柳洞一成はキリッと引き締まった顔に、細身の眼鏡を掛けた知的な印象の少年だ。通っている学園の生徒会長を勤める彼の自宅は円蔵山の中腹に門を構える柳洞寺の敷地内にある。敷地内と言っても、円蔵山の殆どを所有する柳洞寺は五十からなる修行僧が寝食を共にする古式ゆかしい寺だ。
 柳洞一成の一日は本堂の清掃に始まり、学校帰りに境内の清掃をして終わる。無論他の修行僧たちもやるのだが、次期住職として決定している一成にとっては当然の仕事であった。
 級友に雑事を押し付けてしまった自分に嘆息しながら、一成は息一つ乱さずに、石段をゆったりとした歩調で上っていく。かれこれ十五年以上も上り下りを繰り返した石段に、今更恐れおののくことなどない。背筋をぴんと伸ばした姿は現代人の鑑とでも言うべき佇まいであり、学園の生徒会長を仰せつかる身としてはまさしく適任であった。
「む──」
 足を踏みあげようとして、一成が唸る。上げた足の置き場所が、どこにもない。
「階段が粉微塵……星でも降ったか」
 冗談とも本気ともつかない様子で呟く。階段は坂になっていた。石段としてそこに在ったらしいモノは、いまや石ころと化してそこかしこに散らばっている。
「よくないな。親父にでも訊ねるとしよう」
 瓦礫の山を迂回して、辛うじて石段の態を為している場所を歩く。
 石段を登りきれば、そこはもう柳洞寺の境内だ。真正面に構える堂。今朝方まで続いた雨に濡れた屋根が、月光を浴びて鈍い光沢を放っている。これは風流なものだと頷いて、あたりを見回してみた。敷き詰められた砂利の上に、見知った影と見知らぬ影を二つ見つける。
「宗一郎……?」
「柳洞か」
 眼鏡を光らせたのは柳洞一成が通う穂群原学園の教師であり、柳洞寺の居候でもある葛木宗一郎。だが他の二人にはまるで見覚えがなかった。
 一人は一成とそう年齢の変わらない少年で、もう一人は全身を深い色のローブで覆った外国人。異様なのはその見知らぬ二人の格好だった。女性は力無く倒れている。少年もところどころ千切れた服で、同じように仰臥していた。
 師と慕う葛木宗一郎が何某か事件を引き起こしたとは考えられず、一成は困惑の色が広まった瞳で宗一郎を見つめる。だが、宗一郎はといえばいたって平然と腕を組み、
「弟だ」
 代わりに一成の眼鏡がずり落ちた。







 朝食はビュッフェスタイルだった。ロビー奥のフロアに、所狭しと並べられた四人がけのテーブル。未遠川から日本海への河口を覗く風景は、このホテルの一応の売りであるらしかった。風景と言っても乱立するビル郡に阻まれて、望めるのはほんの欠片に過ぎない。パノラマ展望の大窓を設置したのは、失敗と言える。
 ビジネスホテルに混じる観光ホテルは一種異様だったが、冬木臨海公園の水族館が目当てなのか、外れのようで意外と人が居る。
「キャスターは、食わないのか?」
 志貴はトマトが絶妙な風味をかもし出すパエリアを頬張りながら、背後で控えている英霊に訊ねる。安ホテルと思って軽視していたが、なかなかどうして美味である。
「サーヴァントは食事を必要としません。それに、どこにマスターが控えているとも限らない。姿を見せるのはよくないわ」
 道理だった。どこからともなく聞こえてくる声に頷いて、志貴はミルクでパエリアを流し込む。遠野の家に帰って身につけた作法は半年で忘れた。何より、家族連れで賑わうホテルのバイキングで、作法など気にするだけ空しい。
「見てたらお腹空かないか?」
 端から見れば独り言でも、飯時の喧騒は小さな呟き程度を包み隠してくれる。加えて、四方に設置されたスピーカーから流れる場違いに気取ったジャズも、その役目を買って出ていた。
「空腹を感じることは無いわ」
 キャスターは落ち着いた口調で言う。空腹を感じないというのは常に満腹ということなのか。それともそういった器官が存在しないのか。どちらにしても、それはそれで寂しいだろうなと思った志貴は、残っていたパエリアを一口で平らげて席を立った。
