日付が変わってから小一時間。客間で茶を啜っていた刀崎の元に、小太りの男が人のよさそうな笑みを浮かべて近づいてきた。
刀崎は眉間に皺を寄せ、嫌悪感を隠そうともしなかった。刀崎はこの男──久我峰家の嫡子、久我峰斗波が嫌いだった。他の家のものなら媚び諂うところだったが、生憎遠野と関係の浅い刀崎には無関係である。とはいえ、今回の遠野秋葉の処断を、最後まで伸ばしに伸ばしたのもまた、久我峰であった。志貴を焚き付けたという自覚がある刀崎にしてみれば、有り難い同胞でもあった。人間的には、まるで反りが合わないのも事実であったが。
「驚いたものです。何せ刀崎のご隠居が姿を見せられていると聞きましたからな」
「久我峰の長男坊がいる。こちらのほうが余程怪異と思うがな」
無愛想に言い放ち、湯のみをテーブルに置いた。
「秋葉様は仮にもワタシの婚約者でしたからな。追い出されようとも、婚約者の最期を看取るのは務めでしょう」
「……そうか」
斗波は向かいのソファに腰を下ろすと、使用人──琥珀という──が運んできた紅茶を、大仰に手に取り啜った。
「相変わらず美味いですなぁ」
屈託の無い笑みを浮かべる斗波に一礼し、琥珀が下がった。彼女は刀崎がこの屋敷に一足早くやってきたときには既に廃人のようになっていた。妹の翡翠も似たような状況だったが、琥珀よりは幾分マシな様子だった。
「可哀想なものだ……彼女らのその後は決めてあるのか久我峰さん」
「ワタシのところに来いとは言いましたがね、秋葉様に殉じかねない雰囲気でして、いやはや、参りましたな。ワタシが死んでも、ワタシの屋敷の者など狂喜するだけで殉じてくれる者など居りません。その点では、うらやましくも思いますが」
人柄の問題だろう。刀崎は口には出さずに、茶を啜った。あの丸々とした顔の中にある細い目。その目に見つめられていると、心を見透かされているような気分になる。
正面から睨み合うような年齢でもない。ちらりと窺がったカレンダーは、二月十三日を示していた。
「いよいよ、明日ですか」
「今日には、屋敷を警護しておる混血の数も増えるのじゃろう?」
「ですな。ご隠居殿、そろそろ眠られることです。ここのところ、秋葉様のところへ通い詰めているというではありませんか」
「妙な言い方をするものじゃない。何、種を蒔いたのはワシじゃて、後始末はせなばなるまい」
言って、立ち上がる。琥珀が音も無く現れ、湯飲みを下げようとしたが、それを手で制した。
「琥珀さん、と言ったな……少々この老骨に付き合ってくださらぬか。できれば、妹さんも共にな」
「……ですが」
琥珀は久我峰を見やる。客人を放っておくわけにはいかないということだろう。察したのか、久我峰は笑みを浮かべた。
「ワタシのことはお構いなく。一人で飲む紅茶というのもたまには良いものですからな。しかしご隠居──」
久我峰の目が開く。背筋を凍らせるような視線に射られ、刀崎の体が一瞬強張ったが、そこは魂まで鍛冶に捧げた男、容易く受け流すと、真正面から見つめ返した。
「志貴君は、どこにおられるのですかな」
「ワシが知るものか」
琥珀を連れ、庭を歩く。混血の男達の奇異の視線に耐える琥珀の背は、震えていた。
離れの別館に着くと、玄関でもう一人の使用人である翡翠が立ち尽くしていた。
翡翠は二人に気付くと一礼し、何か口にしようとして、躊躇したあと口を閉ざした。
「何か、あったのか」
「いえ、その……姉さんを迎えに行こうかと。そろそろ就寝の時間でしたので」
翡翠の肩もまた震えている。これは何かあるなと思った刀崎は、やけに嬉しそうに客間に現れた久我峰を思い出した。
「何か言われたのか」
「そのようなことは……」
下唇を噛み締める翡翠を見て、刀崎は大きく溜息を吐いた。なんという男なのだろか。久我峰斗波が遠野秋葉の処断に反対した理由まで、見えてくるようだった。
琥珀の見開かれた眼が、屋敷の方へ注がれていた。
「琥珀さん、滅多なことは考えるなよ。責任があるとしたら、ワシじゃ。済まぬといっても詮無きことよな」
「刀崎様はよくしてくださいます」
翡翠が否定するように首を振った。
「遠野志貴を焚き付けたのはワシじゃ。仮にも七夜の生き残り……死するようなことはあるまいが。処断は十四日。既に十三になってしもうた。万に一つ、志貴が戻らぬようなことがあれば、腹を斬って償わねばなるまい」
「やめてください……!」
ひたすら口をつぐんでいた琥珀が、その場に蹲って喚いた。
「志貴さんは帰ってきます……あの人が秋葉様を置いて……なんて絶対にないんです……」
頽れた琥珀に駆け寄って、やさしく抱きとめた翡翠が刀崎を見上げた。毅然とした瞳に、気圧されるものがあった。
「約束してくださいました。秋葉様を必ず助けると仰って下さいました。志貴さまは嘘吐きで愚鈍ですが、こちらが見破れない嘘を吐くことなどできません。ですから、わたしは信じています……必ず、帰ってきてくださると」
強い視線。琥珀もまた、同じように見つめてくる。それ以上言葉を繋ぐ気にもなれず、刀崎は空を見上げた。美しい月が出ている。明日は満月だった。
Aces High
