夢を見た。
 幻影の類だったのかもしれない。が、思い起こしてみれば夢とはそういうものだった。
 この胸を過ちが貫く夢。否、貫いたとき、既に過ちは過ちではなかった。理想が貫いた。千載一遇の好機を得た自身が、斬って捨てるべき理想に貫かれた。
 赤い騎士は答えを得たと言った。答えとは何か。得るべき答えなど、とうの昔に知った。人はどうしようもなく下劣なものだと知った。元来記憶に残らない記録の集合でさえ、エミヤと呼ばれた彼を蝕んだ。消耗し、磨耗し、研ぎ澄まされたはずだ。ここに在るのは川上から延々流れ、海にまで辿りついた精錬された意思。それが、歪な意思に負ける道理が無い。
 夢など信じるなと誰かが言った。その一方で貫かれた幻影が喚く。おまえは間違ってなどいなかった。
 ──間違いではなかった。
 信じたくなくとも、セイバーを救出しようと決めてしまった。それは、己が最も忌避すべき青臭い理想論に基づいた決意だ。
 ただの夢に流されすぎているとも思った。
 だがそれでも構わない。磨耗した自分が見た夢ならば、誰の言葉よりも大きな意味がある。だから、これで良かった。
「どうした、フェイカー。来ぬならこちらが行くぞ」
「せっかちな男だ。英雄ならば、もっと大きく構えたらどうだ」
「フン、こちらは十年間も待たされている。今更一分や二分、どうということは無い。が、待っていろセイバー。今すぐにおまえを我が物としてくれる」
 ゆっくりと、最期の死闘に赴くべく鷹の目が開眼した。
「逸る男は無様だぞ、英雄王。それにな、私を一分で倒すというその思い上がり──」
 背後を窺った。ボロボロの鎧で佇むセイバーがいる。その瞳がじっとアーチャーを見ていた。円らな、宝石のような瞳。アーチャーは微かに頷いてみせた。
 心残りはある。だが、後悔は無い。
「この場で剣の錆と化すと知れ」
 それが、形骸と成り果てていたエミヤの在るべき姿。





Dead Eyes See No Future




 頭痛が消えたのに気付いたのは、三時間かけて森を抜け、たまたま通りかかったタクシーに乗り込んだときだった。
 アーチャーの正体。アーチャーが遺した言葉。セイバーの安否。考え出すとキリが無かった。ショートしてしまいそうな思考回路を断線させて、窓の向こうに視線を投げる。そこに、死んだように眠る志貴の顔が映り込めば平静でいるのは難しかったが、五年間にも及ぶ無駄な鍛錬で培った精神力をなめるな、とばかりに無視を決め込んだ。
 タクシーの運転手には『貧血持ちで』と苦しい言い訳をした。切り刻まれたジャケットや、布に包まれた怪しい棒。凛が応急処置を施したとはいえ、致死性の傷がぽっかりと口をあけた腹からは、滝のように血を零しているのだから不審に思わないはずがなかった。それでも、「本当は自殺しようとしたんですよ。あそこは深い森だから丁度いいと思ったんでしょうけど……」と、凛が心底憔悴したような心配したような声を出せば、根が優しいらしい運転手は追及してこなかった。
 おまえ達は偉いだなんだと熱く語る運転手の相手をしていたのは専ら士郎で、凛は憂鬱そのものの顔を窓の向こうに向け続けていた。運転手の相手をする一方でふと思った『久しぶりに猫を被った遠坂を見たな』の感想を飲み込めば、次に浮かんできたのは本当に猫を被っているのだろうかという疑問だった。凛は相当に気落ちしている。
 森を抜ける途中で一度弾かれたように立ち止まり、背後を睨んだ凛は、それ以降運転手に嘘を吐いた一度を除いて口を開かなかった。横目で窺った右手の甲から令呪が消滅していたことが全てを物語っていたが、セイバーも一緒に──と考えてしまった士郎に慰める言葉があるはずもなかった。
