凛の瑞々しく白い肌は熱気を帯びて薄桃色に染まっている。その肌に触れただけで、士郎の脳髄は蕩けて鼻から零れ落ちそうになるのだが、恥を忍んで耐える凛を思えば、中途半端な躊躇は彼女を傷つけるだけだった。それに、どちらにしろ止まることなどできそうもない。蕩けた脳髄は欲望のままに再構成され、士郎の理性を奪っていった。
 想いを馳せた少女を組み敷き、生き残るためとはいえ抱いている。喜悦と背徳。愛惜と愉悦。それらの最中で悶々としつつ、士郎は欲望の赴くままに凛を抱いた。
 己の拙い愛撫で凛が身悶える様に筆舌に尽くしがたい興奮を覚え、そう多くない知識を総動員して彼女を悦ばせよう懸命になる。初めてだという言葉も、それに拍車をかけていたのかもしれない。
 果たして契約という名の交わりは終わりを告げ、破瓜の証と汗と、交わりの証──それらで濡れたシーツに体を横たえ、二人は情事のあとの余韻に浸る。
 目を横向ければ、顔を上気させた凛の小ぶりな乳房が呼吸に合わせて微かに上下している。咄嗟に視線を外し天井を見て、士郎は訊ねるべきではないとわかっていた質問をした。
「良かったのか?」
「……うん。気持ちはホンモノだから」
「俺はてっきり──」
 凛の言葉に甘え、無粋を続けようとした唇に凛のそれが重なる。柔らかな感触だけの、簡単な口づけ。つい今しがたまで何度も味わった柔らかな唇は、ようやく理性を取り戻した脳を再びスパークさせる。言葉を継ぐことさえ忘れた士郎は、唇を離した凛を呆然と見つめた。
 士郎にのしかかるような格好の凛は、じっと見つめてくる。悲しげに。それで心底馬鹿な真似をしたと後悔の念を抱いた士郎は、小さく溜息を吐いた。
「衛宮くんは、嫌だった?」
 が、凛の悲しげな表情は士郎の予想とはまるで違う言葉を吐き出した。頭がカッと真っ赤になるのを感じた士郎は、気付けば怒声にも似た声をあげていた。
「そんなわけあるか!」
「でも……」
「俺はその、遠坂のこと好きだ。凄く好きだ。だから嫌なんてことは絶対にありえないし正直……」
 一度言葉を区切り、士郎は頬を掻く。言ってもいいものだろうか。
「正直?」
「志貴に取られなくて、よかった」
 ぼそりと、鼻と鼻がくっついてしまいそうな場所にいる凛にも届くか届かないかの声で囁く。蚊の鳴くような声を聞いた凛は、ころんと転がって士郎の横に寝転がった。
「そんな素振り見せなかったじゃない」
 凛は笑っている。
「お互い様だろ。それは」
「そう? これでもわたし、貴方のことはずっと見てたんだけど」
「それ、どういう意味だ?」
「内緒」
 横目で士郎を見て、にこりと微笑んだ凛は、もう一度天井を見上げて、ほう、と息を吐いた。
「本当はわたしとアーチャーだけで勝てたんだから。衛宮くんと組む必要なんて無いんだから」
 素直ではない。遠まわしの告白に照れながら、士郎は気を引き締めた。確かに、凛がいなければ自分が今生きていられたかも怪しい。学園では凛自身に殺されかけたこともあった。だがそれも結局、士郎を思っての行動なのだとしたら。
「なあ遠坂。学校でガンド乱れ撃ちしただろ。アレも──」
「え? あ、ああうん。ちょっとだけ本気だった。ちょっとだけ」
 なんだ、その慌てようは。
 士郎はぼんやりしていた目を見開いて、現実にかえった顔で凛を睨んだ。
「な、嘘吐けおまえ。それはちょっとどころか本気中の本気だったって顔だぞ!」
「何よ! 衛宮くんが馬鹿なことするからでしょ!」
 凛はピンク色だった頬を真っ赤にして怒鳴る。暫く裸のままで睨み合ったあと、二人は同時に溜息を吐いた。
「もう九時半過ぎちゃった」
 凛が掛け時計を見て言う。柳洞寺までは歩いて一時間以上かかる。万全を期すならば、そろそろ出なければならない時間だった。唐突に現実に引き戻す言葉に苦虫を噛み潰すような顔をした士郎の頬に、もう一度だけ口付けて、凛が立ち上がる。
「シャワー、借りるわね」
「ああ。あんまり時間無いけど、ゆっくり入ってきてくれ──」
 ごくりと、生唾を飲み込んで。
「凛」
 心臓が高鳴る。名前。ただ名前を呼んだだけ。志貴が凛ちゃんと呼び、凛が志貴と呼ぶ。それがほんの少し。本当にほんの少しだけ気に入らなかった士郎の、精一杯の言葉。発音がどこかおかしかったけれど構うものかと、挑むような目を凛の後姿に向ける。
 タオルを巻いた凛は思わず口を半開きにしながら振り向く。そしてにこやかに笑った。
「ありがと……士郎」
 凛の発音は、完璧だった。