威圧感。存在感。全てが並外れていた。視力を失ったからこそ自覚できるのか、彼我の戦力差は語るまでも無く絶望的だった。しかし、それに臆する程、生半可の覚悟で挑みはしない。
既に最高速に乗った体は、まるで将棋倒しのように迫ってくる巨人達の攻撃を尽く回避し、先ほど駆け下りたばかりの崖を再び駆け上がった。ギルガメッシュは徒手空拳で、志貴を迎える。土埃の一つも立てず、まるで無音で志貴が足を止めた。
「矢張り、生きていたな雑種。彼の忌々しい神剣……神殺しには些か役者不足と見える」
間合いは十五メートル。これより爪先一つでも進めばギルガメッシュの制空権に飛び込むことになる。十五メートルという間合いも、宝具を弾丸のように射出するギルガメッシュにとっては無に等しい間合いだが、志貴の脚力を、英雄王もまた侮ってはいなかった。あと半歩まで迫られた記憶は、まだ新しい。
「よく視えるぞ英雄王。自慢の鎧はどうした」
「我を知ったか。それでも挑むとは哀れぞ。怯えて逃げ惑えばいいものを、下らぬ見栄を張って我を押し留める心算でいるか……だから貴様等は愚かだというのだ」
巨人達は、見守るように志貴とギルガメッシュを取り囲んでいた。身じろぎ一つしない。ふと、志貴は桜に反旗を翻した巨人を思い出す。
──そういうことか。
「“この世全ての悪”……流石の英雄王も骨が折れたらしいな」
ギルガメッシュは鼻を鳴らした。
「二度目だ、よく聞くがいい。この世一つ、それもたかだか悪程度では、我を飲み込むには足りぬ。臣従させるに、手間など掛からぬわ」
鎧を打ち鳴らし、ギルガメッシュが右手に鍵剣を握る。お喋りは終わり。ギルガメッシュは酷薄な笑みを浮かべて、右手を翳した。
志貴は腰を落としつつ、同じように笑った。
「俺が押し留めるために残ったと言ったな、オマエ」
オマエ呼ばわりに、ギルガメッシュの表情が凍った。
「断じて違う。このままじゃ秋葉に会えない。イリヤを託してくれたバーサーカー……ヘラクレスにも、顔向けできない。判るな、ギルガメッシュ……オマエが言ったことだぞ」
「雑種如きが吼えすぎだ。その口、二度と開かぬようにしよう」
右手が上がる。ガチリ、と歯車が噛み合うような音がして──
「“王の財宝”──創世の力を思い知れ」
無数の刀剣が姿を現した。志貴には見えていない。だが殺意の形は視えた。死もまたよく視える。十分だ。内心で呟き、地面を蹴った。
「これで最期だ。神殺し、見たければ見せてやるよ」
一歩で十メートル。二歩目で志貴は姿を消した。剣を放つ間もなく、ギルガメッシュは棒立ちになる。声は出さなかった。たとえどれ程驚こうとも声を放たない。流石は英雄王。志貴はその背中の線を見ながら笑った。
ナイフを真正面に突き出す。ギルガメッシュは気付けなかった。勝利が見える。腰の回転を加え、更にナイフを加速させた。ナイフが突き刺さる瞬間、背筋が凍った。地面を蹴り、宙返りの要領でギルガメッシュを飛び越えて着地する。顔を上げれば、無かったはずの線と点が地面に増えていた。剣が刺さっている、と気付いた瞬間には、更に後方に跳躍する。
「貴様のようなモノが我に挑むとき、大抵はそうする。背に目はついていないだろう……とな。だが侮るなよ、我に死角などあり得ん」
志貴を追う様に放たれた剣が、次々に地面に突き刺さっていく。線と点が飛んでくる。それだけで、回避するだけならばなんとかなる。だが、どうしても回避の動作は大きなものになった。線や点は導にはなる。だが、その輪郭までを捉えることはできないのだ。間一髪で避けても、予想だにしない形状の武器が飛んできた場合、その『予想だにしない部分』に切り裂かれ、死にかねない。
続けて放たれたのは五つの武器。互いの隙を縫うようにして飛来する剣の形状は矢張り掴めない。
志貴は舌打ちし、右に飛ぶ。
「……ほう、貴様」
脇腹が焼かれた。姿勢を崩した志貴は、地面に叩きつけられる寸前で受身を取り、即座に起き上がったが、転がった拍子に方位を見失った。線と点しかない世界。他は真っ黒だった。絵の具で塗りつぶしたかのように、風景は何一つとして映らない。呼吸を落ち着ける。耳を研ぎ澄ませる。背後から風切り音。咄嗟に振り向く。巨大な線。一閃し、両断した。音を立てて落下した武具を見下ろし、ギルガメッシュは余裕の笑みを浮かべている。
「目を病んだか」
「オマエを殺すのに、視覚なんていらないだろ?」
強がりだ。自分でもわかっていた。暗闇の中、ギルガメッシュの線と点を見分けるのは容易なことではない。広大な海から、特定の波を見つけるようなものだった。
ギルガメッシュはネズミが騒いだ程度にしか思わないのか、気にした風も無くくつくつと喉の奥を鳴らした。
「滑稽だな雑種。先ほどの勢いはどうした」
鎧が鳴った。喉を鳴らして唾液を飲み込み、志貴は構えた。
「そら、遊んでやろう」
雨が降る。
***
光に包まれていく。キャスターは己の無力を嘆いた。主を捨て置いて逃げ出そうと呪文を紡ぐこの口を、焼き尽くしてしまいたい衝動に駆られる。志貴は走っていった。遠く、ギルガメッシュの元へ。その背中にかける言葉も発せない。無力。感謝もできない。助けてくれてありがとうと、言えばよかった。あなたに会えてよかったと、言えばよかった。もう二度と会えない。そんな予感があった。
