Dead Eyes See No Future



 三人が揃ったのは昼食時だった。士郎は明け方には目を覚ましていたらしいが、凛と志貴は昼前まで眠っていた。
 いよいよ決戦とあってか、凛の睡眠は浅かった。明け方まで如何にしてランサーを打倒するかと策を練るのだが、悶々とした頭に浮かぶのは虫食いのような穴だらけのもの。どうあっても三人が無事に戻ってこられる姿を思い浮かべずに、尚更頭を抱える羽目になった。ようやく眠れたのは朝陽が街を照らしだしてからだった。
 昼食は平凡なものだった。ハムエッグに味噌汁にご飯。昼のワイドショーを食い入るように見るものの、新たな被害の情報は無かった。
「タイミングが良かったってところか」
「みたいね」
 凛が言いながら茶碗を差し出すと、士郎は文句も言わずにお代わりをよそった。
「志貴は?」
「俺はもういいよ」
「調子悪いのか?」
「たいしたことは無い。戦えるから、安心していい」
 凛も士郎もその言葉を鵜呑みにはしなかった。
「血涙流して血反吐吐いて無事なワケないでしょ」
「そうだぞ。もし厳しいなら、俺達だけでも──」
「俺一人いて変わるものか怪しいけど、ランサーを相手にするんだから、一人でも多いほうがいいだろ。士郎君の台詞じゃないけど、邪魔なら囮にでもしてくれればいいさ」
 志貴はすまし顔で味噌汁を啜る。その平然とした態度が気になり、凛は茶碗を置いて身を乗り出した。
「死ぬ気じゃないでしょうね」
「死ぬつもりは無いよ。死ぬかもしれないなとは思ってるけど」
 同じことだ。凛は思った。平静を装ってはいる凛だが、内心ではランサーにどう太刀打ちしたものかと不安が渦巻いている。死ぬかもしれないなどと、微笑み混じりに言えるような輩は、死を享受しているとしか思えなかった。
「気持ち悪いこと言わないでよ」
 顔を顰め、ご飯を掻きこむ。志貴は可笑しげに微笑していた。
「死ぬのは怖いに決まってる、だろ?」
「志貴の場合はそもそもそこが怪しいものね」
「だって、死ぬのが恐ろしかったから、俺はここで昼飯食ってる。でなけりゃ、俺はそもそもここにいないよ」
 それもそうか。死を恐れていなかったのなら、志貴はとっくに死んでいたはずなのだから。
「死ぬのは無しよ」
「わかってる。そうしたいよ、俺だって」
 志貴は音を立てて味噌汁を啜った。あと十二時間で生死のやり取りに出向くというのに、そののんびりした態度には苦笑するしかない。
 しかし、凛も士郎も知っている。いざ殺し合いの舞台に立てば、彼は誰よりも殺すという行為に長けた存在と化すことを。まるで機械のように精密な動きで駆け回り、相手の急所──直死という究極の急所を穿つ。
 ここまで静と動がはっきりした人間も珍しいだろうなと、凛は呆れと尊敬を半々に織り交ぜた視線を投げた。
「夕飯は力が出るものにするか。カツ丼とか」
「験を担ぐのも悪くないかもな」
 志貴が苦笑顔で肯く。
「ったく、受験じゃないのよ?」
「なんでさ、気持ちの問題だろ」
 逆に、ここまで動ばかりの人間も珍しい。彼の辞書には後退の文字は無いのだろう。信じたモノに向かって突き進む性格は、既にある男が証明している。それが、突き進む度に退路が崩れるだけだとしても、衛宮士郎は信じたモノを信じ抜く。
 それが衛宮士郎の美点なのだろうが、それは誰かブレーキを掛ける者が居て初めて成る美点ではないだろうか。或いは、背後で崩れようとする道を押し留める者が。
「聞こえはいいけど、考え無しの猪突猛進か」
 二人に聞こえないように呟いて、牛乳を煽った。
 退路がないならば自分が退路になってやればいいと、凛は覚悟を決めていた。




***




 蟲蔵の底を想起させる闇。蟲壺の方がまだマシだったかもしれない。闇としては、きっとこの場所は最上級。最上級の闇というのも変な話かな。桜はくすくすと笑って、掌を翻してみた。だが、何にも触れないし何も感じない。
「ここは、どこだろう」
 誰にともなく声を出してみるが、矢張り返答は無い。当然だった。ここは自身の内面。暗く淀んだ間桐桜の心。言峰綺礼によって切開された、真実。
「わたし、こんなにまっくろだったんだ」
 この場所に巣食っていた小うるさいじめじめした少女を遠くへ追いやると、暗闇以外は寄り付かなくなった。この体に光が残っていたことが不思議だったが、最早自分が誰だったかさえ思い出せないのでは、どうでもいいことだった。
