Dead Eyes See No Future



 セイバーとキャスターを探した凛の視線は、火柱の根元に注がれた。巨大なクレーターの中心。黒い炎に照らされた、やけに大きな十字架が二つ。そしてそれぞれに、セイバーとキャスターが鎖で雁字搦めの格好で磔にされていた。キャスターの腹に突き立てられているのは死神のシンボルとでも言うべき大鎌だった。
 二人からはまったく力を感じなかった。切ないほどに弱々しい生命の輝きが、強靭無比のセイバーと、無尽蔵の魔力量を誇る魔女を辛うじて現界させている。
 鎌に何かしら仕掛けがあるのだろう。たとえばそう、魔力を吸い取ってしまうとか。
 悪い予感がした。そんな武器を所持している者に、心当たりがあったからだ。しかし、そいつはとっくに死んだはずだった。では、何故。考えようとした凛の思考を、桜の悩ましげな吐息が遮った。
「殺す、ですか。あの神父さんみたいに? 真っ黒に焦げて。そうなんですよね、遠坂せんぱいは欲しいものは全部奪う。欲しいもののためなら他のものはいくらでも犠牲にする。兄弟子を殺すことにだって、なんの感慨も抱かない。泥棒猫の目、冷え切った目、まるで雪女。吐き気がします」
 矢継ぎ早に放たれた言葉には力が篭らない。笑みは如何にも弱弱しく、脂汗を浮かせた肌は土気色になっている。理由はいまいち不明だが、聖杯として機能するために、いささか弱っているらしかった。好都合といえば好都合だが、凛は戸惑いを隠せない。
 全てのことが、理解不能だった。キャスターに家を破壊されてしまったのが悔やまれる。膨大な書物の中に、この地下空洞のことや、あの黒い太陽について記されたものがあったのかもしれないのに。
「あれ、もしかして何も知らないできました?」
 青い顔をしたまま、桜がたずねてくる。黒い太陽を背に、あくまでも悠然と構える桜は、息を荒くしている。弱っていた。確実に弱っていた。しかし凛は気圧される。空洞に満ちた無尽蔵の魔力。それらが全て桜に収束しているからだ。桜は無尽蔵の魔力を飲み込み、体中から発散している。まるで加湿器だと凛は思った。蒸気と化した桜の魔力が、ただでさえ邪悪な匂いを放つ大空洞を更に貶めていた。
「ここは、祭壇ってところです。上にも一箇所強い魔力を放つ場所があったでしょう? あちらは偽物なんだそうですよ。ホンモノはこっち。遠坂、マキリ、アインツベルンが求めた聖杯は、ここで成るんです」
 嬉しそうに手を広げ、大仰な動作で説明をする。その身振りに言峰綺礼の影を見た凛は、笑っていた。
「何か、おかしいですか?」
「別に、身振りを真似たって、ああはなれないんだろうなと思っただけ」
「は?」
「で? どうする?」
「そうですね……その前に質問していいですか?」
 桜が鼻を鳴らした。くんくん、くんくんと匂いを嗅ぐように。
「生臭いんですよね……先輩……鼻がきくようになったのかな、なんかすごくくさいんですよ。女の、ううん、雌の臭い」
 桜はわざとらしく鼻を鳴らし続け、やがてぴたりと止まる。上半身を折り曲げて、顔だけが凛の方を向いている。鎌首を擡げようとする蛇のような仕草に、凛は頬をひくつかせた。
「せんぱいの匂いも混ざってる」
 くすくすと、桜は不気味に笑う。それに合わせて、桜の背後で蠢く無数の触手たちも全身を震わせていた。
「アンタ……」
「気持ちよかったですか? せんぱいに抱かれたんでしょう? ねえ、きもちよかった?」
 桜が一歩踏み出した。咄嗟に宝石を一つ握り、腕を牽制するように突き出す。折れた腕が悲鳴をあげたが、顔には出さない。弱みなど見せれば、その瞬間にあの泥に飲まれる。桜が凛を脅威としているうちに、殺さなければ。
「聞いてるんですよ。抱かれたんでしょう?」
 取り合うつもりは無い。無言で腕を突きつけ、もう一歩進んできた桜を睨む。
「無視するんですか?」
 凛は答えない。
「わたしなんか、人ですらなかったのにな……知ってます? ふふ、わたしの初めて、蟲だったんです。おじい様に無理やりに押し倒されて、気がつけば蟲の中にいました。何が何だかわからないままに終わってましたよ」
 あくまでも笑いながら桜が言う。凛は一瞬桜の言葉を理解しかねた。否、したくなかった。そんな馬鹿なことがあるかと思ってしまった。
「きっと、そのときに埋め込まれたんでしょうね、聖杯の欠片。それからはずっとずっと、何もいいことなんてなかった。兄さんに無理やりにされるだけのモノです。だから、せんぱいと一緒に居られる時間はほんとうに楽しかったし、嬉しかった」
 なのに──。
 桜が凛を睨んだ。
「遠坂先輩に取られちゃった」
 へへ、と桜が笑う。
「でもね、遠坂先輩……ううん、姉さん」
 桜は凛を姉と呼び、
「わたし、決めたんですよ。自由になる。わたしはまだ完璧じゃないけど、ランサーもセイバーもキャスターも食べてしまえば、完璧になれる。神父さんもお爺さまもそう仰ってましたから。そうしたら自由になれる。好きなときに好きなだけ食べて、好きなものは好きなだけ手に入れる。姉さんも、先輩も、みんな、食べちゃう」
 わたしはもう狂っていると、宣言した。
「ふうん。自由もいいけどアンタ、その前に死ぬんじゃない? 顔真っ青じゃない。ねえ、もしかして、サーヴァントの魔力──そうね、魂を取り込んでるわけ?」
「ええ、そうですよ。だからこんなにも、力に満ちてる」
 道理でと納得した凛は、改めて桜の様子を見た。土気色の肌。白い髪。毒々しい着衣。足元はおぼつかず、目には生気がない。当然といえば当然である。サーヴァントの魂を取り込む。その所業が既に魔法の域だったが、この際置いておく。英雄の魂。言葉にしただけでさえ重苦しい重圧を伴う。それを、桜はいったい何人分取り込んだというのか。自我を保っていることが、凛には不思議だった。
「あと三人。三人で自由になれるんです。まずは最初に姉さんを──」
 桜がにこやかに微笑む。妖然と。ぞくりと背筋を泡立たせた凛は地面を蹴った。鋭く流れた視界に、一直線に伸びてきた泥の触手を見、それ目掛けて火球を放った。宝石魔術ではない。言峰を焼き払った炎の余熱を再び魔力に転換し、この右腕に留めておいたものだ。何本もの泥の触手は炎の渦に阻まれ、崩れていく。
「殺します」
 凛はハッとして顔を左右に首を巡らせた。正面から来た泥はフェイク。左右から五本ずつの泥が襲い掛かってこようとしていた。
「──Vier,Drei四番、三番,Das solide die Verteidigung炎の鎧……!」
 炎によって感覚が麻痺している右腕を突き出し、凛が叫ぶ。大地から炎が吹き上がり、凛に絡み付こうとする泥をたちどころに蒸発させていく。先ほどから炎の魔術ばかり行使している己に気付いて、凛は辟易した。気が立っているのか。
 炎の鎧を纏う凛は、小さく呼吸をして顔をあげた。桜は悠然としている。自信満々といった風情で、凛を見下すかのような笑みを浮かべていた。その気持ちは分からないでもない。今打ち払った無数の泥だったが、桜の周りには再び無数に浮かんでいる。アレは底なしだと、凛にはわかっていた。この洞窟に満ちた禍々しい瘴気。そして、瘴気を生み出す火柱と、その頂の黒い太陽のようなもの。アレが存在する限り、桜の泥は消えることがない。
 対して、凛の炎の鎧は宝石二つ分の力を持っているとはいえ、いずれは消えてしまう。残る秘蔵の宝石は二つ。消えても、鎧をもう一度作り出すことはできる。だが──
stark――Gros zwei二番        強化
 凛は防御主体の考えを打ち払い、宝石を使用しての強化を試みた。折れた腕と鼻。焼けた腕。それらの傷が一瞬で癒え、体は綿毛のように軽くなり、拳は岩盤さえ砕くほどの硬度を、人のクラスを遥かに凌駕する臂力を得た。
 護ってどうする。
 凛はほんの一瞬でも臆病風に吹かれた己を詰った。もう一度鎧を纏う必要はない。この鎧があの泥の猛攻に耐えられなくなるより早く、間桐桜をぶちのめしてやればいいだけの話。
「殺す……殺して、先輩の前で食べてやる。骨も皮も髪の毛一本も遺さない。先輩はどんな顔をするんだろう……ふふ、ねえ、姉さん?」
 小さな声で呟く桜は、自身を掻き抱いて蹲った。
 好機。凛はすかさず走った。魔力を練り上げ、右手に収束させる。鎧に感化されドロドロとマグマじみた変化をした魔弾を、桜に叩き込むべく接近する。気付いているのかいないのか。桜は顔を上げようとしない。
 その姿は痛々しいほどだった。事実、桜の体はもう限界だろう。目は焦点を結ばず、口は半開き。今にも死んでしまいそうな雰囲気がある。だが、桜の背後で揺らめく影だけは別だった。まったく趣味の悪い。凛は愚痴り、飛んでくる影に拳をくれてやる。纏った炎が影を打ち消す。
 一本や二本ならいくら来ようと物の数ではないが、蛇のようにうねる泥は、その数が尋常ではなかった。四方八方から死角を縫うようにして飛んでくる。直撃を受けても鎧がいくらか緩和してくれるので、ダメージはそう大きくはない。しかし、何度も直撃されて無事でいられるほど、生易しいものでもなかった。次々に襲い掛かってくる泥を前に、凛は後退を余儀なくされた。桜は蹲ったままで居るのに、自立して動いている影はやけに動きが良かった。
「ッチ、厄介ね」
 跳躍し、着地するまで一秒。その間だけで四本の触手がそれぞれ死角を突いてくる。両手両足を振り回し、影を粉砕する。着地すると、纏った炎で大地が焦げた。息をつく間もなく駆け出して、再び桜に接近しようとした瞬間──
投影、開始トレース・オン
 桜を護るように立ちはだかる士郎の姿に、息さえ止めた。