光が強くなる。背中を見据える。瞼に焼き付けるべく、涙に濡れた目でじっと見つめた。そうすればするだけ、悲しくなる。二度と会えない? 嫌に決まっている。初めて、友と呼べる人を得た。志貴は家族とさえ言ってくれた。そこに報いず、何が友なのか。家族なのか。
項垂れる。キャスターの口が真言を発した。閃光、刹那、腕の中の少女が身じろいだ。
「だめ、キャスターさん……あの人、目が見えてない」
キャスターは背筋を凍らせた。だが遅すぎた。あたりを見渡せば、そこはいつか忍び込んだ衛宮の屋敷だった。
「そんな……」
目が見えない? 見えなくて、勝てるわけがない。
震えた。志貴が死ぬという想像が、現実味を帯びた。
「キャスター! 聞こえてるかキャスター! 戻せ!」
士郎が叫ぶ。そんなことができるなら、やっている。五人もの人間を同時に転移させるなど、令呪の力が無ければキャスターとて不可能だ。それを知っていて、志貴は命令したのだ。
「いいのか、死ぬぞ。いくらアイツだって、目が見えないで戦えるかよ! 見殺しにするのかキャスター!」
見殺し、という言葉を投げつけられ、頭に血が上った。
「あなたに、何がわかるのよ!」
燃えんばかりの眼を士郎に向けたキャスターが怒鳴る。
「わかるさ。死なせたくない、それは俺も同じだ」
「もう、五人を送ることはできないのよ……」
項垂れた。唇が震えていた。
「五人が駄目なら、俺だけ、俺だけでいいから、戻してくれ」
「バカな、シロウ。戻るのならば私が行きます。キャスター、一人ならばできるのか」
二人の気迫は、キャスターを押しやるほどだった。思わず一歩よろめいて、キャスターが力無く首肯した。五人は不可能だが、一人ならばなんとかなるだろう。
「ならば決まりですシロウ。私が行きます。文句はありませんね」
「待って、なぜ、貴方たちは志貴のためにそこまでするの? 敵同士でしょう」
キャスターの問いかけに、セイバーと士郎が目を丸くした。この状況で何を言い出すのかとでも言いたげだったが、キャスターにとってはこの状況だからこそ訊ねておきたかったのだ。
行けば、恐らく殺されるだろう。なのになぜこの二人は、志貴を救うと言うのだろう。キャスターとて、今すぐ飛んでゆきたい気持ちだった。だが、彼らにそんな義理など無いはずだ。
「人を助けたいと思うのに、理由が必要か?」
「一度背を任せた者が窮地に陥っている。それを救わずして、何のための剣か」
納得はできなかった。しかし、なんとなくわかったような気がした。こんな人々が、かつての自分の周りにもいてくれたなら、きっと自分は別の人生を送れたことだろう。言っても詮方ない。キャスターは目を伏せた。嬉しくも思う。志貴を皆が救おうとしてくれる。それを厚かましくも、我が事のように喜ばしく思うのだった。
「託します……。坊や、どうか志貴を……」
「キャスター!」
セイバーが怒鳴った。キャスターは小さく首を振り、遠く空を指差した。
「私たちには、仕事があります」
キャスターの指先を追って、皆一様に顔をしかめた。
「そんな、アレは、わたしの……」
桜が呻く。町の至る所に現れた巨大な影。唸り声を上げながら、町を闊歩している。アレの通り道がどうなるか、わからない者はいない。
「……了解した。シロウ、本当に大丈夫ですか」
「当たり前だ」
言って、士郎はキャスターの目の前に立った。強い視線。苦手な視線だった。こういう目を見ているだけで虫唾が走るはずだった。だがどうしてだろう、彼の目を見ていると、心強くなる。彼と志貴とで、負けるはずがないと思えてくる。それが錯覚だとしても、今のキャスターにできることは限られていた。信じて、しまいたい。
「頼みました。貴方たちが帰る場所は、メディアの名において死するとも護りましょう」
目を閉じる。街中に溢れた邪悪なマナを幻視した。
振りかざした杖が魔力を吸い上げる。どす黒い魔力が、メディアによって薄紫の閃光へと変じていく。
真言を解き放つ。誰にも理解できない言語を早口に捲くし立てたキャスターの眼がキッと開かれる。士郎は、じっとキャスターを見つめている。一度頷き、空間転移を発動させる。
「士郎──」
士郎が閃光に包まれた瞬間、気絶していた凛が目を覚ました。
「あんな金ピカ、ぶっ飛ばしてやりなさい」
士郎が笑った。
「当然だ。俺と志貴で、負けるはずがない」
跡形も無く消え去った士郎を見送り、キャスターとセイバーは手早く桜と凛を抱きなおし、屋敷の中に寝かせた。
「ここで、大人しくしていなさい」
「……ちょっと、そういうワケに……ツッ」
「凛、ここは私とキャスターに任せて欲しい。あの程度の闇ならば、我ら二人にとって敵にさえなりえません」
縁側に立つセイバーとキャスターの姿を見て、凛が息を呑んだ。満月になりきれない月を背にして、二人の姿は目映いばかりだった。
「……お願い」
セイバーが頷いて、飛び出していく。キャスターは後を追いながらも杖を振りかざし、魔力を取り込んでいく。魔力不足はありえない。黒い魔力を全て、己の力に換算してやればいい。現代の魔術師には困難なことも、キャスターにとっては造作もないことだった。