 運転手の大雑把な笑い声に辟易する思いで、移ろう景観を見つめる。脳裏を過ぎったのは一条の光だった。
『“約束された勝利の剣エクスカリバー”』
 誰でも知っている聖剣の真名と共に放たれた希望の光。真名が表す英雄は一人。
「アーサー王……」
 日々を共にする中で見た夢の数々。
 何の因果か、聖剣を抜いてしまった少女。少女は聖剣を寄る辺に戦った。国の危機を何度も救った。
 誰からも恐れられて、息子の謀反で命を落とすそのときまで戦い抜いた。
 孤独な戦いだったのだろう。どれもが辛い戦いだったのだろう。しかし彼女は折れず曲がらず戦った。そんな彼女の願いは何だったかとふと思って、結局自分は何も知らなかったのだなと気付く。
 正体も、願いも、何も聞かないままに失った。必ず救うと誓って、結局彼女は離れていった。

 だからきっと、衛宮士郎は良いマスターではなかった。

 悪あがきのように赤い光を撒き散らす斜陽を見つめながら、タクシーに揺られること一時間。自宅につく頃には夕刻を過ぎ、辺りには夜の帳が下りようとしていた。
 目玉が飛び出るような金額を辛うじて支払ってタクシーを降りた体は、男一人を背負って深い森を抜けた疲れから、上手く動こうとしなかった。
 半ば引き摺るような格好で志貴を担いで敷居を跨ぐ。ゆっくり玄関の戸をあけて、ささやかな「ただいま」の声を上げる。返事は当然の如くない。
 志貴を空き部屋に連れて行く。ひとまず畳みに横たえて布団の準備をしていると、音もなく現れた凛が「布団汚れるから、血を拭いて」の声と共に濡れたタオルを手渡してきた。
「ありがと、遠坂。後は俺一人でいいからもう寝ろよ。疲れてるだろ」
「うん。けど衛宮くんの方が体ボロボロなんだから、何か手伝わないと悪いわよ」
 実のところを言えば何かしていないと落ち着けないのだろう。珍しく殊勝な顔で項垂れる凛には、どこか危うい雰囲気があった。
「じゃあ、居間から救急箱と、俺の部屋の箪笥から適当な服持ってきてくれるか。体型は志貴の方が細いくらいだから、大丈夫だと思う。ネルシャツみたいなのがあれば、その方がいい。前を明けられるから」
「わかった」
 重い足取りで部屋を出て行く凛を見送って、士郎は志貴の服を脱がしにかかる。凝固した血で肌にへばりついた服を引き剥がしたが、血は胴体を覆い尽くしていて、おまけに凛の応急処置で量は減ったとはいえ、腹部からは新しい血がこぼれている。脱がせるのは断念して、志貴の懐からナイフを引っ張り出して、それで服を切り裂いた。
 間近で見た傷口は、いくらか大人しくなっている。それでも本来即死の傷に違いはなく、遠野志貴の生き汚さに尊敬にも似た感情を覚えた。
 何が何でも死なないという意思が、傷口からはあふれていた。或いは、死なせないという誰かの意思。後者だろうと、士郎は特に理由も無く思った。
 ただ、何となく暖かいものを感じただけ。子を守ろうとする母のような暖かさのようにも、ただ失いたくないからという無色の暖かさのようにも、感じられた。
 溜息を吐きつつ、布切れと化した服を剥ぎ取って凛を待った。箪笥に変なものは無かっただろうなと思い返す。不安に彷徨った目が志貴の胸のあたりに落ちて、そのまま固定された。
「なんだ、これ」
 古い傷跡があった。拳ほどはある大きな傷跡だ。それは指の先に鋭利な刃物を括り付けて、腕ごと突き刺したような傷だった。位置は心臓の真上。変色しひりついた肌が、無事な肌との境目に歪な線を作っている。その線も境目は曖昧になっていて、志貴が傷と生活してきた時間の重みを感じさせた。