***



 凛の後に軽くシャワーを浴びて、手早く支度──といっても着替える程度だが──を整えていた士郎は、遠坂凛の力に驚嘆した。契約によって流れ込んでくる魔力の、なんと強大で頼もしいことか。士郎の僅かな魔力では数回が限度の剣製も、これならばいくらだってできそうだ。
 普通の魔術師は皆これほどの力を持っているのか。それとも、遠坂凛が特別に優れた魔術師なのか。恐らく後者だろうと思いつつ、シャツに袖を通した。気を引き締めて廊下を歩く。圧し掛かってくるような重圧が、大気を汚染している。
 ──桜……。
 この中心にいるであろう妹同然の少女を想うと、胸が苦しくなる。何故こんなことになったのか。気付けなかった。気付いてやれたかもしれないのに、気付けなかった。危険だからと、間桐の家に帰してしまったのが、何より士郎には悔やまれた。そんなことをしなければ、彼女の変化に気付けたかもしれないのに。傲慢かもしれない。しかしあんな苦しい思いをさせないで済んだかもしれないと考えてしまえば、士郎の心は後悔でいっぱいになる。
 玄関で待つ凛に駆け寄った。凛は昨晩所持していた短刀を両手で握って、物思いに耽っている風情だったが、士郎に気付くと短刀を腰に挿して顔をあげた。
「行こう」
「ええ」
 扉を引こうとする手を一度止め、士郎ははっきりと言った。
「桜は、必ず助ける」
「わたしは、殺す」
 士郎は頷いて、
「そうなる前に、ランサーを倒す。それで文句無いだろ」
 有無を言わさぬ声色で言いつけた。何か言いたそうにしていた凛は口を噤み、歩き出す。
 世界は、暗く落ち込んでいる。どんよりと曇っていて、星の瞬きを感じることができない。つい一時間前にはあった月も、その姿を隠してしまっていた。それもこれも、街中に広がった黒い何かのためだ。
 街中をほの暗く覆っているのは、紛れもなく柳洞寺から流れ出た澱んだ空気。冬木という街をすっぽりと覆ってしまうほどの瘴気が不安を掻き立てる。
 人の気配はどこにもなかった。確かな明かりを感じる民家からさえも、人の息吹を感じない。
 門を抜けると、すぐ横に志貴が座っていた。人の気配がしない世界にたった一人でぼう、と空を見上げている志貴。青い瞳が、どす黒い空を穴が空くほどに見つめている。視線だけで、あの空さえ殺してしまいそうな雰囲気を纏わりつかせた志貴は士郎にも気付かない様子だった。
「待たせて悪かった」
 声を掛けても、志貴は微動だにしない。そこで、おかしなことに気付いた。志貴は蒼い目を晒していたのだ。何故包帯を外しているのか。
「包帯はどうしたんだ」
 焦れた士郎が手を伸ばす。だがその前に、凛の平手が飛んだ。乾いた音に頬を腫らされた志貴はようやく気付いたらしく、眼球だけをぎょろりと動かして士郎と凛を見上げた。呼吸が止まる。士郎は飛び退きそうになる自分を必死に押さえ込んだ。なんだこの目は。蒼い瞳。民家の明かりを受けて微かに光る眼。だが、それはまるで青いブラックホールだった。見るもの全てを飲み込む強力なブラックホール。民家の明かりを受けてはいるが、その実どこまでも光沢の無い、言ってみれば生気の無い瞳。
「士郎、君?」
 と呟いた半開きの口は徐々に締まってゆき、瞳に僅かな色が差す。
「凛、ちょっと今のは……」
「平気よ。でしょ?」
 腫れた頬もそのままに二人を見上げていた志貴が、僅かに微笑んだように見えた。
「ぼうっとしてた。目が覚めたよ、ありがとう」
「ぼうっとって、おまえ……」
「どうしたの?」
「なんでもないよ。さ、行こうか」
 志貴は立ち上がり、一人で歩き出す。深刻な顔で立ちすくむ士郎の隣に、凛が並んだ。
「……馬鹿ね……ほんと」
「ああ、けど」
「わかってる。死なせないわよ」




Dead Eyes See No Future



 人の気配がした。二つ、いや三つ。熱く滾る二つの気配と、今にも消えてなくなりそうな気配。ランサーは己が身震いしていることに気付いた。英霊の己が人間相手に緊張を覚える。いや、人間だからこそ身震いする。生前、クー・フーリンを追い詰めた『人間』など、存在しなかったのだから。
 セタンタは人と神の間に生まれ、ケルンの猛犬と成った。その生涯には苦悩もあった。試練もあった。息子を死なせることもした。最終的にクー・フーリンを死なせる下劣な策にはまったこともある。だが事戦闘という行為に於いて、英雄クー・フーリンが苦悩したことはなかった。生まれついての怪力は誰も扱えない槍を容易く振り回し、戦場に鏃の痕を遺しながら疾走した。誰にも止められない。人間では、クー・フーリンを止められない。敵は恐れ、味方は歓喜した。
 苦悩があったとすれば、誰も己に追いつけないということ。
 だから、戦いを望んだ。誰にも止められない己と、対等以上に戦える者を渇望した。標的は人間ではなく、それ以上の存在。即ちサーヴァントであった。だが、今この薄暗い洞窟を抜けてきたあの三人は、いずれもサーヴァントではない。人間。
「刻限通り……か。その意気には敬意を表そう」
 ランサーが立つのは、奥に存在する巨大な空間とは比べ物にならないほど狭い空間。それでも、地下とは思えないほど広大な空間は、死闘にはお誂え向きの舞台だった。
 シキと、名も知らない少年少女が姿を現す。既にランサーの気配は感じ取っていたらしく、それぞれが武器を握っている。口を開こうとしない三人を見て肩を竦めたランサーは、岩盤に突き立てていた槍を引き抜いた。
「別れは済ませたか。名は呼び合ったか。まだなら時間をくれてやる。二度と呼べねえ名を、魂にでも刻み付けろ」
 構えたのは志貴と士郎。凛を通すつもりなのだろう、士郎は背後で凛を護りながら、共にじりじりとずれていく。
「逃がすとでも思うか?」
 ランサーが笑いながら言って、太股に力を込める。もっと上手い方法があったはずだってのに。内心に呟くと、ランサーの体は咄嗟に槍を盾に構えていた。
 槍に鋭い衝撃が叩き込まれ、直後にその正体と、走り出した遠坂凛の姿を見たランサーは、知らず笑みを刻んでいた。
 ──そうでなけりゃ、面白くない。
「違うな」
「ほう──?」
 武器というにはあまりに拙い、二十センチにも満たない刀身。だがそれは比類なき力を持つ英霊と対等以上に戦ってきた、いわば宝具のようなものか。
 篭められた感情は戦を渇望するランサーとは似て非なるもの。殺す。ただそれだけが込められた短刀。担い手は遠野志貴。
 十メートルを一瞬で詰めた志貴は、渾身の一刀を防がれ悔しがるでもなく、にやりと口元を歪めていた。
「あんたは、逃すしかないんだ」
 ナイフが引かれる。走り去った遠坂凛のことなど既に忘却の彼方へ追いやったランサーは、そのナイフの軌跡を追うように、槍を旋回させる。左手で槍杷を引き、旋回半径を小さくし、小さなナイフを打ち落とすべく一閃。志貴は上半身ごと仰け反った。槍が志貴の薄手のジャケットを切り裂く。志貴に呼応するような笑みを浮かべたランサーは、そのまま引き抜いた槍杷を、右手を支点に振り回す。アッパースイングされた槍杷は、咄嗟に片足で踏み止まり、反らした上半身ごと上からナイフを叩き付けた志貴によって防がれる。
 ──よく動いてくれやがる。
 鼻先がぶつかるほどの接近戦。本来槍の間合いではないはずのその場で、ランサーは志貴を圧倒する。上下から繰り出される穂先と槍杷。ランサーにしてみれば何でもない攻撃が、志貴には命取りになる。一撃一撃に全霊を込める志貴の静かな気迫が、ナイフから槍、そしてランサーへと伝播してくる。
 不得手なインファイト。しかしランサーは驚愕していた。食い下がってくる。退こうとしない。真正面から堂々と。しかしそれでは、数秒と持たない。ランサーにはわかっていた。ランサーに油断など無い。全身全霊とは言えないが、ランサーの一撃は必殺すべくして放たれている。それを全て受け止めて、無事でいられる道理はどこにもない。キャスターの強化を受けているならいざ知らず、生身で受け切っては即座に筋肉が断線する。
 ならば──。
 ランサーはふと周囲の気配を窺がった。本来急襲を得意とする志貴が、こうまで真っ向勝負に拘る理由。凛を逃がすためであることは容易に想像できる。だが、既にその役割は果たしている。
 では、何故。