一軒の家屋の瓦屋根に立ち、二人で無数の巨人を眺めた。
「変わったな、キャスター」
「そうかしら」
はて、と首を傾げてみせる。セイバーは微笑した。
「多いが、一人で──」
「それ以上は言わないことよ」
「失言だった」
セイバーは不可視の剣の封を解放する。風を巻き起こす聖剣を構えた彼女は、じっと月を見上げていた。
「終わったら、どうする?」
「そうね、ゆっくりと、考えるわ」
そんな時間は無いとわかっていた。もう二度と会えないかもしれない。それならばそれで構わないと考えていた。今更、言葉に何の意味があろうか。信じていればいい、志貴の生を。ただそれだけで、メディアは満ち足りるのだから。
「行こう、王女メディア。我が剣、貴女に預ける」
「ええ、アーサー王。私たちに、敵などなくてよ」
天空が割れる。落雷は巨人を消し、暴風が切り刻んだ。二人の英霊が、夜の闇を切り裂いた。有り得ざる伝承。記されることのない神話が一つ、世界に生まれる。
***
腕は鞭のように撓り。
足は岩のようにして不動。
進退窮まった志貴にできるのは、放たれる宝具を片っ端から殺していくことのみ。思考などとうに捨て、線と点を視ることだけに集中する。腕が己のものでないように感じる。まるで独立した思考回路を得ているかのように、ほぼ同時に着弾する刀剣を打ち漏らすことなく迎撃する。
動く。体は自由。無限の地獄は無間の地獄と化し、反して志貴の精神は無間道へと達する。一瞬たりとも気の抜けない場面ではあったが、油断は無い。凌ぎ切れる。自信があった。だが、その自信は後には続かない。この場を凌ぐことなど有り得ない。たとえどれ程殺そうとも、ギルガメッシュが持つ武器はそれこそ無限だろう。故に、志貴が凌ぎ切るだけの精神と力を持とうとも、真実凌ぎきることなど不可能である。
ただそれでも、道は殺しつくすことのみ。
ひたすらに腕を振り、目を見開き、直視する。死を。無数の武器の死を。操るギルガメッシュの死を。いつかその胸を突くと決めて。
肩幅に開いた両足は動かない。鞭のような腕は目で追うことすら不可能だった。それほどの境地に達して尚、ギルガメッシュは余裕を見せている。
「受けるのみでは辛かろう。楽にしてやる。有り難く思え!」
ギルガメッシュが吼えた。飛来する線が増える。機関銃掃射のような剣の雨の只中にいる志貴には、回避も防御もない。ただ殺すことのみで安全を確保し、いつか穿つ隙を睨む。だが、突如増えた刀剣は最早、志貴の身体能力さえもその数で凌駕していた。
一つ目を下から切り裂き、二つ目を返した刃で上から殺した。次の一本は点を一撃で穿ち、その次は横から凪ぐようにして殺す。四本殺すまでに0.5秒とかからぬ早業であったが、そこで手詰まりだった。次手は四本目から距離を開けずに飛来していた。まったくの同時。それも三つ。
志貴の表情に焦りが浮かぶ。三つを殺すことは不可能。
そのうちの一つに狙いを絞る。銀刃が煌いた。空中で静止する武器。同時に、志貴は体を僅かにずらした。首と脹脛に激痛。灼熱の痛みは、すぐに冷気によるものと気付いた。首筋が凍ったように冷たかった。
痛みに呻く暇も無い。間髪いれずに次が迫っていた。眼前に迫る線。
ナイフを振るう。間に合わない。ギルガメッシュが新たに放った刀剣は左肩に直撃した。衝撃で吹き飛ぶ体を制御する術を志貴は持たなかった。吹き飛ばされた瞬間、視力の無い志貴は上下左右の区別もつかない闇の中、無様に顔面から叩きつけられる。
痛みに一瞬意識が途絶えかける。
辛うじて保った意識を手繰り寄せた。体は動かない。限界だった。ランサーとの機動戦で臨界点を越えていた体が、噛み合わない歯車同士のようにギリギリと耳障りな音をあげた。
──死ぬのか。
怖くは無い。ただ悔しい。殺すと誓った。この男だけは塵芥さえこの世に遺させないと誓った。目の前で、イリヤを殺した男。あんなに暖かくて、やわらかくて、悲しい少女を、何の躊躇いも無く打ち貫いた外道。英雄王などと、笑わせる。こんな外道が英雄だというのなら、そんなものはあまりにもくだらない。
たった一つだった。志貴がこの戦争で後悔するのはたった一つだけ。キャスターに吸い上げられ床に伏せている無関係な人間も、アンリ・マユに飲み干された四十六の犠牲者たちも、志貴にとっては見知らぬ他人に過ぎない。責任はあるだろう。償いも必要だろう。だが、その全てを背負うなどという思いあがりは有り得ない。怒りはある。悲しみもある。だが、それはたった一人の知人の無残な死に比べれば、小さかった。
目の前で死んだイリヤスフィール。まるで命の通わない人形のようになってしまったイリヤスフィール。あとほんの少し、志貴がうまく跳躍し、あとほんの少しだけ腕が早く動けば、死なせなかったかもしれない少女。
憤りは海よりも深く、大きかった。
──うん、ばいばい遠野くん。ありがとう──それと、ごめんね。
少女の像は、かつて救えなかったクラスメイトの姿と重なり、
──死よりも辛いということは、確かにあるんです。だから──貴方だけは、約束を守ってください。