「学校で着てるでしょこれ。平気?」
 凛が黒いシャツと黄土色のセーターを抱えてやってくる。凛の言うとおり、セーターは特に寒い日など制服の下に着用しているものだが、前開きの服といえばその二つしか思い浮かばず、「ありがとう」と言って受け取った。
 凛は士郎の隣に救急箱を置き、そのまま腰を下ろして志貴の傷の具合を窺っている。
「良くここまで保ったわよね」
 腹部の傷に手を当て、呪文を唱える凛がぽつんと零した。出血が収まっていく。
「遠坂が宝石一つ使ったんだ。保つだろ」
「そこまでしなきゃいけないような傷だったってこと。あんな剣を腹に深々と突きたてられた挙句、それで磔にされてたんだから、即死よ、普通」
 視線で促されて、志貴の上体を持ち上げる。凛はガーゼを傷口にあてて、手際よく包帯を巻いていく。
「背骨も掠ってたしね。内臓もぐちゃぐちゃ。ダメで元々治癒してみれば、何故か生きてる。何でかわかる?」
「いや。なんでだ?」
「再構成するために魔力を志貴の体に流し込んだとき、物凄い剣幕で怒鳴られたような気がしたわ。志貴とはまるで別の意思にね。この体に入ってくるなって」
 ほう、と吐息を零して、志貴の体をぴしゃりと叩く。包帯を巻き終えたようだった。
「誰かと契約してるのよ、志貴は。キャスターじゃない。もっと身近な人じゃないかと思うんだけど。とにかくそっちから生命力を吸い取って、志貴は辛うじて命を繋いだ」
「……俺も似たようなことを感じたよ。暖かい感じだった」
 凛の言葉で、先ほど感じた無色の暖かさを思い出した。やはり母だろうかと推測する。無償の愛を注いでくれるのは、どこぞの神か親くらいのものだ。
「この傷から感じたんだ」
 ボタンを閉める前に、凛に見せる。凛は眉根を寄せて、じっと傷跡を見つめ「これが死因ね」と、不可思議なことを言った。 
「そうだ衛宮くん。居間で藤村先生が大の字になって眠ってるから、何か掛けてあげて」
 疑問を口にする前に凛が捲くし立てた。心配して待ってくれていただろう姉貴分のだらしない寝姿を想像すれば、そんな疑問は些細なものだと知れた。

「ただいま。藤ねえ」
 藤村大河はへそを丸出しにして眠りこけていた。気持ちよさそうな寝顔はよだれさえ垂らしている。苦笑しつつ安堵感を覚えた士郎は、担いできた毛布をゆっくり大河に掛けて、夕食はどうしようかと思考した。
「頭痛が消えたって言っても、まだ体中痺れてるしな。今日は出前に頼るか」
 今月は家計簿が真っ赤になりそうだった。セイバーや凛という居候を抱えた上に、タクシー代や出前。バイトにも行けない事情では目眩さえ覚える出費だが、この状態で台所に立って指を無くしたのでは笑えない。
 旨いものを食おうという約束は先送りになってしまうことを大河に謝罪して、受話器を取った。途端、酷い吐き気がこみ上げてきて、たまらず膝を折った。
 煮だった釜の中に放り込まれたような灼熱感に戦慄する。次の瞬間には極寒の地に裸で放り出されたような痛み。寒いと感じる前に、体が痛みと認識するほどの寒気は、これまで経験したこともない感覚だった。
 喩えるなら焼き入れ。
 七百度以上の高温で熱した刀身をぬるま湯に漬けて急速冷却する。マルテンサイト組織が刃紋を刻み、強固な刃となる。折れず、曲がらず、良く斬れる。柔の中に剛を隠し、何者も寸断する。そんな妄想が赤い騎士を連想させたからか、士郎は錯覚した。事もあろうに

──体は剣で出来ている──

 と。