 I am the bone of my sword.体は剣で出来ている


 周囲に散ったランサーの赤い眼が、聞き慣れない言葉を口にした一人の少年を捉えた。逃げるでもなく、向かってくるでもなく、目を閉じて棒立ちになっている小僧──衛宮士郎を。

 Steel is my body,and fire is my blood.血潮は鉄で 心は硝子


 ──魔術師、だったな……。
 ならば策がある。志貴を真正面で戦わせ、何かこちらを驚かせるほどの、或いは殺せるほどの神秘が待っている。受けるか、否か。

 I have created over a thousand blades.幾たびの戦場を越えて不敗

 ランサーが求めるのは死闘。妥協は無い。追い詰められた獲物の、最後の足掻き。そこまで持ち込まなければ、この小僧共の全霊は味わえまい。
 故に──。
「ハッ」
 志貴のナイフに槍を叩きつけると、ランサーは体を捻り跳躍し、全身を弓のように撓らせると槍を放った。



***




 ──負けて、なるものか──!
 誰の声かと思えば、それはなんてことはない、衛宮士郎の心の叫び。心臓を抉らんと飛来する槍を真正面に見据え、衛宮士郎は微動だにせず、ただ詠唱を続けていた。覚悟は鋼。だが、覚悟のみで乗り切れる程、悠長な攻撃ではない。
 止めなければ。
 即座に判断した体がカタパルト射出宛らに爆ぜ、投擲されたゲイボルクを迎撃せんと疾る。しかし所詮は人の体。元より追いつけるはずのない徒競走。それでも諦めずに疾走する志貴を、士郎が睨んだ。今も詠唱を続ける口とはまるで別物の意思が、目を通して流れ込んでくる。
 ──おまえはランサーを止めろ。
 そうはいかないと、志貴の眼が訴え返す。士郎を助けるためではない、ゲイボルクに貫かれて士郎が倒れれば、勝機を失うからこそ、その槍は迎撃しなければならない。だというのに士郎は引かない。
 ゲイボルクを止めなければ敗北する。士郎の自信には裏がない。確証がない。ただ耐えられると思い込んでいるだけ。
 だが──。
 頑固者め。内心で毒づき、志貴は槍から遅れることコンマ数秒を飛ぶランサーを視た。ランサーは視界の端で志貴を捉えつつ、ゲイボルクの後を追う。
 志貴は疾走していた速度をそのままに跳躍。ゲイボルクには追いつかなくとも、それを追うランサーになら、届く。
 空中で交差する直前、志貴がナイフを閃光させる直前、ランサーが拳を握った。徒手空拳から、この英霊は一体何を──そう思った瞬間には、志貴の体は地面に叩き付けられていた。まずいと思ったときにはもう遅かった。辛うじて保っていた意識の糸が切れ、急速に視界が狭まっていく。そんな中で、志貴は英霊と戦う際の大前提を忘れていたことに気がつく。ランサーに切りかかったハズの志貴が、逆に叩きつけられるという異常。当然だ。志貴が切りかかったのは、ただの腕。しかし英霊の腕だ。たかが名も無いナイフで傷をつけられる体ではない。ランサーの徒手空拳の構えに動転し、線以外の部分を切りつけようとしたのだ。
 激しく咳き込みながら、意識の糸を手繰り寄せようとする。しかしまるで水のように手のひらを通り抜けていく糸は、手繰り寄せようが無かった。微かにある視界の中で、士郎がゲイボルクに貫かれるのが見える。腹部。明らかに致命傷とわかるそれを受け、士郎の体が脈打ち吹き飛ぶ──はずだった。
 士郎は堪えている。腹に巨大な槍を生やして。それでも歯を食い縛り、懸命に堪えている。しかし、その口が呪文を唱えることはない。痙攣する体を決死で押さえ込み、口を開こうとするが、そこから漏れるのは泡立った血反吐。
 着地したランサーは、立ち止まってその様を見ている。吟味するように。まだ足掻くのか、ここで終わるのか。判断するように。やがて、ランサーの判決が下る。
「……楽にしてやる」
 空気が凍りかねないほど深く染み渡る声で、ランサーが宣告した。一歩一歩士郎に近づいていったランサーの手が、士郎の腹から生えた槍にかかる。
「し、ろ」
 志貴の声も最早声になっていない。ランサーの拳は肋骨を容易くへし折っていた。だが、あんな風穴を開けられるよりはよっぽど楽なはずなのに。向こう側が見えてしまいそうな傷よりは、よっぽどマシだっていうのに。何故、この体は骨折如きで動かなくなってしまうのか。
「とれ……」
 士郎の微かな呟きに、ランサーが槍を引き抜く手を止める。
「今取ってやる。辛抱しな。瞬きをする間も──な……?」
 ランサーが驚愕の声をあげ、目を見開いた。士郎の左腕がゲイボルクを、右腕がランサーの腕を強く握り締めたためだ。何のために。息さえ止まりかけている志貴には想像もできなかった。だがランサーはその行動を脅威と見た。
 ランサーが腰を沈める。太股に力が篭り、バネの瞬発力で後退しようとした刹那。
投影、開始トレース・オン
 剣の雨が降った。



