包帯を巻いているせいか、目を開いても昼なのか夜なのか判然としなかった。
 腹具合から陽は落ちているだろうと推測して、全身に力を篭めた。差し油を忘れた機械人形のように軋む体を、うめき声と共に三十秒もかけて起こすと、額にはべったりと脂汗が浮いていた。
 視界が無いせいか、体を真っ直ぐに保てなかった。呼吸も荒れている。支えを失ったように揺れる体が鬱陶しくて、志貴は襲ってくる頭痛に耐える心構えを用意してから、包帯に手をかけようとした。
 額に針を刺されたような痛みを感じて、首をかしげる。
「あれ……」
 右手の人差し指は包帯ではなく、額を爪で引っ掻いていた。大きな包帯は眉を隠していたのだから、額に触れれば包帯の側面を摘めるはずだった。
 予期しない違和感に、血の気が引いていく。
 両手で掻き毟るように顔面に触れる。あるのは直に触れる瞼の柔らかさと、その下でぎょろぎょろと動く眼球の感触。粗い目の包帯の手触りは、どこにもなかった。
 意を決して目を開いた瞬間、志貴は短い絶叫の声をあげ、畳に頭を打ち付けた。倒れたわけではなかった。金槌で打ち付けられたような激痛に耐えかねて、より現実的な痛みに逃避しただけのこと。
 無数の線と点。それが、洪水めいた情報の濁流として流れ込んでくる。線と点は見えるくせに、真っ白い布団も、障子の向こうから差し込んでくれるはずの月光も無い。線と点だけの世界。点を中心にして、至る所に張り巡らされた線。
 戦争が始まった頃は、点は殆ど見えなかった。義兄四季に点のようなモノは視えたが、葛木宗一郎の体に再び視るまでは忘れていた。学校でライダーやアーチャーと戦ったとき、微かにではあるが点が視えた。まるで川の本流から支流へと枝分かれするような光景を目の当たりにして、それが死そのものを表しているのだと気付いた。
 変調はその翌七日。今日──二月十日から遡ることたったの三日。翡翠から秋葉の処刑日を聞いたあとのことだった。大事な眼鏡が用を成さなくなった。その夜、ライダーの点を貫いた。天駆ける有翼白馬を駆り、目にも留まらない速度で飛ぶライダー。彼女が志貴の偽者に突撃した瞬間を見逃さず、貫いた。
 それからたった三日。それでとうとう、視力さえ失ってしまったらしい。
 体から力が抜けていく。だが頭痛は無理矢理に背筋を伸ばし、志貴に倒れることを許さない。それでも力は抜けていく。絶望がこの機を待っていたと駆け寄ってくる足音が聞こえる。死界が手薬煉引いて志貴が堕ちるのを待っている。狂ってしまえ壊れてしまえと、絶望だか死界だかよくわからないモノが囁いた。
「入るぞ」
 唐突な声は背中からだった。敵だ。と誰かが騒いだ。右手はポケットに潜ませたナイフにかかっている。
 その声は敵じゃない。右手に命令を送って、ナイフから手を離させる。憮然とした声は、
「士郎君?」
 衛宮士郎だ。
 意識した途端、目隠しを外されたように、死界が視界へと転じた。障子の向こうから、柔らかな月光が差し込む和室。そんな光景があまりにも眩くて、志貴は意識が遠のくのを感じた。
「この家に男は衛宮士郎と遠野志貴だけだぞ。それとも俺の声が遠坂の声にでも聞こえるのか?」
 士郎は苦笑顔で近寄ってくる。その体を視た瞬間、胃液が食道を駆け上がってきた。死の点。無数。数数え切れない死。額に、頬に、首に、胸に、二の腕に、前腕に、腹に、太腿に、脹脛に、足首に。線が点同士をつなぐ架け橋にでもなっているかのような、異常。
 こみ上げてきた吐き気をどうにか堪る。飲み込んだ胃液には味が無かった。
「いや、そんなことはないよ。確かに、言われてみればそうだった。俺たちだけだ」
 咄嗟に目を閉じると、士郎は「そうか」と何か思い至ったように手を打った。
「ほら、新しい包帯。寝苦しそうだったから勝手に取ったんだ。悪かった」
 差し出された包帯を手に取る。急いで巻いた志貴は、士郎がじっとこちらを見下ろしているのに気付いた。
「セイバーのことは、謝れない」
 士郎は一度志貴を注視したが、すぐに視線を逸らすとばつが悪そうに頬を掻いた。
「あの時は敵同士だったんだから仕方ない。それに」
 士郎は言い出しにくそうに逡巡する。
「セイバーは、あんたが串刺しにされて、怒ってたからな」
 驚いて口を半開きにした志貴を、士郎は口の中で笑った。
「ならきっと、あいつは納得できたんだ」
 刻んだ笑みは自嘲だろう。自分は何も知らないと嘆く声色。返す言葉などなく、志貴は「そっか」と項垂れて、包帯の上から眼球に触れた。
「そういえばな、志貴。これ」
 士郎が差し出したのは棒。受け取って、撫でるように触れる。何の飾り気もない鞘と柄。それは間違いなく刀崎翁に貰った骨刀・刀崎だった。
 柄を引き抜くが、刃は十センチほどで折れてしまっていた。鞘の中には、その先が入れられているらしい。折れた刀身も引っ張り出して、触れてみる。
「……やっぱり折れたか」
「遠坂なら直せると思うけど、しないだろ」
「ああ。折れた刀はもうだめだよ」
 黄金のサーヴァントの鎧は一体どれだけの硬度なのか。刃の腹で叩いたわけでもない。真っ直ぐ横一文字に斬り付けた刀が折れるという異常。間違いなく業物として数えられるであろう刀崎が、傷ひとつつけられずに折れた異常。
 志貴は身震いした。あの化け物を倒さなければならない。腹の傷もまだ癒えきっていない。明日の朝、光を目にできるだろうか。あのサーヴァントを倒すまでは、保たせなければならないのに。
 顔を顰める志貴に気づいた士郎が、ゆっくりと立ち上がって部屋から出て行く。その直前に、士郎が振り返った。
「用件を忘れてた。飯ができたぞ。茶の間のテーブルの上に運んであるから、食べててくれ」
「わかった。けどその前に、電話借りてもいいかな」
 士郎は二つ返事で了承した。