***



 出前蕎麦を平らげたあと、凛は夜風に吹かれるためにサンダルを引っ掛けて庭先に出た。翳った月を見上げる。そこに幻影を見た。赤い背中。馬鹿馬鹿しい。三流映画の安っぽいサムアップじゃあるまいし。
 強がってはみるが、右腕が震えていた。この数日で体の一部になって、視界に入っても気にならなくなったモノが消えている。令呪。思えば繋がりはそれだけだったのだ。そこで赤い騎士の息吹を感じ、命令を下し、幾多の敵を倒して聖杯を手に入れる、予定だった。
 狂った歯車は全てを崩壊させた。あんな化け物が現れなければ、こんなところで退場するハズがなかった。遠野志貴。第四回聖杯戦争のアーチャー。直死の魔眼にギルガメッシュ。忘れられた魔眼と英雄王。もう一つイレギュラーがあるとすれば、衛宮士郎か。
『おはよう、遠坂』
 今朝のアーチャーの言葉だ。驚いたでは済まされなかった。アーチャーの正体は学校で志貴を捕えた晩に知らされた。だがその変貌振りに、己を傷つけようとする行動に、衛宮士郎の影など見られなかったから、心の底では信じ切れていなかった。
 そこにショックを与えたのが、おはようというなんでもない言葉。なんでもない言葉だけにそれが決定打。寝ぼけ眼に赤茶色の髪の毛を重ねれば、遠坂凛は全てを受け入れてしまった。
 再三にわたって『私とアレは別物だ』と言っていたが、結局は同じだ。いくら表面が変わっても、芯の部分で行動や仕草が一緒だったのだから。
 腹と腕の傷を治癒するために、アーチャーは深い眠りについていた。寝ぼけ眼だったし、呂律も回っていないようだった。だがだからこそ、本当の彼を見たような気がしたのだ。なのに、消えた。跡形もなく、過去の己にたった一言遺して消えた。
『貫いてみろ』
 それだけだった。城の中で剣戟を響かせる知り得ない英霊の正体を語ったアーチャーは、真実を悟ってしまった衛宮士郎に一言だけ遺したのだ。
 衛宮士郎は何を感じたのだろうか。驚愕に染まった顔からはやはり驚愕しか読み取れなかった。自分を殺そうとした英霊は自分だった。
 声も無く、目を見開いて瞬きさえ忘れる。ドッペルゲンガーを見た人間の反応が、そこにあった。
 あの様子なら、ドッペルゲンガーは本物を殺しに来るという話も納得できた。まさしく士郎が、今にも消えてなくなりそうな顔をしていたのだから。
「寒いぞ、遠坂」
 突然の声に、凛は目に見えて肩を震わせた。平静を繕った顔を振り向かせると、士郎が湯気をたげる湯飲みを両手に立っていた。
「藤村先生は?」
「また病院にとんぼ返り。俺を待つために葛木に無理言ったらしい」
 悪いことしたなと苦笑しながら言って、士郎は湯飲みの一つを差し出した。
「お茶、飲むだろ」
 士郎はどんぶくを着込んでいる。蕎麦を一息に食べたりと、あまりに元気なものだから忘れていたが、彼の体は志貴に巻けず劣らず危険な状態なのだ。投影魔術などという規格外の手品を唐突に行使したのだから、全身悪寒と寒気の塊だというのは想像に容易い。
「ありがとう」
 お茶を受け取って、勢いよく湯のみを傾ける。
「あぁっっっつぅう!」
 熱い。舌が焼けるほどに熱い。なのに飲み込んでしまった。喉が焼けている。胃が悲鳴をあげている。それを、士郎は平然と飲み干している。当然だ。士郎が平然と飲んでいるから、凛もまるで清涼飲料でも飲むかのように口に含んだというのに。
 士郎は目を皿にして凛の絶叫を聞いた。
「わたしを焼き殺そうって──」
 熱湯を飲んで焼け死ぬも何も無いが、喉がひりついているような感覚は、間違いなく火傷によるものだった。