 今桜にあるのは追いやられた小さな絶望と、遥かに大きい希望の光。我が子が孵ろうとする喜びは、この世の全てに勝る。たとえその子が“この世全ての悪アンリマユ”などという名前だったとしても、母は何者も拒まない。
 言峰神父も言っていたではないか。
「生まれる者を祝福せよ。さすれば母たるおまえも祝福される」
 生まれてから一度も喜ばれなかった間桐桜にとって、それにも勝る喜びがあるだろうか。
 誰かに求められる。穢れた自分が求められている。兄のような卑下た欲望からではなく、存在そのものを求められる。なんて甘美で、なんて愛しい。
 だから今は力を蓄えなければならない。子を祝すために。■■■■の仇を討つために。
『俺はきみも、きっと殺す』
 うるさい。桜は怒鳴る。救って欲しいなどと頼んだ覚えは無い。おまえはただの餌で、この手から先輩を奪った遠坂凛も餌でしかない。
「許さない。先輩も、遠坂先輩も、あの化け物も!」
 桜は絶叫し息を荒くした。あの子が驚いている。どうしたの? と訊ねてくる。それに微笑みを返して、桜は歯を食いしばった。
 追いやられた少女は、きっと■■てくれると信じて待っていた。




***




 昼食を終えた後、三人はそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた。志貴は部屋で布団に寝転がり、頭痛を噛み殺す。それは最早頭痛と呼ぶのもおこがましい代物へと変化していた。虫歯が顎ごと痛むように、頭痛は骨を伝って全身に伝播している。
 一度目が見えなくなってからは、その痛みが志貴にとっての日常だった。士郎と凛が居る場所では何を推しても隠し通さなければならない。
 志貴が戦えないと知れば、凛と士郎は志貴を置き去りにするに違いない。それでは二人が死ぬ。
それではキャスターを救えない。
 彼女だけは助けなければならない。その後すぐに別れが訪れるとしても、キャスターに別れを告げなければ、この無謀な戦いを共に歩んでくれた相棒に「ありがとう」と言わなければ、イリヤの犠牲さえ無駄になってしまう気がして……。
 昼食の席では辛うじて誤魔化していた。包帯を額から鼻にかかるほど大きく巻かなければ、浮いた脂汗によって容易く看破されていただろう。次に包帯を外したときに、目が見えているか。それさえ定かではない。
 ランサーと戦うには、志貴はあまりにも不出来だった。走ることができるのか。あの槍を受け止められるのか。志貴の不調は間違いなく凛や士郎にも影響を及ぼす。あの二人ならば間違いなく庇う行動に出るだろう。
 それでは、皆が死ぬ。皆が死んでは、意味が無い。
「一人で、行くべきか……?」
 自問する。一人で行けば待つのは死。
 それは正面から馬鹿正直に突っ込んだ場合だ。ランサーに気付かれずに柳洞寺に忍び込めば、或いは勝機も訪れるかもしれない。良い案に思えた。柳洞寺は特殊な空間だと以前キャスターが言っていたのを思い出す。サーヴァントが山門を潜らずに侵入した場合、能力をある程度セーブされることになるという。だがそれはあくまでもサーヴァントの話。人間である志貴には無関係だ。
「行ける……か」
 キャスターやセイバーが囚われている位置さえわかれば、さほど難しいこととは思わなかった。忍び込み、二人を解放すればいい。
「それと、凛ちゃんの妹か……」
 昨晩は、間桐桜の成れの果てに「殺す」と言った。遠野志貴はエゴイストだから、君の命までは背負えない。殺すつもりなら、相手をしてやる。だが彼女は凛の妹だった。
『約束してください。もし私が変わってしまったら。貴方の手で殺してくれるって』
 不意に蘇った記憶が、胸を焦がす。なんでもないことのように呟かれた言葉が、抑えようの無い感情を呼び覚ます。
 桜と秋葉。
 志貴と凛。
 あまりにも似通っている状況に、志貴は苦悶する。どうしてこの世界はこんなことばかり起こるのか。兄が妹を殺す。妹が姉を殺す。無意味で、悲しすぎる。そんな思いはさせられない。殺すことも、殺されることもあってはいけない。
 遠野志貴は妹を殺せなかった。間違いだったのかもしれない。いけなかったのかもしれない。けれど、妹を殺すことなどできやしない。自分が死ぬのも恐ろしかった。嫌だった。どちらを取ることもできなかった志貴は臆病者かもしれない。だから後悔している。狂ってしまうほどに後悔している。