Dead Eyes See No Future



 言峰は心地良い波動に満ちていく柳洞寺の境内に視線を巡らせて、笑みを刻む。十年前にこの身で味わった呪いの塊。その根源たる存在が、今にも現れるべく鳴動しているのを感じた。
 だが、まだ足りない。あと三つの生贄を釜に捧げねば、事は成されない。残るはセイバー、ランサー、キャスター、アサシン。
 ギルガメッシュにセイバーを殺す意思は無い。となれば決まったも同然だったが、キャスターのマスターの妨害により、キャスターをいまだ殺せずにいた。アサシンは殺そうと思えばいつでも殺せるのだが、矢張りというべきか姿を見せようとはしない。いっそギルガメッシュも投げ込んでしまえばいいのだが、セイバーへの異常なほどの固執にも興味がある。彼のアーサー王が呪いに塗れ、苦痛に喘ぎ、助けを請う様を想像すれば、ギルガメッシュでなくとも胸が躍る。
「となると……如何にしてキャスターを消すか、だが」
「ああいった気概は最高の喜劇だな。笑いが止まらぬわ」
 床板を踏み鳴らし、ギルガメッシュが現れる。
「ほう、まだ足掻いていると。反英雄とはいえ、サーヴァントと成るだけはあるということか」
「意識はとうに混濁しているようだがな、オレが殺気を見せれば、即座に命令を下すだろう」
 キャスターのマスターが存外に優れていたのか、それともくるくると回るキャスターの口が優れているのか。何にせよ、キャスター組が最後まで残るという番狂わせは、想像だにしていない出来事であった。
 魔術師でも無い少年が教会の扉を叩いたときには、まるで意に介していなかった。キャスターが主を殺したという情報は聞いていたため、神の采配次第ではそれらが組むこともあるやもしれぬとは思っていた。だが所詮はキャスターとただの小僧。障害足り得るはずがなかった。
「あれを見抜けぬとは……修行が足りんな」
「あの雑種のことか。ヤツに消された宝具、宝物庫には戻っていないようだ。全く笑えぬ。アレは神殺しの者の目ぞ」
 言峰は振り返り、感嘆した。
「珍しいこともあるものだ。おまえが他人を脅威と感じるとは」
「戯け。ヤツではオレは勿論のこと、フェイカーさえ倒せぬわ」
 頷き、虚空を見上げた。
「いくら優れようと──いや、アレは堕ちている、か? 兎角、所詮は雑種。英霊には及ばん」
「その物言いでは、ライダーが浮かばれん」
「雑種の力も把握できん愚図では仕方あるまい」
 セイバーを手に入れて上機嫌なのか、ギルガメッシュはいつになく饒舌だった。
「気をつけろ、ギルガメッシュ。シキの瞳、おまえをも取り込みかねん」
 くつくつと、言峰は喉を鳴らす。ギルガメッシュはくだらない、とばかりに鼻を鳴らした。
オレにあの小さな牙が届くことは有り得ん。天地を引き裂く我が剣を前に、雑種が持つ特異な能力など微塵たりとも脅威足りえん。よもや、本気の言葉ではあるまい?」
 言峰は僅かに頷いた。
 何が起ころうとも、それが現実だ。ギルガメッシュがその気ならば、シキは身動きをする間もなく死ぬだろう。
 殺す気で掛かるのなら、“王の財宝”を出し惜しみせずに放ち続ければいい。ヘラクレスやクー・フーリンの速度があれば避けようもあるが、キャスターの後押しを受けてセイバー以下の速度では、土台防ぎようが無い。なまじ防いでしまってもギルガメッシュには第二の宝具がある。彼が乖離剣エアを振れば、破壊の風に巻き込まれ、万物は平等に両断される。
