「セイバーは生きてる」
 炒飯を平らげ、すっかり牙を無くした志貴が言った。士郎はテレビのリモコンを持ったまま硬直した。早朝番組が茶の間の空気も読まずに能天気なキャスターの声を響かせる。
 凛は目を瞬かせて、志貴の言葉を吟味した。
 嘘をつく理由はない。セイバーが生きていると言えば士郎は止めても飛び込んでいくだろう。現に殺気立った目が志貴を射抜いている。
 だが、志貴がわざわざ士郎を巻き込むとは思えなかった。つい先刻を思い出せば、志貴は明らかに一人でギルガメッシュに立ち向かおうとしていたのだろう。士郎が止めなければ、今頃志貴はただの肉塊になっていたはずだ。
士郎の言葉で正気に戻り、士郎を巻き込もうと画策したのだろうか。だが、凛には志貴がそこまで狡猾に思考できる人間だとは思えなかった。そんな冷徹な真似ができるなら、学校で危険を押してまでキャスターを撤退させるはずがない。それに、士郎の無力は先日志貴もその身で味わったはずだ。双剣を手に立ち向かい、一太刀も浴びせられず無様に蹴り飛ばされた士郎に、一体何を望むというのだろう。
 囮にでもするのか。あの夜はバーサーカーを餌に隙を作り、セイバーを攫っていった。そういった戦術が志貴には必要だ。身体能力では決して追いつけない故に、奇策に頼る。確かに士郎でも囮にはなるだろう。だがそれだけで勝てるような相手ではない。
 無数の刀剣による波状攻撃と、エクスカリバーの圧倒的な力を片手間程度に吹き飛ばした宝具。
 それを前に人間一人が作り出す隙など、余りにも小さい。巨象にアリが挑むようなもの。倒そうと思うなら、数万の軍勢でも率いなければならないだろう。
「それで、あなたは一人で戦うつもりなの? わたしはアーチャーを失ったし、衛宮くんもセイバーとは契約が切れた。言うまでもなくわたし達は脱落者よ」
 細々考えていた頭が吹っ切れた。凛は単刀直入に訊ねて、志貴の反応を待つ。包帯の向こうで眼球が動くさまは、お世辞にも気持ちのいいものではなかった。
「イリヤが死んだ」
 求めた答えではなかったが、昨日の展開としては予想通りだった。
 バーサーカーもイリヤスフィールの姿も無かったのは、脱出したのではなく、跡形もなく消されてしまったということなのだろう。イリヤスフィールもこの戦争に身を投じたからには、覚悟の上だったのだろうが、やり切れない気持ちが胸に渦巻く。
 魔術師の外見ほど宛てにならないものは無いが、白く小さな体が無数の剣に突き刺され、バーサーカー諸共消し炭になった光景など、想像したくもないものだ。
「虫けらみたいに死んだよ、イリヤは。口も目も開いたまま、何が起きたのかワカラナイって表情で。ちっちゃな腹にバカみたいにでかい剣を突き立てられて。俺のせいでイリヤは死んだ。だからアイツは──」
 言葉を区切ると同時に眼球の動きが止まった。じっと、こちらを注視している気配が伝わってくる。我知らず生唾を飲み込んだ自分に気付いて、凛は小さく舌を打った。
「殺す」
 有り触れた言葉だ。ドラマや映画なんかでは良く聞くセリフだし、クラスメイトはふざけ半分で口にする。
 言葉の重みくらいは理解しているつもりでいた。仮にも魔術師だから、生死とは無縁ではない。クラスメイト達より余程近い場所にいる。魔術行使で死にそうになった経験も一度や二度ではない。だから、殺すとか死ぬという言葉の重みも知っていた。逃げ出した志貴を殺せとアーチャーに命じたとき、志貴の全てを背負う覚悟で告げた。
 そんな覚悟が全て吹き飛ばされた。
 志貴が殺すと言った。それだけで体が硬直してしまうという現象は、到底理解できない。直視されていたら、本当にそれだけで死んでしまいかねない重みがあった。