「だから、もう誰にも、こんな思いはさせない……」
「相変わらず無茶ばかり。学習能力がないのかしら……」
 今度こそ志貴は体を跳ねさせて、首を扇風機のように回して、声の主を探した。だが、包帯で何も見えない視界が紫色のローブを映し出すことも、獣じみた五感が彼女の気配を感じることもなかった。当然だ、頭に直接響く声は、主従の証。
「キャスター?」
「ええそうよ。随分大変そうだけど、何をそんなに慌てているの?」
 キャスターの声は憎たらしいくらいにキャスターの声だった。人を嘲笑うような上から見た物言いも、信じられないほど澄んだ声色も。
「おまえ、無事だったのか」
「無事といえば無事かしらね。志貴こそ、何か厄介ごとでもあるの?」
 志貴は違和感に眉を顰めた。無事? 言峰綺礼に捕えられていて、無事であるはずがない。
「無事って、今どこに?」
「ふらふらしているけど。何かきな臭いことになってるようだし、ほとぼりが冷めるまでこうしているわ」
 偽者か、と志貴は訝った。ならば、その目的は何か。
「志貴?」
「え? ああ聞いてるよ」
「まだあの小娘達と一緒なの?」
「恩人だからな。もちろん一緒に居る。そっちこそ、セイバーは一緒なのか」
「セイバー? いえ、彼女は見ていないわ」
 何かが引っ掛かる。セイバーの居所も知らない、自分はどこかをふらふらしていると言う。あのアインツベルンの地獄から、どうやって生還したのか。また、何故連絡を寄越さなかったのか。何より、ランサーが『キャスターを捕えた』と嘘をつく理由とは何か。
 考えれば考えるほど、このキャスターが偽者に思える。だが矢張り、何かが引っ掛かる。何が引っ掛かるのかわからないまま、志貴は相槌を打った。
「そうか。で、なんで今まで連絡を寄越さなかったんだ」
「それは……」
 キャスターが言いよどむ。偽者確定か、と思った刹那、おずおずと口を開く気配を感じた。
「喧嘩を……していましたから」
「あ……」
 あまりにも唐突で、まったく備えを用意していない言葉だった。それだけで、志貴はこのキャスターが偽者だなどという馬鹿げた考えを忘却の彼方に追いやっていた。
 思えばあの日、イリヤが死に、バーサーカーが消え、志貴も生と死の狭間を彷徨ったあの日。アーチャーやギルガメッシュが現れなければ、志貴はそのまま三咲町に帰っていたかもしれない。キャスターに別れの言葉も告げずに、悩んでいた彼女のことなど考えずに、消え去ろうとしていたのだ。
「気まずくて。その、どうすれば良いのか、わかりませんでしたし」
 あれ程身体を苛んでいた頭痛のことも忘れる衝撃が、志貴の頭を貫いた。
 志貴は忘れてしまっていたのに、キャスターはずっとそのことで煩悶していたのだろう。心底落ち込んだような声色は、彼女の苦悩の全てを内包していた。
 馬鹿者と自分を詰り、底まで堕落してしまったような忸怩たる気持ちになる。そんな、最低限のことも忘れるほどに、自分は没頭しているのか。情けない。あまりにも、無様だった。
「そうだよな、キャスター。ごめんな、キャスター……」
「何を……?」
「おまえが苦しんでるってわかってたくせに。俺はおまえがルール・ブレイカーを刺してくれることを期待してた。そうすれば帰れるって。一緒に戦ってくれたおまえを裏切ろうとした。俺は、おまえを貶めた連中と、同じだ」
 志貴は慙愧し、頭を垂れた。罪悪感でいっぱいになった胸を八つ裂きにしてしまいたい衝動を堪えながら、志貴はキャスターの言葉を待つ。
「違います。貴方は違う。だからそんなことは、言わないで」
 掠れるような声に、何かがこみ上げてくる。キャスターの意図がようやく掴めた。馬鹿。言葉にはしなかった。
「志貴、ですからとにかく、今は静観しなければ。今生まれようとしているものは、とても太刀打ちできるものではない」
「おまえを見殺しにできるか」
「志貴?」
「今も柳洞寺にいるんだろ。全部聞いてる。まったく、そう言えば俺が来ないとでも思ったか? そうは行くか。俺は、大事な人を見殺しにするのは、もう二度とご免なんだからな」
「な……! 来てはいけません志貴!」
 キャスターは可笑しい。
「そういうの、墓穴を掘るって言うんだぞ」