「もういいの?」
「元々朝はそんなに食べないから」
「今はもう昼よ」
 いわれて、確認するようにロビーに設置された柱時計を見た。一時二十五分。十四時間もの睡眠でも、重苦しい倦怠感は残っていた。契約の代償だ、すぐに慣れるというキャスターの言葉を思い出す。
「頭が割れそうだ」
「慣れるわ。そのうち」
 売店で購入した冬木市の地図を広げる。かわいらしいカジキのマスコットが説明してくれるこれは観光用のもの。地図というよりはパンフレットに近いそれを見つめるのはキャスターだ。部屋に戻って紅茶で一服つけたキャスターは、床にぺたんと座ってそれを眺めている。
「役に立たないわ、これ」
 地図から視線を外して、キャスターがつまらなそうに言う。地図に記されているのは中央公園や臨海公園などの娯楽施設のみ。冬木教会も名を連ねてはいるが、ろくな説明も無く「冬木教会」となっているだけ。キャスターの神殿探しに役立たないのは当然だった。
「それしか無いって言うんだ。外に買いに行ってもいいけど、だったら自分の足で歩いた方がいいだろ」
「そうね。日が落ちる前に一度外に出ましょう。そもそも、自分で見なければわからないものね」
 キャスターの声は柔らかだ。
「ああそれと、一箇所だけ、気になったところがあるわ」
「どこ?」
「柳洞寺……と言ったかしら。ここよ」
 キャスターは地図の一点を指した。冬木教会と丁度正反対、深山町のはずれのそこは柳洞寺と示されていた。
「前のマスターと街を歩いたときに一度見たの。結界が張ってあって、侵入は困難。けれど、中で神殿さえ築くことができれば、私でも他のサーヴァントと渡り合えるわ」
 前のマスターと口にしたキャスターの声はどこか上ずっていた。確認しようと窺うが、ローブの奥の真意は測れない。刹那、裏切りの魔女というフレーズが不意に脳裏を過ぎり、慌ててそれを振り払う。
「どうかしたの?」
 突然首を振り出した志貴を、キャスターが不思議そうに窺う。
「いや、なんでもない。じゃあ、これからそこに行こう」
 取り繕った言葉は不明瞭に含んだような声色で放たれる。変わらず訝しむキャスターから視線を外して、いそいそと立ち上がる。
「おかしな坊やね」
 霊体化したキャスターの忍び笑いを背後に聞いた。



***




 晴れたのだから歩いていくという考えは、早々に改めた。地図の縮尺は適当だったのか、未遠川の川幅から、一時間も歩けばたどり着けると考えたのが馬鹿らしくなるくらい、それは果てしない道のりだった。魔力の探知は全てキャスターに任せているため、歩くことだけを考えて居ればいいのだが、そもそもキャスターとの契約によって、体のどこかにあったらしい魔力は根こそぎに奪われている。最早歩くのも困難なほどに疲弊した志貴は、へとへとになった体をバス停のベンチに預けて休んでいた。
「……情けないわね」
「昨日も言ったろ。キャスターに吸い取られてるせいだ」
「もう契約は破棄できないわよ」
 キャスターの苦い声が聞こえる。苦笑しているのか、どこかしら自嘲を混じらせているが、自分への同情もそれに篭められているのだと気付いた志貴は、バスの時刻表を見るフリをしながら背後を窺った。そうしたところでキャスターの姿は無いのだが、そうしなければならないように感じていた。
「俺にも目的があるんだ。これも昨日言ったと思うけど?」
「聞いてない」
「そうだったっけ」
 我ながら気の無い返事だとため息を一つ。キャスターの姿を諦めて、時刻表に素早く目を走らせる。四時十五分の表示を確認した志貴は「もうすぐ来る」と意味無くキャスターに言って、腰を下ろした。
「目的って?」
 見計らったように、キャスターが尋ねた。意外としつこい性格なのかという疑問を質問にする前に嚥下して、ほうとため息を吐いた。
「妹を助けたい」
