出来る限り目立つように微少な魔力を発散しつつ、夜の街を練り歩く。自分達はおまえを狙っていると知らしめるためだが、サーヴァントに対しては撒き餌でしかない。魔術師の魂は通常の人のものより上質である。故に、狙われる。
 だが、街で変わったところといえば巡回する警官の姿を頻繁に見かける程度。結局犯人の手がかりも見つからず、セイバー達の気配もどこにもなかった。元々一日や二日で見つかるものでもないとはいえ、鎮まるどころか悪化していく志貴の容態を考えれば、早めにケリをつけなければならなかった。
 志貴のジョーカー的な要素に賭けて、危険極まる巡回などという行為をしているのだから、その志貴が使い物にならなくなっては、どうしようもない。
「収穫は、無しかもね。元々一日二日で見つかるとは思ってないけど」
「大丈夫か、志貴」
「ああ、大丈夫だよ。すまない、俺の方が邪魔になってるな」
「元々ゆっくり歩かなきゃ撒き餌の意味なんて無かったから、結果としては同じよ」
 項垂れる志貴に、慰めにもならない言葉をかけて、次の手を考えなければ駄目かと思案する。丁度、見慣れた交差点に差し掛かったところだった。
 百メートル程前方に人影を見つけて、凛は即座に目を強化した。スーツに身を包んだOLらしき後姿。魔力も感じない。恐らく会社帰りなのだろう。どこか早足なハイヒールの調子は、一刻も早く休みたいと喚いているように聞こえる。
 時刻は午後十一時半過ぎというところ。十二時間もの睡眠で体力は有り余っているとはいえ、四時間歩き通しで平然とはいかなかった。足の裏はじんじん痛むし、微弱とはいえ魔力を放ち続けた疲労もある。帰ったら、士郎や志貴を差し置いて一番風呂は貰うと息巻きつつ、凛は歩調を速めた。
 OLらしき女性も早く風呂に入って、一日の疲れを洗い落としたいと思っているはずだと考えて、凛は僅かに頬を緩ませた。
 それはきっと、衛宮邸を間近に控えた故の油断。僅かとはいえ、凛の注意はまだ見えもしない衛宮邸に向けられた。
 凛に非はない。士郎も志貴も、四時間気を張り続けていたわけではない。時折関係のないところに意識を飛ばす程度何度もあった。タイミングが悪かっただけの話。凛の足元に突如巨大な闇が穿たれて、彼女を飲み込もうとしたことにほんの一瞬反応が遅れてしまったとしても、凛に非はない。
「なに──」
 士郎の体当たりによって大きく体を傾けながら、凛は足元のソレをこの世のものとは思えない、という形相で見つめていた。
 街灯の明かりの範囲から一歩向こうに現れた、極大の闇。直径一メートル程のそれは、これまで凛が見たこともないほど、禍々しく歪んでいた。
 影としか表現できないものが、かといってあるはずの無い影が、魔力と共に存在している。ぽっかりと口を開けている様はまるでブラックホール。そこに足を踏み込んでしまえばどうなるか、説明されるまでもなかった。
 凛を強く抱きすくめた士郎が下になってくれたおかげで、アスファルトに叩きつけられずに済んだ。代わりに士郎は背中を強かに打ちつけ、「くっ」と一瞬呼吸を止める。
「大丈夫か、遠坂」
 声を掛けられてようやく、自分がとんでもないポカをやらかしたのだと気付く。士郎に抱きすくめている気恥ずかしさよりも怒りが先行し、一瞬で顔を真っ赤に染め上げた凛は、左腕の魔術刻印を起動した。
「っのぉ!」
 叫び、ガンドを夜闇に紛れた『闇』に叩き込もうとして、その姿がないことに気付く。代わりに、ひらりと舞う包帯を見た。志貴のモノかとすぐに思い出し、まさか呑まれたのかと咄嗟に首を巡らせれば、体勢を低く、いつか凛を殺すべく廊下を滑ったときのように倒して疾走してくる志貴がいた。蒼白い炯眼が闇の中に軌跡さえ残しながら、真っ直ぐに走っている。
「志貴……?」
 凛を抱いたまま呆然と呟いた士郎の声には、多量の驚愕と畏怖が混じっていた。そうか、と凛は思い至った。士郎はこの志貴を間近に見るのは初めてだったのだ。