***




 体はとっくに壊れていた。それでも目を覚ましたのは、誰かに呼ばれた気がしたから。
「死んだ、のか」
 ふわりふわりと揺蕩う体。四方八方は闇に囲まれている。己の体さえ把握し切れないほど、濃い闇だった。衛宮士郎。呟いて、嘆息した。まさか、自分は幽霊にでもなっているのではないか。そんな考えが頭を掠めた。
 強ち間違いとも言い切れない。あんな死に方をしたら、誰だって化けて出ようと思うに違いない。志貴や凛がどうなったのか、気になって仕方がなかった。
 ──助けて。
 また聞こえた。士郎は耳を欹てた。随分懐かしく感じるが、紛れもなく桜の声だった。毎日聞いていた声。しかし、彼女の絶叫を聞いたのはこれが初めてだった。
 やけに頭蓋に響く。耳元でメガホン越しに喋られているような声量で、直接頭に響いてくるような感じがある。
「桜なのか!」
 声をあげていた。闇が脈打ったような気がした。目の前の闇がゆらゆらと揺れている。それは次第に色を持ち、輪郭を持ち、そして──
「さくら」
 数日前に別れたきり、見ることのなかった少女へと姿を変えた。
 胸が痛くなった。心が打ち震えた。何故なのかと考えて、この場所を見渡した。真っ暗で、真っ黒で、寒い。
 ここは桜の中だ。やわらかく、やさしく笑う彼女の中だ。やさしくて、素直で、本当の妹のように思っていた少女の心だ。それがこんなに暗くて寒い場所だったなんて知らなかった。気付きもしなかった。
 現れた桜は悲しげだった。俯いたまま顔をあげようとしない。士郎の知らない桜がいた。本当に桜なのかと疑いたくなるほど、彼女は別のものだった。
「先輩は、いつだってわたしの味方、してくれますよね」
 俯いていた桜は、士郎の腕に己のそれを巻き付けていた。押し当てられた胸から感じるのは柔らかさと暖かさ、しかしその温もりはどこか空虚だった。
「当たり前だろ」
「そうですか。じゃあ──」
 士郎はそのときになって、違和感に気付いた。臓物の隙間を、何かが這っている。
「姉さんを、殺してください」
 光が、はじけた。