 その根底に流れる魂は正義だが、正義──即ち己を貫くために悪をも容認する。否、己こそが正義であるのだから、己の行為は全て正義であるというエゴイズム。そのエゴイズムを裏打ちする実力があるのだから、ギルガメッシュに敗北の二文字は有り得ない。
 圧倒的な力。畏怖すべき英雄王。だが、それが最早邪魔であるとも、言峰綺礼は感じていた。
「──ところでギルガメッシュ、以前間桐桜に接触したと言っていたな。気にも留めていなかったが、思い出すと不可解だ。何の用件で接触した」
 ギルガメッシュの赤い瞳が、言峰を射抜いた。
「引っ掛かる言い方をする……。よもやオレに疑念でも抱いているのか」
「かもしれんな。何せ、おまえにしてみれば私など路傍の石に過ぎん。主従とはいえ、偏った天秤の上に存在している我々だ。おまえの動向を窺うのも、おかしなことではあるまい」
 ギルガメッシュの炯眼を真正面から受け止め、言峰が言い放つ。
 ギルガメッシュはじっと言峰の目を見、やがて頬を歪ませる。何度も何度も見た表情。それは、ギルガメッシュが眼前のソレを殺すと決めたときのものだ。つまりこの場合、ソレとは言峰を指す。
「死ねと言っただけだ。オレは崩れた物を求めているのでな、完成されては厄介と思ったのだが……そうか、誕生を祝う貴様とは相容れぬか、この考えは」
「そのために、独断で白き聖杯を手に入れようとしたということか。確かに、両極端の因子を混ぜれば、聖杯もひどく不安定になるだろう。成る程、それは面白い考えだギルガメッシュ。セイバーに泥を浴びせられればそれで良いおまえには、もっとも都合のいいものだろう。私も、間桐桜がただの予備であればそれを考えたろうがな……」
 ギルガメッシュは聖杯の中身でセイバーを犯すために聖杯を求めた。
 本来裏方に徹するつもりであった言峰は、間桐桜の存在を知ればそうはいかなくなった。
 産まれようとする者を祝福したいならば、聖杯を崩そうとするギルガメッシュとは相容れない。袂は同じであったかもしれない──。
「だがあの道化師の手により、白き聖杯は微塵も残らず消え果てた。結果として、おまえの思惑通りになったというわけだ言峰。この際、別に何者でも構わん。オレはアレの兄でも使おうかと思っているが、おまえはどうする」
 だが最早、二人の行く末は別である。
「訣別、か。思いのほか、保ったものだ」
 ギルガメッシュの目に殺意が宿る。元々、危うい均衡の上に成り立っていた関係だ。いつ壊れてもおかしくはない。言峰は生まれようとするモノを無碍になど出来ず、ギルガメッシュは産まれようとするモノを殺そうとしている。
 間桐の老人が動き出したとき、この結末は見えていた。故に、言峰には策があった。
 ギルガメッシュが腕を掲げると背後の空間が揺らぎ、人類最古の英雄が所有する無数の武具がその刃を覗かせた。
「“王の財宝ゲート・オブ・バビロン”──永きを共に歩んだ好だ、せめて一瞬で終わらせてやろう」
 言峰は一息で十メートルを跳び、二息で二十メートルの間を作り上げた。床が軋みを上げ、二足目では砕けた。ギルガメッシュの投擲は回避不可能。どれだけ距離を離そうと、斉射されれば命は無い。