 魔眼をどうやって手に入れたか質問したときの答えを思い出した。昨晩見た胸の傷を思い出した。
 あの傷を見るまで、『死んだから』という答えは臨死体験程度のものだと思っていた。それが間違いだった。遠野志貴は間違いなく一度死んで、死の淵ではなく、正真正銘の地獄から這い上がってきた人間なのだ。
 本当に、たった一人でもギルガメッシュを殺してしまうのではないかと、一瞬思った。だがそれは錯覚だ。人では決して届かない。志貴の殺すという言葉も、ギルガメッシュの前では戯言に過ぎない。
「だから、一人だろうとアイツとはもう一度戦う」
 それが質問の答えだと気付くのに数秒を要した。
「でも、それじゃあ妹はどうするの。妹を助けたくて聖杯戦争に参加したんでしょ。なのに玉砕覚悟じゃ本末転倒じゃない」
 志貴の表情が強張って、仄暗い感情の一部を纏ったように感じたのは、気のせいではない。
「どの道、俺はもう長くない」
 包帯で隠されていても、もうこちらを見ていないとわかった。凛の肩を越えて、遠くを見据えている瞳は一体何を幻視しているのか。赤い髪の妹かもしれないし、白い肌のイリヤスフィールかもしれない。どちらにしろ遠い瞳の中に自分は映っていないと確認した凛は、えもいわれぬ焦燥に焼かれる感覚を味わった。
 その包帯の奥に隠した目で、一体どんな世界を見ている。
 瞳と一緒に隠した心で、何を感じている。
「ケジメをつける。女の子を見殺しにしたなんてこと、妹には言えないから」
 『長くない』と事も無げに言った顔には、仄暗い感情さえ戻らなかった。その一瞬だけ落ち窪んだ感情が、死への恐怖だったのかと遅ればせながら気付き、愕然とした。
 勝手に七夜の暗殺者と決めてかかり、直死の魔眼のキャリアだから死を平然と受け入れているのだと決め付けていた。
 直死の魔眼など、原始時代に書かれたような魔道書に名前を見る程度。今では噂話さえ聞かなくなった魔眼。昨晩の尋常ではない奇行に、その理由を見たような気がした。
 直死の魔眼自体はこれまで何人かのキャリアが現れていたのかもしれない。だが、人の理解を超越する力に飲み込まれ、その悉くが発狂してしまっていたとしたら。世間にその存在を知らしめる前に死に絶えてしまっていたとしたらどうか。
 ならば忘れられて当然であり、キャリアが世に出ないのも当然だ。故に、志貴の存在は奇跡なのだろう。直死の魔眼を抑え付けられるほど優れた魔眼殺しを手に出来た。それだけが、他のキャリアと遠野志貴を分かつ奇跡。
 この推察が正しいとすれば、遠野志貴が恐れるのは死だ。目を開けば見えてしまう世界に恐怖する。自己を埋め尽くそうとする力に必死で抵抗する。魔眼殺しの眼鏡をつけ、自分を騙して生きてきた。
 死を知っているから死を恐れない。そんなのは嘘っぱちだ。身近にあればこそ、恐怖して狂いそうになる。死が纏わりつく生活で、どうして死を受け入れられようか。
「ご馳走様。炒飯美味かった」
 食卓に置かれたナイフを懐にしまって、志貴が立ち上がる。卑屈な笑みを刻む顔が、引き攣っている。それで志貴の容態を思い出した凛は、部屋を出ようとする志貴を追うように視線をずらし、途中で止めた。テレビ画面に表示されたテロップ。そこに全ての神経が注がれる。
『県冬木市で起きた集団失踪事件の──』
 志貴もまた、足を止めていた。





Dead Eyes See No Future




 昨晩

 心臓が鼓動する。一度二度。合間にもう一つ。
 常闇に置き去られた体は鋭敏になり、同化していた別の生き物の鼓動さえ感じ取ったが、桜にそれを聞き分けるだけの気力は無い。それを虫の鼓動と理解する頭は既に無く、何かが鳴っているなと認識するに留まっていた。