 けらけらと笑う志貴を余所に、キャスターは己の失態に気付き、激しく取り乱した。
「いけません。貴方はわかっていない。来ては……来てしまったら死ぬ。貴方はどこまで私の考えを踏みにじれば気が済むんです! いり──」
 言葉が途切れる。
「キャスター?」
 返事はない。何かがあったのか。
「いり……?」
 何のことかと考えようとした刹那、忘れていた痛みが襲ってきた。頭痛と、内臓を掻き回す痛み。苦しみ悶える志貴は、頭の中で大音量の鐘の音を聞きながら、その中に混じる足音を聞き分けた。
「入るわよ」
「凛……ちゃん」
「ちゃん付けはよしなさいっての」
 襖を開けて志貴を見下ろした凛は、眉をひそめてじっと志貴を見た。
「何かあった?」
 鋭いなと苦笑した志貴は、溜息を一つ吐いて肩を竦めた。
「キャスターから連絡があったよ」
「……なんだって?」
「柳洞寺には来るなって。つまり、そういうことだ」
 余計なことは言わずに、志貴は簡潔に話す。
「裏が取れたってこと」
 頷き返す。凛は暫く考え込んで、やがて志貴の隣に腰を下ろした。
「ま、それはそれとして。治療が先」
「目は君の専門じゃないだろ」
「そうね。けど腹の傷は何とかできるかもしれない。あの突き刺さった剣がクラウ・ソナスだとしたら、キャスターに感謝することね」
 Claimh Solais。ダーナ神族が秘宝の一で、不敗の剣の二つ名を持つ神剣。
「ギルガメッシュが剣を使いこなせてないってこともあるんだろうけど、多分キャスターの強化が随分大きな助けになってるはず。あと貴方、もしかして誰かと契約してる?」
「契約? いや、あ……妹、かな。秋葉に命を分けてもらってるらしい」
「それね」
 凛は溜息を吐いて、志貴のシャツを捲りあげた。凛が確かに治療したはずの傷は、紫色に変色し、今にも腐り始めようとしている。
「衛宮くんが言ってたから間違いないと思うんだけど、宝剣クラウ・ソナスなら標的は逃げられない……つまり死ぬっていう呪詛が付加する。けど、貴方は二重三重の加護によって守護されていた。そこで殺せなかった呪いが、懲りもせず殺そうとしてるってわけ。わかった?」
「大袈裟な武器を持ち出したもんだな……」
 腹をさすると、激痛が走った。神様の持ち物にしては、生々しい能力があったものだと皮肉げに笑う。
「裏を返せば、そんなものを抜かせるほどに、志貴が手強かったってことでしょ」
「買い被りすぎだよ。それに、敵はランサーだ。ナイフを当てる隙なんか、あるかどうかも怪しい」
「助けなきゃよかったわね」
 笑いながら首を振る。
「そういうわけにもいかないだろ、あの場はさ」
 膨れる凛を横目に、ランサーの去り際を思い起こした。
『助けろよ。おまえ、死ぬなと命令しておいてほったらかしじゃ、男が廃るってもんだ』
 不思議な言葉だった。志貴を煽る言葉。それほど遠野志貴や衛宮士郎と戦いたいのか。そんなはずはない。遠野志貴は実力で言えば遥かに格下。というよりは、小学生が格闘家と真剣勝負をするのに近い。そんな戦いを面白いと感じるほど、ランサーの性根は曲がってはいまい。つまり、ランサーが志貴を焚き付ける必要はない。
「わからないな」
「え?」
「こっちの話」
「そう、じゃ治療するわよ。少しは楽になるだろうけど、完全にとなると難しいから」
「わかった。ところで、士郎君は?」
「道場で素振りしてるみたい」



***



 莫邪が風を切る。額からこぼれる汗を拭って、傍らのペットボトルの水を一息に飲み干した。
 冷たい空気は心を清廉に保ってくれる。それでも、これからの死闘を思えば嫌でも心が乱れた。柳洞寺にはセイバーが囚われている。そして、敵はランサー。昨晩命を救われ、救った相手。
『後悔しなきゃいいがな』
 ランサーの台詞だった。確かに、士郎が手を出さなければ、ランサーは心臓を破壊され死んでいただろう。だが、士郎は後悔していない。それでよかったと、誰かが心の中で同意してくれている。
投影、開始トレース・オン
 士郎は両手に再び干将莫邪を投影した。熱が下がって以降、投影の成功確立は鰻上りだった。干将・莫邪の投影ならば、ミスはほとんどない。凛に言わせれば「アーチャーが生涯愛用した武器だから」だそうだが、ではアーチャーは何故干将・莫邪を愛用したのか。