 ──故に、駒は動かしてある。

「“刺し穿つ死棘の槍ゲイ・ボルク”──!」
 それは最速の名に恥じぬ速度で迫り、放たれた一突き。勝利の一撃がギルガメッシュを穿つのを見届け、言峰は踵を返した。たとえ仕損じていたとしても、ほんの数日隔離できれば問題は無い。蠢く影の気配と、忌々しげな舌打ちを同時に聞いて、言峰は口を開いた。
「やるものだな、ランサー」
 ランサーは言峰の言葉を鼻で笑った。
「この泥、胸糞が悪い。あんな野郎でも、これじゃあ哀れなもんだ」
 言峰は応えず、急ぎ足に桜を幽閉している部屋へと向かった。



***



 アインツベルン城で気を失い、目を覚ましたのが、丁度何者かの世界が崩れる瞬間だった。世界が組み変わる異常を目の当たりにして、キャスターはそれが固有結界と呼ばれる異能の力だと気づく。全てに精通していたがために至れなかった高み。それが音を立てて崩れていく。それは術者の死を意味していた。
 固有結界などという魔術使いが今回のサーヴァントの中にいたのかという疑問は、現れた黄金のサーヴァントと、その腕に抱えられたセイバーの姿を見れば消え去った。
 キャスターはなまじ博識だったがために、黄金のサーヴァントの正体に見当がついていた。その目的にも見当はついていた。だからこそ幼い体を灰も残さず焼却したのだ。
 それは次手へと繋ぐ布石であったが、この場で死ぬのでは無駄に終わるようだ、と諦念を露にする。志貴の気配が無事遠ざかっていくのを感じたキャスターは目を閉じ、一歩一歩歩んでくる英雄王の攻撃を待った。
 英雄王の姿はあまりに神々しく。見てしまえば萎縮してしまう。故に目を閉じた。最期くらい潔く消えるのも、良いと思っていた。
 体に電流が走ったのは、その瞬間だった。
「ほう……まだ動くか道化師」
 キャスターの魔力が底をついた体は浮き上がっていた。刹那、ローブの裾を何かが切り裂いて飛んでいった。剣だった。
「──な?」
 足元をまるで知覚していなかった魔剣が通過していけば、自分が回避したのだと理解はできたが、視認さえ難しい投擲を避けるような身体能力はキャスターには備わっていない。
「私を殺すつもり?」
 着地の衝撃でこみ上げてきた血液を飲み込みながら、キャスターは意図しない言葉を吐いていた。
「……口の利き方に気をつけろ。オレは気分が悪い。無様を晒したくなければ、早々に自害することだ」
 睨まれると、体は蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった。だがその口は、再び意図しない言葉を喉下にまで引き上げ、
「貴方こそ、口の利き方に気をつけるのね」
 そんな、無謀を吐かせた。
「貴方が次に私を攻撃しようとすれば、私はそれが届くより早く一言口にする」
「ほう……? 言ってみろ。オレを前にしての減らず口に興味がわいた。如何な戯言か、聞いてやろう」
「自害なさいセイバー、と言うだけよ。大事なセイバーが死んでは嫌でしょう?」

