのは、心の中の誰かが囁くたびに、彼らのことを思い出すから。正義の味方を目指す少年だとか、いつも偉そうな少女と、その妹。それと、まっすぐで綺麗な目をした剣士。何よりも、二週間もの間、命を預けあった彼女の、素顔。本当は誰よりも人を傷つけるのが嫌で、本当は誰よりもやさしかった彼女。彼女の真実を知る自分が人を殺してしまえば、彼女の名まで堕ちてしまう。だから、殺さなかった。
 それが、挨拶もなく彼女と別れた遠野志貴の、唯一の償い。
 だが、逃亡生活は本当に辛い。遠野グループの情報網とやらをなめていたわけではない。だが、たった半年で四度も引っ越すことになるとは、思いも寄らなかった。連日の襲撃。日々弱っていく志貴の限界が、今日、この日だった。
 腹の傷は致命傷だった。いくら抑えても、血は止まらない。頭がぼうっとしてくる。目を閉じれば、きっと死ぬだろう。死ぬのは、まずい。秋葉を、どうにかしなければならない。
 渾身の力を以って、薄汚いアパートの階段を登っていく。十二段の階段が、恨めしかった。這うようにして上りきり、突き当たりの部屋の扉に手をかける。ゆっくりと、開いた。ドアノブが血に濡れる。このまま入ったら床が血溜まりになるかもしれない。冷静にそんなことを考えたが、構わず上がりこんだ。
 六畳一間の、屋敷の自室よりも狭い部屋。畳の上に敷かれた布団の上で、少女が寝息を立てている。ただし、志貴には少女の顔も見えない。ただ、彼女の死の線をじっと見つめるだけ。ただ、彼女の輪郭を思い出しては、微笑みを浮かべるだけ。
「秋葉……」
 窓を開け放って、その縁に腰掛けた。この世で誰よりも失いたくないと思った。だから、聖杯戦争にまで参加した。たくさんの人に迷惑をかけて、被害を被らせて、そこまでしてでも失いたくないと思った。
 だが、ここにきて、とうとう限界が訪れた。
 触れたかった。秋葉の頬に、唇に、体に。けれど自制する。腐った血で、秋葉を汚すことなどできなかった。
 懐から紙切れを引っ張り出す。たった一度だけ目覚めた秋葉と、翡翠と、琥珀と。すべてを忘れていた秋葉と、撮った、最初で最後の写真。今はもう、見る影もない。血で汚れ、折れ曲がり、色あせたただの紙切れ。
 意識が朦朧としてくる。
 電話をしなければと、立ち上がる。しかしすぐに思い至った。固定電話など、引いていない。携帯電話も持ち合わせていない。
「バカか、俺……」
 再び、腰を下ろした。笑いがこみあげてきた。
「いつもそうだ。どこかで、抜けてる。笑えよ、秋葉。俺、おまえを勝手にさらって来て、自分がこうなったときのこと、考えてなかった」
 乾いた笑いが、狭い部屋に反響する。
「……ばかだよな、ほんと」
 空しい笑い声がやむ。
「なあ、どうしたい? 秋葉」
 できる限りやさしい声で、訊ねた。答えは無い。わかってる。わかってる。この半年、いつだってそうだった。半年どころじゃない。一年以上もずっとそうだった。だから、今唐突に目覚めることなんてない。
 半年で、自分は元に戻ってしまった。
 キャスターと出会う前の、つまらない自分に。ただ秋葉に血を与えるだけの、人形のような自分に。溜息を吐いた。そう自覚できているだけ、まだましなのだろうか。
「人形、か……」
 思い出す。ライダーを倒すと決めた日の昼、彼女は志貴の人形をたくさん作っていた。気持ち悪がる志貴を見て、彼女が言った。
『出会った頃の貴方よりは、この子達のほうが役に立つわよ』
「人形以下ってことはないだろ、なんて……怒ったんだっけ」
 よく言うよ、と自分で可笑しくなった。
「イリヤも、化けて出るんだもんな。アレは、驚いた」
 最後の戦い。あまりにも必死で、あのときは疑問にも思わなかった。
「化けて出るくらい、頼りなかったってことか」
 言って、一人笑った。
 一人きりの暗闇で、一人きりで笑う。一頻り笑って、志貴は立ち上がる。懐からナイフを取り出す。刃こぼれだらけの短刀七つ夜。それを、窓枠の向こうの月に翳した。
「未練は、無い」
 少し、俯く。
「──嘘吐いた。未練だらけだ。でも、後悔はない……変わらないか、でもこれは嘘じゃない」
 誰にとも無く呟く。届いただろうか。届いたはずだ。一番最初の選択肢。遠野志貴はそこに戻ってしまったけれど。
「満足、してる」