処刑を明日に控えた妹の像を結んだ。
どくん、と血が燃えた。明日、死ぬ。忘れていた己に気付いた。明日、秋葉は死ぬ。何故忘れていたのか。否、忘れたかった。戦いに没頭して、辛い現実を忘れてしまいたかった。
「くそ、なんて、無様だ」
「気付くのが遅かったな。我に挑んだ時点で、貴様は無様に死するしか無かったということだ」
──違う。
口には出さず、呟いた。
ギルガメッシュが腕を上げた。志貴はゆっくりと起き上がる。左肩から剣を引き抜いた。重い剣だった。点にナイフを突き立てる。静かに、名も知らぬ剣が死んだ。明日、秋葉もそうして死ぬ。
マガジンに銃弾が装填されるように、ギルガメッシュの背後に剣が浮いた。それを、線と点が浮き上がってくることで確認して、志貴は深呼吸した。殺す。殺せる。
乾いたスナップ。放たれたのは十。絶望的。だが、何故か恐怖は無い。
ナイフを閃光させる。八つを殺し、二つは回避すると定める。その通りにナイフが煌き、次々に宝具を殺していく。残ったのは二本。体を捻ろうとしたその瞬間、
「──ッ」
宝具の背後から、更に二つの宝具が現れた。回避するはずだったものと併せて四本。
回避を即座に諦め、腕を振る。一つ、二つ。そこで手が詰まった。体を捻る暇も無い。ギルガメッシュを睨んだ。どんな顔をしているのか、じっと目を凝らした。だが見えない。笑っている。それだけがわかった。悔しさに歯を食い縛り、目を閉じた。
背後に、人の気配があった。
「投影、完了──!」
詠唱と共に、宝具が打ち落とされた。
志貴は笑った。なんでいるのかなんて野暮な質問はいらない。どんなに追いやろうと来てしまう。ほんの数日の付き合いだが、そのくらいのことはよくわかっていた。
「馬鹿野郎。目が見えないのに勝てる相手か」
開口一番に怒鳴った士郎を面食らった表情で見て、志貴はクッと喉を鳴らした。
「笑ってる場合か。まったく、恩売るだけ売って自分だけで決着つけようなんて、かっこつけるにも程がある」
一頻り愚痴を言い終えると、士郎は構えた。志貴も倣うようにして構える。ギルガメッシュは動かない。じっと、何かを堪えるようにして仁王立ちしていた。
「く──はは、はははは! やるというのか我と、この場で我と向き合うとでもいうのか雑種ども! 塵芥が一つ増えたところで、何の意味がある? 何の脅威になる? 精々犬っころに纏わりつく程度だろう。我を、我を笑い殺す気か貴様ら」
ギルガメッシュはこの戦いを余興としか見ていない。以前志貴が己に迫れたのは、セイバーの力があってこそだと思っている。付け入る隙はそこしかないのかもしれない。だが士郎も志貴も、油断に甘んじての奇襲などに頼ろうとは思っていなかった。
「笑わせるだけで死んでくれるなら、いくらでもやってやるよ」
志貴は嘲るように言って、
「そうはいかないんだろ。なら、戦って倒す。それだけだ」
士郎が続く。
その言葉に、ギルガメッシュの赤い双眸が伏せられる。
「そうか……」
呟き。常に尊大な態度で佇む英雄王には似つかわしくないほど、小さな呟き。やがて、
「余興と思って手を抜いた。済まなかったな雑種──」
開かれた眼は怜悧な輝きを持ち、二人を一飲みにせんほどの眼力で睨み付けた。
「──その顔も飽きた。肉片一つとて遺さんぞ。我が財宝、最早一つ足りとて惜しむまい──!!」
士郎は目を見開き、展開された十七の宝具を睨む。その間にも頭では対抗策を模索していた。
志貴の剣閃を活かすには、何がいいのか。あの脚力を活かすには、魔眼を活かすには。
放たれる宝具、刹那、士郎の脳裏を詠唱が過ぎる。
回路を規格外の電流が流れる。術者である己が感電死しかねないほど強烈な電圧。遠坂凛からの供給を真正面から受けた力は、かつてとは比べ物にならない。
「──工程完了。全投影、待機」
歯茎を食い縛り、強すぎる力を制御しながら、士郎は設計図を起した。あの十七の宝具全てを読み取り、投影し、打ち消すために。
衛宮士郎の規格を越えた魔術。否、それはありえない。この身は──この魂は──。
迫った宝具目掛け、志貴が駆けようとする。それを制するように士郎は前に立ち、
「──停止解凍、全投影連続層写」
右手を翳し、肉を突き破って飛び出そうとする十七の剣を、射出した。
一つ二つと迎撃していく士郎の複製。それを見て、ギルガメッシュは怒りの形相だった。
「如何に真に迫ろうと、オリジナルを複製が越えることはありえぬ」
四つを相殺した。志貴が駆け出す。士郎に神経を集中させたギルガメッシュの元へ、一瞬のうちに迫るべく。だが、
「如何な俊足を持とうと、我に死角は存在せん──!」
志貴をじろりと睨んだギルガメッシュは、背後の宝具を志貴に向けて射出した。
「──この状況下にあってまだ戦えるというその驕り、増長、傲慢、高慢、全てが癪に障る」
九つを打ち落とす。志貴は立ち止まり、宝具をひたすらに殺していた。膠着する。これぞと思った策が、容易く打ち破られる。士郎も、最早拮抗できずにいた。一発ずつしか射出できない士郎に対し、ギルガメッシュは同時。いずれ、間に合わなくなるのは必定。
「その程度の力で何かを救うだと、仇を取るだと……。笑わせるな。力も無い雑種が、思い上がるのもいい加減にしろ」
