Dead Eyes See No Future



 凛は縁側で頭を抱えていた。傍らの士郎に桜との関係を語って以降、二人に会話は無い。胸は収まらない焦燥に焼かれ、言いようの無い虚脱感は力を奪っていく。頼りない体を支えるのは、顔面を覆う両の手のみ。下ろした髪が顔を覆い、さながら幽鬼のような様相を呈しているのも、無理からなることであった。
 血涙を流すという離れ業をやってのけた志貴は部屋に篭っているため、あの怪物を見て『間桐桜』と零した真意は定かではない。しかし言葉にされずとも、凛は全てを理解してしまっていた。
 間桐桜は凛の実の妹である。この世でたった一人の血縁。たとえ外見を弄られ、間桐として馴染んでしまっていても、魂のレベルで書き込まれた『遠坂凛の妹』という情報だけは変わらなかったらしい。何せ凛もまた、あの怪物の内に、血の繋がった妹の鼓動を感じていたのだから。
「桜……」
 これまで何度呼んだとも知れない名前を呟き、凛は前髪を巻き込むようにしてこぶしを握った。音を立てて抜けた髪もそのままにじっと目を閉じていると、叫び出したい衝動に駆られた。
 黙っていれば、否が応でも四十六の犠牲のことを思ってしまう。あくまでも行方不明となっているが、犯人があの影なら、おそらく誰一人として生きてはいない。あの影はライダーが学校で展開した結界のような生易しいものではない。人を丸ごと飲み込み、骨も皮も全て養分にしてしまう。だから痕跡など残らない。いわば神隠しのようなものだ。
 そんな外道な行いが、妹の手によるものだったとしても、凛は「堕ちたのか」程度の感慨しか抱かない。凋落した名門に養子として差し出されたときから、凛と桜の世界は隔てられている。遠坂と間桐。二つの家は決して混ざらない。桜が間桐の色に染まってしまっても仕方の無いことだと思う。立場が違えば凛がそうなっていたのだ。だから仕方が無い。先代が決めたことなのだから、そこに異を唱える資格はないし、間桐のモノとなった桜をどう扱おうと間桐の自由だ。
 だが一つ、許せないものがあるとすれば、人を食う程の外道になるまで堕としておいて、その責任さえ取れない間桐の家そのもの。それではあまりにも、桜が哀れだった。
「遠坂、ありがとう。話してくれて」
「ううん。知っておいたほうがいいだろうしね」
 士郎は志貴とは違い、完全に回復していた。眠っていた力が、この先時間をかけて修めるはずだった力を先取りした体が、それに順応してしまったのか。一度や二度の剣製ではびくともしなくなったのは、喜ぶべきことではない。それはアーチャーに近づいているということだ。全ての人の幸せを願いながら、数多くの人を殺した英雄。
 衛宮士郎を彼のようにはしない。
 アーチャーが全てを自白した日に、密かに誓った。
 初めて気にかけた異性。それが恋だとは思わなかったが、愛なのかもしれないとは思っていた。遠坂凛は衛宮士郎に好意を持っている。それがいつからなのかは分からない。夕焼けの校庭を走る姿を見たときからかもしれないし、この戦争に彼が乱入してきたときからかもしれない。どちらにせよ、彼にアーチャーと同じ道を歩ませるつもりはなかった。それが、英霊エミヤが身をもって証明した遠坂凛の生き方だから。
 しかし、と凛は呻吟する。恋だ愛だのより前に、肉親を何とかしなくてはなるまい。
 この局面を乗り切れるのだろうかという疑問。それが、妹の罪を目の当たりにした瞬間に生まれた。
 四十六もの命を奪った外道は、管理者たる自分自身で滅ぼさなくてはならない。実の妹を殺さなければならない。
 それが、かつての志貴の悩みと同じであるとは知らずに、凛は煩悶するのだった。
 違和感に眉根を寄せたのはそのとき。
「矢張り今代の遠坂の切れは一際よの。が、少々不安定と見える。何か悩み事かな、娘」
「誰だ、テメェ」
 結界が作動しなかったことに少々の驚きを滲ませつつも、数日間の非日常は衛宮士郎をそれなりに鍛えたらしい。鋭く侵入者を睨む様はそれなりに堂に入ったものだった。
 だがその点で言うのなら、遠坂凛は衛宮士郎より頭一つは飛び抜けていた。
 指の間から炯々たる眼を覗かせた凛は、悩みや疑念の一切を忘れ、悪鬼もかくやという形相を庭に向けた。そこには異形が在った。老人、否、化生の類が粘ついた笑みを浮かべながら立っている。
 その顔を知っている。桜がいなくなったあの日、遠坂の屋敷まで出向いてきた間桐の隠居。十にも満たなかった凛の心に強烈な嫌悪感を刻み付けた怪物翁。
「とっくに干からびてるかと思ってたのに、まだ生きていたの。長生きね──間桐臓硯」
「随分な言い草じゃのぅ」
「間桐──まさか桜の」
「衛宮の倅か……ワシは桜と慎二の祖父、ということになるかの」
 凛は眉も動かさずにその異形を睨み付け、やおら立ち上がると懐から一本の刀剣を取り出した。テオフラトゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバトゥス・フォン・ホーエンハイム──天才医師パラケルススの魔剣アゾット。いつか兄弟子が気紛れで寄越したものだ。レプリカではあるが、近接戦闘を行うならば凛が持つ魔具の中でも突き抜けた性能を持つ。
 単純なようで、その実高度な術式で編まれた衛宮邸の結界を素通りした化け物相手には心許無いが、それ以上の高揚感で凛は眩暈さえ覚えていた。
「やり合うつもりか、小娘」
 何せ、灰燼に帰してやろうと思った刹那に、その相手が現れてくれたのだから。
「何を企んでるのか知らないけど。冬木のセカンドオーナーとして、何より遠坂凛として、あんたは見過ごせない」
「ほう、知ったようじゃな。行方不明者事件の犯人を」
 臓硯は行方不明とわざとらしく強く発音し、粘ついた口を歪めて笑う。
「桜だっていうんでしょ。よくもまぁあんな薄汚い格好にしてくれたものね」
「薄汚い、か。それではあの子が泣く。それよりも、剣を下ろしてくれんか。争いにきたわけではないのでな」
 濡れ雑巾を絞るような音と一緒に、臓硯が尚笑う。
「冗談──」
 その醜悪な様子に苛立ちを覚えた凛は剣を下ろさなかった。
「──言ったわよ。あんたは許さないって」
 地獄の釜の底からの声は、齢数百年の臓硯を以ってしても感嘆に値するものだったらしい。『ほう』と呼気を漏らした臓硯は、心底おかしげに腐った息を吐きながら笑った。