 魂が抜け落ちるようなため息を吐いた後、浮かべたのは極端な渋面だった。だが目は野心に燃えるような強いものだった。それに多少なりとも気圧されたのか、キャスターもまた小さなため息を吐いてみせた。
「病気……?」
「似たようなもの、かな」
 それ以上聞くなの思いを背中に滲ませると、何か言いたげな気配を残してキャスターは喋らなくなった。
 視界の片隅に路線バスの車影をみとめて志貴は立ち上がった。小さなブレーキ音を響かせながら停車したバスに乗り込み、手近な座席に座る。平日の午後のバスに人影は疎らだ。疲れた顔の女性と、老人が一人。
 緩やかに走り出したバスに揺られながら、安堵のため息を零した志貴は、悲鳴を上げる頭を窓枠に載せて、流れる風景をぼんやりと眺める。
 深山町はその殆どが住宅地になっているようで、見渡す限りに住居が立ち並んでいる。今風の建物もあれば、夏場に小学生が忍び込んできそうな古めかしい日本家屋まで。しかし何より目を惹くのは左前方──円蔵山を背に構える、なだらかな丘陵に立ち並んだ洋館の数々だった。
「立派なもんだ」
 知らず口にして、それら一々に我が家の場違いな佇まいを思い起こした志貴は、努めて遠くを望まないようにした。ちょっとしたことで屋敷を思い出す自分の卑小さに辟易しながら、しかしのんびりしていられないことを思い出すと、言いようのない焦燥感が体中を這いまわした。それらは痒みとなって全身を覆っていく。掻こうとすれば逃げてゆき、諦めれば寄ってくる。そんないたちごっこ。ところ構わず肉が千切れるまで掻き毟りたい衝動、叫びだしてしまいたい衝動を堪えて、目を閉じた。

「志貴」
 というキャスターの涼やかな声で目を覚ます。ゆっくり走る車窓から覗くあたりの気配は一変していた。鬱蒼と茂る木々が道路の横に林立していて、住宅地の影が薄れている。それに、空が真っ暗だった。
「もう着くわ」
 キャスターの呟きと同時に、到着を告げるアナウンスが入った。
「ありがとう」とキャスターに小声で礼を言って、降車を告げるためにボタンを押す。甲高い音で多少意識が覚醒するのを感じて、車内を見回す。人影は無かった。
「あれ……今何時だ……」
「午後五時というところね」
 体が前に倒れる。バスがブレーキをかけたのだった。代金を払い、バスを降りる。目の前に広がっているのはお山。円蔵山。



Cautionary Warning



 一応の舗装はされている坂をしばらく上ると、やがてめまいがするほどに長い石階段に出くわした。胸のあたりがずんと重くなる感覚を味わいながら、志貴は背後で実体化したキャスターに窺いたてる視線を送った。
「素晴らしいわね。私たちには鬼門よ、これは」
 しかしキャスターはうっとりと遥か頭上、石段の果てを見つめている。鬼門を前にして何がおかしいんだろう、という疑問は口にせず、何度かため息を吐くのみ。次の言葉は予想がついている。
「さ、行きましょう」
「ああ、わかってる。わかってるよ」
 一体どこまで続いているのか。果ての見えない石段を見据え、志貴は投げやりに呟いた。返ってきたのは、目を丸くしたキャスターの「何を怒っているの?」という言葉。
「山道を歩いた挙句にこんな階段が出てきたら誰だって意気消沈するさ」
 もう一度嘆息して、胸のうちに靄った底知れない重みを噛み締めた志貴は、石段に足をかけると、引き摺るような足取りで歩き始める。
「結界、と言えばわかりやすいかしら」
 長い石段を前にしても、まるで萎えた気配のないキャスターが、不意に零した。
「この柳洞寺にはそういったものが張られている。所謂魔を遮断する結界が。魔が侵入するには、この石段を登って真正面から入らなければならない。けれど、これほど霊的に優れた寺ならば、正面からの魔を迎え撃つこともできるでしょう」
「何の話かな」
「私たちにも、その結界は有効だという話よ。けれど、中に入ってさえしまえば、外界とは隔離された一つの世界がある。これ以上無い好条件ね」
 キャスターは歩調を変えず、立ち止まった志貴を追い抜いて歩いていく。それを眺めて、志貴は得心いった顔で何度か頷いた。