 アインツベルン城では、士郎たちが着いたのは志貴が磔にされた瞬間だった。ライダーの時は廊下で戦う二人を遠目に見ただけだったし、セイバーが攫われたときの志貴はまだどこか理性を残している風だった。
 だが、これは違う。凛とアーチャーを相手取り、まるで嘘のような身のこなしを見せたときと同じ、まったくの無表情。むしろ、夜闇のせいで瞳とナイフの輝きだけが際立っていて、その様はまるで幽霊の類だ。それが一直線に自分達目掛けて走ってくる状況で、上っ面はどうあれ心のどこかで恐怖しないほうがどうかしている。
 だが志貴はそんな二人には興味の欠片も無いとばかりに素通りして、そのまま走り続ける。それは、先ほどまで足を引きずっていた志貴、談笑を交わしていた志貴と同一のものとは思えない。どこにあんな力があって、何のためにそんな速度で走るのか。
 凛と士郎は急いで立ち上がる。
「ぴんしゃん、してるじゃない……!」
強化、開始トレース・オン──病人のフリでも、してやがったのか?」
 それぞれ自己を高める魔術を行使し、既に闇に紛れた志貴を追う。
「かもね。それにしても、志貴の速度」
「昨日と変わらない、だろ? 俺もおかしいと思ってた」
 凛は苛立ち紛れに後姿を睨み付けた。もう見えないほど遠くにいる。
 志貴は、昨日アインツベルン城まで走ったときと寸分違わぬ異常な速度で疾走していた。有り得ないと凛は断じた。アレは、キャスターの強化魔術があって始めて出し得る速度だ。人が、魔術も使えない超能力者風情が、引き出していい速度ではない。
 キャスターの強化魔術は間違いなく切れているはずだ。志貴は今、何の魔術的後押しを受けていない。故に有り得ないはずだ。
「どうなってんのよ」
「様子がおかしかった。あの顔は、普通じゃない。普通過ぎるだろ、あの顔は」
 どこか矛盾したセリフも、凛には理解できるものだった。あの無貌のことを指しているのだろう。凛を殺そうとしたとき、脳裏に浮かんだのは機械という言葉だった。人を殺すためだけの殺戮機械。
 その気になった志貴は、殺気などというものを放たない。まるっきり無表情に襲い掛かってくるのだ。
「まるっきり化け物ね……」
 毒づきながら、風のような速度で駆ける。志貴には敵の姿が見えているのか。凛はあの黒い円形の影以外に怪しい物は見なかった。
 三秒も走ると、先んじていた志貴の体が見える。
「あれ……?」
 追いついている自分達を、二人は同時に訝った。昨日は傷を負っていたとはいえアーチャーでさえ追い付けなかった。人である凛と士郎は更に遅れることになった。だが今は追い縋っている。一瞬前には追いつけないと思ったはずなのに、追いついている。
「ハッタリ……? 速く見せる走法?」
「バカ言うな。本当に速かったぞ」
 言う間にも、二人は志貴に接近していく。やはり錯覚ではない。追いつけないと目や体は思っているのに、現実として追いついている。
 志貴の体が沈む。地面を蹴り、放物線を描きながら向かったのはコンクリートの塀。頭からそこに突っ込んでいくと思いきや体を横向けて、塀を地面だとでも言わんばかりに駆けた。まるで曲芸。数歩だが、確かに垂直の壁を走ると、再び蹴りつけ、弾丸のように一直線に飛んだ。
 凛と士郎も進行方向に黒い穴が穿たれているのに気付き、大きく跳躍した。ここに来て、ようやく志貴の目的が見えた。先ほど前方を歩いていたOL。それが、己を取り囲もうとしている黒い穴に気付かず、歩いている。
 回避運動に移った士郎と凛では間に合わない。
 凛は起動させていた魔術刻印に有りっ丈の魔力を送り込み、重度の呪いと化した黒い病魔を影目掛けて撃ち放ち、
「逃げろォ!」
 士郎は吼えた。




Dead Eyes See No Future