「傑作とはこのことじゃな。年端も行かぬというに、何たる覇気か。だが矢張り何か、見失っているようじゃな娘。確かに桜がああなったのはワシの責任でもあろう。じゃが、お主が成すべきはこの冬木で暴れている元凶そのものを滅すことだろうて」
「桜が許されない罪を犯したっていうなら、私は裁く。妹だろうと親だろうと、理から外れたモノは摘出する。それが管理者としての責務だから。けどその前に、わたしにも私憤がある。桜がああなるのを黙って見ていた外道をおめおめと逃すほど、わたしは割り切れない」
 解いた髪が風に吹かれて靡く。
「外道とはまこと正鵠。確かにこの身は既に外れておる。さて、本題を話しても良いかの。ここではなんじゃ、散歩がてらにでも、と言いたいところだったのだが、どうにも殺気が沁みるな。そうまでして殺したいか」
 凛は、当然とばかりに一歩踏み出した。
「話したいならそこですることね。内容次第では三途の川を渡るまで、幾許かの猶予をあげる」
 凛の挑発とも本気とも知れない言葉に、臓硯は初めて怒りの片鱗らしきものを露にしたが、すぐに笑みを刻む。
「ならば独り言に興じるかの。一つ、桜は言峰神父の手中にある。奴等は儀式のために柳洞寺に陣取っておる。二つ、ギルガメッシュは言峰に裏切られ、敗北した」
 それは、情報の正誤に関わらず凛と士郎を揺さぶるには最適な言葉だった。二人の関心を掴んだ実感を得た臓硯は、知らぬふりで続けた。
「さしものアヴェンジャーとはいえ、ギルガメッシュは恐ろしいと見える。ランサーと組み、真っ先に呑みおった」
「ギルガメッシュと言峰が手を組んでたってこと?」
「八体目というところで気付かなかったのが、お主等の甘いところよな。聖杯とて、八体以上のサーヴァントを現界させるのは不可能。にも拘らず八体目が現れたということは、どういうことかわかろう」
「……前回のサーヴァント、か。あの似非神父が、十年間隠してやがったんだな」
「頭が働くのう倅。言峰綺礼は十年前の聖杯戦争に参加し、密かにそのサーヴァントを隠し持っていた。そして此度もまた干渉してきた。ギルガメッシュを持ちながら、ランサーという駒まで得てな」
 凛は焦点の定まらない瞳を中空に向けていた。
 凛には言峰綺礼の魂胆が見えていた。兄弟子でもある言峰の嗜好が常人とは逆向きだということは知っていた。人の苦悩を至上の蜜として、迷える子羊を巧みな話術で絶望の釜へと突き落とす。そんな言峰が、何を思って桜の闇を暴いたのかなんて、考えるまでも無い。
 
 凛と桜を殺し合わせる。

 些か突飛すぎるかとも思った。大嫌いな人間とはいえ仮にも兄弟子だ。毎年誕生日には趣味じゃない服を贈りつけて来るし、今臓硯に向けている剣も彼から貰ったものだ。士郎以外で、本当の遠坂凛を知る唯一の人間でもある。それを殺せと言われたら、さしもの凛とて戸惑いがある。だからきっと言峰もそうであると考えたかったが、姉妹を殺し合わせるというのは如何にも言峰が好みそうであり、桜の脇で憫笑を浮かべる言峰の様がありありと浮かぶのだから、どうしようもないことだった。
「趣味の悪い……」
 二人に聞こえないように呟く。
「それはいい……。あんた桜の爺さんなんだろ。本当にあの……アレが桜なのか。あんたならわかるだろ」
「間違いなく、アレは桜じゃよ。黒き聖杯として機能するために、聖杯の中身を使役し養分を集めている桜じゃ。中身は便宜上、アヴェンジャーとでも名付けておくか」
「黒き、聖……杯?」
「然様。アインツベルンの白き聖杯が失われた今、この地で聖杯足りえるのはマキリの桜のみ」
「桜が聖杯ってどういうことよ」
「言った通りの意味じゃ。この地の聖杯とはそういうものよ。外なる世界とこの世界とを繋ぐ架け橋じゃな」
 臓硯がくつくつと忍び笑いながら、怒りに染まっていく士郎の顔を凝視していた。
「そう殺気立つでない。ワシも今回は見送るつもりであったが、いやなに、言峰綺礼に無理やりに起こされてしまってはどうしようもあるまい」
「あの姿を見てねえのかよ。アレが桜だってんだ。綺麗だった桜が、あんな醜いモノにされて。孫なんだろ! それがなんで笑ってやがる。こんなところに居ないで、助けに行くのが筋だろうがよ!」
「故に助けを乞いに来たのだが。情報は協力と交換のつもりじゃったが、お主等の殺気とくれば人を視線だけで射殺さんばかり。それではこの老骨は耐えられぬと見て、話したわけじゃ」
 臓硯はあくまでも飄々としている。それが士郎を刺激するのだと気づかず、いや、気付いていて尚その態度を崩そうとしない。それは協力を仰ぐ者の態度ではなかった。
 無論、凛は端から協力などする気はないだろうと考えていた。話に嘘が無いらしいところを見れば、真実を語って士郎たちを焚きつけようと画策したのか。
「しかし──」
 何がしか続けようとした臓硯の爛れた頬が僅かに引き攣ったのに、凛が気付く。飄々としていた表情が僅かとはいえはっきりと変化した。苦汁か、驚きかに。
 次々と明かされる事実に凛も頭痛を覚えていたが、臓硯がそんな顔をする理由など無いはずだった。あるとすれば、孫娘を殺す殺さないの際までやってきた自分自身への辟易か。と考えて、凛は愚かだと一笑する。この妖怪が、そのような殊勝な心を持ち合わせているとは思えなかった。
 魔術師の外見年齢ほどアテにならないものは無いが、その中でもこの間桐臓硯は頭一つ飛び出している。慎二や桜など孫どころの騒ぎではないだろう。その前に『曾』がいくつつくかわかったものではない。
 漂ってくる腐臭からそんな推測を立てると、老獪の様子は明らかにおかしくなっていた。頬は引き攣り、口元を忙しなく動かして何かを叱責しているような風情。
「どうかしたの?」
 疑問に思った凛が問いかけると、臓硯はハッとしたように肩を震わせた。
「お主等、確か仲間をもう一人連れていたな」
「……さてね。どうだったかしら」
「惚けずともよいわ。ライダーを倒したキャスターのマスターに相違無いな」
「いいえ、違うわよ」
「……小娘、惚けるなと──」
「別に惚けてないわよ。ライダーを倒したのはキャスターじゃなくて、そのマスターの方よ?」