 キャスターは魔術師のサーヴァントだ。魔術による攻撃は確かに強力だが、サーヴァントには対魔術という能力を持つものも居る。だから戦闘力で劣るキャスターは、この寺に本拠地を構え、正面からやってくる敵に罠を張ろうとしているのだ。
「うまくいくのか? そもそも、今時の寺ってのは人を泊めてくれたりしないんだ」
「そのときは私の言うことを聞いてくれるようにするだけよ」
「おい、物騒だな。嫌だぞ、そんなのは」
 不穏な言葉を残して、キャスターは苦もなく階段を上がっていく。キャスターの言葉が気に入らなかったのか、こめかみがチリチリと痛んだ。どこかで味わったことのある感覚だなと意識下を模索し、やがて答えを得るのと、キャスターが振り向くのは同時だった。
「しくじったわ、マスター」
「……みたいだ」
 キャスターは青ざめた顔でそう言って、右手に魔力の滾りを迸らせる。大気をざわめかせ、
「──」
 何か、聞き取れない言語で叫んだ。
 それがトリガーだった。キャスターの腕から青白い閃光が薄闇を切り裂いて跳ぶ。それは遥か頭上で、石段を粉微塵に砕き濛々と白煙を立ち上らせた。
「この魔力量、キャスターか」
 瞬間、何か異質なものが──スイッチのようなものが、音を立ててはまったような感覚を得る。キャスターに魔力を携えた掌を押し付けられたときの感覚に似たそれ。つまり
「サーヴァント……?」
 爆煙の中から現れたのは異様な風貌の男だった。
 猛獣を思わせるしなやかな筋肉を、体に張り付くボディスーツのような蒼い服で浮き彫りにし、深紅に輝く双眸は、粗野で豪胆な、やはり獣を想起させるもの。何よりも、針の筵に立たされているのかと思うほど、鋭く刺々しい殺気。
「ご名答」
 胡乱なところなど何一つない、そいつはただ殺すために存在し、今まさにその牙を剥こうとしている。殺気から何から隠さず、表に出したまま。ただ最初から敵と味方としてのみ存在する彼我の関係を、誰よりもよく理解している目。ゆえに、その目は闘争を求め、闊達に過ぎるほど堂々とそこに立ち塞がっている。
 尊大で仰々しい佇まいと、自分を灰すら残さず消し去りかねない魔力の波を真正面から受け止める化け物染みた体力。それを前にして、志貴が萎縮しない理由はなかった。
 その手に握られた一本の武器は槍だった。いたってシンプルなそれが、刃物を好む志貴にはたまらなく魅力的に見え、それは即ち恐るべき業物であることの証明でもあった。
「……おい」
「逃げ切れるかしらね」
 キャスターは諦めたように軽妙な口調で言う。それで絶体絶命を理解した志貴は、懐から鉄塊を取り出した。十センチ強の長方形。
「志貴? 何のまねですか」
「いや、何もないよりはマシかと思って」
 パチンと、鉄塊が音を立てる。長方形はナイフと化し、銀光を煌めかせる。
「勇ましいねえ小僧」
 槍頭から槍把に至るまでの全てを紅蓮に染め上げた槍は、闇に紛れる蒼とのコントラストで殊更異様に見え、月光に照らされるとひどく妖艶に輝いてみせる。背筋を怖気にも似た高揚感が駆け抜けて、志貴は我知らず唇を噛み締めた。
「出逢ったからには一戦交えたいんだが。どうだ?」
 無論、そこに拒否権は存在しなかった。



 ──どうしたもんか。
 ランサーのサーヴァントは前髪をかき上げてキャスターとそのマスターをにらみつけた。
 待ち伏せていたわけではない。柳洞寺の様子を調べろという主の言葉に従ったのみで、向こうから火の中に飛び込んできたのだった。
 本来喜ぶべき戦いのチャンスだった。しかし高揚感など覚えるはずもない。相対するのは魔術も知らないであろう素人で、構えもまた凡庸なもの。武器が短刀ではあるが、そこそこの業物であること以外に、意外性もなければ力もない。何より戦闘において上を取った者の有利は、互いの技術差をひっくり返すほどだが、惜しくも短刀を構える少年はランサーの遥か下に位置取っていた。