***




 驚愕、そして困惑。
 凛は立ち止まり、呆然とした。
「士郎?」
 最初に偽者かと訝ったが、すぐに本物だと気付かされた。士郎が両手に剣を握った瞬間、確かに凛の腹の奥で何かが疼いた。契約の証。
 では何故こんなところにいる。ランサーと戦っていたのではないのか。志貴は、ランサーはどうなったのだ。
「凛」
 心臓が脈打った。凛と呼ぶのか。その立ち位置で、桜を護るように立って尚凛と呼ぶのか。
「ふふ、ほらね、力があればなんだって手に入るんです。ちょっと予定とは違っちゃったけど、先輩が手に入ったからもうなんでもいいんです」
「ああ、そう……」
 士郎は双剣を構えて、凛を見据えている。目は死んでいない。感情は見えないが、覇気に満ちた、いつも通り無駄に澄み切った目のままだ。来るなら来い。凛は歯軋りをして、二人を睨んだ。
「あ……」
 突然、桜が蹲った。先ほどと同じように、自身を掻き抱くようにして蹲り、がたがたと震えている。先ほどよりも激しく、まるで電気ショックでも受けたかのように体を跳ねさせては、悲鳴をあげる。その異常に眉根を寄せる凛を、士郎が一瞥した。感情の無い目に僅かに色が灯った。
「ランサーが、倒されたんだな」
「は……い。先輩は、早く姉さんを……」
 桜は縋るように士郎を見上げている。こくり。士郎が頷く。
 顔をあげた士郎と睨みあう。本気の目。士郎は士郎の意思を持って、凛を殺そうというのだろう。歩み寄ってくる士郎が、双剣を構えた。凛は鎧に魔力を注ぎ込み、炎を吹き上げる。ちりちりと肌が焼ける。
 腰を落として士郎が駆けた。速い。双剣を振り上げた士郎は掛け声と共に剣を振り下ろした。速く、重い。だが鎧は剣をどろりと融解させる。
「そんな鈍らでっ! わたしの防御を破れるとでも思ってんの、このバカ!」
 叫び、殴り飛ばしてやろうかと思った。腕をスイングバックしてから、はたと気付いて、腕を引っ込めた。殴れば、消し炭だ。
投影、開始トレース・オン
 士郎が呪文を唱える。
「何度やっ──ッ!」
 言葉を噤む。士郎の背後に無数の泥の触手。それらは士郎を避け、弧を描いて凛へと殺到した。
 まずい、と咄嗟に思った。その数十二本。炎で燃やし尽くせるだろうか。おまけに、正面には士郎がいる。その士郎は、双剣を握っていなかった。代わりに右手を掲げている。その指先が指し示すのは天。釣られて上を見て、再び絶句する。剣が浮いていた。いくつもの剣が。
「貫け」
 剣が降る。後退。できない。背後もまた、回りこんだ泥に塞がれている。魔力を練り上げる。有りっ丈を炎の鎧に注ぎ込む。拳を握り締め、頭上の剣と泥を見据えた。凛の頭上にだけ、剣が無かった。凛を取り囲む格好でありながら、凛の上にはたった一つの剣も無い。シャッターが下りるかのように、剣は凛を取り囲んだまま落ちた。剣が、泥を次々に切断していく。超重量級の剣ばかりが十数本。それは、かつて学園で志貴を串刺しにしたものと酷似していた。
「先輩……? わたしは殺せと言いましたよ?」
「凛は、頭に血が上りやすい。桜に何か言われて、カッとなってるんだろ」
 士郎は溜息を吐きながら、まるでアイツのように肩をすくめた。
「な、なによそれ!」
「事実だろ。それでな、桜。俺達がここに何しに来たか、わかるか」
「わたしを、殺しに」
「そうか。桜は、俺達がおまえを殺すような人間だと思ってたわけか」
 悲しそうに、士郎が言う。
「だってわたし、殺しました、たくさん。姉さんのことも殺します。先輩を手に入れたから殺します。だから、先輩達はわたしを殺すんです」
 桜は士郎の言葉に耳を傾けていた。凛の言葉には耳も貸さなかったのに。少し悲しくなる。わたしではダメなのか。これまで必死にやってきた。桜が少しでも安心できるように、桜の目が届くところでは常に笑みを絶やさなかった。何があろうとも乗り越えて、笑ってやった。桜も笑っていた。それでいいと思っていた。実際には違ったのか。
「良いか桜、よく聞くんだ」
 士郎が桜に近づいていく。怯えた様だったが、桜は小さく首肯して、息を呑んだ。
「俺達は、おまえを助けに来たんだ、桜。俺も、凛も、もちろん志貴もだ。わかるか?」
「……そんなの──」
 短い悲鳴が断続的に続く。桜は今にも暴れだしそうだった。それを、士郎が抱きとめることで抑えている。士郎に抱かれていることで、桜も安堵している様子ではあったが、痙攣はとどまるところを知らない。その桜に、士郎はゆっくりと言い聞かせる。
「だから俺は凛を殺せない。もちろん、桜も殺さない。一緒に帰ろう」
「どうして、なんで、せんぱいどうしてですか……。わたし、強くなるんです! もっともっと。今だってもう、先輩くらい簡単に殺せるんです。なのにどうして、言うことをきかないんですか! 助けてあげたのに。あのまま放っておいて見殺しにすることだって、できたんですよ……」
「そうだ桜。感謝してる。おまえを助けないで、死ぬわけにはいかなかった。だからな、今度は俺が桜を助ける番なんだ」
「や……そんな、やだ!」
 桜の背後でで影が蠢いた。鎌首を擡げた影が八本、同時に士郎へと襲い掛かる。しかし影は尽くが士郎を外れ、地面に飛び込んでいった。桜がやったのだ。士郎の言葉に、桜は動揺している。
「いいのか? このままで」
 逆に、士郎に死に対する怯えはまるで見られなかった。無数の影の触手が構えているが、当てないと確信しているのか。それとも、当たっても構わないと覚悟の上なのか。
「良くなんかない! でももう戻れない。裏切ったくせに……姉さんを選んだくせに。姉さんと寝たくせに! ほんとはわたしのことなんかどうでもいいくせに。なのになんでそうやって偽善者ぶるんですか……わたしは……ずっと……」
「俺は凛が好きだよ、桜」
 桜の顔が跳ね上がった。蒼白。そこに怒りが混じっている。愕然と、あるいは憮然と士郎を睨み上げ、桜は歯を食い縛った。
「先輩なんか──」
「でもな、桜も好きなんだ」
 凛は纏っていた鎧を解除して、小さく溜息を吐いた。
「桜」
「……姉、さ」
 凛が近づいていく。緊張した歩み。桜は震えて、何かを堪えていた。