 五分前、間桐桜は三つ目の魂を取り込んだ。赤色の魂は密かに好意を抱く少年と似通った、愚直なまでに一直線に伸びたものだった。だがその美しいカタチを愛でる間もなく、桜は体内に響く警鐘によって意識の糸を断たれようとしていた。
 その更に三十分前、二つの巨大な魂を取り込んでいたのが原因だろう。赤銅色に燃える魂と、見知った魂。赤黒く、それでいてどこかに清らかさも持つ魂は、ライダーのもの。それが汚れきった体の中に入り込んできたときに、桜は考える頭を捨てた。
 憎い。
 感情が染まりきった。湯を張った湯船に入浴剤を入れるのに似ている。無色透明だった湯が一瞬でどす黒く染まっていく様は圧巻だ。それを成すすべなくどこか遠くで眺めながら、桜は決して屈するまいと歯を食いしばった。
 脳が生きることを放棄しようとしても、体だけは抗い続ける。ただ無闇矢鱈と叫ぶことで、『わたしはここにいる』と誰かに知らせる。言うなればSOSの信号だった。
 誰かがきっと助けてくれる。
 そんな希望が、この常闇に放り込まれたときからあった。
 憮然とした顔で料理を教えてくれるあの人。
 この世でたった一人血を分けた苗字の違う姉。
 きっと助けてくれる。ここで苦しんでいるわたしを知ったら、二人ともきっと助けてくれる。
 心の底から信じているのに、二人の顔が思い浮かばなかった。モザイクがかかったように歪で朧。だというのに、名前も知らない男の顔だけははっきり鮮明に思い出せた。冷たい目をしたライダーの仇。シキ。確かそんな名前の男。
 考える頭など無くなったと思っていたが、シキのことだけは鮮明に思い出せた。自分を真っ黒に染めた何かが、それだけは忘れるなと忠告してくれているのだろう。だが、殺せという命令は聞けない。決して耳を傾けてはいけない。
 シキは憎い。ライダーを虫けらみたいに殺して、平然と話しかけてきたシキが憎い。憎くて憎くて発狂してしまいそうだったが、ここで感情に流されてはお終いだと、最後の理性ががなり立てていた。
 叫んで叫んで、声が出なくなった。一体何時間叫び続けたのだろう。喉は切りつけられたように痛み、舌も痺れている。枯れ果てた喉とは裏腹に、心を染めた何かの勢いが増してくるのを感じた桜は、気力を振り絞り、声を上げるために部屋に溜まった重苦しい空気を吸い込む。
「これはこれは、私もまだまだと見える。想像の遙か上を行く結果だ……。正規の器を失ったのは痛手と思ったが、成る程これならば、間桐マキリのご老体に感謝の一つもすべきか」
 部屋に橙色の光線が伸びたのはその時だった。
 この二日間頑なに閉ざされていた扉が開かれたのだと気付き、桜は立ちはだかる長身の向こうに、精気の抜け切った顔を向ける。
 明るい世界があった。西に傾いた陽が中庭の向こうから部屋を照らし上げて、眼が眩むほどの光を与えてくれる。桜は咄嗟にその光を貪るように手を伸ばしたが「良く砕けてもいるな。間桐桜、まだ人か?」の声に、何故かいけないことを見咎められた気持ちで、全身を震わせて手を引っ込めた。
 恐る恐る、救い上げる視線を扉を開け放って立つ男に向けると、言峰綺礼は笑みを湛えて桜を見下ろしていた。桜がこれまで見たどの笑顔よりも澄んでいた。どこまでも純粋に、桜の存在を歓迎してくれる笑み。
「何を恐れている」
 その声があまりにも優しかったので、桜は視線を外すことを忘れた。決して見てはいけない魔性の瞳と、真正面から見詰め合ってしまった。
「解き放て。それはおまえ自身。自身にさえ恐れられては、ソレは哀れな出生を抱くことになる。祝福の心を持て。産まれいずる者に憐愛の情を以って接せよ。さすれば永久に安寧が訪れよう」
 言峰は一歩踏み出して、手のひらを掲げて言った。背中に抱いた陽光のせいもあるのか、桜には神父が尊いもののように感じられた。