 やるだけのことは、やった。
 だからこの命を、秋葉に返そう。
 それで秋葉が戻るとは思えなかったけれど、それしか手は見つからない。
 ゆっくりと、ナイフを下ろしていく。この胸にぽっかりとあいた点。そこに向かって、ナイフをゆっくり下ろしていく。
 切っ先が点に触れる。寒気がした。深呼吸。目を開く。ナイフに力を篭める。瞬間──
「が──!?」
 体に、電流が走った。
 風が吹いている。玄関の扉が開きっぱなしだと気付くが、遅い。
「しまっ──」
 体が倒れる。それを引き起こす力も既に無い志貴は、大きな音を立てて畳に仰臥した。圧し掛かってくる追っ手の残党。即座に死を視、反撃しようとするが、先ほどの電撃と、出血多量に喘ぐ体には、もうナイフを振る力さえなかった。
 見上げた。これから自分を殺す者を見つめようとした。侵入者は圧し掛かったまま動かない。じっとこちらを見下ろしているのが、空気で伝わってきた。
「おまえ、なんだ……」
 志貴が呟くのと同時に、侵入者の上体が近づいてくる。頭を押さえつけられ、身動きの取れない志貴に、顔を近づけてくる。
 唇に柔らかい感触。志貴が目を見開くより早く、舌が志貴の口内に入り込んでくる。同時に、何か液体を流し込まれる。思わず一口飲み込んだ。
 喉が焼けた。食道が焼けた。内臓という内臓が焼け落ちるほどの熱を発し始める。
 やがて熱が頭にまで上ってきたとき、志貴は気を失いかけていた。
 辛うじて動く首を回して、隣で眠る秋葉を見つめた。秋葉の上にも、誰かが乗っていた。同じようにして、誰かが秋葉に口付けている。
 ──や、めろ。
 声にならない声で叫ぶと、誰かがこちらを向いた。そして微笑む。懐かしい微笑み。
 志貴は侵入者の顔が見えていることにさえ気付かず、じっと見つめた。何故? それから、慌てて自分の上に圧し掛かっている者を見上げた。感想は同じだった。何故? と。
 二人は志貴の視力が戻っていることに気付いたのか、風のように消え去った。まるで、魔法のように。
 自分が出血多量の身であることも忘れ、志貴は急いで起き上がり、窓枠に駆け寄った。
 見上げれば、月を背景に大小の影。
 大きな杖に、紫のローブをはためかせて、彼女は宙を舞う。ふわりふわりと、居なくなったはずの彼女が、居なくなったはずの少女を連れて。
 足をばたつかせていた少女は、ふと気付いたかのようににこりと笑って、手を振った。ローブの彼女は、落ちそうになった少女を慌てて摘んで、控えめに微笑んだ。
 嗚呼と、志貴は吐息を零した。あの城の中、動かなくなった彼女の抱き心地は、まるで人形のようだった。
 そう、つまりはそういうこと。
 足元の包みを拾い上げる。可愛らしい包みはどちらの趣味なのだろう。
 大きく息を吸って、吐く。顎が震えていた。
 見上げた空には、小さくなった二人の影絵。いつまでも消えないそれをいつまでも見つめて、やがて志貴は目を閉じた。月がぼやけてしまっていたから。
 代わりに明日が開ける。未来が開ける。
 未来など失ったこの体に、生きる力が湧いてくる。
 例え口移されたのが毒薬だとしても、
「ありがとう」
 二人の魔法使いに、感謝の言葉。










 an epilogue.



 はじまりは偶然。
 狂気の少年と、孤独な魔女の出逢い。
 それは、ほんの小さな御伽噺。
「それで? 狂ってしまった少年は、最後にはどうなってしまうんです?」
「きっと、幸せに暮らしてる。もうこれ以上は無いってくらい、幸せにね」
「よかった。わたし、どうしてもそこが気になっちゃって」
 眼鏡を掛けた青年と、黒髪の少女。二人は連れ添って、駅のホームに降り立った。真冬だというのに、劈くような風が無い。
 少女はいくらか驚いた様子で、周囲を見渡した。初めて訪れる土地なのだろう、しきりに視線をちらつかせている。
「ところで兄さん。どこへ向かうんですか? いい加減教えてくれないと、困ります」
 秋のように涼やかな風を受けて、少女が髪を押さえつけながら尋ねた。
「それは勿論──」
 青年は悪戯っぽく微笑する。
「優しい魔女がいる森だよ」





Fin.

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