「……だめ、やっぱりだめ……わたしを殺そうとしたくせに……殺そうと……殺そうとしたんだ!」
 読みが甘かった。凛は顔面を蒼白にし、目にも留まらぬ速度で飛んだ泥を見た。一直線だった。ほんの少しも曲がらず、真正面。だからこそ、避けられなかった。速すぎる。
「くっ!」
 体を思い切り捻った。尋常ではない衝撃を受けて、凛は吹き飛んだ。衝撃の直前に、同じように吹き飛ぶ士郎を見た。気がついたとき、凛は地面に倒れていた。痛い。
 ひどい寒気を感じて、凛は恐る恐る左肩を見下ろした。
 思わず呻く。腕が繋がっているのが不思議だった。ショック死しなかったことも不思議だった。肩が砕かれていた。それも、ただ砕かれただけではない。絡みついた泥が、煙を上げながら凛の体を食らっている。目を覆いたくなる。叫びだしたくなるほどの怪我だった。
 矢張り、だめなのか。桜に見られないように、下唇を噛み締めた。わたしでは姉になれないのか。たった一人の肉親にさえ、うわべだけの付き合いしかできないのか。
 空しさが胸の中をいっぱいにした。何故。どうして。何が足りなかった。
 答えなどわからない。凛は孤独だった。強く、気丈な少女。優等生だった。だが、独りだった。
 強く、気丈に見せていた。優等生は演じていた。そうなるための努力は怠らなかった。だが独りであることだけは、変わらなかった。むしろ、優等生でいようとすればするほど、孤独の深みにはまっていくようだった。心底気を許せる友人などいなかったし、悩みを打ち明ける人もいなかった。
 ただ、悩みを打ち明けられることだけは多かった。取るに足らない悩みを聞かされる。だから凛も、当たり障りのない言葉を返していた。それでクラスメイトたちは安心して去っていった。それは『優等生の答え』というものを彼らが期待していたからだ。だが、今は違う。桜に、優等生というステイタスは意味をなさない。ここは、裸の遠坂凛として、妹に何か言葉をかけなければならないのに。
 肩の痛みは心の痛みだった。かける言葉が見つからない。浮かんでくるどの言葉も、取り繕ったような、くだらない飾り立てただけのモノでしかなかった。
 気弱な己に、唾棄したくなるような気持ちだった。結局、遠坂凛なんてこんなものか。大物ぶって、バカみたいだ。
 内心で吐き捨てながら、自分をこんな弱気にさせた志貴を恨んだ。
 至近距離からの直撃を受けたはずの士郎が、立ち上がっていた。桜が手加減をしたのだろうかと思ったが、すぐに否定した。士郎は間違いなく重症だった。
「また、ここか……」
 士郎は呟いて、己の腹を見下ろしていた。押さえた手のひらの間から臓物が覗いている。綺麗な色をしていた。士郎らしい。そんなことを思って、凛は自己再生の魔術を行使した。治癒は遅々として、完治させるには相当の時間を要するだろうと思えた。その前に、痛みで気を失ってしまいそうだったが。
「あ……あぁ……」
 士郎の血を全身で浴び、桜は白目を剥かんばかりに目を見開いていた。震えながら後ずさり、士郎に手を伸ばし、引っ込める。カタツムリの触覚のような動きをしていた手を止めて、桜は俯いた。肩が震えている。だが、先ほどまでの痙攣は、既に治まっていた。
「あは、あははは!」
 狂ったように哄笑をあげ、桜が腕を開いた。
「だめだ、もうだめだ……あはは……先輩にまで、こんなこと……もう、もうみんな、死んじゃえ」
「よせ、さく──」
「死んじゃえ! 先輩も、姉さんも、わたしも! みんな死んじゃえ! みんな無くなっちゃえ」
 桜の背中で燻っていた泥が、無数に肥大化した。黒く、大きく。壁のように大きくなったそれは、やがて人のまがい物のような形になった。影の巨人。
 凛も士郎も、呆然とそれを見上げて、息さえ忘れた。倒せない。あれは、無理だ。存在するだけで、全てを飲み込んでしまいそうなほど暗い闇。
 巨人が腕のような部分を掲げた。二人を飲み込むために。その腕はきっと、人間なんて簡単に飲み込んでしまうだろう。だが振り下ろされた巨人の腕は、
「あれ……?」
 桜を目掛けて振り下ろされた。
 何故? 考えるより早く、凛の体が弾けていた。肩の傷のことなど忘れて、全力で腕を振って走った。幸い、強化魔術はまだかかったままだった。風よりも、音よりも、あわよくば光よりもと疾走した凛は、懐から宝石を取り出した。虎の子の宝石。最後の一つ。あの滝のように落ちてくる腕を、吹き飛ばすのに果たして足りるのか。考えている暇は無い。呆然と自分を押しつぶそうとする巨人を見上げる桜をぼろぼろの左腕で抱きしめた。強く強く抱きしめた。
 ──ごめん。
 内心で呟いてから、見上げた。大きな腕。強そうな腕。だがそれが、
「どうしたっての……ッ! 一番、解放──!!」
 加工しない、純粋な魔力の塊。詠唱は日ごろ使うドイツ語ですらなかった。だがそれでも、遠坂凛生涯最高の出来だと自負できる。最高の一撃。白い光が、視界を埋め尽くす。宝石が砕け散った。それでも、腕を突き出したまま、閃光に力を注ぎ続けた。
 桜はじっと凛を見つめていた。どうして? 声にされなくとも、それくらいのことはわかった。姉だから。答えてやりたかった。でも、そんな余裕は無かった。歯を食い縛って、ただあの巨人を押し合うだけ。だがその最中、ようやく志貴の言葉を信じることができた自分に気付く。
 妹を殺せるわけがない。志貴はそう言っていた。その通りだ。場合によっては殺すつもりでこの地を踏んだ。あれだけ生意気なことを言われた。だというのにこの瞬間、しっかりと凛にしがみついている桜が、愛しくて仕方が無い。全てをかなぐり捨てて、両手で抱きしめてしまいたいほどに、愛しく思う。
 妹、だからだ。
 巨人が力を強めた。対して凛は満身創痍だった。徐々に押されていく光を見ていた。もう、注ぐだけの力も無い。横目で桜を見た。目が合う。にこり、微笑んでやった。掲げていた右手を桜の背中に回し、強く強く抱きしめて、そのまま押し倒した。桜の体を包み込むようにしてから、更に強く抱いた。
「桜──」
 見つめ返してくる瞳は、まだ状況を察しきっていない。夢遊病者のように、虚ろな瞳が凛を見つめている。
「愛してる」
 背中が、焼けた。