 臓硯の顔が罅割れる。その反応を矢張り訝しみながら、凛は手首に巻いたリボンで髪を一本に纏め上げた。風呂上りで少し湿った髪は大人しく従う。
「成る程。そういうことじゃったか」
 何か納得したらしい臓硯は、音も無く一歩下がった。
「手間を取らせたのう」
「待て、まだ聞きたいことがある」
「ならば明日、再びやってくるとしよう」
「待ちなさい」
 踵を返そうとした臓硯を、凛は強い口調で押しとどめた。
「生きて帰れるとでも思ってるの?」
 指先に凝縮した魔力は、既に臓硯の心臓に照準している。殺意を胸にした瞬間、間桐臓硯の体など一瞬で灰と化すほど強烈な一撃が放たれる。
 臓硯は怯えるでもなく敵意をむき出しにするでもなく振り返り、小さくため息を吐いた。
「ワシの命に見合う情報はくれてやったつもりじゃが。まだ足りぬか」
 ガラスを砕き、志貴が庭に飛び出してきたのはその瞬間だった。
「そら、化けの皮が剥がれてしもうたわ」



***




 志貴は部屋で就眠すべく体を横たえていたが、庭先で話す凛と士郎の声が筒抜けでは、なかなか寝付くことが出来なかった。どちらにせよ、腹の鈍痛と頭痛は意識を覚醒させる。今度から眠りたくないときは体を傷つけよう。非常に効果的だと理解した。
 志貴は咳き込みながら枕元の洗面器を口許に寄せた。洗面器は真っ赤に染まっていた。唾液と、胃液と、血液の入り混じった吐瀉物。喀血はドラマに見るほど大袈裟なものではなかったが、呼吸器に損傷の無い状態で血を吐く理由など見つからず、ひどい不安に苛まれた。癌? 馬鹿な。腹の傷が次々に内臓を侵食しようとしているに違いない。
 幻想の類をこの腹に受けたのだから、未知の要素が絡んでいても不思議ではない。内臓が致命的なダメージを負っていることは、かすり傷の治療程度しかできない志貴にもわかった。
 洗面器に綺麗な血を吐きながら、志貴は自分が置かれている立場を整理しようと試みた。
 ギルガメッシュが敗れたというのなら、目的も一つに絞られてしまう。キャスターの発見、救出。それならば、この不様な体を押してまで聖杯戦争の決戦に臨む理由は無いが、聞き逃せないことがあった。
『桜はね、わたしの妹なの』
「は──どこかで聞いたことがあるシチュエーションだよ……」
 良くできた──というよりご都合主義的な話だ。あの化け物──間桐桜が遠坂凛の妹だという。しゃがれた声は凛に殺せと言った。凛もそれを了解しているらしい。
 馬鹿げてる。
 そう思った。身内の不祥事だから身内が尻拭いをする。当然のように聞こえたが、それは本当に正しいのか。血縁を殺すなどあってはならないことではないのか。
 一年前の記憶が呼び覚まされたのか、志貴は気分が滅入るのを感じた。自分は言い訳をしている。秋葉は殺してくれと頼んだ。シキはオマエの命を差し出せと言った。答えは決まっていたのに、どちらもできなかった。
「クソッ……!」
 我が家から数百キロも離れた地で、こんな胸糞の悪い場面に出会うなど思いもしなかった。それを言うならばライダーを殺し、イリヤスフィールを死なせたことこそが悪夢であったが、志貴は妹、という言葉に敏感に反応していた。
 同時に、空気が張り詰められたのを感じた。
 ──何かが居る。
 洗面器に顔を寄せ、咽てえずく振りをしながら、志貴は注意深く周囲の気配を探った。包帯を外そうか。否、今外せばきっと気絶する。
 足音も気配も感じなかったが、部屋のどこかに何者かが潜んでいることを確信していた。
 気配も無いというのに、居ると確信してしまっている自分に辟易すると共に、これが妄想ではなく、本当に敵の襲撃なのだとしたら、自分に勝ち目は無いなと諦念も露に嘆息する。その吐息が鉄臭いのは、小一時間も喀血し続けたためだ。直死の魔眼の侵食は血涙を流させるほどだったが、腹部の穿孔もまた、じわじわと志貴を蝕んでいる。
 どの道、居るはずなのに居ないなどという異常を纏う敵に対抗できる体調ではない。その異常がサーヴァントなのだとすると、退却すらままならないことになる。これまで相対したサーヴァントに、志貴が単体で打倒できる相手は一人もいなかった。
 初めて見えたランサーの槍術はいつ突かれたのかさえ理解できず、その機動性は視界で追うことさえ困難だった。
 柳洞寺で戦ったアーチャーは、完全な死角からの一撃さえ必殺には至らず。学園では苦杯を嘗めさせられた。
 セイバーやバーサーカーなど、一太刀でも当たれば、部位に関係なく絶命させられていたに違いない。
 ライダーは唯一対等に刃を交えられる相手ではあったが、キャスターが人形で偽装しなければ、あの宝具は崩しようが無かった。
 ギルガメッシュに至っては言うまでも無いことだ。
 誰もが人知を超えた何かで武装し、襲ってくる。ならばと、高々人間など物の数ではないという慢心に付け入る。或いはキャスターの魔術に頼って生き残ってきた志貴にとって、こうしてキャスターも居ない状況でサーヴァントを相手取るのは無謀。今すぐにでも逃げ出したいのだが、それを許してくれる相手でもないということは、気配さえ探らせないという事実が物語っていた。この敵は、遠野志貴を必殺すべくしてそこに在る。
 凛と士郎が相手をしているのは間桐桜の祖父。そちらはこの襲撃を悟らせないための陽動なのだろう。凛と士郎の会話も全て筒抜けだったこの部屋には、しゃがれた老人のものと思しき声も聞こえていた。信じられない事実をいくつか知る羽目になったのだが、それはまた後だ。まずは生き残ることを考えなければなるまい。
 針を刺されたような痛みがこめかみを襲った瞬間、志貴は布団を跳ね除け、畳を転がった。その際包帯を解いたせいか、片膝をついた体勢で、志貴は激痛に上体を跳ねさせた。幸いまだ目は見えた。余計な物も丸見えだったが、背に腹はかえられない。
「ヤハリ……気付イて、イたナ」
 果たしてそれが声をあげたのは、矢張り志貴を人と侮ってのことだろうか。しかし、布団を被っている者が見せた些細な動揺さえ見逃さない慧眼は、一体どのような鍛錬から得られるものなのか。内心穏やかではないものを感じながら、志貴は出来うる限り平穏を装った。その胡乱な頭は、如何にして切り抜けるかを骨董品級の性能ながら最速で演算している。大人しく殺されれば、恐らく士郎と凛にも被害が及ぶだろう。