 草間美智子は眉をしかめていた。
 毎日通っている道だが、今日ばかりは疲れた体を押して早歩きになっていた。日曜で人気が無いこともあってか、空気が重苦しい。一呼吸するだけで肺に悪いものがたまっていく感覚。現に頭は朦朧としてきていて、今にも倒れてしまいそうだった。
 同じく休日出勤の憂き目に遭ったセクハラ部長が、珍しく真面目な顔をしていたのを思い出す。何でも新都と深山町で総勢四十六名の行方不明者が出たらしい。昨晩はコンパで忙しく、ニュースを見る暇もなかった。OLいじりを生き甲斐にしているような部長が、やけに真に迫った説明をするものだから、ホラーが苦手な美智子はふるふると震えたものだった。
 北朝鮮がどうのとか言っていたが、海に面しているこの街では、有り得ない話でもないのだ。忠告なのか脅しなのか良くわからない部長の口調は、美智子に苛々を募らせる。そのせいで、夜道が怖いなんて懐かしい感覚に見舞われている。
 ──あの、バカオヤジ。
 美智子は部長を内心で罵った。
 社会人も二年目になると慣れたもので、外にいる内に愚痴をこぼす失態を犯すことも無くなった。社員食堂は当然のこととして、トイレでも気が置けない。どこで噂好きの年配OLが聞き耳を立てているか、わかった物じゃないのだ。
 家に帰れば温まり放題愚痴り放題。歳の離れた弟が起きていれば、たっぷり聞かせてやろう。
 それにしても、と美智子はコートの襟で首元を隠した。
 寒気が止まらない。体中が鳥肌を立てているし、震えている。例えばそう、穂群原学園生だった頃、学園に変質者が入り込んできたときのような恐怖を感じている。他のクラスは皆避難しているのに、美智子のクラスには変質者が入り込んできたため、動くこともできなかったのだ。
 アレは恐ろしかった。長ドスを手にした変質者。弓道部顧問である担任を人質に、ワケのわからないことを喚き散らす様は明らかに正気を失っていた。まあそれも、冬木の虎の手に掛かれば猛獣の前の猫でしかなかったのだが、当時の恐怖はいまだに美智子の胸にある。
 思い出して再度震えた美智子は、一度立ち止まって、辺りを見回してみた。部長のせいで、本当にネガティブになっているらしい。
「嫌なことばっかり思い出すなぁ……早くシャワーでも──」
 誰もいないことを確認して歩き出した瞬間。
「逃げろォ!」
 叫び声に、草間美智子は振り向いた。蒼い目玉と煌く何かが弾丸さながらの速度で飛び掛ってくる。煌く何かがナイフだと気付いた瞬間、美智子は恐怖で体を硬直させた。
 見知らぬ少年の言葉と眼前の状況を照らし合わせて、美智子が理解したのは変質者が向かってくるということ。
「ひっ……!」
 短い悲鳴と同時に、変質者がその体に飛び掛った。男の体重が美智子の体に掛かり、倒れ込む。その直前に、まるで泥沼にはまったような感覚と共にハイヒールが脱げた。
 通り魔。殺人鬼。行方不明者四十六。
 殺される。
「ひ、ヤ、イヤァア──!」
 絶叫は、左手で口を押さえられたためにくぐもった。じたばたと暴れながら、見開いた瞳を馬乗りになっている男に注いだ。瞬間、全ての抵抗が無意味だと悟った。
 月光と街灯を逆光に睥睨してくる男の表情はわからないが、それゆえ際立った蒼い瞳が見下ろしてくる。その目が綺麗で、今まで見てきたどんな宝石よりも美しくて、美智子の体から力が抜けた。
 男がナイフを振り上げる。
 ──しんじゃう。
 ぽつんと思って、美智子は一人、姉の帰りを待っているだろう弟のことを想って、涙をこぼした。それでも目は閉じなかった。今からこの命を絶とうとするナイフの動向を最期まで観るべく見開かれたまま。或いは、瞼を閉じることさえ恐怖で忘却してしまったのかもしれない。
 ナイフは雷のような速度で、或いはスロー再生された映像のような緩慢さで、美智子の胸を掠めて、地面に突き立てられた。