***





 こんなことが、あってたまるか。何本も何本も、投影しては放っていた。だがあの巨人に効きはしなかった。まるで平気な風情で、凛を、桜を、押し潰した。
「や、姉さん! なんで、どうしてですか! やだ、目、開けて……姉さん……ねえ……」
 巨人が腕を退けると、そこには打ち捨てられたように横たわる凛と、凛にしがみついて絶叫する桜の姿があった。
「やだ、やだよ姉さん……ずる、こんなの……ずるい……や、あ、ァアアあぁぁあああ!!」
 桜は一際大きな絶叫をあげて倒れた。気絶したのか。ぴくりとも動こうとしない。士郎もまた、動くことができないでいた。あまりにも近くで、直撃を受けた。臓物を覗かせていた腹はいつの間にか内臓をしまっていたが、動くとなればまだ時間がかかる。
「存外に脆い心よの。いや、ここまで堪えたことを賞賛すべきか……」
 どこかで聞いた声に、士郎は戦慄しつつ顔をあげた。求めた姿は無い。当然だった。体は、完膚なきまでに破壊されたはずだ。声は桜の口から放たれている。桜の口が、桜でない者の声を発しているのだ。
「……てめ、ぇ……」
「おお主らも頑張ったのう。言峰綺礼を倒すとはおもわなんだ。ランサーもやられおった。どういう意味かわかるか……」
 桜が唇を吊り上げて笑う。否、間桐臓硯が笑う。笑いながら、臓硯は凛の体を蹴り付けた。鈍い音と共に、凛の体が転げる。
 ──何を、しやがる!
「ワシの勝ちじゃよ、衛宮の倅」
「ふざけんな……テメェ! 桜の中から出ていきやがれ!」
 走った。だがその動きは鈍重だ。臓硯はくつくつと喉を鳴らして、右手を掲げた。
「出て行け、とな。ワシは桜を救ってやっただけじゃて。危ういところじゃった。宿主が不甲斐無いと、反旗を翻したのか。それとも、死を願った宿主に呼応したのか。いずれにせよ、口先だけで死を望んでも、桜は真に死ぬことを是とはせん。仕方なしにワシが出てきたわけじゃよ。あの子を苦しめているのは、主らじゃろうて」
「黙れ──投影、開始トレース・オンッ!」
 臓硯に従うように、泥の触手が伸びた。士郎は双剣を構えて、泥の中に突っ込んでいく。何度もつんのめる士郎には、元より回避するだけの力など無かった。力任せに泥を断ち切りつつ、臓硯に肉薄する。十もの触手を切り裂き、臓硯の眼前に迫った士郎が剣を振り上げる。
「それでどうする。この体を斬るか」
「……こ、の……」
 士郎の動きが封じられる。凛が命を賭けて護った桜を、どうして斬れる。
「素直じゃの。じゃが、主らの相手ばかりしておるわけにもいかん。魔眼の小僧もおる。ヤツが来る前に、セイバーとキャスターを戴くとしよう」
 くつくつ。笑って、臓硯が背を見せる。士郎は、歯を砕きかねない勢いで噛み締めていた。憤怒。抑えようのない怒りが、士郎を深紅に染め上げていた。
「殺しておけ」
 臓硯が笑う。耳障りな声で笑う。凛と桜を押し潰し、その場で佇んでいた黒い巨人。影絵の世界から抜け出してきたような、のっぺらぼうの巨人が動き出す。大空洞を揺るがす咆哮が、毛穴から入り込み、全身に恐怖を植えつけようとする。
「精々頑張ることじゃよ。カカ」
 倒せない。手持ちの武装では、あの巨人を倒すことなどできない。現れた瞬間に悟っていた。その威圧感たるや、英霊達に匹敵するものだ。
 臓硯は再び背を見せて歩いていく。その後姿を、見送ることしかできない。巨人はただ見下ろしている。だが、指先一つでも動かせば、皆まったくの同時に消し炭になるだろう。
 ──強大な影……。倒せるとしたら、セイバーの宝具……か。
 アインツベルン城で見たセイバーとギルガメッシュの宝具。ギルガメッシュに打ち破られたとはいえ、セイバーの宝具は規格外の力を持っていた。あれほどの火力ならば、きっとこの巨人も倒せる。だが、今の凛と士郎に、それほどの火力は生み出しようが無かった。
 どうにか巨人を出し抜き、セイバーとキャスターを解放する。道は、それしかない。だが、この傷だらけの状態で、巨人の一撃を受け止め、臓硯の攻撃を掻い潜ることなどできるのか。
 投影魔術は何度使えるのか。何度できようと、巨人を殺すまでの力は得られないだろう。だが、キャスターとセイバーを縛るあの鎖と十字架と鎌を吹き飛ばすくらいのことは、容易いはずだ。
 よろよろと立ち上がり、巨人を見上げた。巨人が見下ろしてきていた。目がどこにあるのかわからないが、そんな気がしたのだ。睨みあいはほんの一秒。腕を振り上げた巨人。振り下ろそうとする。逃げることも、受けることもできそうにない。だが巨人は唐突に、何の前触れも無く消え去った。
「遅いぞ、志貴」
 他に、こんな芸当をやってのけるヤツはいない。