 扱い易くはある。だが、この剣でなければならない理由があったのか。決して離れない夫婦の絆が篭められた剣。何故、あの英霊はこの剣を選んだのか。
「わかるわけないか」
 ふと格子の向こうを窺った目が、信じられないものを映して、士郎は戸惑った。
「空が赤いって……夕方か?」
 見れば服は汗で水浴びでもしたように濡れている。数時間も素振っていた事実に戸惑いながら、士郎は道場をあとにした。
 廊下を歩き、自室の隣の部屋の前で立ち止まる。中では凛が志貴の治療をしているはずだった。
「遠坂、志貴、いるか」
「衛宮くん? どうしたの?」
「買い物に行ってくるから、留守番頼む」
 しばらくの間のあと、襖が開けられる。
「買い物って、夕食の材料?」
 額に玉の汗を滲ませ、僅かに頬を上気させた凛が言う。とろんと蕩けたような目と、大きく上下する胸に思わずどきりとして、直後小さな痛みに胸を刺された。
「ああ」
 脳裏を過ぎった下世話な妄想を振り払い、平然と言った。
「冷蔵庫の中のもので大丈夫じゃないの?」
「いや、豚肉なんかは買い置きしないだろ」
「ほんとにカツ丼にするつもり?」
 凛が笑う。その笑みは何故か艶かしい。暗い部屋と差し込む斜陽のコントラストは今の彼女をひどく妖艶に映した。少女と大人。陳腐。けれど幻想めいた曖昧さで、笑みを浮かべる凛が別のものに見える。
 士郎は遠坂凛に憧れていた。誰よりも美しく、誰よりも頭がよく、誰よりもスポーツが得意。多少主観が入っているのかもしれないが、遠坂凛とは衛宮士郎の中でそういった完璧な人として認識されていた。
 暗がりで凛とたった二人で居た志貴に、憎しみにも似た感情を抱いてしまうのは何故なのだろう。それは憧れなのか。それとも恋なのか。
「じゃあ、行ってくる」
 浮かんだ思いを否定して、士郎は平静を装って言った。
「行ってらっしゃい。楽しみにしてるわ」
 屈託の無い笑顔を向けられ、再び胸に痛みを感じた。「ああ」と笑顔で返しながらも、士郎は一抹の寂しさを感じていた。

 士郎が立ち去った後、凛は暫くその後姿を見送っていた。微笑ましげに見つめる志貴には、気付きもしない。
「青春、万歳」
 凛が飛び上がりかねない勢いで振り向く。
「あんたね、親父臭いのよこういうときばっかり。半死人なんだから、それらしくしてなさいっての」
 志貴は微笑を浮かべていたが、その顔は真っ青だ。凛が汗まみれなのは、志貴の容態が想像より格段に悪かったことに起因する。
 何故生きていられるのか。凛の感想はそこに尽きた。
 それでも、宝具レベルの呪術をある程度相殺した凛の実力は、矢張り相当のものである。
「今凄く睨まれた気がするよ。心配には及ばないのにな。凛ちゃんは秋葉にどことなく似てるし」
 妹を愛してるとか言う人間の言葉じゃない。凛は嘆息した。
「それを聞いたらわたしが不安になったわよ」
「ああ、そっか」
 志貴は苦笑していたが、凛は笑おうとは思わなかった。無理矢理に笑わされても、空しいだけだ。何より志貴の容態を現状誰よりも理解している凛を前に、虚勢を張る必要などない。
「無理しなくていいわよ。喋るのも辛いんでしょ」
 それで、志貴の相貌が凍った。無理に浮かべていた笑みは卑屈に頬の肉を吊り上げるだけになり、歯の隙間からは苦悶の吐息がこぼれる。
「正直に言って欲しい」
 志貴は慎重に前置きした。
「今夜勝てたとして。俺は、あとどれくらい生きられる?」
「明日死ぬかもしれないけど、そうね、半年──それだけ保てば奇跡よ」
 ──今夜、傷を受けなかったとしたらね。
 凛はそう付け加え、深いため息を吐いた。
 志貴は反応しなかった。凛の目には、長いと感じているのか、短いと感じているのかも判然としなかった。
「ところで」
 志貴が再び下世話な笑みを浮かべた。
「告白しないの?」
「今夜にでもね……」
「え……?」
「あ……」



***



 商店街の八百屋で玉ねぎ、切れかけていたみりん、三つ葉。肉屋で豚肉を買い、帰路を歩く。商店街は主婦で溢れかえっている。今夜生死を賭して戦おうとする少年少女のことなど知らずに、口々に行方不明者のことを語りながら、それでも時折笑みを零す人たち。
それが平和。彼女達の平和を乱さないために、今夜自分達は戦うのだ。士郎は奥歯を強く噛み締める。