 
***





 ──綺礼……っ!
脳内を占めるのは、兄弟子への怒り。
「なめんじゃないっての」
 エクスキューターとしても活動していた言峰の戦闘能力は計り知れない。吸血鬼や亡霊という怪物相手に第一線で戦っていた言峰に、一対一で打ち勝てるなどという甘えは持っていない。そもそも凛の近接格闘技術は、言峰に師事したものだ。そこに重きを置いて修行したというならいざ知らず、凛にとっての格闘とは進退窮まった際の最終手段に過ぎない。あくまでも凛は魔術師。ならば勝機は魔術戦にある。
 本当は三人で相手をしたかった。しかし深夜零時を刻限として突きつけてきた以上、言峰は間違いなくその時間になれば桜を聖杯として機能させる。この地下空洞に漂う空気から察するに、聖杯が生み出すのは碌なものではないだろう。故に、聖杯が解き放たれるより前に、言峰を倒さなければならない。
 どの道、凛が言峰を倒す前に志貴と士郎が敗北すればチェックメイト。割に合わない戦いだ。
どこまでも続いているような深い闇を走っていた凛は、唐突に開けた視界に映ったものが信じられなかった。直径にして二キロから三キロ。それほど巨大な空間が、この街にあったなどということは知らないし、信じられもしなかった。そして、一際目を引くのはエアーズロックのように聳え立つ一枚岩。その岩──というより台地の真ん中から、巨大な火柱が上がっている。黒い火柱は、際限も無く燃え上がり、その頂の球体を守護しているようだった。
「趣味の悪い……何だっての、あれ」
 凛は周囲に注意しながら再び駆けた。広大な洞窟──既に一つの大地とも言える──は彼方まで見通すことができるため、余程のことでなければ奇襲の類には引っ掛からないはずだ。
 尚注意深く進む凛は、とうとう黒い柱の根元にある崖までたどり着いた。崖といっても傾斜は緩やかで、両手が塞がるような場所は無い。『何か』に襲われても、対応できるはずだ。
 崖に駆け寄る前にもう一度、と辺りを窺った目が、見知った影を捉えた。
「どうした凛。顔色が良くないようだが」
 涼やかな声に神経を逆撫でされつつ、凛は斜めにその男を睨み付けた。
 法衣にクロス。誰もが想起し得る神父の姿で、言峰綺礼は腕を背後に組んでいる。
 真実、言峰綺礼は敬虔なクリスチャンであり、日本では珍しい聖堂教会の息がかかった『教会の神父』である。
「そっちこそ、相変わらず薄暗い顔しちゃって」
「ふむ、しかし奇妙だな。おまえ達をこの場に招待した覚えは無いが」
 言って、言峰はちらりと凛が今走ってきた洞穴を見た。
「ランサーを吹っかけてきたのはそっちでしょ」
 言峰は一度眉を顰め、得心いったように微笑した。
「成る程。昨晩は、確かに隙があったかもしれん。おまえを招待するのは、キャスターとセイバーを始末してからにしようと思っていたのだが、来てしまったのなら仕方が無い。鼠も数匹いるらしい……時間は無いが──」
 言峰は後ろ手に組んでいた手を解き、右腕を凛に向けると、人差し指と中指で上がって来いと言った。
「眠らせよう。永久にな」
「上等!」
 凛は即座に左腕の魔術刻印を起動させ、人差し指を言峰に向けた。放たれるのは呪いの機関砲。
 十重二十重と重ねられる呪塊は、機関銃の掃射力と破壊力を併せ持つ。初速800m/sにも及ぶそれは、人間が避けられるものではない。
 着弾の土煙が濛々と立ち上り、言峰を覆う。それで仕留められるとは端から考えてはいないが、矢張り手応えは無かった。代行者を自負する者を、人と思っては殺される。
 距離を詰められてはまずいと判断し、即座に一歩後退すると、背中をまるで丸太で殴り飛ばされたような衝撃が襲う。
 仮にも強化した体がギリギリと軋む音を聞きながら、凛は砲弾のように放物線を描きながら吹き飛ぶ。
「重圧──!」
 咄嗟に自身の質量を肥大化させ、地面に足を着く。崖に叩きつけられる寸前で立て直しに成功し、顔を上げた瞬間、凛は再び戦慄に身を震わせた。
 眼前には言峰の足の裏。凛の体勢では、顔面が言峰の膝位置。まずい。そう思ったときには遅かった。足が見えなくなるほど加速する。
──斧刃脚──ッ!
 凛は顔面をガードすべく両腕をクロスさせる。だが魔術の後押しを受けた言峰の蹴りは、戦車砲の如き破壊力を秘めていた。
 凛は腕を圧し折られ、再び宙を舞った。二本の腕に留まらず鼻を潰し、そのまま頭蓋を伝り脳へと達した衝撃は、さしもの魔術師とて簡単には対処できない。まさか頭蓋に根を張らせるわけにもいかない脳みそは、衝撃を受けて激しく揺れる。
 ゴム鞠のように頭骨から頭骨へとバウンドする脳が、全ての情報をシャットアウトする。
 一瞬の気絶から立ち直ったとき、凛は仰向けに倒れ、口と鼻から多量の血を流していた。
 口の中が切れた。鼻の骨も折れた。霞む視界に見下ろす言峰の長躯を見、凛は僅かに鼻を鳴らす。痛みに顰めそうになった顔を不適に歪ませて、可愛い妹弟子を完膚なきまでに叩き潰しておきながら、感情の片鱗さえ見せようとしない言峰を睨み付けた。
「私のコレは、なんの実りもない虚偽の技に過ぎんが、おまえのソレは更に上を行くな」
「あんたみたいな筋肉馬鹿と同じにしないでほしいわね」
 口内に溜まった血を吐き出しながら言う。言峰は微かに笑みを湛えて、足を振り上げた。その足が振り下ろされれば、凛の肉体は微塵に砕ける。胸や頭に食らえば即死だろう。が──。
「砕け散れ──開放!」
 吹き飛ばされる寸前に魔力を込めた宝石を開放するほうが、どう見ても早い。
「む──」
 僅かに頬を引き攣らせた言峰は、咄嗟に飛び退こうとしたが遅い。凛と言峰を、強烈な光が包み込む。
 完璧なタイミングを制した。
 大地を抉り、術者である凛自身さえ吹き飛ばした爆光は、周囲に轟音を轟かせながら霧散していった。キャスターの一撃に匹敵する魔力量。しかし仕留め切ってはいないだろうと当たりをつけ、凛は受身を取りつつ視聴覚を鋭敏化させた。
「く──」
 言峰の声が聞こえる。真正面に。法衣を布切れにして、左腕をだらんとぶら下げて。
 片腕を犠牲にしただけで、あの強烈な一撃を受けたのか。馬鹿げた身体能力に辟易する思いで、凛は兄弟子を睨み付けた。
 凛の左腕もまた、先ほどの蹴りで折れている。だが、これは五分ではない。こうして対峙を許したのがそもそもの間違い。殴り合いなどで、最初から敵う相手ではないのだから。
「腕を上げた、どころの話では無いようだ。詠唱の隙さえ見せないとは、あの父を超えたか、その若さで」
「へぇ、アンタが人を褒めるなんて珍しいじゃない。でもね、残念ながら父さんの魔力量にはまだ及ばないわよ」
 言峰が珍しく目を丸くする。そして残った右腕で顔を覆うと、くつくつと声を潜めて笑った。
「そうか……それもそうだな。何せ、お前は父を幼くして亡くしている。成程朧げに残る父はそこまで偉大か。おまえの父を殺した私を追い込むおまえが、父よりも劣っているとでもいうか?」
 背筋が凍る。だがある程度予測できた言葉。矢張りという思いと、怒りがないまぜになった胸を、凛はなだめようと試みる。言峰が前回の聖杯戦争に参加していたと聞いたときに、よもやと思った。事実だったのか。この男が、父を、師を殺したのか。
「へえ、そう。なら一つ聞くけど」
 一呼吸。
「そのことで、少しでも後悔したことはある? 綺礼」
「……神に誓おう」
 言峰もまた一呼吸を置き。
「後悔など、有り得ん」
 凛の体が爆ぜる。言峰は笑み、矢のように疾走する凛を迎撃する構えを見せた。
 次に言峰の打撃を食らえば失神では済まされないだろう。だが、確実に殺すには、もう一度、たった一度だけ受ける覚悟で挑まなければならない。防御など考えず、ただ殺すために。
 言峰の構えから繰り出されるのは恐らく箭疾歩。強化された拳は、凛の腹を突き破り背骨を砕くだろう。だがそれを受け、潰す。確実に、背中に潜ませたこの短剣を以ってして、殺す。言峰綺礼は殺さなければならない。その哀れな命は、遠坂凛が一生背負っていってやると内心で誓って。
 肉薄する瞬間、言峰の口が歪む。凛は短剣を握り、志貴の見よう見まねで突き出した。改心の速度を得た短剣は言峰の心臓目掛けて突き進む。
 突き出される短剣を言峰は容易く弾こうとする。言峰の折れた左腕が短剣を流すように滑らかに動き、それとは対照的に右腕は鋭く走る。言峰の目にはこれから砕く凛の顔しか映っていない。
 ──それが、隙だ。
 折れた鼻を無理矢理に鳴らして、凛が笑う。
「アンタの負けよ、綺礼」
 拳が凛の顔面を捕えようとした刹那、言峰綺礼の眼がソレを見た。眼前に落下してきた輝く何かを。一つ、二つ。大きな宝石が二つ。
「五番、六番、開放!」