『絶対に、死ぬな……キャスター』

 ようやく気付く。そうだ、これは令呪の縛りだ。絶対などという言葉に律儀に反応して、勝手にキャスターの体を操り、思考さえ操った。
 困ったものだ。英雄王が慌てる様は面白おかしいのだが、その後に待っている地獄の責め苦を想像するだけで、怖気がつく。
「そうか……貴様セイバーのマスターとなっていたのだったな。フン、腕を切り落としてやりたいところだが、そうだな、貴様の早口言葉には叶うまい。それしか能が無いのだから、さぞ早いことだろうよ」
 忌々しげに嘲い、ギルガメッシュが歩み寄ってくる。その胸の鎧が砕け、出血していることに、キャスターは遅ればせながら気付いた。セイバーが斬り付けたにしては歪な傷だった。鎧は螺旋状に捻じ曲げられ、引き千切られるように砕けていた。
 誰が、と思考しようとするより早く、飛んできた剣に反応する。咄嗟に飛び上がった体に二本が突き刺さり、キャスターはもんどり打って床に叩きつけられた。
「下郎が……図に乗るな」
 起き上がる力まで失って、キャスターはうつ伏せになったまま盛大に血を吐く。令呪に命令を吹き込もうとした瞬間、眼前にギルガメッシュの足を見、掲げられた魔剣の気配を感じた。この距離では、自害しろと叫ぶ間もなく切り捨てられてしまう。
「天の鎖よ」
 甲高い音を響かせながら、鎖が天地を走る。蛇のようにうねった鎖はキャスターを突き刺さった魔剣ごと雁字搦めにした。
「帰還するまで延々と刃を突き立ててゆこう。意識を保てば、暫くは生かしてやる。意識を失えば、その場で死ぬ。謂わば余興よ。道化師ならば、もっと愉しませろというのだ」


 柳洞寺に運び込まれて丸一日。かつて数日を共にしたお堂には人の息吹も無く、あるのは空しくそよぐ木々の音と、キャスターのうめき声。
「ァ──グゥ」
 声が漏れる。艶かしいその声は事実として、濡れた口が放った血塗れの苦悶だった。もう何度目とも知れない。一日中呻き、苦しみ、そして嘆いた。吐いても飲み込んでも溢れてくる血は、奇しくも主と同じ位置に突き立てられた一振りの魔剣によるものだった。
「無事かキャスター」
 鈴の鳴るような澄んだ声に、キャスターは意識の糸を手繰り寄せる。
「え、ぇ……何、とか」
 キャスターは一度も気を失わないでいた。思考の海に埋没することで辛うじて保った意識は、最早現実と心象世界の区別さえ無い。覚醒しているとも眠っているともつかない時間は、キャスターに泥濘にはまったような感覚をもたらしている。アルコールを多量に摂取したかのような倦怠感。
 首を巡らせるのも面倒で、眼球だけを動かして周囲の気配を探る。
 セイバーは無傷、キャスターは腹から剣を生やしているという差異はあるが、二人は揃って壁に磔にされていた。辛うじて残っていた魔力も、突き立てられた魔剣に吸い取られる。セイバーと自分を保てるギリギリのところで抑えられているのは、英雄王が令呪を恐れているからに他ならず、天秤が傾ききっていない証明だったが、地獄もかくやという責め苦だけは、発狂しそうになるのを堪えるので精一杯だった。
「志貴との会話は可能か?」
「い、え……ここは異界、だもの……下界には、とどかな……ァ」
 絶え間なく流れる血が一際大量に噴出し、キャスターは激しい苦痛に身悶えた。心なしか指先が半透明にさえ見える。
「……悪かった。それ以上口を開くな」
 限界だなと、セイバーは冷静にキャスターを観察する。彼女を磔にする魔剣は今もキャスターから魔力を吸い上げている。彼女が消滅すれば、最低限の魔力しか与えられていない自分も即座に消えるだろう。然したる感慨もなく、セイバーはそれを受け入れていた。
 無論、消える直前には一泡吹かせてやるつもりで。
「しきが、戦っ……」
 血を泡にして喋ったキャスターが、身をよじらせる。窺った顔は既に正気ではなかった。瞳は蕩け、頬は上気し、半開きの口元は血に濡れている。それでも主を心配する忠義の程に眉根を寄せて、すぐに納得した。
 志貴とキャスターの馴れ初めを、戦争が始まってからの道程を、たかだか数日間の出来事を、セイバーは夢として共有していた。夢はキャスターを召還したマスターが死ぬところから始まって、遠坂邸を急襲したあとで終わる。
 セイバーは志貴に捕らえられた日、彼の変貌ぶりに驚いた。羊の皮を着込んだ猛獣と比喩した。少なくともその偽りの羊毛は、裸同然のキャスターの心を暖めたようだった。夢の中の志貴は、信じられないほど穏やかな顔でいた。
 魔女と蔑まれた彼女に、志貴は臆することなく接した。それが、何よりもキャスターには手に入れ難いものだったのだと知った今、キャスターの心中を察するのは容易い。
「彼ならば平気であろう。何せ、英雄王にあと半歩まで迫ったのだからな」
 心配なのは、士郎。また無茶をしていないだろうか。志貴と共に助けに来るなどという無謀を冒さないだろうか。
「有り得るな。英雄王の胸を貫いた彼の過去なのだから」