 違和感に気付いて言葉を切って、凛はじっと士郎の顔を見た。青褪めている。唇は紫色で、青いと思った顔色は次の瞬間には黄色染みて見えた。そういえば、食事のときもおかしくはなかったか。自問して、まだ熱い湯気をたてていた蕎麦を、一分少々で平らげた士郎を思い出す。
「ちょっと、おでこ貸して」
 手を伸ばして、士郎の額に触れた。士郎は身じろぎしようとしたが、そんな暇は無かった。赤熱した鉄に水をかけたような音がして、凛の手の平はすぐさま飛び退く。
「なんだ?」
 相変わらずどこか抜けた声を出した士郎を、凛は鋭く睨み付けた。馬鹿者。大馬鹿者。声に出さないで罵倒して、頬に平手を見舞った。凛の手が再び焼ける。構わず、降りぬいた腕を翻した。往復ビンタなど人生初の試みだったが、衛宮士郎は物理法則にしたがって首を左右させただけ。痛みへの反応は無い。
「何、するんだおまえ」
 士郎の怒りの声は無視した。
「本気で叩いた。どう? 痛かった?」
 そこで初めて自身の異常を察したのか、『当たり前だ!』とでも言おうとしていた口は金魚のように何度か開閉して、噤まれた。
 情報を与えすぎたのだ。アーチャーの剣を投影したショックが抜け切らないうちに、彼を彼足らしめる固有結界モノ)を見た。スペルも聞いた。衛宮士郎の心象風景が塗りつぶされようとしている。あの墓標に塗れた荒野に塗りつぶされていく。
 無理矢理に扉がこじ開けられる。本来歩むはずだった道を短縮し、階段そのものを排除して英霊エミヤに近づこうとしている。
 感傷に浸る暇も無い。悪態を吐きたいのを堪えて、凛は士郎を引き摺るように屋敷にあげた。ようやく自分の足で歩き始めた士郎を部屋に押し込み、敷きっぱなしにされていた布団に押し倒す。
「寝なさい」
 有無を言わさぬ声色で言って、鼻を鳴らした。今朝は、切り捨てるつもりだった。縋りつく士郎を冷たくあしらった。セイバーが弱っているうちに志貴だけでも倒そうとしていた。なのに今はこうして一緒にいて、世話を掛けさせられている。それどころか遠野志貴まですぐ隣で眠っている。
「遠坂、ごめん」
 士郎の言葉に微笑を返して、凛は再び庭に出た。月を見上げてみても、今度は何も映らない。千切れ雲が掛かった月は風流ではあったが、慰めにはならない。ただ空しく思い出を反芻するのみで、やり切れない苛立ちが募った。
 告白しよう。アーチャーを失いたくなかった。
 正体を知らなければ耐えられたかもしれない。いくら尽くしてくれようとも、それは赤の他人だ。情が移ることはあるかもしれないが、所詮主従の関係。だからきっと乗り越えられる。悔しいだろうし悲しいと思うだろう。それでも我慢できる。
 しかしアーチャーは赤の他人ではなかった。今もすぐ側にいる、なんでもない少年の未来の姿だ。みんなに笑って欲しいと口にした少年が、苦労の果てに至った存在。それを見殺しにした。
 ──だけど。
 凛は溜息を吐く。
「セイバーを守ったときのあの顔」
 間に合ってよかった。
 憮然としていたが、それでもこみ上げてきたのは安堵だったのだろう。その口元が微かに吊り上げられたのを、見逃す凛ではなかった。
「馬鹿は死ななきゃ直らないなんて、まるっきり嘘よね」
 赤い騎士は衛宮士郎だった。いくら軽薄そうに振舞っても。磨耗して馬鹿なことを考えても。結局根元の部分は衛宮士郎のままで、だからこそ『貫いてみろ』という言葉に篭められたのは、万感の想い。
「死んでも、アイツは大馬鹿者だったんだ」
 そのほうがらしいか。