 美智子は荒い息を吐きながら、地面にナイフを突き立てたまま見つめてくる瞳を見返した。蒼いままの目は、しかし妙な慈愛に溢れていた。助かったことへの安堵と、この変質者の薄気味の悪さで、吐き気を催す。
『■■■■■■────!』
 この世のものではない叫び声が聞こえたのはその瞬間。美智子は覆いかぶさっている男の背後に、奇妙なものを見た。鈍い光沢を放つ体なのか腕なのか足なのかわからないモノ。赤いラインが走るそれは明らかに異常なもので、美智子の常識の中では『化け物』と区分されるモノだった。
 覆いかぶさった男も眼を見開いている。背後に何かがいると気付いたらしい表情が、次第に顰められていく。見ているだけで体から大事な何かが抜けていくような化け物。背中に立たれただけでも、どんなに恐ろしいかわかったモノじゃない。
「本、体──ッ」
 頬を引き攣らせたまま、男が振り返る。窺った横顔は、焦りとも怒りともとれない微妙なものだった。それよりも美智子は男のあどけない顔つきに驚いた。大人っぽくはあるが、年下であることは間違いない。そんな少年とも青年ともつかない、微妙な年齢の男に殺されようとし、さらに異形の化け物が眼前に立つ事実に、頭が破裂する思いだった。
 男は突如としてナイフを閃光させる。街灯が反射して銀の軌跡を描くナイフが、美智子の頬を掠め、化け物の触手を切断したのだと気づいたのは、傍らに化け物の一部が落下してからだった。
 アスファルトに這い蹲る触手は、蛇のように蠢いていた。うねりながらも美智子に這い寄ろうとする様に正気を失い、絶叫がのど元まで駆け上がってきたとき、男の背中が口をきいた。
「立てますか」
「は──あ? わた、わたし? 立つってムリ、腰……抜けた」
 背骨の辺りがむず痒い。力を入れようとしても、体が痙攣して跳ねるだけ。両腕をつっかえ棒のようにして体を支えているが、それさえも今にも折れてしまいそうだった。
 男は美智子の答えを聞く余裕も無く、右手をムチのように撓らせる。出来の悪いたこウィンナーみたいな化け物は、めんどくさそうに腕──のような部分──を振るって、男がかろうじて受けるのを楽しんでいるように見えた。
 その光景を見て、先ほど耳を劈いた絶叫を思い出した。アレは、この化け物の絶叫だったのではないか。馬乗りになったのにナイフをアスファルトなんかに突き立てた男。直後の絶叫。泥沼にはまる感覚と共に奪われたハイヒール。ハイヒールを奪ったモノが、本当は美智子を飲み込もうとしていたのだとしたら?
 美智子には突然この男が正義の味方か何かに見えてきて、息を呑んだ。 
 化け物の攻撃を受けきれず、男がぐらりと傾いだ。ほとんど条件反射でその体を支えると、手のひらにべったりと何かが付着した。
「──すいません」
 男は謝って、再び化け物に立ち向かっていく。何で逃げないのだろうという疑問は、自分の状況を見下ろせばすぐに答えを見つけられた。アレは化け物だから、化け物というからにはきっとこちらを殺そうとするに違いない。
 男は腹から盛大に出血している。では何故そんな化け物から逃げないのか。簡単だった。男が逃げたら、標的は無防備にへたり込む自分になる。守ってくれているのだ。
「は──」
 美智子は男を支えた事実を忘却していた自分に気づく。なんて間抜けなのか。あまりの事態に気が動転して、体が動くようになっていたことにも気付かなかったらしい。慌てて立ち上がろうとしたが、生憎そこまで自由には動かない。四つんばいの格好で不様に逃げると、駆け寄ってくる二つの人影を見た。
 少年と少女。少年は両手に中華包丁のような無骨な刃物を構え、少女は左腕を淡く発光させている。少女は一直線にこちらに向かって走り寄ってきて──
「全て忘れて、家に帰りなさい」
 パチンと、美智子の電源を切ってしまった。



***




 殺せ。苦しい。