 ふと、言峰は妙な感慨を覚えた。
 いつの間に、これ程の強さを手に入れたのか。拳法を教えろとせがまれたとき、戯れに一撃をくれてやった。加減はしたが、凛の小さな体はゴム鞠のように吹き飛んだ。
 目に涙を浮かべながら、それでも泣かない凛を見て、言峰は思った。すばらしいと。
 己の父を殺した者に師事し、涙目になりながらも向かってくる。言峰の技を奪おうと躍起になる。それは至上の玩具。
 いつか父を殺したことを白状したとき、どう嘆き、どう悲しみ、どう怒るのか。涙目になりながら殺しに掛かるだろうと思っていた。そのとき、言峰は何の躊躇もなく遠坂凛を破壊する。遠坂凛という玩具は、そうすることが最適の遊びなのだ。
 だが、眼前の宝石三つ。それは、言峰綺礼を確実に殺すためのものだ。
 凛の怒りは感じる。悲しみも感じる。しかし彼女は、それを内に秘められるほどに強くなっていた。
 無論、殺す気でいた。ここで死ぬことだけは、断じてあってはならない。この世全ての悪を顕在させ、世界の今際をこの目に焼き付ける。それこそが、言峰綺礼という、人間になれなかった人の願い。
 しかし遠坂凛が父を無類の傑物として幻視していたように、言峰綺礼は遠坂凛を幼い魔術師として見ていた。脳裏には涙目で嘔吐しながら飛び込んでくる幼い少女の姿があった。成長していたことは知っている。順当に行けば聖杯戦争の勝者になるということさえ、予期できた。それでも尚、彼女を妹弟子と見てしまったのなら、それは言峰綺礼の甘さか。
 妙な感慨とは、数多の怪物を葬り去ってきた己の果てが遠坂凛だということ。それが可笑しくてたまらない。喉がまだ存在するならば、口が開閉するならば、きっと言峰は大声で笑っていたはずだ。
 炎の魔術が体を吹き飛ばしていく。最初に突き出した右腕をそして全身を。根元から千切れ、蒸発しながら飛んだ肉片は、凛の頬に張り付き、流麗な透き通る肌を醜く汚した。
 美しい。血で、腐肉で汚れた凛の顔は、彼の名画で微笑む女など比べるべくも無いほどに美しい。少女と血。相反するようで近しいそれらが、彼女にはよく似合う。
「──」
 声にならない声で、言峰は防護魔術を施した。炎に対抗するために、己の肉体を鋼と化した。それでも、死が覆らないと知っている。太陽にでも投げ込まれたのかという熱量は、鋼鉄と化した体を易々と溶解させていく。
 言峰は感嘆する。あまりにも熱く、あまりにも強い。
 ──素晴らしい。
 残った足に力を込める。だがその刹那、胸に僅かな痛みが走った。
 アゾット剣。
「残念だ──」
 喉などとっくに焼け落ちていたが、凛には聞こえただろうか。少し不安に思い、凛の顔を見た。彼女は泣いている。何故、泣くのか。
 疑問に身を任せ、しかし最後にはこう考える。
 ──無念。
 辞書通りの意味ではない。念が無い。何も。悲しみも憎しみも怒りも喜びも何も無い。言峰綺礼はただ己を客観的に見下ろし、
「バカ……」
 言峰綺礼が終わる。