 大声をあげてはいけない。士郎の性格からして、「逃げろ」と叫んでも悲鳴をあげても、何の備えも無く部屋に飛び込んできかねない。凛にしろ似たようなものだ。一見冷徹なように見えて、情に脆いところがある。それは、志貴を捕らえた日に殺せなかったことが何よりの証拠だった。
 どちらにしろ、表も修羅場を迎えているようで、助けなど最初から期待できない。
「似テいル、ナ。心得ガアルか、ソレトモ……」
 声は一点から聞こえてくるようで、どこか遠くから聞こえてくるようでもあった。拡声器のはっきりしない声がこだましてやまびこのように聞こえる。頭痛と心労で胡乱な思考回路がそうさせているのか、暗殺者の技能なのか。どちらでもいい、と天井を睨んだ頭が暗殺者という言葉を繰り返し、志貴はぎょっとした。
「アサシン、アサシンか?」
 枕元に置いていたナイフを一振りし、刃を露にする。
「如何ニモ。ワタシはアサシン」
 返答を得られるとは思っていなかった志貴は、悪寒が現実のモノとなった恐怖を噛み締めた。
 サーヴァント・アサシン。一度に二つの疑問が解けたのは良いが、事態としてはより混迷を極める結果となった。
 アサシンは死んだ。キャスターが志貴に黙って召還したアサシンは、キャスターを逃すために何者か──イリヤと相対したときのキャスターの反応を見るに恐らくバーサーカー──に殺されたはずだ。
 仮に生きていたとしても、キャスターはアサシンを佐々木小次郎と言ったはずだ。ルールを破ったために、奇妙なモノがアサシンになったと言っていた。ならばこれが、飛燕を落とす剣豪──佐々木小次郎の戦い方だとでもいうのか。
「佐々木小次郎、なのか?」
 志貴の呟きに、アサシンは蟲が鳴くような声をあげて返答とした。あざ笑う声。志貴は確信する。これは内臓を爆弾にされてもキャスターを救おうとした義士の声音ではない。日陰で血肉を啜る、自分と同じ外道の者の声。
「コジロウ、キキ──ヤつハワタシの血肉トなリ、今モこの胸ニ。キ──キキ」
 アサシンが笑う。気配遮断のスキルを使っているのだろう、居所は定かにならない。だが確実にこちらを見据えている。
「行クゾ」
 九体目のサーヴァント──アサシンはわざわざ告げた。瞬間、白い髑髏面めいたものが視界の片隅に映る。
 志貴の体が飛び退く。その拍子に空の箪笥に肩がぶつかり、箪笥は大げさな音と引き出しを撒き散らしながら倒れた。息つく間もなく第二第三の攻撃が来る。それをすんでのところで回避しながら、志貴は外に出るか否かと思案した。
 標的を外し、畳を突き破ったのはスコットランドのハイランダーに見る『Dirk』のような投擲ナイフ。これがアサシンの主武装だとするならば、狭い部屋の中では袋のねずみも同然。しかし、広いところに出たところで、遠距離武器の優位は変わらない。そもそもそのナイフの速度は、矢か弾丸かと見間違うほどなのだから、狙い撃ちにされる劣勢は変わらない。だが中庭に出れば、アサシンも面だけではなく、姿を晒すかもしれない。ならば、弓のシエルお墨付きの直感だけに頼るよりも、その方が勝率は僅かでも上がるかもしれない。
「──避ケル、カ」
 志貴は投擲の合間合間をコンマ一秒の単位で縫い、襖を蹴破って廊下に出た。廊下と庭を隔てるもう一枚の窓も突き破ると、ガラスが雨のように降り注ぎ、手と言わず顔といわず全身を切り裂く。冷たい地面を転がり、途中で地面を蹴り付けて起き上がる。
「志貴──。臓硯、アンタ!」
 叫び声を聞いた志貴は一瞬だけ視線をずらした。凛と士郎、見知らぬ老人。老人を見た瞬間、血液が沸騰した。放っておけばそちらに走りかねない体を叱責し、志貴は相変わらず姿を見せないままのアサシンを探す。
 その間にもダークは四方八方から飛んできて、勘を頼りに避ける以外に、志貴に道はなかった。
 投擲する瞬間だけ現れる白い髑髏面を頼りに。それと、自身に備わった危機回避の直感だけで回避したダークは、十本。足を掠めた一本は、弾丸の比喩に劣ることなく肉をごっそりと奪っていった。
 激痛に喘ぐ暇もなく、今度は真正面に髑髏の面が浮かぶ。
「しまっ──」
 僅かにぐらついた隙を見逃さず投擲されたダークは不可避だった。その数三。狙いは両目、そして心臓。ここにきて必殺を見せたのなら、志貴の奇跡的な回避もここまでだった。
 体勢を崩している志貴に回避は出来ず、また迎撃しようにも弾丸三つを受け止める芸当は、キャスターの援護が無い今は不可能。故に絶命するだろう命を、しかし儚むこともなく、志貴は咄嗟にナイフを振った。
 それで受けられるのは一本。奇跡的なタイミングを制すれば二本。だが一本はどうあっても避けようが無かった。コンマ一秒にさえ満たない時間の中で志貴は、心臓を狙う一本のみを迎撃すると狙いを定めた。
 ギルガメッシュが敗北した今、キャスターを救うまで、この身は満足でなければならない。
 見張りに出る前に屋敷に電話したとき、秋葉のことは翡翠に頼んだ。処刑に先んじて屋敷に来ていたらしい刀崎翁とも話した。「聖杯ではダメだった。自分が戻らなかったら秋葉を頼む」と言うと、残念そうに溜息を吐き「連れ去る協力はしよう」と小さく詫びた。
 後顧の憂いは無い。志貴が死ぬことで秋葉が助かる可能性とて、まだいくらか残っているはずだ。だが、死ぬべき場所はここではない。キャスターの救出を。それと、せめて言峰神父とやらに一泡吹かせてやる。そう心に決めていたがための、決死の延命。
 果たしてナイフは胸を狙ったダークを弾いた。しかし衝撃でナイフも弾かれ、片目だけでもという願いは露と消えた。
「“熾天覆うロー──」
 ダークが両目を貫き、眼底を脳髄を抉ろうとした刹那、士郎の怒声が聞こえた。腹の底から、痛みを堪えるようにして搾り出された声。
七つの円環アイアス”──ッ!」
 決死の呪文は、目映い光を纏って幻想を顕在させた。四枚の花弁。それによって守護された、英雄の盾。
 志貴は我が目を疑う。アサシンも恐らく仰天していることだろう。ダークは展開された四枚の花弁の一つでさえ傷つけられずに、地面に叩きつけられた。
 アサシンが動揺しているうちに体勢を整えようとした志貴は、しかし大きくよろめいてその場に頽れた。尻餅をつき、信じられないという顔をする志貴は、再び投擲された三つのダークを見、眉間に皺を寄せる。ダークは盾の真正面。