怒声が響く。十一を打ち落とした。あと七つ。そう思ったとき、時間が止まった。ギルガメッシュは剣を射出し続けている、志貴を目掛けて。その一方で、あの男が握った剣。歪な形の剣。エアという名の、断世の剣。決して抜かせてはいけないソレを、ギルガメッシュは握っていた。
赤い風が、世界を切り裂く風が、大空洞を旋風の中に巻き込んだ。
──打つ手は無しか。
「無力を嘆き死ね──“天地乖離す──」
士郎は複製した剣を放り投げ、大声で怒鳴った。
「逃げろ──!」
「──開闢の星”」
志貴とてギルガメッシュが握ったそれに、見えずとも気付いているはずだった。だが動けない。ギルガメッシュが放った刃は志貴を大地に磔にしていた。後退も、前進もない。ただ殺すことしかできずに、志貴を赤い閃光が巻き込んだ。旋風に、別の赤が混じったと思った瞬間には、士郎もまた“天地乖離す、開闢の星”に切り刻まれていた。
地面に叩きつけられる痛みなど感じなかった。
切り刻まれた箇所など数え切れなかった。
ただ生きている。生きているのに、生きている感覚がなかった。絶望と、人はいう。打つ手が無い。否、たった一つだけ、ある。けれど、それはできない。ランサー相手に使おうとした、アイツの最終手段。ゲイ・ボルクに阻まれた固有結界。だが、本当に衛宮士郎はそれを扱えるのか──。
出来るはずが無いと、気付いていた。詠唱の最中に気付いた。だからこそ、すぐさま剣を降らすよう切り替えることができたのだから。
あの詠唱の間、何も感じなかった。世界を生み出す大魔術を使おうというのに、何も感じなかった。そんなはずはない。己に響かぬ詠唱になど、意味はない。ならば、衛宮士郎は間違えている。
何を間違えているのか。
──貫いてみろ。
アーチャーの言葉を思い出した。曖昧な言葉を遺して逝った赤い騎士の背中を思い出す。あの詠唱を思い出す。
正義を貫いたエミヤシロウが作り上げた詠唱。それがアーチャーの詠唱。
ふと、思い至って士郎は笑った。簡単なことか。簡単なことだ。アレは『正義を貫き死んだエミヤシロウ』のもので、これからその道に飛び込んでいく衛宮士郎のものじゃない。
──貫いてみろ。その生涯一つ、貫くことができたなら、貴様がヤツに敗北することはない。
そう、衛宮士郎はこれからだ。たとえどのような困難が待ち構えようとも、たとえその生涯を否定されようとも、貫く。自分たちを逃がすために自ら犠牲となった正義の味方を、追いかけると決めた。欺瞞かもしれない。傲慢かもしれない。救いなど本当は何もないのだろう。ただそれでも、この体に傷が一つ増えるたび、誰かが笑えると信じて──。
士郎の体が起き上がる。志貴もまた、震える足を杖にして立ち上がろうとしていた。
しっかりと地面を踏みしめた。力は有り余っている。詠唱する時間さえあれば、必ず勝てると信じて。
「──あの小娘、流石は聖杯足りえる器か。我の支配が及んだモノを、横合いから奪うとは……」
巨人が数体、地面に仰臥していた。心の中で感謝して、士郎はギルガメッシュを睨んだ。
「志貴」
「ああ、抑える」
言って、志貴が一歩前に出た。士郎を庇うように、背中を見せる。ぼろぼろの背中に、全てを任せ、目を閉じた。衛宮士郎だけの詠唱をするために──。
目指すのは赤い世界。心を静めた。その一方で燃え上がる回路に電流を流した。スパークする回路を、赴くままに制御する。力を抜いて、自然体で。
一言目に、魂を乗せて。
──I am the bone of my sword.
鼓動を感じた。
何かの歯車が回りだすのを感じた。
同時に聞こえてくる剣戟。
──Steel is my body,and fire is my blood.
熱く滾る心が、解放を求めて四方八方に突き進む。
──I have created over a thousand blades.
剣戟は尚激しさを増していく。志貴の息遣いが鮮明に聞こえてくる。限界を超えて、それでもナイフを振るう志貴の魂さえ感じた。
──Unaware of loss.
Nor aware of gain.
異変はそのとき。剣戟の音が途絶え、肉を潰す音がした。片目を開く。声をあげそうになった。志貴の左腕がだらしなくぶら下がっている。しかし堪えた。再び、聞くに堪えない水気を帯びた音と共に、志貴に剣が突きたてられる。それでも、志貴は腕を止めない。背後の士郎の詠唱が完了するまで、決して動かないとその背中が語っていた。
志貴は抑えると言った。なら、それを信じる。
──Withstood pain to create weapons,
waiting for one's arrival.
一つ、二つ。志貴の体にハリネズミのように剣が突き刺さっていく。どこで意識を保っているのか、それはまるで、ランサーとの対峙の再現だった。あの不覚を取り戻すとでも言うように、志貴は微動だにしない。生きていられるのはキャスターの強化の賜物なのか、苦悶の声一つ漏らさずに、ただ腕を振る。
――I have no regrets. This is the only path.