 何にせよ、凛は敗北した。聖杯戦争という生き残り合戦から脱落した。それだけはもう曲げようのない事実だったから、明日から始まる日常生活に気持ちを切り替えなければならない。サーヴァントという大前提を失ってまで、聖杯を手に入れるつもりは無かった。死ぬ覚悟はしていたが、わざわざ自殺する蛮勇は持ち合わせていない。だからここでお終い。
 今夜は忙しくなる。士郎の狂った魔力を矯正しなければならない。それこそ一晩掛かりの大仕事になるだろう。
 縁側に置き忘れた湯飲みを手にとって、ぬるくなったお茶を飲み干した。



***



 士郎の容態が安定したのは、午前零時を回った頃だった。およそ三時間、凛は付きっ切りで魔力を流し続けた。先走ろうとする力に逆さまの力を与えて押し止める。半ば以上心霊医術の域にある作業は、凛の精神を残らず削り取った。
 士郎は今も全身を脈打たせて、芋虫のように苦痛を表しているし、体温は依然として異常なほどに高い。兄弟子の見よう見まねでは不安があったが、元々魔力の方向性を変えることに特化した一族の末裔。触れただけで火傷という峠は越えた。あとは、士郎の精神力にかかっている。他者にできることなどその程度だ。
「頑張んなさい。衛宮くんなら乗り越えられるから」
「ありがとう」
 こめかみを押さえつつ、凛は立ち上がる。患者は一人ではない。
 障子を開いて廊下に出る。壁一枚越えれば、そこに志貴がいる。
 凛は俄かに鼓動を強めて、呼吸を整えた。呼吸が荒らぐのは、三時間にも及ぶ作業の疲れだけではない。この部屋から流れてくる死の気配に、魔術師の体は否が応でも逃げようとしてしまう。
 遠坂の家に居たときのように、余裕で構えるわけにはいかない。ここは衛宮の家だ。凛にプラスに働く結界も、トラップも無い。志貴とは一度殺し合っている。この障子を開け放った瞬間に首を落とされる可能性もある。
 凛はポケットの内に手を忍ばせて、宝石を取り出す。既に一つは志貴の治癒に使った。貴重な宝石だ。弁償もさせず、ここで殺されては笑えない。
 眠っているとは考えなかった。
 志貴は、眠っているときは魔眼の力を抑えられている。捕えた日にそれは確認済みだ。その力を自分で吸収してしまっているかのように、外部に影響は無い。だが、一度起きてしまえば別になる。今のように、針の筵に立たされるような悪寒に苛まれるのだ。
 セイバーやアーチャーが畏怖するというのも頷ける話だった。守護者であるからには、脅威に対して敏感な必要がある。星寄りだろうと、人寄りだろうと無関係に。
 実際にライダーを殺して見せたのだから間違いない。通常の概念では殺し得ない英霊を消滅させるからには、その延長線上にある星や種族というものも、確実に滅ぼしてみせるということだった。
「入るわよ」
 障子に手を掛けて、ゆっくり慎重に開ける。
 なんでこんなおっかなびっくりしなければいけないのか。こっちは助けようとしているってのに。
 愚痴はいくらでも浮かんできたが、アーチャーが命と引き換えに助けた命──本当はセイバーを助けるつもりだったのだろうが──を失うわけにもいかない。遠野志貴には『もう嫌だ』と思うまで生きてもらわなければならない。それが、ギルガメッシュを倒せと命じたマスターの務めだ。
 そう思ってしまえば慎重だった手は途端大胆になり、ピシャッという小気味良い音と共に、障子を開け放った。
 様子がおかしかった。
 右手で顔を掴み、こめかみを握り締めている。自分の顔を、まるでゴムボールか何かのように押し潰そうとしている。その手が震えていた。手だけではない。引付を起こしたように全身が痙攣していた。