***



 焼け爛れた言峰の体を静かに横たえた。アゾット剣は抜かない。魔力の一欠けらさえ残っていないただの短刀は、輝きを失っていた。
 踵を返して走った。崖を駆け上がる直前に、一度だけ振り返る。全身を焼かれているにも関わらず微笑を浮かべた言峰。一体何を思って死んだのか。考えようとしてやめる。
 悲しみはある。憎しみもある。しかし何より憐憫があった。哀れだと思った。たかだか小娘に、数十秒で殺された言峰は、一体何をしたかったのか。その人生に、哀歓は存在したのだろうか。人とは百八十度逆向きに生まれた人生に、苦痛以外の何があったのか。
 やめろと思いつつも勘考し、凛はやがて思い至る。現状。これこそが彼に至福を与えるのだと。この澱み切った世界。腐り落ちる、反吐の只中のような世界。これこそが言峰綺礼にとって羊水の如き安寧をもたらす世界なのだと。
「……じゃあね、綺礼」
 そこで、今度こそ思考を断ち切った。悲しみも憎しみも、凛が感じれば感じるほどにアイツはあの世でほくそえむ。ならさっぱりと忘れ去って、次へ行こう。言峰は喜ばないだろう。しかし彼が救われる道は、他に無い。
「アンタのことは地獄に落ちたって忘れないから」
 持って行くのは言峰綺礼という人間がいたということだけ。その名は二度と聞かないだろう。しかしそんな名前の純真無垢な男がいたということだけ、覚えていく。
 崖の頂から言い放って、凛は今度こそ走った。
 体の芯から力が湧いてくる。巨大な洞穴全体に染み渡った不快な空気を跳ね除けるために、凛の力が膨れ上がる。それは、愚かに落ちた妹に対抗するために。おまえの姉はここにいると、叫ぶために。
「いらっしゃい、遠坂先輩」
 真正面に、彼女は立っていた。火柱を背に、黒と赤の禍々しい着衣を纏って。髪は白く変わり果て、眼は赤く輝く。まるで見知らぬ妹の姿に、凛は気分が冷めていくのを感じた。
「ええ、来てあげたわ桜」
 最早、アレを救うことなど不可能だ。心が負けている。あの途轍もない闇を浴びて、桜の心はすでに折れている。当然だ。自分だって、あんなモノを埋め込まれたら発狂してしまう。だから仕方が無い。仕方が無いが、
「殺すわよ」
 仕事は、仕事だ。甘い考えなど、魔力と共に士郎にくれてやった。願わくば、と僅かな期待と共に。



***



 ランサーの反応が僅かに遅れた。ぴくりと一瞬痙攣しただけだが、その隙が、窮地を迎えているランサーにとっては致命的だった。ランサーの頭上に現れた無数の剣は、椀を逆さまにしたような陣を描いて既に落下していた。渾身の力でランサーの腕を取った士郎は、必死の形相でランサーの眼を睨み据えている。自身をも包み込むように落下してくる剣のことなど意に介していないとでもいうかのように、ランサーだけを見ている。
 ランサーが士郎の腕を無理やりに引き剥がし、ゲイボルクを士郎の腹から抜く。目を覆いたくなるほどの血が噴出し、士郎が地面に倒れていく。しかしそれを阻むかのように、剣の雨が二人を包み込んだ。
 無数の剣戟の音が洞穴内に木霊する。ランサーは剣の一本一本を槍で迎撃していた。しかし──
投影……開始トレース・オン
 二度目の詠唱は、最早消え入るような声だった。再び空中に現れ、ランサーを目掛けて落ちる剣。ランサーが最初の投影のときに脱出できていれば、或いはどうにかなったのかもしれない。しかし、そのチャンスを逃してしまったランサーを、士郎は逃すつもりは無いらしい。己の剣に貫かれ血反吐を吐きながらも剣を放つ士郎の気迫は、ランサーを上回っていた。
 何故、俺はこんなところで倒れているんだ。
 憤りが拳を震わせる。歯を噛み締め、目を見開く。包帯を外した覚悟は、結局この程度のモノだったのか。衛宮士郎がアレだけやっているのに、自分はただ倒れて見ていることしかできないのか。
 固有結界の詠唱を完了させてやることもできず、ただ倒れているだけの無能。それはあまりにもくだらない、無様で役立たずな己。辟易する。苛々する。頭にくる。
「シ……キ」
 士郎の声。何をする気かと目を見開いた志貴は、
「やめろ!」
 喉が裂けるのを覚悟で叫んだ。
投影、開始トレース・オン
 しかし士郎は呪文を口にする。
 洞穴全体を覆った剣の雨に、驚愕する。見渡す限りの剣。無限の剣。それが、大きな音を立てて地面に突き刺さっていく。それは、きっと誰かが戦いやすくなるようにという士郎の気遣い。
 だが、無闇矢鱈に投影された剣は、術者本人さえ貫いていく。士郎の体に、新たな剣が突き刺さる。ただでさえ瀕死だった体を、無数の剣が突き刺していく。肩を、腕を、全身隈なく貫かれながらも、士郎は次々と剣を降らせた。肉がつぶれ、骨が露出し、鋭い刃で抉り取られた皮膚が垂れ下がる。それでも士郎は投影をやめない。
 ──よせ。よせ!
 もう声は出なかった。ランサーごと、洞窟ごと破壊しかねない剣の雨は、収まる気配も見せずに降り続ける。やがて、ひときわ大きな剣が士郎の頭上に現れ──。
「わるい、しき」
 その拍子に士郎の目から力が消えた。大きく体を仰け反らせ、消えた。死んだ。死んだ? 死──。
 士郎の体を、あの泥が覆い尽くしている。間桐桜の泥が、士郎の体を飲み込んでいこうとするのを、志貴は仰臥したまま剣の隙間から見た。泥が消えていく。ずるずると音を立てて跡形もなく。士郎ごと消えていく。ただ無数の剣だけを遺して。
 ランサーは肩に剣を生やしていた。さしものランサーも、あのスコールのように降る剣は迎撃し切れなかったらしい。だがどうでもいい。
 志貴は内心で呟き、士郎が消えた辺りを見つめた。まるで墓標のようになった洞窟。無数の剣に阻まれて、士郎が消えた場所は見えなかった。死んだ。殺した。見殺しにした。死なせないと誓ったのに。もう誰も、決して死なせないと誓った。なのに、ダメなのか。遠野志貴は、ただの一人も救えずに死ぬのか。なんてつまらない。なんてくだらない。なんて無意味。
「……あき……は」
 秋葉も。イリヤも。そして士郎も。
 皆死ぬ。皆救えない。遠野志貴は誰も救えない。
 それでいいのか。いいはずがない。誓ったのに。未来のある二人を、必ず生かすと決めた。
 衛宮邸から出てきたとき、「凛」と呼び捨てにした士郎を見て、我知らず微笑んでいた。名前を呼び合って、喧嘩をして、いつかは別れるかもしれない。けれどそれもきっと良い思い出になる。若かった二人の、思い出になる。そんなほほえましい未来を護れなかったのだ。
 無能だ。どんな顔をして、凛に会えというのか。いや、己のことはどうでもいい。凛になんと思われようとも、助けられなかったことが真実なのだから。悔やむことがあるとしたら、士郎を救えなかったことのみ。
「死んだか……」
 ランサーが槍を構え、ぽつりと呟いた。
 広大な世界に取り残された感覚に身震いしたが、すぐさま志貴は歯を食い縛った。
 ──いつもと変わらない。そうだろう?
「ああ、そうだな」
 誰かの呟きに応じてから、志貴はポケットの眼鏡を握り締めた。用をなさなくなったとはいえ、偽りではあるが志貴に平穏をもたらしてくれた眼鏡は、常に所持していた。いつだって一人だった。志貴の生きる世界は皆と違うのだから。いつも違和感と共に生きてきた。魔眼殺しが無ければ発狂してしまうほどに。
 ズレた世界は、もう取り返しのつかないレベルで志貴を蝕んでいる。明日死ぬかもしれない体だと言われても、志貴は一向に構わなかった。もともと一人だった。普通になろうとどれだけ足掻いても、普通にはなれなかった。クラスメイトが志貴を見る目はどこか怯えた風で、有彦くらいしか、本音を語れる相手はいなかった。
 ──何が欲しい? 秋葉か? それとも無事か?
「もちろん、両方欲しい──けど今は」
 その友人の連絡さえ遮って死の淵に身を置いた志貴は、もう戻れない。日の当たる暖かな世界を見ることはできないし、最早望んでもいない。
 ならば何を求めるのか。答えは決まってる。必要なのはたった一つ。
「力を」
 今は力を。力だけを望む。キャスターを救う力を。凛を安心させられる力を。皆に平和を。朝起きれば暖かな陽気を感じられる、そんな普通を与える力を。士郎を、助けることができた力を。
「この魔眼を、使いこなせる力が欲しい」
 ふざけた力に振り回されて終わる人生なら、それでも構わない。しかし遠野志貴は覚悟を決めた。キャスターや凛の妹を救い出すと決めた。そんなものは役に立たなかった。ならば仕方が無い。覚悟なんて大層なものはもういらない。実の伴わない、口先だけの覚悟などに、なんの意味がある。必要なのは力だ。ほんの数分で構わない。ランサーと戦えるだけの力が欲しい。
 