 果たして三本のダークは甲高い音と共に弾かれる。アサシンは姿を見せずに、素早く移動しているらしい。かすかな気配でそう感じ取れた。
「やめさせなさい!」
「はて、斯様なサーヴァントに面識は皆無じゃて。如何にしてやめさせる」
 攻撃方向の一つを潰してくれた。戦いは楽になる。だがそれ以上の問題が志貴に襲い掛かっていた。体が動かない。それどころか、意識まで途絶えようとしている。目蓋が重い。呼吸が荒い。何故。
 四方に視線を走らせる。仮面が浮かんだ。髑髏の仮面が笑っている。
 こんなときに、彼女が居てくれたらと思う。頼れる相棒。彼の魔術師ならば、きっと何かとんでもない『魔法』でこの場を切り抜けられるのに。
 一言で彼女は空を焼き、大地を穿つ。夜空が閃光に包まれ、巨大な光の柱が縦横に走る。志貴に言わせればそれは魔法だ。その光を見れば、どんな苦境も乗り越えられる。この上ない安心感。彼女が背後に控えてくれていれば、地獄の釜にだって飛び込めるに違いない。
 だが、今彼女はここにはいない。どこかで身を隠しているのか。或いは囚われているのか。左手に感じる令呪。最後の一画は弱弱しく輝いている。
 胸に去来するのは無念か。無念が去来するとは我ながら可笑しい。今にもダークが殺到するかもしれない状況で、志貴は苦笑しつつ目を閉じた。諦めの行為。白旗。アサシンや老人にはそう見えたかもしれない。だが否。決して、遠野志貴は二度と諦めない。妥協は無い。次に志が折れることがあるならば、それは遠野志貴の死に他ならない。故に、この場は相応しい死地ではない故に、遠野志貴は刮目する。
 体は動かない。目が霞む。内臓は腐り落ちようとしている。気を抜けば気絶してしまいそうだ。
 それでも、気持ちだけは負けてはならないから。
 右手だけを動かして、尻餅をついた格好のままナイフを掲げた。
「無駄ナ足掻キヲ」
「──間抜け。一つ残らず迎撃すればいいだけの話だ。おまえのソレは、金ぴか野郎の足元にも及ばないんだからな」
 志貴の言葉は正しくない。数や威力の面で、確かにアサシンの投擲はギルガメッシュに劣るが、正確無比な命中精度と、射手が姿を見せずに常に移動を続けるという点では、ギルガメッシュよりも遥かに手ごわいと言える。
 加えて今は強化魔術の加護がない。ギルガメッシュの投擲が見えたのも、避けられたのも、迎撃できたのも、五体五感の全てが強化されていたからだ。今の志貴にはダークの軌跡さえ追うことができなかった。
「自惚レルな、ニンゲン」
 その通りだな。と志貴は思った。キャスターという英霊の技で昇華させられたならともかく、人間ではサーヴァントには敵わない。もしも届いてしまったとしたらそれは人ではない。
「人間相手に遠間からチクチクやってる英霊のセリフか、それが」
 安い挑発だった。暗闇が揺らぐ。一度髑髏の面をあらわにしたアサシンは、虫のように甲高く鳴いた。そして、音も無く闇に紛れる。それが死刑宣告だとでもいうように、髑髏の残像を残しながら消える様に微かな戦慄を覚えた刹那、体が跳ねようとした。あくまで跳ねようとしただけ。志貴には跳躍する力さえ残っていない。
 巡回中に出遭った相手が悪かった。そこで既に悲鳴をあげていた四肢が、アサシン相手の機動戦に耐えられるはずもなかったのだ。
 ならば、機動戦など望まなければいい。視ろ。飛来するダークの死を。認識しろ。ソレも、殺せるモノであると。
 脳髄がスパークする。派手な花火が頭の中で上がり、綺麗な花を咲かせる。大事な歯車が噛み合う。或いは致命的な欠陥が露呈する。
「シッ──!」
 一閃。若干の苦痛。苦悶。落下するダーク。その向こうで、更に三つのダークを取り出したアサシンを見た。
「あ──」
 罠にかかった。最早迎撃の構えも方法も起死回生の策も無い。
 志貴が構える。虚栄心からではなく、心は負けていないという意思表示のために。空しい抵抗だったが、ただでやられる筋合いなど無い。
 志貴は雄叫びと共に立ち上がり、ナイフを月に翳した。アサシンは志貴の投擲の構えを見、僅かに嘲った。
 志貴もまた口許を吊り上げる。概念武装でもない七つ夜はサーヴァントにダメージを与えられない。そんなことは知っている。
 視線をずらした、駆け寄ろうとしている士郎と、凛がいる。その奥。間桐桜の祖父だという老人が、凛に指を突き付けられていた。その姿を視界に納めただけで、血液が沸騰しようとする。血に刻まれた退魔衝動が、老人を膾に刻めとがなり立てる。
 腕が振り下ろされる。刹那、やけに寒いなと、場違いな感想を得た。臓物から冷えるような寒気。どこかでこれと似た感覚を味わった覚えがあったが、思い出せない。
 放り投げられたナイフは弾丸めいた速度で老人に襲い掛かる。だが、途中で甲高い音と共に、ナイフは迎撃された。志貴が投げたナイフに、アサシンはダークを投げ付けたらしい。出鱈目な性能に笑う暇さえなく、志貴は残る二本のダークに命を抉られるのを待った。
 寒気の正体が姿を見せたのはそのときだった。
「キ──!?」
「グ、ラン、サー……じゃと」
「魔じゅ……キサマ!」
 臓硯の体が一瞬で塵と化し、飛来してきた二つのダークは地面に叩き落されていた。志貴には何でもない動作にしか見えず、その背中が自分を守るように立ち塞がっている理由にも見当がつかない。寒気の正体がランサーの放つ殺気であるということ以外に、理解できることは何一つとしてなかった。
 半分に割れたピアスを揺らして振り返り、蒼の騎士はその野性的な笑みを露にする。
「よう。久しぶりだな、小僧」
 ランサーは正面に向き直ると、先ほど志貴が打ち落としたダークを一つ手に取った。
「良く避けたもんだ。アレはアレで一つの境地だからな。見込み通りの男だぜ、おまえ」
「なんで……」
「話は後だ。悪いが、いいニュースは期待するんじゃねえぞ」
 刹那、ランサーの体が霞む。ランサーが跳躍するのと同時にアサシンは焦ったようにダークを投げつけ、自身は這うような走法で屋根から飛び降り、一直線に志貴を目指した。
 髑髏面だけが闇夜で無闇に存在を叫んでいる。その仮面の向こうは容易く想像できた。鼻を削ぎ、頬骨を削ぎ、耳を切り落とした、完全な無貌がそこにある。