 殺せ。頭痛がする。
 殺せ。目が、見えない。

 怯えきっていた女性がふらふらとどこかに歩いていくのを、霞む視界の片隅で確認して、志貴はようやくその場から離れることが出来た。
 腹の傷が熱を持ち、呼吸をするだけで釘を突き刺されたような痛みがある。体を動かそうものなら、キリを腹に突き立てられ、それをグルグルと回されるような灼熱感を覚える。
 それらを堪えながらアスファルトの上を滑り、志貴は化け物を睨み付けた。熱のせいか、再び視界を失おうとしているのか、狭く区切られた世界は今にもその幕を下ろそうとしている。歯を食いしばり、決して見失わないように影を捉える。凛と、先ほどの女性を飲み込もうとした影の本体を。
 伸びてきた触手をナイフの腹で受けつつ、志貴は大きく跳躍し、化け物の背後に回る。そこから繰り出した一撃は、再び伸びた触手によって打ち払われる。逆に何本もの触手で攻撃され、防戦するしかなくなってしまった。
 キャスターの強化魔術があれば、見切れたはずだった。避けられたはずだった。
「ク、ソ──!」
 視界が霞む。足ががたつく。腹からは血が溢れている。それが昨日の傷なのか、今つけられた傷なのかも判然とせず、混濁した意識は唯一つの目的を目指して演算を繰り返す。
 ここで視界を失えば、一瞬で嬲り殺される。決して逃がさないと注視した瞬間、志貴は血が鳴動する音を聞いた。

 曰く、殺せと。

 視界が狭い。視界が赤い。世界が遠い。
 それでもナイフを走らせた。その、黒い布切れみたいな影に。
 影は咄嗟にアスファルトに沈み、背後から薄っぺらい、紙じみた触手を伸ばしてくる。地面を這ってそれを避け、再び一閃した。感触は無い。ナイフはむなしく空を裂き──
「ク──」
 再び背後に回った影の反撃を、辛うじて受け止めた。
 衝撃で五十センチほど浮き上がった体はコンクリートの壁に激突した。ただでさえ遠かった意識が更に逃げていく。長いトンネルの向こうの光のように小さな視界。そんなに小さくなった世界でも、志貴のナイフは影の触手を防いでいた。
 頭を狙ってきた触手を受け、足を抉ろうとする攻撃を辛うじて避ける。
 あの得体の知れない体に触れてしまったらどうなるのか。背筋が凍るほどの恐怖感。殺せと命じる何かの声はそれに呼応するように大きくなり、まるで頭の中で鐘が鳴っているかのようだった。
 懐かしい感覚があった。心臓を鷲掴みにされているような嘔吐感。かつてある人が本能的な衝動と説明したことがあるその感覚は、死の予感。
 だが、いつまで経っても影の触手は志貴を捕えず、志貴のナイフも影を捕えられない。
 おかしな話だった。影の力ならば、遠野志貴など一瞬で飲み込んでしまえるのに。これでは、まるで嬲り殺すのを楽しんでいるようだ。そう、憎い相手をとことんまで追い詰めるかのような……。
 ふと、三日前の夜に見た怒りの形相を思い出した。ライダーを殺されて、怒りと憎悪に身を任せて攻撃してきた少女。名前を、間桐桜。
 なぜそんなものが目の前の化け物と重なるのか。なぜ、あの大人しそうな少女とこの化け物を同じだなどと思ってしまったのか。
 志貴は大きく跳躍し、影の間合いから逃れる。しかし、落下点には影がぽっかりと大口を開けていた。それは不可避だ。手がかりも何もない空中で方向転換できるほど、志貴の体は常軌を逸していない。己の迂闊さを呪いつつ、せめてその影を切り裂いてやろうと覚悟した瞬間、
「づ──ぁああ!」
 視界が流れた。士郎の体当たりを食らったのだと気付く前に、再び塀に叩きつけられる。
「ぐ──この」
「無事か?」
「くそ、背骨が……変な音したぞ」
「死ぬよりいいだろ」
 途絶えようとする意識を、痛みを感じ取ることで無理矢理に留めるが、決死の延命も然したる意味は無い。相変わらず目は殆どモノを映さず、代わりに線と点ばかりが見える。