 そのためならば、修羅にだってなってやろう。

 硝子が砕ける音を、脳内に聞いた。失ってはいけない最後の欠片。せっかく取り戻した理性。それが、音を立てて砕け散った。
 気付けば体は風になっていた。指先一つ動かなかった体が、別の動力源を得たかのように走る。進路を遮る剣達。だがそれは問題にならない。胸まであるような巨大な剣が並ぶ中、志貴の体は剣に埋もれている。
 ランサーは志貴が駆け出したことに気付いていない。音もなく。文字通りに物音一つ立てずに、志貴は疾走している。剣の山を大きく迂回し、ランサーの背後から忍び寄る。残り五メートル。そこでランサーが振り向いた。槍が旋回し、志貴の頭部を吹き飛ばしにかかる。だが、見えた。先ほどは残像しか見えなかったそれが、はっきりと視覚できる。
 頭を狙った一撃を、首を傾けて回避する。頬に痛み。チリという音と共に、髪の毛が宙を舞った。だが直撃でなければ、攻められる。
「シッ!」
 ナイフが空を裂き、ランサーの腹に大きく穿たれた点を目指す。ランサーの槍が翻り、ナイフを腕ごと弾かれる。悔しがる素振りもなく、即座に志貴は後退する。跳躍し、剣と剣の狭間に身を隠す。志貴はタイミングを測る。ゆっくりと移動し、ランサーの感知野から逃れ、己の必殺の機を探る。それはさながら獲物を狩る肉食獣の眼だった。
 いつの間にか体を包んでいた、懐かしい魔力には、気付かなかった。



***



 体は動かなかった。腹に突き立てられた巨大な鎌に、生成する魔力は次から次へと飲まれていく。空っぽ。セイバーと己を、消えるギリギリのところで現界させるだけの魔力。それしか、キャスターは持っていなかった。
 でも、声を聞いたのだ。吹けば消えそうな命を燃やそうとする、親愛なる仲間の声。助けたってすぐに消えてしまう自分を、それでも助けるのだと息巻く彼の声を聞いたのだ。
 バカだ。途轍もなくバカだ。救いようがないほどにバカだ。騙されていたのに、それでも信用するなんてバカだし、命を削ってまで戦おうとする姿勢もバカそのものだった。だから、もうきっと目も見えていないのに、戦っている。体はとっくに動力を失っているのに、それでも戦っている。死の目は決して光を見ない。それでも、光を見られる者達のために、戦っている。
 手を貸すのは当然だ。たとえ志貴が壊れてしまっても、彼が望むのなら力を与えよう。そうしなければ死んでしまうのだから、当たり前だ。
 磔にされた体は、意識を取り戻さない。それでもキャスターは小さく言霊を口にした。
「死なないで……」