「貴様──」
ギルガメッシュが声をあげ、途轍もない数の宝具を装填する。
志貴の体が震えた。士郎もまた、震えた。その数二十を遥かに超える。
逃げろ、と声を出しそうになった。察したのか、志貴は動かないはずの左手で、制した。
「見えるぞ、ギルガメッシュ──!」
それは、如何なる芸当か。
今まで岩石のようにして動かなかった志貴の足が地面を蹴った。宝具の合間合間を縫うようにして、描いた機動は天地上下を逆さまに半円。すれ違った宝具を、片っ端から殺すその所業に、士郎はおろか、ギルガメッシュでさえ言葉を忘れたとき──
――My whole life was "Unlimited blade works"
真名が解放される。心もとない回路全てが、魔力で満ちたりる。燃え上がる炎は心の炎。全てを隔絶する拒絶の炎。そして、すべてを包み込む正義の炎。
黒い巨人が闊歩する闇の世界は途絶え、赤き荒野が姿を見せる。招待されたのは志貴、そしてギルガメッシュ。
「固有結界──これが、貴様の能力か」
拳を握り、士郎は顔をあげた。体の芯からあふれ出しそうな何かがこみ上げてくる。一面の荒野。一面の剣。そう、これこそが衛宮士郎の存在そのもの。
「──英雄王、覚悟を決めろ」
片腕を上げた。
「俺の生涯、アイツの生涯は──────重いぞ」
***
「志貴」
何が言いたいかわかったのは、士郎の声に覚悟があったから。
「ああ、抑える」
できない、とは言えなかった。この身朽ちようとも、衛宮士郎の企みを完遂させてみせる。
士郎の詠唱を聞きながら、志貴の刃はランサーの刺突の如き速度を以って、無数の宝具を片っ端から殺した。だが所詮は先ほどの焼きまわし。志貴に凌ぎきるだけの力は無い。
目が見えない。ならば五感を研ぎ澄ませればいい。腕が動かなくなれば、体を盾にすればいい。それで、この男を倒せるのなら、何を惜しむ必要がある。
一本を逃した。とうに使い物にならなくなっていた左腕を突き出した。骨を砕き、肉を抉る音。呻き声一つあげはしなかった。士郎の邪魔はできない。歯を食い縛り、ともすれば白目を剥いて気絶しかねない痛みを必死になって耐えた。痛い。痛い。体が悲鳴をあげる。すぐに、腕が追いつかなくなった。二本目が脇腹を掠めていく。その先には士郎がいる。咄嗟に背後に刃を回した。すると、がら空きになった前方から宝具が二つ突き刺さった。
声はあげない。仮に死んでも、仁王の如く立ちはだかって、士郎の傘となる。
意識は、すでに無かったのかもしれない。ただ、覚悟だけで刃を振る志貴の目に、生気などなかった。糧は、腹の奥に感じるキャスターの息吹。彼女もどこかで戦っている。それが、志貴を勇気付けた。
右腕が上がらなくなった。
──だから、どうした──っ!
両腕を広げる。一本たりとも通さない。通りたければ、この体を貫いてゆけ。
ギルガメッシュを睨んだ。矢張り笑っているのか。それとも、少しくらいは驚愕しているのか。どちらでもよかった。この手で殺せないのは残念だと思った。だが、それでもいい。この男を前に逃げ出して、どうして秋葉の前に姿を見せられるのか。自分の始末もつけられない男を、誰が迎えてくれるというのか。
──頑固ね。
「当たり前だろ。それだけが、取り柄だ」
小さな鈴の音に応えて、志貴は笑った。
──でも、死んだらアキハは悲しむんじゃない?
「かもしれない。けど、ここで逃げたって秋葉は怒るさ」
──そんなことないと思うけどな。生きててほしいって、思う。
「じゃあ、俺のエゴかもな。楽になってしまいたいって、どこかで思ってるのかも」
──弱虫ね。
「当たり前だろ。痛いのは嫌だよ」
──そんな弱虫なシキに、プレゼントがあるんだけど、欲しい?
「貰えるものは貰う主義だよ、俺は」
──そう、よかった。だめって言われても無理やりにあげるつもりだったから。
「相変わらずだな、イリヤ」
──あれ? 気付いてたの?
「いや、なんとなく。で、俺は死んだのか?」
──元々死んでるじゃない。
「……それもそうか」
──さってと、おしゃべりはおしまい。ほんとに死んじゃうかもしれないし。でも、いつもと手順が逆だから、一分が限界よ。
「何をくれるのか知らないけど、それだけあればなんとかなりそうな気がするよ」
──ふーん。色々言いたいことがあるんだけど、急ぐね。シキ、貴方に、死神の加護があらんことを。
光。眩しい。志貴は目を閉じそうになって、すぐさまそれを拒んだ。目の前に、黄金の剣が飛来していた。
「シッ」
上体を半身ずらして回避しつつ、線に向けて刃を通す。真っ二つになった高価そうな剣が落下していく。音を立てて地面に落下した剣を、志貴はまじまじと見つめた。視える。見える。見えている。
──視力が、戻った……?