 チャンネルが閉じていく。遠野志貴を人間で居させてくれたチャンネルが閉じていく。残るのは、死界を視るだけの、無機質でグロテスクなチャンネル。
 だが、だからこそ、その影の正体にも気付けたのだろう。なまじ外見を見られなくなったために、魂のかたちとでも言うべきモノが視える。故に、錯覚ではないと気づいてしまった。
 泣き喚く少女の姿が見えた。
 おまえが憎いと恨み言を口にする姿が見えた。
 ──よくも、ライダーを。
 その声に、足が震えた。影は喋らない。口という発声器が無いのだから幻聴のはずだ。だが、志貴は震えて足を止めた。触手が左腕を貫こうと伸びてくる。それを弾く腕は、震えて動かない。
 諦めて、死を甘受しようとするような志貴に痺れを切らしたのか、白い中華刀が触手を弾き飛ばした。
「志貴? おまえおかしいぞ」
 志貴を庇うような背中が震えている。当然か、ときょとんとしたように相対する影を見た。
 サーヴァントとは根本から違う存在。この影は怖い。人に恐怖を与えるためだけに存在するとでもいうのか、その異形な体躯も、空気を汚染する闇も、全てが怪物じみていた。
 依然として震える体を辛うじて立ち上げた志貴は、三度深呼吸をして、士郎の脇に並んだ。化け物は相変わらずのんびりと腕をくねらせている。
 遠野志貴は恨みを買った。サーヴァントなら殺しても平気だろうと、自分の事情だけでそう考えていた。ナイフを突き立てた感触は、
『わたしだって、すきでこんな体になったんじゃないんだから……!』
 あのときと同じだったのに……。
 ライダーはこの上なく人間と同じ感触を志貴に与えて、絶命した。妹を屋敷に待たせているからと、殺してしまったクラスメイトと同じ感触を与えて。
 殺した。完膚なきまで完璧に。虚を突き、たった一撃で、最も苦しまない方法で。それが偽善だということにも気付かず、これできっと平穏に死ねただろうと、くだらない幻想を抱いて。
「ああ、とっくに気付いてた。俺はとんでもないエゴイストだから」
「聞いてるのか?」
「だから、間桐桜──」
 士郎が目を見開く。恐る恐るといった風情で影を見据えるその瞳は、しかしすぐに志貴に返った。
「おまえ、何を……」
「俺はきみも……」
 一瞬の静寂。
「きっと殺す」
 影が慟哭した。確固たる敵対の意志を前にして、報仇できる喜びを噛み締めるかのような慟哭。夜の住宅街に響き渡り、空気を大地を揺るがすそれは、或いは涙を流せない苦痛を露にするようでもあった。
 影が沈んでいく。いつかまた殺しに来る。それまで怯えて待っていろ。そんな、泣き笑いの声が聞こえたのは気のせいではないだろう。
「……どういうことだ」
 影が完全に消え去り、滞留していた腐臭が消え去ると、士郎が低く押し殺した声で言った。黒い中華刀を突きつけてくるその顔は、置き去りにされている現実を悟ったらしい憤怒のものだった。
「なんで、桜の名前が出てくるんだ! それに、殺す、だと……? 間違ってもそんなこと言うんじゃねえ!」
 両手の中華刀を投げ捨て、士郎の腕が志貴の襟首を締め上げる。一見華奢な体躯はその実鍛えられているらしく、志貴の力では抗いようもなかった。
「……四十六人殺してるとかは関係ない。邪魔をするなら殺すんだ……そういう人間だよ、俺は」
 見れば遠坂凛も信じられないという顔でいた。見開かれた瞳が悲しげに揺らげば、彼女も士郎と同じく間桐桜の友人か知り合いなのだと知れたが、どうでもいいことだった。
 強く締め上げられた首筋が悲鳴をあげ、何かがこみ上げてくる。すんでのところで嚥下した次の瞬間、自分が涙をこぼしているのに気付き、憫笑した。
 頬を伝う涙はどこか粘着質で、
「──だめかな、もう」
 血涙と知れた。




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