 髑髏面が焦りを浮かび上がらせていた。ランサーの出現は想定外。主も殺された。逃げるか、果たすか。その二択を迫られているに違いない。そしてアサシンの答えは。
「殺ス」
 後者だった。
 標的は逃してはならない。どんな手を用いても、己の命と引き換えにしても、命を奪い取らなければならない。ダークを全て迎撃し、背後から己を追う必殺の担い手も無視して、標的だけを目指さなければならない。
 志貴に迎え撃つほどの余力は無かった。口の中はまた錆臭い血液で溢れかえっている。それでも志貴はおきあがりこぼしのようにふらつく足を正そうとも、動かそうともしなかった。全身から力を抜き、脱力したままに拾い上げたダークを構える。それしかできない。だがそれで十分だった。アサシンはこちらに迎撃の構えがあると見るや、僅かにだが逡巡を見せた。速度は微塵も衰えない。逡巡とは、ダークで突き立てる部位をほんの僅か迷っただけに過ぎない。速度は流星。一瞬後には肉塊と化している自分が想像できる。だが死なない。アサシンの背後を、雷が追っていたからだ。
 粗野で豪胆な印象を受けるランサーが、表情一つ無く疾走している。その無言の雄叫びを背中で受けながらも、愚直なまでに志貴を目指すアサシンも相当な剛の者だったが、雷から派生した新たな稲光は、最早語る言葉さえ無いほどの衝撃を伴って、アサシンの背に触れた。
 貫かれては即死と悟ったアサシンが一際地面を強く蹴り、反転しようとした刹那、一条の光に過ぎなかった刺突が無数に枝分かれした。槍の雨。ギルガメッシュが無数の武具を以って雨を降らせるならば、ランサーはその名の通り槍一本で雨を降らせた。横薙ぎの暴雨。転進しようとしたアサシンは進路を塞がれ、ランサーに向き直るしかなくなった。
「傍観者ガ、事此処ニ至リ邪魔をスルカアァア!」
 臓物ごと吐き出さんばかりの慟哭は住宅街に響き渡る。アサシンは向き直った瞬間に片腕を吹き飛ばされていた。暴雨の一滴が、巌を砕く一風が、大気を穿つ一撃が、人よりも優れた体組織を根こそぎに殺した。
 血飛沫を顔面から被るランサーに表情は無い。無貌の威容はモノを見下すかのようにアサシンを睨み、瞳を閉じた。大地が萎縮し、大気が罅割れていく。世界すらも従えるとばかりに、奔放な印象の槍兵はそのバーサーカーにさえ適合する本性を露にした。
「その心臓、跡形も無く果てろ」
 冷淡。冷徹。炎のような気性を持つランサーの本気。その眼は、視界に納めるだけで全ての生を殺したと言われる曽祖父に酷似。また太陽神である父が扱ったという貫くものブリューナク──魔城で得た魔槍は既に父のそれを超えてさえいて、
「“刺し穿つゲイ──」
 死の眼で捉え、放たれる魔槍が必殺でない筈がない。
「──死棘の槍ボルク”」
 果たして『稲妻ゲイボルク』が放たれるより前、
「“妄想心音ザバーニーヤ”」
 アサシンもまた、異様なほど長大な腕を振りかざし、宝具を放った。
 その手に呪いによって顕在させた心臓を握った。それは、あるはずの無いランサーの心臓。ランサーの神速の槍がアサシンの心臓を捕らえる一刹那前に、心臓を握りつぶすという行為は完遂される。



***



 ランサーの槍は確かに速い。おまけに触れただけでこの腕を吹き飛ばすほどに強力だった。本来ならこの劣勢で勝負を挑みはしない。ならば何故挑んだのか。単純なことだ。時間がない。
 アサシンのマスター、間桐臓硯は死んではいない。故に、ランサーを敵に回してでも直死の魔眼とやらを持つ人間を殺すという役割を果たそうと考えた。
 それが間違いだったのだろうか。アサシンにとって本当の敵は、魔眼の人間ではなく、投影魔術を使う人間だった。
 聖杯ごと殺されかねないと臓硯は言った。それは、アサシンとしても断固避けたい問題であった。群体としてのハサン・サッバーハではなく、個としての己を確立する。全てを神に捧げ、神のために殺し、神のために生きたアサシンの願い。そのために召喚に応じ、そのために再び殺すと決めた。
 バーサーカーを一度殺し、辛うじて撤退させたアサシン──佐々木小次郎の内から生まれたとき、そう誓ったのだ。
 だから、聖杯を脅かす輩を排除するために忍び込んだ。
 ふと、アサシンは奇妙な言葉を思い出す。己から生まれるモノに食われる最中に、佐々木小次郎が口にした言葉だ。
「我が体内より生まれしおまえに、一つ良い事を教えよう」
 小次郎は天を見仰ぎ、大仰な仕草で続けた。
「未だ成り切らぬ英傑に気をつけよ。ク──まことこの世は、世知辛い。が、故に、風流なものよな」
 成り切らぬ英傑。何を世迷言をと断じた。仮にも英霊となったこの身が、生前無数の人間を殺してきたこの身が、英霊ですらない人間などに後れを取るものか。そう考えていた。だがどうだ。間違いなく宝具を放ったはずのこの体が、僅かな痛みによって仰け反っている現実。見下ろせば、矢が突き刺さっている胸。これでは死なない。死なないが、ランサーを前に仰け反ってしまうほどの隙は必死。
 故に、敵は投影魔術の人間。ランサーの背後数メートル先で、弓を構えた人間だった。
 名も知らぬ小僧。そんなモノに殺される気分は最悪だ。そう考えて、アサシンは可笑しくなってきた。
 ──私に殺された者もまた、こう思ったのだろうな。
 槍が、心臓を貫いた。



***



 項垂れる凛を遠目に窺う。腐臭を撒き散らす老人だったものに憐憫の情でも抱いているのか、その顔は一向に上がらなかった。
「わりいな、小僧。助けられちまった」
「気にするな。あんたが来なきゃきっと全滅してたんだ」
「後悔しなきゃいいがな……」
 志貴は溜息と共に血を吐いて、その場に倒れる。この二週間と少しで、痛みへの耐性が随分ついてしまったらしい。ダークに抉られた足の傷が、まるで痛まなかった。
「瀕死だな、小僧」
 ランサーの声がこちらを向いた。
「放っといてくれ……。それよりまさかアレを倒すためだけに、わざわざ出てきたんじゃないんだろ?」
「当たり前だ。言ってみりゃ招待状か」
「言峰からの、だな?」
 士郎が憎憎しげに吐き捨てる。
「口の軽い蟲だ。その通り、コトミネからの招待状だ。刻限は明日の深夜零時。キャスターは預かってる。セイバーもな。ついでに言えば、サクラもだ。来いよ。来なけりゃ、皆死ぬぜ」