 噛み締めた唇からは毒々しいほど赤い血がこぼれている。頬にも、爪による出血が見られた。布団を真っ赤に染めて、それでも力は衰えない。むしろ、痛みを求めるように、爪がこめかみに頬に額に突き刺さっていく。
 うめき声も無く痙攣する様は、下手なホラー映画よりも恐ろしい。
 凛は呆気にとられた格好で、その異常事態を見下ろしていた。キャスターを失ったことで、自責に囚われているのか。バカなことだ。本当は、人間一人が抗ったところで英霊の戦いには介入できない。だから志貴に責任は無い。聖剣さえ余裕で跳ね返す化け物を相手に、セイバーと共に戦ったおまえの方こそ異常なのだ。そう言ってやろうとした。だが、その口も途中で開くのをやめた。
 志貴の中指と人差し指が頬と瞼を押し広げ、その奥にある左眼球を露にしたからだ。異常なほど青い瞳は天井を睨みつけている。志貴の体は限界を訴えているというのに、その眼だけは平然としていた。
 それが気に入らなかったのか。志貴が左腕を翳した。天井の向こうに月でも幻視しているのか、その手は届かない何かを掴もうともがいて、諦めたように手首を下向けた。だらりと、力なく項垂れる手首。そこに令呪が残っていることも驚きならば、その指に突然力が篭もり、刃のように変態したのも驚きだった。
 実際に指先を凶器に変貌させたわけではない。指は指のままだったし、丸みを帯びた人の指では何も破壊できない。だが志貴の指は間違いなく凶器であり、凶器であるということは何かを破壊しようと企んでいるということ。
 いつの間にか、今度は右手親指を使って、志貴は右目を開いた。その直上には鋭く尖った指。その直下には二つの眼球。それで、凛は理解した。咄嗟に駆け出す。
 指と瞳は暫しの睨み合いの後、意を決したように互いの距離を近づけた。躊躇も逡巡も無い。真っ直ぐで、素直な一撃。
 一直線に落下する左腕目掛けて飛び込んだ凛は、睫毛に触れる寸前のそれらを引き離すことに成功した。
 安堵の溜息を吐こうとした瞬間、取り押さえた腕が激しく動き、凛の腕を掴んだ。痛みはまるで無い。仮にも男に握られているのに、まったく痛くなかった。それだけで志貴の衰弱の程が窺えた。
「ア……キハ?」
 それっきり、志貴は気絶した。



***




 換気扇を止めて、ガスも元栓ごと閉めた。借りていたピンク色のエプロンを外して、ふむと唸った。
 綺麗に玉子が溶けた黄金色の炒飯。初心にして最難関。遠坂凛会心の出来であるそれは、三つの皿に盛られ、香ばしい匂いと湯気をたてていた。
 見ているだけで食欲をそそられるのだが、生憎凛に喜色は見られない。一晩中二つの部屋を行ったり来たりだったのだから、疲労は当然のことだった。そのため、三つのうちの一つには、ちょこんと載っているだけ。冷蔵庫から引っ張り出した牛乳を飲み干して、ようやく一息つく。
「朝じゃない……」
 テーブルにべったりと突っ伏して、横目で窓の向こうを窺う。スズメが呑気に鳴いていた。午前六時。アレから六時間はまるで地獄だった。いつ発狂するともしれない危険人物と、いつ自殺するともしれない危険人物。
 士郎の部屋は薪でも焚いているのかと思うほどに熱く、志貴の部屋は対照的な冷気で覆われている。錬鉄所と墓場。そんな場所を行き来していた体は、もう休ませろとがなりたてている。
「あとちょっと、コレをあのバカ二人に食べさせるまでは寝ないんだから」
 文句を言う体をどうにか宥めて、ぼーっと窓の向こうを見る。休日の早朝は静かだった。
 たまに車が通るくらいで、他の音は何も無い。誰も彼も、この街で起きている戦争のことなど気にも留めず、今日を過ごすのだ。