 警戒すべきは黒いローブを纏ったキャスターのサーヴァントのみであると判断を下す。先ほどの魔術。流れ矢の加護では防ぎようのない、恐るべき魔力量を誇った一撃だった。
「逃がすつもりはないかしら」
 そのキャスターは諦めたように頭を振って、一応の確認のつもりか訊ねた。
 ランサーは口元を歪めてくつくつと笑い、右手の槍をキャスターに向けて構える。
「当然だ」
 それを合図にして、ランサーは石段を思い切り蹴り付ける。空に舞い上がった体を、慣性に任せてマスター目掛けて飛び掛る。月を背景に逆行を利用し姿を消すと、次の瞬間には志貴の歯を食いしばる渋面が眼前に迫っていた。
「……オレの前に立つ胆力は褒めてやるよ。だが役不足だ。どきな、坊主」
 槍を振りかぶると、慌てて横っ飛びに避けたマスターを通り過ぎ、その背後で右手を掲げたキャスターに槍を突き出す。大気さえ穿つ刺突は寸分違わずキャスターの心臓を目掛けて伸び、赤い迅雷が閃光する刹那。ランサーの槍はキャスターに届く寸前何かに弾かれる。防御魔術と当たりをつけた瞬間にはキャスターの指がパチンと音を立て、その手から膨大な魔力が噴き出した。深紫色の魔力は目が眩むほどに発光しながら、肉薄したランサーを襲う。
 咄嗟に体を捻ると、魔力の弾丸は右わき腹を掠めて石段を粉微塵に砕く。背面跳びの要領で距離を置く。しかし息をつく暇など無かった。着地と同時に背後から襲ってきたのは、つい数秒前に退けた志貴。小さな短刀を、連続して突き出す様は存外に堂に入っていて、思わず「ほう」と唸ってしまう。だがそれはあくまで素人の技。背を見せたままで回避すると、槍把で志貴の腹を打ち、今度は姿勢を低くして階段を駆け下りる。直線距離にして十メートルほどの距離を、瞬きする間に詰めると、眼前にはキャスターの右手があった。
 まともに受けるのは得策ではない。
 その手が魔力を放つ瞬間に飛び上がり、キャスターを飛び越えるとそのまま振り向く。が、振り向こうとした体は、まるでヘドロに絡め取られたように微動だにしなかった。
圧迫(アトラス)
 キャスターの声に反応するように、ゲル状の皮膜に覆われた体への圧力が強くなる。高くは無いものの対魔力を有する体が、張付けにされたように動かない。四肢を折らんばかりに締め付けるそれは間違いなく最高位の魔術。喩えるのなら水牢。
「ッアァ!」
 マスターからの供給とオドの開放でキャスターの魔術を解呪すべく叫ぶ。果たして重圧が僅かに薄れたところで、ランサーは今度こそ振り向き、そして驚愕を上塗りするはめになる。
 無言で間合いを詰めたキャスターが、その手のひらをランサーの額に押し付けていた。収束する紅色の魔力。驚きは焦りへと転化し、更に内部で化学反応を起こしたそれは激しい高揚感を呼ぶ。

 ──最も弱いサーヴァント……?

 敵と認識してなお、そういった偏見を持ち挑んでいた自分が居る。上段に位置するという最良の条件を捨て、己の間合いを捨ててまで戦うという暴挙。より危険を味わおうと、無意識に創り上げたハンディキャップ。だが、考えを改めなければいけない。こいつは、このキャスターは──
「ッハ」
 ──恐ろしく、強い。
 槍把を翻し地面を穿つ。無数に砕けた石ころが舞い上がる。同時に地を蹴り、石礫の牽制を得ながら後退する。魔術光弾がこめかみを掠めるのをゆっくりと流れる視界の中で見据え、四肢をついて地面に降りる。離れた距離は約10段。その気になれば一歩で詰められよう。だがそれも、弓矢隊の一斉掃射もかくやというキャスターの攻撃が無ければの話。
「耐えなさい、志貴!」
 槍を構えなおした瞬間には、キャスターの形振り構わない怒声が飛んだ。矢継ぎ早に繰り出される高位魔術の乱れ撃ち。紫色の攻撃魔術も、ランサーの槍を防いだ防御魔術も、ランサーを捕らえた捕縛魔術も、全てが全てあわや魔法という威力の数々。その過負荷に、見たところ魔術の一つも使えないらしいマスターの体は悲鳴を上げているのだろう。