 解き放つ。この黒いものを解き放つ。そうしたらシキは死ぬ。これにはそういう力がある。悉くを破壊し、それでも止まらない力がある。シキを殺せと、神父は言っている。
「憎い者。愛しい者。すべてに向けておまえの心を解き放て。私は母たるおまえを愛そう。子たる存在も愛そう」
「わたしを、愛す?」
 神父の硝子球のような瞳が、頷くように閉じられた。



***



 シキ。
 その名に覚えがあった。ランサーが口にしたのか、或いは噂話でも小耳に挟んだか。ランサーの襲撃を退け、アーチャーとセイバーの包囲から脱出し、バーサーカーと手を組み、つい数時間前にはギルガメッシュと戦って生き延びたという魔眼の少年の名だった。
 稀有な魔眼への興味は絶えなかったが、今はそれより余程興味をそそられるモノが在る。その二つの材料を混ぜ合わせ、更に弟弟子の因縁も混ぜてやれば、極上の喜劇となろう。
 言峰綺礼は濡れた瞳を向けてくる少女を、じっと見下ろした。
 ──ライダーを討たれ憤っている、か。
 言峰は吊り上げた頬を尚余分に引き上げ、心底から笑った。
 間桐桜はその極上の喜劇の中心人物となった。現に、これほど可笑しいことはそう無い。幼少より親元を引き剥がされ、マキリに明け渡された生贄が、陵辱に次ぐ陵辱を受けてきた身が、事もあろうに聖なる杯に成るとは、神でさえ予期しない出来事だったのではないか。
 天啓も無く。黒き聖杯に仕立て上げられた聖女。オルレアンの少女とはまるで逆さまなその誕生を、言峰綺礼が祝わずして誰が祝うというのか。
「すべてはおまえの思うがままだ」
 瞼をおろし、囁くように言った。らしくもないとは思ったが、この事態に興奮せずして、言峰綺礼の人生に興奮は有り得ない。生まれつき天邪鬼であることを運命付けられた言峰の、唯一にして絶対、最上級の娯楽が目の前に転がっている状況。
 ならばもう一つ趣向を凝らしてみようと瞳を開けば、間桐桜が口を開く瞬間だった。
「先輩は、無事ですか」
 そう来るか。
 言峰は内心の愉悦を露ほども見せず、天の采配に感謝する。最早真っ当な意識など無いだろうに他人を気遣う言葉。
 如何に切り出そうかと考えていたのだが、そちらから来てくれるのならばこれほど楽なことも無い。
「衛宮士郎か──ヤツはサーヴァントとの繋がりを失った。だが安心しろ、生きている」
 縋るような視線をしっかりと見据えた。
「今頃は、アーチャーを失った遠坂凛と傷を舐めあっていることだろう」
 これにて、磐石。
 間桐桜が瓦解する音を聞きながら、言峰綺礼は声にならない哄笑をあげた。



***



「失踪……だって?」
 志貴は頭痛で朦朧とする頭を振って、確かに冬木市と発せられたニュースキャスターの言葉を聞いた。
『──られた多数の捜索願から露見したもので、行方不明者の数は四十六名。いずれも午後八時から午前零時以降に家を空けていたとのことです。県警では急遽対策チームを編成し、行方不明者同士の関係を調べると共に、周辺海域の厳重な警備を海上自衛隊に要請しました。前例の無い事件ですね』
『そうですね。行方不明者の年齢も、六歳の少年をはじめとして、十代の男女から五十代の男性とまちまちです。更に、政治的問題に発展する可能性も無いとは言えませんから、捜査も難航するでしょうね』
『一刻も早い無事発見を願います。それでは次の──』
 世を賑わす拉致問題の魔の手を憂慮する者がこの場にいるはずが無かった。四十六の人間が、優秀と言われるこの国の警察機構を欺き、誰にも気付かれず、それも聖杯戦争が執り行われているこの街で消え去ったというなら、それは隠匿された秘術の仕業に他ならない。