 遠坂凛もまた、魔術師という素性を隠して、日常の中に埋没していく。志貴の腕に令呪があったことが気がかりだったが、それを考える頭はとっくに蕩けている。
「おはよう遠坂。って、もしかして眠ってないのか」
 そんな声が聞こえて、凛は重い体を引き起こす。士郎はまだ青い顔をしていた。一度峠は越えたと思ったのだが、そこからのぶり返し方が尋常ではなく、結局明け方まで士郎が深い眠りにつくことはなかった。
「うーうー呻くようなのと目玉潰そうとするようなのを放って眠れるわけないでしょ」
 軽口を叩きつつ炒飯を盛り付けた皿を差し出す。
「ありがとう。ほんとに迷惑掛けた」
 頭を下げた士郎が、突き出された炒飯を見た。
「これ、遠坂が?」
 目をまん丸にしてテーブルの横に着き、炒飯をじっと見つめている。驚きの声にムッとしないでもなかったが、それを顔に出すほどの元気はない。
「他に誰がいるってのよ。材料勝手に使ったけど、それくらい許してよね。それと、食べたら布団に直行すること」
「ありがたく頂く。けど、俺が眠る前に遠坂も眠ってくれ」
「言われなくてもそのつもりよ」
 徹夜明けで痛む目元を揉み解しつつ、片手で炒飯を食べる。我ながら行儀が悪いとも思ったが、今更士郎の前で取り繕う自分もなかった。
 三口で食べ終えて、再びテーブルに突っ伏す。ふと廊下に向けた目が影を捉える。人の影だ。
「志貴、か?」
 士郎も気付いたらしく、首を巡らせている。
 両目を包帯で覆い隠し、苦々しく表情を歪めた志貴が戸口に現れる。右手を壁に当てて、それでようやく体を支えているらしい。見れば全身が痙攣している。その背が靄っていた。薄く、けれど強く顕れた感情が強烈な殺意になって、毒々しい虚像さえ描いている。
「包帯、勝手に借りたけど、構わなかったかな。服も新しいし、何から何まで迷惑掛けて……」
 声音が穏やかなのが、逆に薄気味悪く感じさせる。
 包帯は余程強く巻きつけているのだろう。包帯越しに眼球が動くのを確認できるほどだった。
「この服、いつか返しに来るよ」
「服は別にいつだっていいけど、ナイフはいらないのか?」
 踵を返そうとした志貴に、士郎が声をかける。その左手が志貴のナイフを弄んでいた。
「返して、もらえるかな」
「それはできない」
 明確な拒否の言葉を前に、志貴が殺気立つ。凛も思わず腰を浮かせたが、当の士郎は平然としたものだった。ナイフを三つ目の炒飯の脇に置いて、テーブルと指でトントンと叩く。
「遠坂がせっかく作ってくれたんだ。食っていけよ」
 呆然とした顔の志貴が可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
 志貴は渋々食卓に着き、「いただきます」と神妙に頭を下げて、炒飯を食べ始める。つい昨日殺しあった相手と食卓を囲んでいるシュールな光景がおかしい。
「日曜日か……」
 黙々と凛が作った炒飯を食べる二人をよそに呟いてみる。
 明日には学校も始まるだろう。そうしたら、苗字の違う妹との距離を、もう少しだけ縮めてみようと思う。
『おはよう、桜』
 何も気負わずに、軽い気持ちで声を掛けてみよう。そうすればきっと何かが変わる。それはとても魅力的な提案に思えて、凛は人知れず頬を緩めた。こういう心の余裕も、きっとアーチャーからの贈り物に違いない。そう考えて。
 だが依然として予断を許さない状況には変わりない。ランサーとギルガメッシュ。そして、令呪を持つ志貴がいる限り、凛の戦争もまた終わらないのだから。






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