 思えばアーチャーの強さは異常だった。王の財宝を片っ端から打ち落とす姿は圧巻だった。ギルガメッシュが放つ宝具を見ただけで複製し、相殺させる。見てから複製するのではなく、見た瞬間には複製されているのだから、両者に決着は無い。だがギルガメッシュには剣の才が無い。対してアーチャーには、己が複製した宝具を使いこなす才があった。
 それが二人の差だった。アーチャーは無数の宝具を迎撃しながらも、更に一対の剣でギルガメッシュを圧倒した。
 時間差で四方八方より襲い来る刃を、ギルガメッシュは鎧の防御力だけで乗り切る。露出した頭部は両腕で防御した。その隙に、セイバーは聖剣を解放する。キャスターから流れ込んでくる魔力は少なく、全力での開放には程遠い。それでも、ギルガメッシュが顔を隠した瞬間を逃さず、矢を番えたアーチャーの策を磐石のモノとするために、鎧に回していた魔力さえ遮断し、出来得る最高の約束された勝利の剣エクスカリバーを振りぬいた。
 防御に徹していたギルガメッシュはそれを受けるしかなかった。黄金の鎧が僅かに溶け出した瞬間──。
『“偽・螺旋剣カラドボルグ”』

 だが結局それが最初で最後の攻勢だった。アーチャーのカラドボルグはギルガメッシュの胸部プレートを粉々に打ち砕いたが、そこまでだった。
 セイバーには指先を動かすだけの魔力さえなく、アーチャーは元より満身創痍だった。
 アーチャーが首を刎ねられる瞬間をしっかりと眼に焼付け、必ず打倒するとギルガメッシュを呪った。
「鎖も剣も消えてねえってことは、取り込むつもりじゃねえのか。ったく、欲張るといいことなんざねえってのに」
 思いも寄らない客が、姿を見せた。



***



 鮭を粗方片付け、味噌汁、茶碗も空にした凛は、一息吐く暇も無く口を開いた。
「朝のことだけど」
「ん?」
 志貴は啜っていた緑茶をテーブルに置き、聞く体勢を整えた。
「キャスターが生きてるって言ってたけど、今も居るってこと?」
「近くには居ない。キャスターは離れてても話しかけてきたりするんだけど、今は全く無い。でも、令呪から力は感じるから、生きてるはずだ」
 志貴は肩を落とした。令呪に吹き込んだ命令は『絶対に死ぬな』だった。助けられたのは自分だけだったという結果から、キャスターは気絶したままだと推測できる。今も気絶しているために声をかけられないのか、何者かに囚われて余裕が無いのか。或いは、姿を晦ましているだけなのか。
 いまいち判断に苦しむ状況に、志貴は歯噛みした。
 気絶したままならば、再びアインツベルン城に出向けばいいのだが、その可能性は低いと考えていた。あの場にいて、あの金色のサーヴァントがキャスターをその手に掛けないとは思えなかった。
 凛は志貴を救うためにアーチャーを失ったというから、アーチャーが時間を稼いでいれば逃げることも出来たはずだ。その場合、姿を隠しているという可能性がある。
 「そう、残念ね」と小さく呟いた凛は、「あの金ぴかのこと、知らないでしょ」と口を繋いだ。
 すぐさま黄金の男を思い起こした志貴は、素直に頷く。志貴に判るのは、アレがイレギュラーなサーヴァントで、圧倒的な強さを誇るということだけだった。素直な態度に気分を良くしたのか、凛は腕を組んで鼻を鳴らした。
「真名はギルガメッシュ」
 茶を吹き出しそうになった。慌てて口を塞いだ志貴に無言でタオルを差し出しつつ、凛は続ける。
「その反応じゃ知ってるみたいね」
「エンキドゥとかフンババとかの?」
「そう、それ」
 真剣な声色が続ける。
「驚きよね」
「伝承には詳しくないけど、蛇に不死の薬を奪われたって逸話なら知ってる」
「わたしもそう詳しいわけじゃないし、そもそも弱点なんて聞いたことがない」
「ヘラクレスを倒して、セイバーでもダメだった。となると、真っ向からじゃどうしようもなさそうだな。仮に弱点があっても、そこを突けるのかどうか……」
 凛は暫く唸ったあと、諦めたように言った。
「……とりあえず今は、巡回のほうに専念しましょ」




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