 街に満ち始めた何か。聖杯戦争以前では、気付けたかどうかも怪しい。だが、今の士郎にはその怪異に気付けるだけの実力が備わっていた。
 ショートカット。本来経るべきモノを省略し、容易く一つの境地にたどり着こうとする矛盾。未来の己を視るということで実現したそれは、この先士郎を蝕むだろう。
 夢に見たセイバーの赤い丘。それとひどく酷似した心象風景。あの英霊にとっての莫邪は、セイバーだったのか。
「だから、考えてもわからない」
 再び囚われようとした心に悪態を吐いて、士郎は強くアスファルトを蹴って歩く。
 心が荒んでいる。こんなにも不安定なのは初めての経験で戸惑う。頭にちらつくのは凛の屈託の無い笑みと、志貴の凍えた眼。
 ふと気付き、士郎は驚嘆した。
「…………妬いてるのか、俺」
 奪われたように感じている。それは勝手な妄想だ。元々遠坂凛は自分では手の届かないところにいる存在なのだから、彼女が誰を好きになろうと関係はない。なのにそれを許容できないほど彼女を恋しく思うことが、信じられなかった。
「病んでる。なんだってんだ」
 少し前までの士郎なら、むしろ祝福しただろう。遠坂凛はあくまでも憧れの少女で、衛宮士郎はただの少年。二人に共通項は何一つなく、一成あたりにそんな話を聞かされても、いいことじゃないかなどと言ったに違いない。
 しかし、今の士郎にとって、凛の存在は大きすぎた。命を救われ、優等生の皮を被ったあくまだと知って、共に戦った。そうした出来事を乗り越えるうちに、士郎の中で彼女の存在は大きくなりすぎていた。
 彼女を失いたくないと、思ってしまうほどに。
 暗澹たる気分で歩いていると、いつの間にか玄関の取っ手に手をかけていた。一呼吸して引き戸を開けて、中に入る。
「おかえり」
 凛が居間から顔を出している。思わず目を逸らしてしまってから、「ただいま」と小さく返した。
「志貴はもういいのか?」
「よくない。でも、わたしにできることは全部やったわ」
「よくない……って」
「長くは保たないってことよ。魔眼は暴走してる。呪いの方は辛うじて進行を抑えられたけど、どちらにしろ魔眼の侵食が強すぎて……」
「そう……なのか」
 凛のことで蟠り──士郎が一方的に感じているだけだが──があるとしても、志貴が長くないと聞かされて良い気分にはならない。憎くは思わず。憎からずとも思わず。過去を引き摺る生き方は、士郎の理念とは相反する。それでもこの二日助け合った身としては、愛惜があった。
「何とかならないのか」
 士郎は材料をまな板の上に並べながら言った。凛は居間でテーブルに突っ伏したまま、間延びした声を出す。
「難しいわよ。あんなに強力な魔眼なんて見たことないんだから。それこそ、あの女王メディアくらいのレベルじゃないと。延命の呪術まで使うって伝承があるし」
「メディアって、キャスターだろ?」
 柳洞寺で戦ったアーチャーはそう推測を立てたと、凛が言っていた。
「ええ、志貴にも確認取ったわよ」
「よく教えてくれたな」
「隠す理由なんて、もうないでしょ」
 それもそうか。士郎は頷いて、凛に続きを促した。
「だから、志貴を生かしたいならキャスターに何とかしてもらえばいいんだろうけど、戦争後も現界させるのは、志貴じゃ厳しいわね」
「志貴は魔術師じゃないんだよな?」
「ええ。けど魔力はある。けど、何て言うのかな……方向性が違うのよ。簡単な言い方をすると、魔眼を作動させるための回路、って感じ。もちろん修行すれば魔術は使えるようになると思うけど」
「直死の魔眼に魔術……? 怖いもの無しじゃないか」
「だから、その魔眼が命を削ってるんでしょ。確かに強力だけど、過ぎた力は術者を蝕む。それは超能力者にも言えることよ」
 推測なんだけど。と凛は前置きする。
「志貴は今まで魔眼をある程度セーブするのに、魔力を無意識に使ってたんじゃないかなって。その魔力をキャスターに吸い上げられることで急激な侵食が始まった。あそこまで酷い状態になることは小学生の時以来だそうだし。身体が成長して、魔力の指向性が定まったとしたら……。どう? 結構良いセン行ってると思うんだけど」
「その話は正直どうでもいいんだけど」
 凛がムッとしたように膨れた。
「遠坂、戦争が終わった後、おまえならサーヴァントを現界させられるのか?」
「現界させるだけならできると思うけど」
「なら、キャスターと契約できないか」
 凛が頬をかく。