***




 鼓動。大音量。骨に響く音だ。体中の骨という骨を打ち鳴らし、頭蓋を伝わってくる。頭痛とはなんだったか。息をするだけでも痛む頭。頭が痛むのならば、これも頭痛というのだろうか。
 ランサーが消えるのを、線が消えることで確認した。エセリアルの肉体は、ライダーと同じように跡形もなく消え去ったのだろうが、志貴にそれを確認する術は最早無かった。
 ──向こうで待ってるぜ。
 唇が歪んだ。
「向こうって、どこだランサー。俺に、あんた達と同じになれってのか? それとも地獄に来てくれるのかい?」
 踵を返して、一歩進んだ。体が傾いだ。右足で踏ん張って堪えると、額には玉の汗が浮いていた。拭う。もう一歩。再び傾いだ。堪え、また一歩。次第に、体が慣れ始めていた。
 ゆっくり慎重に歩いた。転べば、二度と起き上がれないという感覚があった。明日死ぬかもしれないと言われたことを思い出す。つまり、今転び、そのまま死ぬということもありえる。まだ役割を果たしきっていない。ここで死ぬようなことがあって、士郎になんと詫びればいいのか。
 歩く。よろめきながら。徐々に徐々に足取りがしっかりしていく。ふらつかなくなり、力強くなっていく。線や点が流れていく。己の手に走った線が、激しく前後する。腕を振っているのだと気付いた。それを見て、志貴はようやく自分が疾走しているのだと気付いた。頬に当たっているはずの風も感じない。地面を蹴っている感覚もない。何度も何度も転びそうになりながら、それでも志貴は疾走する。風がどれほどのものか。音がどれほどのものか。何よりも速く駆けねば、凛が危うい。
 鼓動が聞こえる。警鐘を打ち鳴らすかのように、大音量で鳴り響く。
 そして開ける。線や点が突然遠のいた。巨大な空間。大空洞とでも言うべきその空間に立ち入ったとき、志貴の聴覚が、怨嗟の声を聞いた。声ではない。それは、地鳴りだった。
 再び走る。地鳴りの主の下へ。離れていても視える、あの巨大な何かのもとへ。
 断崖を、両手両足を駆使して駆け上がった。人が三人ほどいるらしい。それと、巨大な何か。それを見上げる。生きているという気配はしない。サーヴァントのような気配も感じない。ならばどうするかなんて、簡単なことだった。
 一陣の風が吹き抜ける。頽れる人と倒れている人の間を縫って吹き抜ける。巨大なモノが腕らしきものを振り下ろそうとするのを視た志貴は、既に跳躍していた。一体自分は何メートル飛んでいるのか。巨人の腹の辺りに視えた点に到達しているのだから、さぞ飛んでいるのだろう。
 ナイフを引き、突いた。感触は無い。ただ確実に殺したという実感と共に、志貴は着地した。
「遅いぞ、志貴」
 背後からの声に、志貴は肩をすくめた。
「ああ、悪い」
 生きていたのか、とはたずねなかった。
 凛の声が聞こえなかった。改めて前方を睨んだ。三人の人影のうち、いまだ確認が取れていない最後の一人。志貴にはその一人が二人に見えるのだが、どういうことなのか。どちらにせよ、それが間桐桜であることは、想像に容易かった。
「き、さま……何を、した」
「桜って子は、こんな声なのか……?」
 桜だと思った者の声は、まるで老人のものだった。しゃがれ、つぶれ、聞き取りづらい震えた声。
「……臓硯だ」
「孫の体を……へえ、良い趣味してるじゃないか、おまえ」
 再び、志貴が風になった。ひとりがふたりに視えた理由も、簡単なモノだ。乗っ取っていた。悪趣味極まりないことだと思う。悪趣味が過ぎてとても許す気にはなれないから──
「返礼だ、よくもやってくれたな」
 一瞬で臓硯に肉薄した志貴を睨みつける視線を感じた。桜自身から。
「……とおの、しき」
 臓硯の声ではなかった。ああ、これが桜か。おとなしそうな、好い声だった。志貴の眼に、彼女の姿がありありと映った。黒く長くて綺麗な髪に、少し弱気で俯きがちな視線。けれどどこかに強い心を持ったその姿は成るほど──。
「凛ちゃんにそっくりだ……」



***




「……とおの、しき」
 桜は呆然とした。臓硯が唐突に支配権を明け渡し、自分を前に出したのだ。死を確信した。ライダーですら敵わなかった。あの巨大な影すら殺した。そんな相手に、『女子供ならば殺さないだろう』などと、我が祖父ながら浅はかであると思わざるをえない。いや、衛宮士郎になら、通じるかもしれない。だが、相手はライダーを無慈悲に一撃で殺し、ギルガメッシュにまで迫った怪物だ。祖父はこの眼を見なかったのか。青くて吸い込まれそうな目。それを見つめているだけで、桜は自分が極寒の地に裸で投げ出されるような感覚を味わうというのに。
 化け物──遠野志貴の腕が一瞬ピタリと止まった。じっと、見つめられる。息が詰まった。背後で蠢く影が、躊躇していた。桜がそうさせていた。諦念が、影を使役させない。
 不思議と、恐怖は無かった。
「凛ちゃんにそっくりだ……」
「は──?」
 思わず声をあげた。あげてから、悲しくなった。そんなはずがあるか。自分はあんなバカみたいに綺麗じゃない。遠坂の家で育ったらわからなかった。もしかしたら美人になれたかもしれない。何せあの遠坂凛の妹だ。けれど、間桐一色の自分を、桜は嫌悪していた。
「ふざけ、ないで……」
 背後で影がざわつき始める。殺す。殺してしまおう。殺せる隙があるならば、殺してしまえばいい。コレはライダーの仇だ。
 声に従って影を放とうとした瞬間、桜の脳裏を凛の笑顔が過ぎった。
 ──もう、やめよう。
「殺して、ください」
 桜は脱力し、志貴を見つめ返した。志貴の瞳は、どこかおかしかった。それでふと、思いつく。
 死を視る魔眼。もしかすると、彼の視力は既に──。
「ああ、殺してやる」
 体の中で蟲が叫んでいた。殺せ。殺すのじゃ桜! 煩い。必死なのはわかる。何百年も彷徨って、ようやく手に入れたチャンスだ。なんとしても手に入れたいだろう。だが、もう遅い。
 姉の優しさ。桜を受け入れてくれる温かさを知った。もういい。何も、望むものは無い。
 何かがこみ上げてくる。嬉しいような、悲しいような、不思議な何か。頬を伝う何かも、きっとその感情の表れ。お別れなのだ。ゆっくりと迫る銀刃。それがこの胸に突き立てられれば、間桐桜は消え去ってしまう。死ぬ。ここから消えて、自分が全てなくなってしまう。もう二度と目覚めない。もう二度と生まれない。虚無の一部と化して、永遠に虚無でいる。怖い。恐ろしい。
 遠坂凛の妹で、衛宮士郎の妹分だった間桐桜は、いなくなってしまうのだ。
 それが何より、恐ろしかった。
「安心していい。君には、傷一つつかないんだから」
 志貴の言葉の意味なんて、わからなかった。切っ先が胸に埋まっていく。刃が突き立てられているのに、痛みも出血もなかった。実の兄より、らしい人が自分のために駆けてきてくれている。もう手が届きそうなところにいる彼を見て、桜は最期の一粒、涙をこぼした。それだけで十分だった。
 後悔は無い。姉の腕の中は暖かかった。それを知ることが出来ただけでも、幸せだった。
 胸の内で何者かの絶叫を聞きながら、桜は目を閉じた。不思議と、怖くは無かった。