 ランサーは体を沈めて、飛び去ろうとする。その背中が、ほんの僅かに躊躇した。
「シキ、だったな」
「ああ……」
「助けろよ。おまえ、死ぬなと命令しておいてほったらかしじゃ、男が廃るってもんだ」
「わかってる。アンタを卑劣な罠にはめてでも、助けるさ」
 ランサーは頬を歪めて、夜の闇に消えていった。 



***





「さっきは悪かった。頭に血が上ってたんだ」
「ああ……俺も思慮が足りなかったよ。昔、似たようなことがあったもんだから取り乱した」
 志貴は体を引きずり、門を出たすぐ横の塀にもたれ掛かり、月を睥睨していた。とはいえ、包帯越しであの月が見えているはずも無く、ただ顔を夜空に向けているといったほうが正しい。
 空を見たいという志貴に従った士郎も、門をはさんで月を見上げている。
「信じられない。信じたくもない」
「間桐桜のこと、か。彼女にとっては妹なんだろ、実の」
 士郎は小さく肯く。
「それも知らなかった。アイツのショックは、俺の比じゃないんだろうな」
 凛は部屋に引き篭もっている。妹のことで頭が一杯になっているのは、想像に容易い。
「厳しいね、肉親のそういうのはさ……」
「俺は桜が魔術師だったことも知らなかったんだから、ライダーのマスターだったなんて、予想もしてなかったし、考えたことも無かった」
「それがよりにもよって聖杯か。まったくふざけた戦争だ。願いも叶えられない聖杯なんて、食虫植物みたいなもんじゃないか」
「願いが叶わないって、なんで」
「キャスターが言ってたんだよ。この戦争で得られる聖杯は、そんなモノじゃないって」
「……確かなのか、それ」
「キャスターが嘘を吐く理由は無かった。イリヤも同じことを言ってたから、確かだと思う」
「何のために……何が悲しくてそんな無駄に命を賭ける必要があるってんだ」
「まったくだ。だから言ったろ、この戦争は聖杯なんて名前の蜜に集った虫を食べる、食虫植物なんだって。俺はまんまと誘き寄せられて、結局後退もできないところまで入り込んだ。溶かされる前に、やりたいことはやらせてもらおうかな」
 志貴の自嘲に、士郎はふと疑問を抱いた。この男の目的は、何だったのか。聖杯では願いを叶えられないと知ってもなお戦う理由は、何か。
「志貴も、願いはあったのか?」
「あったよ。というより、今もある」
「聞いてもいいか?」
「そんな大層な理由じゃないよ。自分のためだからね」
「……なんだろうな」
「自分の間違いを無かったことにしたいんだ」
 どこか遠くを見ているだろう横顔が、ほんの一瞬だけ正気を失い、危うい気迫を漲らせる。背筋が粟立つのを感じ、志貴から目を逸らした士郎は、聞こえない程度に舌を打った。
「……その間違いは、受け入れられないことなのか? 聖杯なんかを望んじまうくらいに」
「無理だね。秋葉は──妹を見殺しにはできない」
「妹が……」
 呟いた士郎は、先ほどの生々しい感情の正体に気付く。遠野志貴は、こういった事態を経てこの場にいるのだと。
「俺のせいでもうじき死ぬ。俺がこの胸を貫いて、自分の命を差し出してれば、妹は助かった。でもできなかったよ。自分の命が惜しくて。死にたくなかった。あのときはもっと別の言い訳で頭の中がいっぱいだった。起きたときに俺がいないんじゃ秋葉が困るだの。結局死ぬのが嫌だっただけなのに……ああ、ほんと……馬鹿だよな俺は」
 精々病気の類と推測していた頭を、横合いから思い切り殴りつけられる衝撃があった。
 志貴の異常なまでの強さの一片を見せ付けられたような気がした。
 志貴の言葉から想像できるのは、志貴はこの戦争以前も非日常に身を置き、今自分たちが味わっているような歯がゆさと憤りを、経験してきたのだということ。
 妹のために全てを擲つ覚悟で挑んだ聖杯戦争。外道に手を染めてもおかしくないだろうに、道を外したキャスターを逆に叱り付ける。それだけならばまだしも、聖杯では願いも叶わないというのに、尚戦っているという矛盾。
「そんなに大事なのに、何でまだ戦ってるんだ? もうこの戦争を続ける理由は無いんだろ」
「そうだな……イリヤのほっぺは柔らかかったし、何よりキャスターは最高の相棒だから、かな」
 真顔の冗談を笑うことはできなかったが、理由は聞いたようなものだった。つまり志貴は、イリヤスフィールとキャスターの敵討ちをしたいということらしい。ギルガメッシュという仇を失えば、その矛先は言峰綺礼に向くのか。士郎には、志貴が死にたがっているように思えた。
 微かな矛盾を感じ相槌も打たずに顔を上げた士郎は、背後に待ち人の気配を感じて深呼吸をした。



***



 時刻は午前三時。アサシンの襲撃からニ時間が経過していた。
 間桐桜が聖杯だったという事実を知り、臓硯に恨みを抱いた。
 桜を言峰綺礼が監禁しているという事実を知り、言峰を憎く思った。
 そして何より、死ぬ直前に間桐臓硯が漏らした言葉が許せなかった。
『桜に聖杯の欠片を埋め込んだのは、ワシじゃがな』
「ふざけるんじゃないわよ……あの蟲爺……」
『桜を助けたければ、聖杯を破壊すればいい。桜は死ぬが、真に救われる道はそれのみじゃろうて。じゃがな、ワシを殺そうとした時点で、お主等の勝機は消えた。主等だけでランサーを殺せるか?』
「……黙れ……ランサーに殺されたのは、他でもないアンタじゃない」
 聖杯戦争を終結させたければ、器を破壊してしまえばいい。士郎、凛、志貴。三人で同時に柳洞寺に乗り込めば、一人くらいは桜を殺せるかもしれない。だが、その役目を人に譲るつもりはなかった。冬木を阿鼻叫喚に変えようとする桜を処断するのは、他でもない遠坂凛にのみ許された権利。
 そこには、元からアサシンの介入する隙間などありはしない。志貴を邪魔者として殺そうとした臓硯には、最初から死しか無かったのだ。
「誰にも、譲らない」
 呟いた凛は、一度振り向いた。衛宮低の門に、凛は立っていた。明かり一つ無い木造の屋敷は、つい数時間前の死闘のことなど忘れて寝静まっていた。二人は気付いていない。再確認した凛は、僅かに寂寥を滲ませた顔を、門の向こうに向けて歩き出す。果たして門を出た瞬間「どこに行くんだ」と真横から声を掛けられた。
 男は塀にもたれ掛かるようにして、凛を睨んでいる。よりにもよってこの男に見つかった不運を飲み込んで、凛は平静を装った。