「志貴はいらないって」
「え──?」
「妹の安全を確保できる時間があればそれでいいって。志貴も誰かさんに負けず劣らず頑固だから。それに、キャスターってアレ、わたしの言うこと聞きそうにないでしょ」
 志貴のために単身遠坂邸に乗り込むくらいだから、志貴のためならば喜んで契約するかとも思ったが、志貴が拒否しているのでは意味がない。だが──
「アイツにとって、それは望む結果じゃないんだな。アイツは笑えないんだな」
 凛は目を丸くする。
「妹の安全を確保っていうのは、どう考えても妥協案でしょうね。本当は一緒にいたいはずなんだから。だからまあ、望む結果ではないと思うけど?」
「そうか」
 士郎は息巻いて、夕食の準備に取り掛かった。



***



 ゆったりと漂ってきた芳醇な香りに誘われるように、志貴は居間にふらふらと現れた。テーブルの上には、狐色の衣を綺麗に卵でとじられたカツが、ご飯の上で湯気をあげている。ふりかけられた三つ葉が、綺麗なアクセントになっていて、実に食欲をそそる。
 とはいえ、志貴は匂いで判断するしか無いのだが。
「調子はどう?」
 テーブルにちょこんとついた凛は、どこか緊張した声で言った。
「ああ、よくなった」
 ──昼と比べればね。
 声に出さず呟いて、それでも志貴は凛に感謝した。腹の中が腐り落ちていく奇妙な感覚はこれまで味わったことの無いタイプの痛みで、非常に耐え難い。それが純粋な痛みに変化しているのだから、ありがたいことだった。
「外傷は消えたから、すごく良い感じだよ」
 アサシンのダークで穿たれた足も、微細な違和感こそあるものの完治している。
「そう、良かった」
 ホッとしたような凛に笑いかけて、台所でエプロンを着けた士郎に視線を移す。
「美味そうだね」
「きっと美味い。気合入れて作ったからな」
 お吸い物をお碗に注いだ士郎は、お盆にそれを乗せてやってくる。
 士郎が座るのを待って、三人で手を合わせる。やけに長い「いただきます」の号令のあと、無言でカツ丼を頬張る三人には、奇妙な迫力があった。
 食べ終わった時刻は午後八時。凛と士郎が皿洗いをして、志貴はナイフを手持ち無沙汰にいじっている。あと四時間で、決戦の地──柳洞寺に乗り込む。キャスターとセイバー、凛の妹が囚われている地。ふと、どうやってセイバーとキャスターを捕らえているのかと疑問に思った。
 ランサーにいまだ見ぬスキルがあるのか。それとも言峰神父にそういった技能があるのか。だが、志貴の脳裏を過ぎったのは、ギルガメッシュの鎖だった。あの鎖ならば、弱ったセイバーやキャスターを捕まえておく程度、容易く成し遂げるだろう。
 言峰がギルガメッシュを裏切った。ランサーを用いてギルガメッシュを討った。
 それが事実でなかったとしたら。今夜の敵がもう一人増えることになる。より厄介で、しかし心を揺さぶる敵が。
「じゃ、言わせて貰う。わたしは言峰とランサーを討つ。何をしようとしてるのか知らないけど、一般人を巻き込んだ時点で、粛清の対象だから」
 いつの間にかテーブルについていた凛の言葉だった。志貴と士郎は静かに頷く。
「わたしの武器は魔術。それと綺礼相手なら、魔術でブーストすれば多少なり肉弾戦もできる。宝石の攻撃は、志貴にも脅威を与えたはずだけど」
 言われて、志貴はアインツベルンの森で戦った彼女が握っていた宝石を思い出す。閃光の中、何をおしても放たせてはならないと覚悟させるほどのモノ。
「そうだね。アレは肝を冷やした。じゃあ俺か? もちろん戦う。キャスターは、助けないと。それに、凛ちゃんの妹なんだろ、あの桜って子は。なら絶対に助けないと。それはそれとして、直死の魔眼くらいかな、特別なモノは」
 士郎が息を吸って、吐く。
「貫けなんて言葉を遺して逝ったヤツがいる。戦うと決めたときに、最期まで付き合う覚悟はできてるさ。桜は助けたい。意地でもな。俺の武器は投影。剣ならいくらでも複製できると言いたいところだけど、元々魔力が少ないからそうぽんぽんとは出せないみたいだ」
「前から疑問だったんだけどさ。あの剣、アーチャーのモノと同じだよね」
「そう……ね。衛宮くんは」
「いい。俺が言うよ、遠坂」
 士郎が真っ直ぐな目で自分を見据えていると、志貴は感じた。少し背筋を伸ばして聞く体勢を整える。
「アイツは、俺の一つの可能性だった」