***



 桜の体を抱きかかえた志貴が、火柱の方へ歩いていった。士郎は凛を抱き起こす。口元に耳を寄せた。地鳴りがうるさくて聞こえやしない。鼻に指を近づけてみる。息はしていた。動かしたくは無かったが、こんなところに一人で寝かせておくほうが心配だった。ゆっくり慎重に抱き起こして、俗に言うお姫様抱っこの格好で、志貴を追った。
「悪かったな、途中で……」
 背中に追いつき、士郎は謝罪した。くるりと振り向いた志貴が神妙に溜息を吐いた。
「謝るのは俺だよ、士郎君。まさか、殴られただけで動けなくなるなんて、思いもしなかった。情けなくて、それだけで死にそうだった」
「でも、倒してくれた。あのランサーをだ。正直、無理かと思ったぞ、少し」
「俺も無理だと思った。けど、倒せたのは君のおかげだ。感謝してる」
 よせよ。言って、士郎が笑った。
 キャスターとセイバーを解放して、セイバーにあの火柱を吹き飛ばしてもらおう。こんなものは、無いほうがいいに決まってる。ただ、まだ髪が白いままの桜は、どうすればいいのかわかりかねた。
「キャスターに、この子はなんとかしてもらおう」
 心を読んだように、志貴が答えた。
「契約破り、か。反則だな、あれ」
「悲しい力だけどな」
 意味深に呟き、志貴が足を止めた。火柱の根元にいた。火柱の向こうに透けてみるのが、祭壇とやらなのだろうか。そしてその頂上。あの球体。卵のようなもの。見覚えがある。十年前。いや、いい。今は考えなくていいだろう。
 セイバーとキャスター。二人とも、目を開いていなかった。鎖で悪趣味な十字架に雁字搦めにされて、眠っている。セイバーはほぼ無傷だったが、魔力が足りないのか、まるで力を感じなかった。キャスターの紫色のローブは、血で真っ黒に染まっていた。巨大な鎌。魔力を根こそぎ吸い上げるその大鎌によって、キャスターは腹を貫かれている。ただ、寝顔はひどく安穏としている。この怪我で一体どんな夢を見ればこんな安らかな表情で眠れるのだろう。
「キャスター……」
 志貴が桜を片手に抱いて、ナイフを抜いた。閃光する。見えないほどの速さで、ナイフが幾度も瞬いた。最初にキャスターを貫く鎌を、次に二人を縛る鎖を、最後に大きな十字架を殺した。惚れ惚れするほどの手際。切っ先はおろか、ナイフを操る腕すら目で追えなかった。
 支えを失って倒れるキャスターとセイバーを、志貴と士郎はそれぞれ抱きとめた。弱弱しい温もりを肌で感じる。それでも心底安堵した。生きている。聖杯を破壊すれば、別れることになるだろう。それでも、失って別れるのと、別れの言葉のあとのそれとでは、まるで違う。
 セイバーがみじろぎした。ゆっくりと、目が開かれる。緑色の、宝石みたいに綺麗な瞳だった。久しぶりの視線。まっすぐで気持ちのいい視線が、じっと見上げてくる。
「シロウ……?」
「おはよう、セイバー」
「久しぶり、元気そうでなによりだ」
 目覚めたセイバーに気付いた志貴も、声をかける。寝惚けているのか、まだ状況を把握し切れていないらしいセイバーは、上下左右を見回した後、目を見開いた。
「そんな、ばか、ですか貴方たちは」
「自覚してる」
 少しだけ笑って見せてから、キャスターに視線を移した。蒼白だった頬がほんのりと色づいていた。
「ランサーやギルガメッシュはどうしたのです」
「ギルガメッシュはランサーに倒された。ランサーは、志貴がついさっき倒した」
 眉根を寄せていたセイバーの顔が、面白いくらいに呆然とした。
「士郎くんのおかげで、なんとか倒せたってだけだ。運がよかった。ランサーが殺す気だったら、多分俺は死んでたよ」
 力なく笑う志貴の視線は、キャスターに釘付けだった。心配そうに覗き込む様子に口をつぐんだ士郎は、俄かには信じられないという顔のセイバーから、目を覚まさない凛に視線を向けた。鼻の下が赤い。言峰にでも殴り飛ばされたのだろうか。服の袖で拭い取ってやる。
 すすり泣くような声が聞こえたのは、そのときだった。ハッとして視線を向けると、ローブを目深に被ったキャスターの肩が、震えていた。
「……どうしてこう、無茶ばかりを」
「迷惑、かけた」
 キャスターは溜息を吐いて、ローブをはぐり取った。薄紫色の瞳が、揺れている。それでもにこりと微笑んで、キャスターは喉を鳴らした。
「無事でよかった」
「キャスターも、無事でよかった」
 それきり、二人は口を開かなくなった。来た道を戻り、一枚岩の端から火柱を見つめた。セイバーの回復を待っていた。二人は急速に回復してきている。元々、キャスターの魔力供給量は半端ではないらしい。マナを体内に取り込むのが、現代の魔術師など及びもつかないほどに上手なのだという。キャスターと契約しているセイバーも、それに釣られるようにして回復していた。
「終わるんだな」
「ああ、終わるんだ。ようやく」
 火柱──“この世全ての悪アンリ・マユ”を睨んだ。諸悪の根源。こんな、聖杯の紛い物が無ければ、何も無かったはずだった。誰が、何を求めて作ったのか、今の士郎達に知る術はない。だが、そこにどれ程尊い意思が宿っていたとしても、そんなものの存在を許すことはできなかった。
「十分です」
 聖剣を握ったセイバーが一歩前に進む。何物よりも優れた剣を、下段に構えたまま、じっと、何かを堪えるように、セイバーは“この世全ての悪アンリ・マユ”を見つめている。その面差しに名残惜しさのようなものを感じて、セイバーの夢はなんだったのだろうと、いつか抱いた疑問を繰り返した。その願いは、聖杯を望んでしまうくらいに、無謀なものだったのだろうか。その聖杯がこんなものだと知った、セイバーの落胆は如何ほどのものなのか。想像もできない。ただ、セイバーはやがて吹っ切ったように相好を崩し、士郎を見上げた。