暗い世界。黒い巨人。ところどころが砕けた黄金の鎧。目を見開くギルガメッシュの表情に至るまで、全てが見えた。白く靄がかかったように不確かではあるが、瞳が光を取り戻していた。
「貴様──」
この目に通った不思議な魔力の正体を悟ったのか、ギルガメッシュが声を上げた。
すぐさまに、ギルガメッシュは二十以上もの宝具を装填した。先ほどまでならば、肝を冷やしただろう。絶望しただろう。あれほどの数、打ち落とすだけでは限度があった。だが、視力があれば回避できる。
「見えるぞ、ギルガメッシュ──!」
二十四の宝具が一斉掃射される。同時に、志貴は跳躍していた。背後の士郎との位置関係を一瞬で計算し、打ち落とすべき宝具に狙いを定める。宙返りの要領で飛び上がった志貴は、己の進路と見逃せば士郎に突き刺さる刃のみを切り刻んだ。
一秒にて十二閃。
最早光としか形容できないそれは、人の技を極限まで極めたある一族のもの。
だが、
──まだ、いけるのか──。
己の更なる可能性に、志貴は舌なめずった。
体はぼろきれ。だが十分。
ギルガメッシュは千の宝具を有するという。だが、千ごときで何が出来る。志貴の背後には
「My whole life was──
"Unlimited blade works"」
無限の剣を持つ者がいる。
燃え盛る炎を、志貴は空中で見た。炎は壁となり、壁は境界となり、やがて世界を成す。赤い荒野。無限の剣。むき出しの大地。かつてこの身で味わった、“無限の剣製”。
着地すると、そこには目を閉じた士郎がいた。横に並び、ゆっくりと上体を起した。蛇が鎌首を擡げるように、ゆっくりと、緩慢に。そして、目だけを黄金の英雄に向けた。
──何を思うギルガメッシュ。
「固有結界──これが、貴様の能力か」
視力を得た青い眼、死神の眼がギルガメッシュを射抜く。その程度、何ほどでもないと睨み返してくるギルガメッシュは、矢張り泰然としている。
「──英雄王、覚悟を決めろ」
士郎が片腕を上げた。ギルガメッシュが宝物庫から取り出した宝具たちは、既に複製され、士郎の両脇で待機している。
「俺の生涯、アイツの生涯は──────重いぞ」
「高々しみったれた能力を見せただけで随分と調子に乗る。所詮は偽物、紛い物に過ぎん。偽物が、本物を上回ることなど無いと、言ったはずだ──!」
放たれる宝具。士郎を見た。ゆっくりと頷く。同じように返して、志貴は風になる。一陣の黒い風。迫り来る宝具の雨に、真正面からぶつかっていく。
「馬鹿めがっ!」
体勢はとことん低く。刃は背後に流し、ただ突き進む。一本目の宝具とぶつかり合う。響く剣戟。志貴は腕を動かさない。響いた剣戟は、本物と偽物がぶつかり合い、そして互いに消滅した音。
引き金だった。ギルガメッシュが放つ宝具の数は、五十を越えた。志貴一人を目掛けて五十が殺到する。本来ならば必死に攻撃。だが尽くを──
「あぁああああああ!!!!」
士郎が迎撃する。
速く、疾く、迅く。風よりも光よりも速く疾走すべく、足を動かした。一歩進むたびに血が吹き上がった。脛、太股、脇腹、胸、肩、首、頬。名だたる武器によって傷つけられた体が血を噴出す。それは悲鳴ではない。歓喜の雄叫び。もっと速く、疾く、迅く。ようやく届くのだと、体が昂ぶっている。
そして──
「貴、様──雑種、ごときが」
アインツベルン城の再現が訪れた。
志貴は見上げる形で、ギルガメッシュは見下ろす形で。
「いつか、心に決めたあの想い」
立ち位置は同じ。だが確実に違っていた。心の位置。それが、逆転していた。
「あえて今、ここで口にしよう」
ギルガメッシュが左腕で宝物庫に手を伸ばす。その手が握ったのは、青く輝く盾。全てを反射する、神話の盾。ギルガメッシュがそれを構えるより早く、迅雷の如き速度で志貴の腕が走る。音も無く死んだ盾を見下ろし、ギルガメッシュは笑った。
志貴は睨む。ギルガメッシュの体に走る総数十九の線を。
「ギルガメッシュ、貴様を──」
「く、はは、ははははははは……! 終焉など──ッ!!」
言霊は一つ。
遠野志貴の存在意義。
「──斬刑に処す」
一秒の合間に、煌めく十七閃。
古代メソポタミアに生まれた原初の英雄ギルガメッシュは、その顔に愉悦の笑みを浮かべたまま、十八の肉塊と化した。
見届ける。地面に落ちた無敵の鎧とギルガメッシュだったモノが、透明になり消えていく。それと共に、赤い世界も消え、志貴の眼は深い闇を映し出す。魔法は解けた。イリヤスフィールが見せてくれた幻の世界は消え去った。
大聖杯は、ギルガメッシュの手によって既に破壊されている。断末魔のように影を吐き出しては崩れていく様は、あまりにも無様だった。止めを刺すつもりにもなれず、溜息を吐く。
どさりと、背後で物音がした。振り返る。線と点の集合体が、地面に倒れていた。
志貴の意識も途絶えていく。夢から覚めるように、眠りに落ちていく。それは、堪えなければならなかった。
大空洞は、既に崩壊を始めている。ギルガメッシュの宝具に、セイバーの宝具。無事で済むはずもない。溜息を一つ吐いて、士郎を担ぐ。
一歩を踏み出して、よろめいた。二歩歩いて咳き込んだ。膝をつきそうになったが、足を進めた。岩盤が落下してくる。上も見ずに、ナイフを突き上げた。死んだ岩盤の合間を縫って歩く。
「重いな、ほんと……」
士郎も、気持ちも、自分の体も。
キャスターとの繋がりが消えていることには気付いていた。しかし、声はあげなかった。そうしたら、泣いてしまいそうだったから。
心の中に感謝の言葉。それで、別れは済んだ。
終わったという実感はなかった。始まりはこれからだ。真実の困難は、この先に待つ。
暗く湿った世界を、遠野志貴は歩いてゆく。
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