 無論、ここで手を休める愚を、あのキャスターが犯すとも思えない。手を休めれば、ランサーの容赦ない一撃が命を刺し抜く。
 マスターが倒れるのが先か、キャスターの魔力切れが先か、はたまたランサーが魔術の前に屈するのが先か。
 滅多矢鱈と打ち出される魔術を、人間離れした動体視力と身体能力で避けつつ、ランサーはじわじわと一段ずつ階段を上がっていく。マスターの姿が見えないことに注意しながら、サーヴァント最速の名のまま、縦横無尽に飛び回る。
「まるで蚊トンボね」
 焦れたキャスターの息はあがっている。たった一言で高位魔術を放てるとはいえ、魔力には限りがある。境内には多少のマナもあるだろうが、この石段ではマナの供給は望めない。多く見積もっても残り十発程度。この猛攻を凌ぎきれば、ランサーの勝利は揺るぎ無いものになる。
 思考する間にも強力な光弾がランサーを襲う。だが確実に一発一発を避け、キャスターの魔力は激減していく。そしてとうとう、キャスターの体から輝きが失われる。
「勝負あった……というところか。なかなかに楽しめた」
 荒い息を吐くキャスターを睨み上げ、階段を上る。キャスターは懐から怪しげな形の刃物を抜き、ランサーに突きつけたまま立ち尽くしている。その短刀も魔術的に優れたものではあるが、万策尽き果てた態で佇むキャスターを見れば、それが起死回生に足る代物とは思えない。
「まだ、負けてない」
「ハ。臭い女かと思ったが、気に入った。つくづく惜しいが……これも仕事だ。殺せる相手を見逃せるほど余裕ぶってる場合でもない。ここで終わってもらうぞ、キャスター」
 気丈ににらみ続けるキャスターを深紅の槍の射程に捕らえ、ランサーは腰を落とした格好で構える。肩で息をするような手合いを相手取れば、万に一つの敗北もありえない。構えたまましばらくキャスターを見据えていたランサーは、小さな物音を聞いて振り向く。
「いい根性してやがる」
「逃げなさい……」
 ナイフを構えたキャスターのマスターが、そこには立っている。逃げるほどの根性無しがマスターになるとは思えないが、サーヴァント相手にここまで接近する間抜けなマスターがいるとも思えない。ランサーは湧き上がるおかしさを堪え、努めて鋭い眼光を遠野志貴に向けた。
「死ぬか?」
「キャスター!」
 言って、突き出した槍は背後に向けられたものだった。鮮血が舞いあがり、音もなく胸を刺し穿たれたキャスターが倒れる瞬間、憤怒の形相を浮かべた遠野志貴がナイフを突き出した。



 理解に苦しむ。まるで漫画だとごちて、志貴はふらつく体を雑木林に紛れ込ませた。夕闇を切り裂く紫色の光弾。精々軌跡を追うので精一杯のそれを、信じられない足捌きで縦横無尽に跳びまわって避けるランサーのサーヴァント。それはまるっきり異次元の闘いであり、志貴に立ち入る隙などあるはずもなかった。
 二体のサーヴァントを見ていると朧げに浮かぶイメージ。それは、恐らくキャスターが言っていたサーヴァントの性能。直感にも似た刹那的なイメージではあるが、キャスターはランサーを相手に大きく後れを取っているように思えた。キャスターがランサーを上回るのは魔力を放った瞬間のみ。脳内に閃光のようなものが爆ぜ、キャスターの薄くにごった灰色のイメージが、瞬間的に赤く染まる。対してランサーは、常時青白い閃光に包まれている。それは手を出してはいけない象徴であり、視ているだけで怖気の走る異様な力。
「これが、サーヴァント」
 これほどの闘いは見たことが無い。ここまで大々的な、いかにも魔術ですといった具合の攻撃を見るのも初めてなら、ランサーの機動力は志貴の知るエクスキューターを遥かに上回っていた。
「出鱈目だ」
 呟いて、雑木林の急勾配を下る。キャスターの魔術一発で、志貴の体からは何かがごっそりと抜け落ちていく。マシンガンのように乱射されている魔力は、とっくに志貴を昏倒に追いやっても不思議ではないのだが、志貴にも常人とは異なる点がいくつもあった。そもそも、志貴の生命力は約二人分である。