 誰も知らない、知りえない。だが確実に在る力。魔術と呼ばれるそれならば、使いようによっては神隠しの真似事も可能だろう。無いハズのものを有ると思わせた異端狩りの女性ならば、事も無げにやってのけるに違いない。
 無論、魔術師キャスターのクラスに身を置く彼女メディアならば、そんなことは片手間程度に済ませるはずだ。
 凛の訝る視線を真正面から見つめ返し、
「キャスターじゃない。アイツはもう、そんなマネはしない」
 と断じ、拳を握り締めた。
「ごめんなさい。失礼だったわ」
「……いや、前例があるから仕方ない。俺だってアーチャーかセイバーが似たようなことをしてたら、疑って掛かる。だから気にしないでいい。で、君がキャスターを疑うってことはこれ、聖杯戦争が関係してるんだな」
「まず間違いない。四十六人なんてね、いくらなんだって無理があるでしょ。変な宗教にハマってたってんなら有り得ない事も無いけど、生憎そんなものの存在を許すほど遠坂は甘くない。ふん、簡単には隠居させてくれないってワケ。やられっ放しは癪だしね。わたしの街でこんなふざけたコトをするなんてのが自殺行為だってコト、教えてあげなきゃいけないみたい」
 凛は鋭くブラウン管を睨みつけ、顔も判らぬ犯人に宣戦布告する。
「──ふざ、けるな」
 士郎は憤りの声をあげて、強く歯を噛み締めていた。歯軋りは奥歯を砕きかねない音をあげる。憤怒の形相で立ち上がった足で窓際に進み、障子を開け放つ。その向こうに仇敵を見出すべく、薄く灰色掛かった瞳がじっと一点を見つめていた。
 志貴はその光景を音によって認識し、再び居間に足を踏み入れた。
「えっと、志貴──さん?」
 凛が言いづらそうに名を呼ぶ。
「志貴でいいよ」
「そう、なら志貴? 提案があるんだけど」
 変わり身に苦笑しつつも、聞く体勢を整えた志貴は手のひらを返して促した。
「どうせイリヤスフィールの敵討ちをするつもりなんでしょ。だったら敵討ちの成功率を少しでも上げるために、手を組まない? 犯人と金ぴかが無関係なら、そこで別れればいい。楽なものでしょ。わたしは冬木のセカンドオーナーとして、あなたは復讐者として、利害が一致する間だけ手を組む」
「俺と、君が? 犯人は十中八九ランサーかあの金色のマスターだと考えた方がいい。となると敵はサーヴァント。俺と君が組んだところで高が知れてるんじゃないか。それに、アーチャーは負けたんだろう。俺の責任ともいえる。そんな俺に、君は背中を任せられるか?」
「甘く見ないで。自分の不手際を責任転嫁するほど弱くないつもりよ。幸い、あなたには二つも貸しがある。アーチャーの犠牲と引き換えに命を助けてあげたっていう貸しと、助からない傷を癒してあげたっていう貸し。あなたがその事に罪悪感を少しでも感じてるっていうなら丁度いいわ。アーチャーの代わりに、あなたはわたしに使役される。そういう交渉」
「そういうのは提案でも交渉でもないよ……脅迫って言うんだ」
 あまりに強かな物言いに面食らいつつ、その強さに感服した。凛は「そぉ?」と笑って、怒りに打ち震える心を胸の奥に隠した。
「判った、協力しよう。けど、邪魔だと思ったらすぐに切り捨てるから覚悟しておいてくれ」
 凛は一瞬眉根を寄せたが、すぐににたりと邪な笑みを刻んでみせた。
「ふうん、心配してくれるってワケ」
「セイバーが生きてるってのは本当なんだな」
 窓の向こうに視線を向けたまま、士郎が言った。
「きっと生きてる。キャスターと繋がってるラインに違う色が混じってるから、きっと」
 確証に近かった。キャスターとの繋がりは、今にもプツンと音を立てて切れてしまいそうなほどにか細い。か細くなりすぎて薄まったキャスターの気配の中に、これまでは塗り潰されていたセイバーが露出してきた。契約主を通り越し、志貴にまで到達しようとするセイバーの力はつまり、セイバーよりもキャスターの方が窮地にあるということの証明だった。