***




「カ……頭に血が上ってやがるな」
 腕から流れ落ちる血を一舐めし、ランサーは消えた志貴の気配を探った。傷は深い。まるで同時に着弾した剣の雨。二十もの数になる剣を同時に捌くことは、たとえ“矢よけの加護”を持つランサーをしても、不可能だった。隠し玉だったであろう投影魔術は、なるほど驚嘆するに値する、桁外れの魔術だった。放った剣の陣形も素晴らしかった。半円形を描くように整列した剣は、ランサーに逃げ場を与えなかった。否。剣が現れた瞬間に飛び退くことができれば避けられたのだが、別のことにほんの一瞬でも気を取られ、剣の存在に気付くのが一瞬遅れてしまったために、大きな痛手を負うはめになった。狙ったにしろ偶然にしろ、衛宮士郎は完璧なタイミングを制したのだ。言峰綺礼が死に、そのショックで僅かに動きが鈍るその瞬間を、偶然とはいえ突いたのだから。
 言峰が死に、途絶えたレイライン越しにその思念が流れ込んできた。蝋燭が最後の瞬間でひときわ強く燃え上がるように、言峰の屈折した感情と大きな疑問が、腹の底にどんよりと滞留する。まるで腹の中に底なし沼でも抱えたかのような倦怠感。それが、魔力が文字通り底なしの向こうに消えていく感覚だと気付き、ランサーは舌を打った。ランサーに単独行動の技能はない。滝のように零れ落ちていく魔力を鑑みるに、まともに戦える時間は幾許も無いだろう。
「こっちも時間がねえ。教えておくが、言峰はやられた。あの嬢ちゃんにな……。信じ難い話だが、事実だから仕方がねえ。チャンスがあるとすれば、今だぜ、小僧」
 傷が痛む。万全ならば気にならないとはいかないまでも、集中を途絶えさせるほどのものではない。だが、人でいうところの血液を蛇口全開で垂れ流している今は、致命的な傷であるといえる。人一人が、文字通り命を賭けて刻んだ爪痕。それが、痛まないわけがなかった。
 この好機を逃すことなどできない人間が一人いる。英霊の一撃とはいえ、拳一つで動けなくなり、戦友を眼前で失った志貴が必死にならない道理はない。これで、ランサーが求めた、英霊に迫る人間との戦いは実現することになるだろう。だが釈然としない。
 言峰は死んだ。ランサーを縛るものは何も無い。自分が洞穴の奥に向かえば、セイバーもキャスターも一瞬で救い出すことができるだろう。セイバーを縛る鎖を断ち切り、そのセイバーと雌雄を決することも可能だ。だが、そうしようとは思わなかった。ランサーは震えている。喜びにだ。遠野志貴。この桁外れの怪物との一戦を、楽しもうとしている。決して姿を見せず、隙を窺がうだけの小僧。だがその小僧は、ほんの一瞬の隙だけでこちらを殺せる。その緊張感。真っ向からの殴り合いとはまるで違う、リスキーな賭けに出るような高揚感が、ランサーを包むのだった。
 釈然としないなどというのは、英雄たろうとする己の中の誰かが、奇麗事をぶちまけようとしているに過ぎない。いわば建前だ。ランサーの本音は、このあまりにも変則的な死闘にこそあるのだから。
 ランサーは粗野な笑みを浮かべ、四方八方に飛ばしていた感知野を更に広げた。蟲の足音一つ逃さない耳で物音を聞き分け、人口過多の墓標のように突き立った剣に紛れた志貴を探す。
 志貴はランサーの言葉を聞いても反応一つしなかった。それどころか、本当にこの場にいるのかどうかさえ定かではない。実は既に奥に進んでいるのではないか。そう思わせるほどに、志貴の隠れ身は上等なものだった。
「アサシンの素養があるぜ、おまえ」
 冗談めかしたような声でランサーが言う。首筋にチクリと針の痛みを感じ、ランサーは振り向いた。
 志貴の姿は無い。馬鹿なと目を見開き、直感に従って槍を振り回した。背後に向けての一薙ぎ。当たる自信は無かったが、案の定空を切る感触のみ。どこへ消えたのか。胴体が振り返るより早く背後を見た瞳が、青い瞳を捉えた。
 背後から来ると思っていた。首筋に感じたのは、確かな殺気だった。だというのに、その実志貴は真正面から攻めてきている。ランサーが右から振り向いたときに、前方に回ったとでも言うのか。それを許すランサーではないはずだった。志貴の速度は取るに足らない。だが、ランサーが遅くなっているとしたら──。
「──ッ!」
 志貴の無言の一撃が、槍を掻い潜って腹部を狙ってくる。一直線に、何の迷いもなく、ただ一点を貫くためだけに放たれたナイフ。ランサーの戦慄は、狙われた場所にあった。腹。かつてそこを己が槍で貫かれ、クー・フーリンは命を落とした。それを知っていると言わんばかりに、志貴は一つのズレもなくそこを狙っているのだ。
 ──知って、やがるのか。
 槍を翻す。短刀の間合いに入り込んでいる志貴のナイフは既に間に合わない。ゲイボルクは小さな半径を描いて回転し、志貴の頭を狙って叩きつけられる。その際渾身の力を以って体を捻り、ナイフの回避に成功する。しかし志貴もまた弓のように上半身を反らして、槍を回避した。
 志貴の足目掛けて放った槍は、衛宮士郎が残した剣を回避するために円を描くような軌道になる。その隙に仰け反ったまま地面を蹴り宙を舞った志貴は、中空からランサーを見下ろしていた。
 ランサーを見下ろしているように見えた志貴だったが、見上げたランサーと目が合うことは無かった。志貴は槍を見ている。身動きの取れない空中などという場に逃げ込んだ馬鹿者を迎撃するために、光の速さで奔った槍を。
 対してランサーは志貴の目を見た。青い目。そこに生気が無い。まるで人形のように、魂の宿らない暗い目。しかし、目的を達成するための力を感じる。そう、現代風に言えば機械と呼ばれる、目的を遂行するためだけのモノ。志貴は戦いを楽しまない。ギリギリのスリルを求めない。ただ、殺すためだけに存在する。
 不意に、槍の感覚が無くなった。光の速度を自負していた槍は、既に音さえ超えられなくなっていた。故に、殺された。志貴に捉えられてしまった槍は、いとも容易く殺されたのだ。
 ランサーは志貴の力を思い出す。モノの死を視る魔眼。魔王バロールが持つとされる邪眼に酷似したそれは、ランサーの死を読み取って腹を攻撃させた。ゲイ・ボルクの死を読み取って殺した。
 誤算があるとすれば、マスターを失ったことによる魔力の消失。それが、想像を遥かに上回っていたということ。
 志貴が降ってくる。一直線に、青い目を炯炯と輝かせて降ってくる。ナイフを順手に握り、ランサーの腹を狙って降ってくる。
「良い覚悟だった……てめぇも、あの小僧も」
 誰にとも無く呟かれた言葉に、応答はない。
 志貴のナイフが腹にめり込んでいく。痛みも出血も無かった。しかしこれで死んだという確信と共に、ランサーの体が冷えていく。
 撤退することもできた。回避することも恐らくできただろう。しかしランサーはしない。槍を失った己には、最早何の役割も残ってはいない。
 満足とはいかない。だがランサーは最期に笑っていた。
「向こうで待ってるぜ、シキ」
 結局、邪魔者は早く退場するのが粋というものなのだから。


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