「衛宮くんこそ。そんなところで何してるのよ。明日は決戦なんだから、寝ないと真っ先に死んじゃうわよ」
「それはお互い様だよ、凛ちゃん」
 もう一つの声に、今度こそ凛は呆然とした。男二人で天体観測でもあるまい。読まれていた事実に自嘲し、頭を垂れた。
「お揃いってワケ」
「そんな物騒なもの持って、どこに行く気だ」
 士郎があごでしゃくったのは、凛が強く握り締めたアゾット剣。言峰綺礼を殺すなら、これ以上に皮肉に満ちた得物は無い。
「久しぶりに家を見てこようかと思って。何か眠れないし」
 まさか自分の行動が見透かされているとは露ほども思わず、堂々と握ってきたのが間違いだった。苦しい言い訳を、士郎は「へえ」と適当な相槌で受け流す。
「桜が聖杯だって、夢みたいな話だな」
「そんな綺麗なものじゃないわよ。つまるところ生贄なんだから」
「違う。夢なら覚めてくれってこと。おまえ、桜を殺すつもりなんだろ。そんなの悪い夢だ。姉妹で、殺しあわなきゃいけないなんて」
 思いも寄らない言葉に大袈裟に反応してしまい、凛は慌てて顔を逸らした。
「衛宮くん、あなた気付いて……」
「管理者ってのはそういうことだろ。それに、そんな真剣な顔されたら、他に考えようが無い」
 士郎の歯軋りの音が聞こえてくる。歪められた顔はひどく憔悴した風で、今にも壊れてしまいそうだった。
「何か、きっと方法があるはずだ」
 神にも縋る哀願の声。それでいて、必ず助かると信じているようでもあるのだから、本当にこの男は得体が知れない。
「助からないとしたら?」
「おまえがそんなことを──」
「助からなかったら、わたしが殺す」
 冷たい声が響いた。
 殺す。実を言えばまだ実感さえ沸かないそれを、口にした。思ったよりも重い。殺すとはどういうことか。生命活動を停止させる。それだけで済むとは思わないが、想像していたよりも余程辛いことなのだと知らされた。
 口にしただけで辛いのに、実際に妹を手に掛けてしまえばどうなるだろう。
 知らず震えていた顎を、歯を噛み締めることで大人しくさせ、士郎を見た。視線は縋るようなものだ。彼なら或いは──。そんな希望を孕んでいる。
 果たして士郎ははっきりと否定を目にこめて、「必ず助かる」と言い切った。その言葉を待っていた。しかし表情には出さない。遠坂凛の立ち位置はあくまでも、冬木の管理者であるべきだから。拙い希望は、彼に任せてしまえばいい。
「甘いわよね、ほんと」
「おまえだって、本当はそう考えたいんだろ」
 凛は答えない。
「だったらせめて俺だけでもそう思うことにする」
 凛は「そう」と気の無い風に返した。
「じゃあ、一つだけ言いたいことを言ってもいい?」
「ああ」
「ああ待て……俺は部屋に戻るよ」
 志貴が苦笑顔で言っていた。その訳知り顔を思い切り殴りつけてやりたくなったが、それで死なれでもしたら困る。よろよろと瀕死の体を立ち上がらせた志貴は、深い溜息を吐いた。
「俺は、妹に殺してくれと頼まれたことがあるよ。見たよね、凛ちゃん。あの赤い髪の」
「ええ」
 肯きを返しながら、凛は脈拍があがるのを感じた。
 赤い髪。気になって書物を紐解けば、遠野はまさしく鬼の血を持つ一族だった。いわば幻想種と人間の混血児。鬼という魔の血は、遠野の子を苦しめた。俗に先祖還りと呼ばれる現象。志貴の妹も、遠野の血に負けて先祖還りしてしまったのだと、すぐに想像できた。
 その妹に、殺してくれと頼まれた。
 妹に──。
「……それで、貴方はどうしたの?」
「できなかった。情けないと思うか?」
 情けない。と言えるだろうか。肉親を、いや、志貴は妹を愛していると言った。それほど深く繋がった者を殺せないことは、情けないことなのか。
 鬼の血を持つものは、殺さなければならないだろう。遅かれ早かれ、間違いなく人を襲うようになる。そんな危険なモノを容認しない組織はいくらでもある。そもそも、以前話題に出た七夜という一族も、そういった『外れ者』を殲滅するための一族だ。
 危険は排除する。それが理屈だ。
 だが人は機械ではない。血の通った人間は煩悶し、苦悩し、震える。ならば、オマエの精神が脆弱だから殺せなかったのだと、志貴に言えるか。言えるはずがない。家族を無感情に殺せる者は、とっくに死人だ。
「悩むよね。よかった。情けないなんて言われたら、立ち直れなくなるところだった」
「でも、殺せって頼まれたんでしょ。なのに殺さなければ、その妹が苦しむんじゃない?」
「だろうね。でもそれでいいと思う。だって、俺は殺したくなかったんだ」
「……頑固って言われるでしょ」
「どうだったかな。一年近くまともに人と会話なんてしてなかったんだ。覚えてないよ」
 手をひらひらと振って、志貴は門の向こうに消えていった。
「もしかしてわたし、励まされた?」
 溜息を吐きながら士郎に尋ねる。
「さっきの会話、全部聞こえてたらしい」
「血の涙流すようなヤツに励まされても、胸がもやもやするだけだっての。それに、志貴の方がよっぽど悩んでるみたいに見えるのよね」
「苦労してるっていうか、言葉にできないほど大変だったんだなって、今の話を聞いて思った」
「どういうこと?」
「アイツ、板ばさみだったんだよ。両極端の」
 緩慢な動きで玄関に入っていった志貴を見送りながら、士郎が言った。
「自分の命を絶てば、妹は助かるかもしれなかったらしい。でも、自分の命が惜しくてできなかったって」
「ほんと、全然慰めになってないじゃない、それじゃあ」
「でも、楽にはなったんじゃないか? 後押しされただろ」
「殺すな、ってことでしょ。真逆に後押しされたら、それは圧力でしかないってのに。まあ、桜の容態次第よね。戻れるなら、戻ってから償わせたほうがいいんだから」
 つまるところ、志貴は逃げても良いと言っていたのだろう。だが、そう簡単に済む問題ではない。凛には責任がある。冬木を管理するものとして、外れた者を排除するという責任が。だから、退路など与えず四方八方を固めてくれれば楽だった。志貴は困難を与えたのだ。
「で、何だ? 言いたいことって」
「ああ──」
 凛は大仰に天を見仰いだ。
「忘れちゃったわ」





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