「判った。なら──」
「ちょっと、衛宮くんはまだ体が」
「駄目だってのか……」
 歯軋りが聞こえた。
「アーチャーの正体を知って、セイバーを奪われて、街の人達が攫われて、おまえ達がセイバーでも勝てなかった相手に挑もうとしてるってのに、それまで見殺しにしろっていうのかよ遠坂ッ!」
 怒号が耳を劈く。凛は目を見開いているのだろう。これまで衛宮士郎が強く抵抗してきたことが無かったのか、それとも何かやましいことでもあるのか。凛は口を噤み、茶の間には決壊したダムを、成すすべなく見つめるしたような空気が流れていた。
「遠坂を死なせてたまるか。セイバーを死なせてたまるか。そこの遠野志貴だって、死なせてたまるか。貫いてみろって、大嫌いだったアイツに言われた。だから考えた。夢の中でも考えた。無い頭振り絞って、俺に出来ることはなんだって……考えた」
「衛宮くん……?」
 泣いているのか。と、凛の声音から想像した。
「戦うだけだ。みんなを傷つける物を、絶対に倒すために戦うことだ。邪魔なら囮にでもして捨てればいい」
 ク、と志貴が笑いを零す。いつだってそうだ。自分の周りにはこういう頑固者しか現れない。妹も、二人の使用人も、先輩も、あの義理の兄でさえ強固な意志で武装していた。一つの信念を貫く者は強い。
「わたしは別にあの金ぴかに挑もうってわけじゃない。確かに八人目のサーヴァントなんてインチキは認められない。けどそれは言峰の仕事でしょう。だから、わたしは四十六人を連れ去った犯人を捜す」
「同じことだ。これにサーヴァントが関わってることくらい、俺だって判るんだ」
「けど──」
「よろしく頼むよ、衛宮君」
「士郎でいい。よろしく頼む」
 凛の鋭い視線を受け流しながら志貴が右手を差し出すと、力強く握り締められた。
「志貴、あなた衛宮くんの容態わかって……!」
「じゃあ凛ちゃん。俺は夜まで眠らせてもらうよ」
「りん、ちゃ……コラ!」
「士郎君、布団と服は借りていいかな」
「ああ。調子悪そうだからな、しっかり眠ってくれ」
 顔を真っ赤にして怒鳴る凛の相手はせず、壁に手をつきながら廊下を歩く。ふらつく足を気合で制御して、来たときとは逆に歩く。
 冷えた板張りの廊下。歩くと軽く軋む床。木造家屋独特の匂いを嗅げば、包帯を外してしまいたい衝動に駆られたが、それでは昨晩の二の舞だ。
「どういうつもりなのよ。衛宮くんの力は、あなただって知ってるでしょ」
 追いかけてきた凛が叱り付けるように言った。志貴は振り返らずに、ほう、と小さな溜息を吐いた。
「あそこで切り離しても一人で突っ込むだろ、士郎君は。だったら君が守ってあげればいい。大事な人は、守らないといけないんだから」
 俺が言えた事ではないなと、志貴は忸怩たる思いで唇を噛んだ。
 止まれないところまで来てしまった。安易な気持ちで奇跡に縋ったために、もう二度と妹の顔を見ることも叶わない。
 遠野志貴の命は長くない。昨晩の奇行で、嫌というほどに実感した。
 どんなに頭痛が酷くとも、この目を潰してしまおうと思うことは無かったのだが、魔眼殺しが駄目になった途端にこの体たらく。
 頭にナイフを突き立てられ、骨を貫通したソレが脳みそをかき混ぜる痛み。脳髄を侵そうとする魔眼が、好機を得たりと大暴れしているのが目に見えた。生憎、志貴には魔眼の暴挙を押さえ込む自信が無い。
 座して死を待つ。それを風雅だと感じるはずが無い。諦めようとしている無様はどう繕うとも無様であり、己の眼を潰そうとする行為は無様以下の外道でしかない。逃げの一手など遠野志貴は取ってはならない。様々な因縁との決着を、一年前につけられなかったとき、それは既に決まっていた。