 それだけで、十分といえば十分だった。志貴は「そうか」と呟いて、英霊にまで至る可能性を秘めた男の死を思い出した。
 全身の至るところに穿たれた点。死にやすい、どころの話ではない。志貴が戯れに触れれば、それだけで衛宮士郎は死にかねないほど、全身に存在する点。それは、本来一つであるべきだ。死とは終着なのだから、一つしかありえないはずなのだ。だというのに、それが全身にあるという怪異。推測だが彼は英雄として、死を乗り越えるほどの活躍を必要とされるということなのか。運命にさえ抗い、死さえ退けて生きる。それが、幸せといえるのか。
 居間の空気が淀む。誰もが不安だった。ランサー──クー・フーリンという大英雄を、サーヴァントも無しで倒さなければならない状況に。
 ついでに言えば、三人が顔をあわせることも、恐らくこれで最後になる。三人のうちの誰もが、三人の生還を絶望視している。三人のうちの誰かがセイバーやキャスターに到達できれば、勝利も夢ではなくなる。だがたどり着くとは、誰かを犠牲にランサーを押し留め、生き残った者が……という意味だ。
「ランサーは俺が受け持つよ」
「は? 一人でか?」
 士郎が目を丸くしている。
「その隙に、二人はセイバーとキャスターを解放してくれ。セイバーとキャスターが揃えば、ランサーを倒せる」
「何言ってんだ。それじゃおまえが死ぬだろ。駄目だ」
 士郎は猛然と抗議してくる。志貴は助けを求めようと凛の方を見たが、どうにも彼女から生気を感じない。
「凛ちゃん?」
「え? なに?」
 ひどく慌てた様子に、志貴だけではなく士郎まで首をかしげた。
「考え事か? 遠坂」
「うん。もしかしたら、衛宮くんと志貴でランサーを倒せるかなと思って」
「なんだって?」
「うん、でも……その……ね?」
 凛の様子は明らかにおかしい。その態度に、志貴はある閃きを覚えた。赤い世界。学園で見たあの世界。アレは、どうなのか。
 はっきりしない凛の態度に疑問を覚えながら、志貴は士郎が出したお茶を啜る。
 凛の動揺。アーチャーと士郎が同じ者。けど、魔力が足りない。魔力が足りないのなら、誰かが補って──。
「ああ、そういうことか」
「何がそういうことなんだ?」
 士郎が尋ねてくる。
「いや、俺と士郎君ならなんとかなるかもしれないって話だよ」
「なんだ、俺だけわからないのか。悔しいぞ、なんか」
 凛はおそらく烈火の如く志貴を睨みつけていることだろう。きっと、凛の中ではずっとどこかにあった案なのだろう。だが、口にするのは憚られる。当然か。と志貴は緩む口許をなんとか引き締めながら思った。
「少し、散歩してくる」
「は、え? あ、志貴!?」
 凛のよくわからない叫び声を背中に聞いて、志貴は部屋をあとにした。門を出て、塀に背中を預けた瞬間、
「ち、ちょっと待てーーーーーーッッ!!」
 そんな、士郎の叫び声が聞こえてきた。
 志貴は苦笑して、もう少し離れた方がいいか、と立ち上がる。
 志貴は羨望のようなものを感じていた。また、ある覚悟も決まっていた。死なせるものか。あの二人も、その妹も。誰も死なせはしない。決して、見捨てはしない。救ってみせる。
 それは、衛宮士郎に少なからず感化された意志だった。この戦争が始まったとき、全てをの悪を容認するほどの覚悟を決めていた遠野志貴はもういない。悲しいくらいに狂っていた遠野志貴はもういない。
 キャスターと共に戦い。衛宮士郎と出会い。英雄達の生と死を見てきた中で、本来あるべき貴い志を見出していた。瞳に迷いは無い。たとえこの先に楽しく笑える未来など無いとしても、未来がある者たちを、死なせることだけはできない。
 たとえこの感情が今だけのもので、聖杯戦争が終わればまた狂うとわかっていても、忘れてはいけないモノなのだと思う。今夜、遠野志貴は死ぬかもしれない。けれどそれで、未来を得ることができる人たちがいるなら、後悔など無い。
「秋葉──お前を助けられないかもしれない。けど、もう俺達みたいな想いは、誰にもさせないから」
 言い訳と言われようと、逃げだと言われようと、笑える未来を持つ人たちを救うために命を懸ける。
 遠野志貴は、覚悟を決めた。
 あても無く、月夜の街を志貴は歩き出す。弱弱しい背中を、堅固な意志で塗り固めて。





inserted by FC2 system