 再び石段に出る。見上げれば、頽れたキャスターに、ランサーが槍を突きつけている。サーヴァント中最弱。キャスターはそう言った。その状況を覆すために、こうして柳洞寺に赴いた。だがランサーに見つかってしまうという失態。キャスターは既に聖杯戦争を絶望視しただろう。けれど、キャスターは素晴らしい。自分と彼女の組み合わせは、恐らく何者にも勝る。
 体は綿毛のようだった。力は通常の何倍もあった。恐らく肉体は鋼と化している。逃がすために掛けた魔術なのだろう。志貴はキャスターに、自分の能力を語っていない。人間の領域を超えた、馬鹿げた、身に余る魔眼を語っていない。
 それは、人を殺す覚悟がまだ決まっていなかったから。だが、サーヴァントという連中を見れば、それが青二才の戯言だと知れた。殺さずに切り抜けられるほど、甘い世界ではない。仮にも戦争の名を戴くこの生き残り合戦に、生存の二文字は勝利以外ありえない。そう、実感させるほど、二人の戦いは常軌を逸していた。ならば、志貴も覚悟を決めるときだった。何のために屋敷を飛び出してきたのか。己を殺す覚悟くらいはあったはず。ならば、希望のために修羅にでも成れ。
 だが、魔眼だけではサーヴァントには敵わない。それは、最初の突進で身に刻みこまれた。横っ飛びでかわしたはずが、翻った槍頭に左腕を切り裂かれている。身体能力に絶望的なまでの差がある。だが、キャスターの魔術で、志貴の体は格段にレベルアップしている。この体と魔眼があれば、或いはサーヴァントと対等に戦い得るかもしれない。
 志貴は眼鏡を外し、懐にしまう。今まさにキャスターを貫こうとしているランサーの背後に忍び寄り、頭痛に耐えながら、その背中を直死の魔眼で視た。
「いい根性してやがる」
 振り向いたランサーの眼光に、思わず立ち竦む。紅蓮に燃える瞳とは裏腹な凍て付くような殺気。それをじっと見返して、奥のキャスターを窺った。
「逃げなさい……」
 ごめんなさいと聞こえたのは、恐らく錯覚ではない。不甲斐無い自分を嘲っているのだろう。だがそういうわけにはいかない。
 役目を終えようとしていたキャスターを無理に連れ帰ったのは志貴だった。ならば、志貴が謝ることこそあれ、キャスターに謝られる筋合いは無い。元よりダメで元々。捨てた命でもある。その自分の夢の肩代わりをしてくれるという彼女。ここまでくれば一蓮托生だとばかりに腰を落とした。
 それを宣戦布告と取ったのか、露骨にランサーの殺気が燃え上がる。
「死ぬか?」
 絶対零度の眼差しは瞬時に地獄の業火の如き火力で志貴を焼く。そして目にも留まらぬ速さで飛んだ槍は、
「キャスター!」
 キャスターの胸を抉っていた。
 赤い、奇麗な鮮血が吹き上がる。月明かりを浴びるそれがランサーの背を汚し、飛沫のいくつかが志貴の顔に音を立てて飛んだ瞬間、脳と脊髄でスイッチが入るのを感じる。風を受けるだけでも痛みを覚えそうなほど神経がむき出しになり、五感が鋭敏化する。
 気付けば、槍を相手どってナイフを振るうという暴挙に出た自分が居て、その結果に双眸を凍りつかせたランサーが居た。

 それは言ってみれば奇跡だった。ランサーが返す刀で突きぬいた槍は、凡そ目視できる速度ではなかった。研ぎ澄まされた脳が幼い頃の拙い研鑽を思い起こさなければ、勘だろうと何だろうと避けることはできなかった。志貴の一閃は容易く槍の一撃に弾かれた。だが、槍が肉を抉るタイミングから、コンマ秒をさらに十分の一秒だけ早く体を倒していた志貴は、シャツと背中の薄皮を貫かれるのみで済んでいた。喩えるのならば、それは横に奔る紅蓮の稲光だった。或いは神の鉄槌だった。
 しかし、その力に驕るランサーではない。回避されたのならばと第二第三の刺突を繰り出すべく体を反転させ、しかし青々と輝く志貴の瞳を見て、一瞬だけ全身を凍りつかせたのだった。遠野志貴という人間に与えられた神殺しの魔眼。それに、己の先祖の姿を照らした英霊は、ほんの僅かに力を抜いてしまった。それは奇跡だった。