 逃げることもできず、立ち止まる時間は無い。
 キャスターを救い出し、イリヤの仇討ちという大義名分を得て、死地を求める自分はあまりにも惨めだ。
 仇討ちを完遂できる確立など限りなくゼロに近く、そもそも仇討ちで救われる者があるはずもない。それでも立ち止まれないというのなら、それは遠野志貴のエゴ。もう前進も後退も叶わなくなった体が、せめて栄えある死を求めて蠢くのみ。
 かつて目の前で塵と化したクラスメイトと同じ、彷徨う死者リビングデッドに他ならない。
「昨日はありがとう。目を潰したら、敵討ちどころじゃなくなってたな」
「気付いてたの?」
「ぼんやりと、ね」
 遠くから自分を見下ろしていた。志貴ではない志貴が体を動かして、薄汚い眼窩ごと眼球を抉り出そうとする光景。もう戻らない蒼い瞳が天井に浮かぶ志貴を睨んでいた。
 何故そこにいる。逃げるのか、と。
 
 ──俺はおまえを逃がさない。

 そう告げられて、恐ろしくなった左腕が動いた。そんな目玉はいらないと、ランサーの突きさながらの速度で落ちた。
 そんな光景が、起床したとき記憶の隅にあった。
「魔眼殺しは? 無くしたの?」
「眼鏡は無傷だけど、駄目になったんだ」
「どうして……」
「イリヤは、強化魔術で魔眼ごと強化したからだって言ってた。暴走、してるんだろうな」
 が、志貴はそれを信じていない。いくらキャスターが優れていようと、この魔眼を理解できるはずが無い。対象を理解しなければ強化できないのだから、暴走のきっかけになりこそすれ、直接の原因はそれではない。ただ、自分が弱かっただけのこと。連日規格外サーヴァントの死など視たものだから、数段階進んでしまっただけのことだ。
「そう。じゃあ、長くないって言葉は本当なのね」
「本当だ。自分の体のことだから良くわかるよ。こうして目を閉じ続けても、着々と影が広がってくる。頭痛も酷くなってきてる。保って一月ってところだと思う」
 それは、震えが来るほどに恐ろしい現実だ。怖くて恐ろしい。得体の知れないものが這い上がってくる恐怖は、人の殺意よりも余程恐ろしい。
「午後八時には起きるから。見回りをするなら一緒に行こう」
 凛の手前泣き出すわけにもいかないとばかり背けていた背中を追う声もない。再び覚束ない足を叱咤して歩き、がたついた体を布団に横たえれば、あっという間に深い眠りの園へ落ちていった。



***




 一晩中精神を張り詰めていたためか、浅い眠りと覚醒とを繰り返した凛は、窓の向こうが暗くなっているのを確認して、のそのそと布団から抜け出した。
 人には見せられない寝巻きから普段着へ着替えを済まし、窓と入り口の扉を開いて換気する。二酸化炭素で澱んでいた空気が澄んでいく。その際時計を確認して、午後七時の針を確かめる。疲れていたのだろう。十二時間もの睡眠は久しぶりの経験だった。
 寝すぎで気だるい体を引きずって廊下に出た。冷たい風に意識が覚醒していくのを感じた凛は一度部屋に戻り、机の上に広げておいた宝石を全てポケットにしまい込む。集団失踪事件の犯人がサーヴァントだった場合、その場で死闘が始まりかねない。万事に備えて間違いはあるまい。
 自宅が瓦礫と化してしまったのは大きな痛手だった。工房には凛を高める秘蔵のアイテムがいくつかある。最高峰が現在持つ宝石であり、サーヴァントと戦うために最低限必要なレベルに到達しているのもまた、宝石のみ。故に宝石だけを所持していたのだが、使いようによっては不意打ちくらい可能なものもある。だが、瓦礫の山と化した自宅からそれらをサルベージするには時間が掛かる上に、無事であるという保証も無い。その間に新たな被害が出るかもしれない状況では、諦める以外に手は無い。