「離れていてください」
 一際強く握られたエクスカリバーが、光と風を巻き起こす。突風じみた風の中、士郎はただ凛を抱きしめていた。
「志貴、その子をこちらへ」
 志貴が頷いて、桜を抱いたままキャスターの前に立つ。
「──“破戒すべき全ての符ルールブレイカー”──」
 セイバーの宝具と比べると弱い閃光に、一瞬目が眩んだ。キャスターは歪な形の短剣を手にしていた。セイバーと士郎の契約を消滅させた短剣。それが振り上げられる。
 時を同じくして、セイバーから吹き上がる風が強くなった。
「“約束されたエクス──」
 キャスターが短剣を振り落とし、セイバーが聖剣を振り上げる。全てが終わる。一瞬後には“この世全ての悪アンリ・マユ”──桜の中にいるふざけた存在が、砕け散る。それで、全てが終わる。士郎は目を見開いて、その行く末を瞼に焼き付けようとしていた。だからだろうか、“この世全ての悪アンリ・マユ”の異変に気付けたのは。
「飛べ!」
 志貴の声を聞くまでも無く、士郎とセイバーは後退していた。桜の体が脈打っている。それと同時に現れたのは、あの巨人だった。一体だけではなかった。それこそ、無数。数え切れないほどの巨人が、士郎達を取り囲むようにして存在している。
 そのうちの一体が、キャスターと、桜を抱く志貴目掛けて腕を振り下ろした。キャスターは桜の心臓目掛けて宝具を振り下ろす。
「キャスター!」
「こらえなさい!」
 志貴の声を遮って、その胸を貫く。黒い何かが、桜の体から湯気のように立ち上っていく。白い頭も、黒い服も、全てが吹き飛んでいく。だが、安堵はできなかった。巨人の腕が降り注いでくる。
「──勝利の剣カリバー”!」
 セイバーが体を反転させ、真上に宝具を放った。黄金の閃光が、暗い大空洞を埋め尽くした。次々に腕を振り下ろそうとしていた巨人たちが、尽く消滅させられていく。
「出口まで走りましょう」
 疲れが抜けきっていない体で宝具を放ったセイバーだったが、平然と言って、包囲の崩れた巨人の間を縫うように駆け出した。士郎が抱いていた凛は、セイバーにひったくられた。後を追おうと駆け出したすぐ背後に、もう次の巨人が現れていた。数え切れない。光によって埋め尽くされた大空洞は、一瞬でまた闇に支配されている。
 走る。セイバーもキャスターも走っていた。だが、ただ一人だけ反転さえしない者がいた。
「志貴!」
 キャスターの叫び声を聞き、皆が立ち止まる。巨人は今にも押し潰さんとしている。にも関わらず、志貴はじっと“この世全ての悪アンリ・マユ”を睨みつけていた。桜はキャスターのローブで包まれ、いつの間にかキャスターが抱いていた。
「おい! 志貴!」
「キャスター……」
 志貴が呟いた。
「令呪、最後の令呪だ」
「は? 待ちなさい志貴……あなた、何を!」
「今まで本当にありがとう。助かった。迷惑もいっぱいかけた」
「志貴!」
「メディアは、最高の戦友で、最高の仲間で、最高の家族だ。ありがとう」
 志貴が振り返る。青い眼が、じっとキャスターを見つめていた。士郎もセイバーも凛も桜も。もう志貴は誰も見ていなかった。ただ、この戦争を共に生き抜いてきた相棒を、見つめている。
「……何を、考えているのです」
 キャスターが駆け寄ろうとした。だがそれを手で制して、令呪が輝く左手で制して、志貴ははっきりと言った。
「令呪に告げる──“俺以外全員を連れて、ここから空間転移しろ”」
 キャスターの体が弾かれたように痙攣する。抗っていると見て取れた。何故そんな命令をするのか。キャスターの目には涙があった。そんな理不尽な命令には従えないと、決死で抗っていた。
 士郎にも、セイバーにだってそんな命令をする理由が見つからなかった。走れば逃げられる。何も、魔法まがいの魔術まで使って脱出する必要などない。それも、一人を置き去りにしてなど。
 誰も志貴の魂胆など知りえない。だが、キャスターは抗いも空しく呪文を口にしはじめていた。その顔は絶望に塗れている。涙は止め処も無い。
「死ぬ気か! シキ!」
 駆け寄ろうとするセイバーが、何かに阻まれた。結界だった。キャスターが生んだ転移魔術の範囲内に、既にセイバーも士郎も入っている。抜けられない。キャスターを睨んだセイバーだが、弱々しく首を振るキャスターを見て、うなだれた。
「ふざけんな! なんだってこんなことをする必要があるんだよ!」
 志貴が背を向けた。ナイフが煌いている。ゆっくりと腰が落ちていく。四人を覆う光が強くなった。強い光。その向こうに、“この世全ての悪アンリ・マユ”がいる。志貴が駆け出した。巨人の合間を縫って、一直線に祭壇目掛けて。
「“天地乖離すエヌマ──」
 絶望の声。空耳かと、士郎は己の耳を疑った。そんなはずはない。いるはずがない。ランサーが殺したと聞いた。志貴は知っていたのか。ヤツが、まだ生きていると知っていたのか。
 キャスターは、血が滴る程唇を噛み締めていた。その無念も、想像できるようなものではない。
「──開闢の星エリシュ”」
 赤い風が黒い太陽から吹き上がっている。無数の巨人たちを巻き込んで、大空洞ごと崩さんとする断世の風。
 “この世全ての悪アンリ・マユ”が、世界を切り拓く剣によって、両断された。
「この世一つ、それも高々悪如きでは足りぬ。そうは思わぬか? 神殺し」
 爆風に晒された志貴が、それでも突っ込んでいく。標的は一人。黄金の鎧の至る所を破損し、それでも尚泰然と、不敵に構える英雄王──ギルガメッシュの元へ。
「志貴────!!」
 空間転移が、発動する。




NEXT⇒Aces High

inserted by FC2 system