 魔術による身体能力の向上ゆえか。はたまた過剰分泌されたアドレナリンの為せる業か。酷く緩慢な動作で動く自分の体を知覚しながら、静止したランサーの頭部に走っていた黒い線目掛け、ナイフを突き出した。
 しかし、ランサーは首を捻ってそれを難なく避ける。渾身の一撃はランサーの首を掠め、ルーン石のピアスに、吸い込まれるようにして突き立てられた。
 音も立てずに切断され、落下するピアス。その異常性に気付いた瞬間、ランサーは一息に間合いを開けていた。
 地面を転がるピアス。黙ってそれを見つめたランサーは、憤怒の形相で志貴を睨み付けた。
「この勝負……預けるぞ」
 泣いているのかと、ランサーの表情を見て思った。しかし、目尻は怒りによって痙攣し、槍を握る拳はわなわなと打ち震えている。ランサーが地面を蹴ろうとした瞬間に、志貴はその表情の意味に気付く。怒りではなく、あれは屈辱に耐える瞳なのだと。
「なんで退くんだ。いや、退いてくれるのは嬉しい。けど、何で退くんだ。おまえなら俺を殺すくらいワケないだろ」
 ランサーは踏みとどまり、槍をその手からかき消す。
「マスターの命令ってヤツだ」
 おどけたような口調で言うが、まさかそれで隠しているつもりなのか。そう訊ねようとしたが、言う間も無く意識が霧散していくのを感じた志貴は、キャスターは平気だろうかと視線を動かし、階段を上ってくる見知らぬ人影を見た。
 ──人に見られる。
 倒れてはまずいと理性ががなる中、しかし過負荷に晒されて完全に落ちていく意識だけは、どうすることもできなかった。





 宗一郎が連れ込んだ二人は暴漢に襲われたとの事だった。円蔵山でそのような凶行に及ぶ、あまつさえ宗一郎の肉親を襲うなど万死に値すると一成は猛ったが、無事だったのだからそれでいいと言われてしまえば、それ以上口を出すことも出来なくなり、手持ち無沙汰に本堂脇の小部屋に向かった。
 この部屋には必要なもの一式が揃っている。言って見ればキッチンで、冷蔵庫の中には常に新鮮な野菜や果物、精進料理の具材が所狭しと並べられている。
 一成は棚の上に置いてある茶筒を手に取り、シャカシャカと振り、中身を確認する。茶葉の新鮮な匂いに頷いて、それを急須に注ぐ。やかんに火をかけ、腕を組んで待つ。待ちながら、一成はふとした疑問を口にした。
「天涯孤独の身だと言っていたが……」
 葛木宗一郎は読めない男ではある。だが、その心根は大樹のように真っ直ぐな、直刃の剣だ。自身に正直に生きる人なのか嘘は言わないし、人を騙そうとしない。或いは自分をひた隠しにする性格なのだろうか。どちらにせよ、既婚者であることを隠すような人ではないのだ。
「恥ずかしがりでもしたのだろうか。いやまて、そんな莫迦な……」
 ぶんぶんと頭を振り、生徒会室での何気ない会話なのだからと自身に釘を刺すと、やかんがコポコポと音を立てていることに気付く。急須に湯を注いで、湯飲みを三つと急須を盆に載せる。
「宗一郎の家族ならば、問題は無い……か」
 廊下を音も無く歩き、三人が待つ部屋の襖を開ける。部屋の中は変わらない。葛木が座り、敷かれた布団に女性と少年が死んだように眠っている。その光景に吐き気を催しそうになったが堪え、一成は葛木に茶を渡した。
「すまない、柳洞」
 葛木が頭を下げる。
「先日は殺人事件があったばかり。どうしてしまったのか、この街は」
 噛み締めるような一成の言葉を、葛木は茶を啜りながら黙って聞いている。
「……独りにしてくれ」
 やがて一息ついた葛木は、厳粛な口調で言った。配慮が足りなかった自分に気付いた一成は、ペコリとお辞儀をして、再び部屋を後にする。窺った空はとっくに真夜中を迎えていた。








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