 渡り廊下を歩いて母屋に入る。屋敷の中は怖いほどに静まり返っており、無人の廃墟と言われても納得するような雰囲気があった。あえて床を軋ませながら歩く。入り組んだ廊下を歩くと、やがて中庭を臨む縁側に居た。そこで表情も無く夜空を見上げる士郎を見つければ、生唾を飲み込むのを抑えられなかった。
 士郎は所在無く立ち尽くす凛を見て、顔に微かな苦渋を滲ませた。
「朝はごめん。強く言い過ぎた」
「ううん、わたしも考え無しだったと思ってる」
 素直に謝られてしまえば突っかかるのも憚られ、凛は視線を逸らして謝罪する。
「体、大丈夫なの?」
「ずいぶん楽になった。これなら飛んだり跳ねたりもなんとかなる。けど、本当に邪魔なら俺は置いていってくれ」
「……どういう心境の変化なワケ?」
 士郎は暫し逡巡し、項垂れる。
「その、邪魔だろ、俺は。遠坂は志貴と二人の方がいいだろうし。俺が邪魔して二人を危険に晒すくらいなら、その方がいいのかもしれない」
 凛は首を傾げる。志貴と二人の方が確かに余計な心配をしなくていい分楽ではある。だが、士郎の言葉には別な意図が見え隠れしていて──。
 思わずにやけてしまうのを、凛は止められなかった。嫉妬している。間違いなく嫉妬しているんだ衛宮士郎は。
 口元を右手で覆い隠し、ニシシと笑う。
「それとな、これ遠坂のだろ」
 士郎は何かを差し出した。赤く美しい宝石が、その手の中にはあった。無論覚えがある。それは士郎の治療に使った宝石だ。
「さあ?」
「昨日、志貴の治療に宝石を使ってるのを見たとき、これを真っ先に思い出した。ありがとう遠坂。俺を救ったのは、おまえだったんだな」
 凛は言葉も無く士郎を見つめた。言うつもりは無かった。隠しておこうと思っていた。だが士郎は確信してしまっていたのだから、返す言葉などない。
 静かに歩み寄って、空っぽの宝石を受け取った。
「そうなると、やっぱり俺も行くよ。遠坂を守りたい。朝も言ったけど、邪魔なら切り捨ててくれ」
 メシ、食卓に置いてあるから。
 そう続けて、士郎は黙った。凛は居間へ移動するべく足を向けて、立ち止まる。
「残って、衛宮くん……今日は偵察程度のつもりだから、危険は無い」
「それはできない」
 きっぱりと断られる。頑固者。とんでもない頑固者。こうなったら、本音を零さなければならないではないか。
「……あなたを殺すわけにはいかないの」
「アーチャーの、代わりか?」
 血液が沸騰した。
「そうよ。それもある。アーチャーのことをわたしはずっと前から知ってた。あなたもマスターだったんだから知ってるでしょ。アイツの過去を夢に見た。あまりにもバカで、あまりにも真っ直ぐな生き様を、ふざけた死に様を見た。その果てで自分に絶望して、人間に絶望して。あんな土壇場でしか自分を信じられなかった。だからあなたには違う道を歩んで欲しいって、わかってよ」
 なんてエゴイスティックな発言だろう。沸騰した勢いに任せて、吹き上がる水蒸気に任せて、吹き上がるところまで吹き上がってしまった。士郎の驚きに見開かれた瞳が痛くて、逃げるように居間に駆け込んだ。そこでは志貴が無言で食事をしている。
 聞かれただろうか。
 ふと思って、真っ赤になった顔を隠すように俯き気味で食卓についた。
「ちょっと、愚鈍?」
 この出歯亀男め。
 凛は鼻を鳴らして、髪をかきあげる。
「多分あなたも似たようなものだと思うわよ」
 きっとあの赤髪の妹も苦労したに違いない。そんなことを思いながら、焼き鮭に手をつけた。





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