宝具の呪いで攪拌する頭を醒ますため、セイバーは大きく深呼吸を繰り返した。広間には、志貴とバーサーカーが駆け込んでくる。それを見て、しばらくの休息を得られると踏んだ体は、床に突っ伏してしまっていた。
 強烈な魔力消費による回復はとっくに済んでいたが、その後に両手両足を貫いた宝具はまずかった。
 セイバーは一瞬前まで自分を襲っていた剣の雨を思い出し、体を震わせる。
 初撃。万全で放った宝具を破られたときに、敗北は決まったようなものだった。砕けた鎧と焼けた肌を、キャスターから絞り上げた魔力で無理矢理修復し再度渾身の剣を叩き込むも、予感した敗北の二文字が、絶望へと変化していくのに時間はかからなかった。
 素人同然の剣捌きしか持たぬ敵。立ち尽くすだけの敵さえ討ち取れない不甲斐なさ。無数の武器を神懸った身体能力で避けようと、その先で再び囲まれれば後退を余儀なくされる。無数の武器が有象無象の刀剣であれば、仮にも聖剣の担い手であるセイバーに敗北は有り得ない。だがそれが、一々己が剣に勝るとも劣らない名器であるのだから、手に負えなかった。
 結果膝をつき、四肢を貫いた巨大な鎌によって生命力を根こそぎ奪われるという無様を晒すに至る。
 前回もそうだった。セイバーはバーサーカーの咆哮を聞きながら、僅かに考える余分を与えられた脳で思案する。
 あの男をアーチャーと呼んだ前回の聖杯戦争でも、傷の一つさえ与えることは出来なかった。そこで衛宮切嗣が取った行動は、言峰綺礼を背後から撃ち取るという卑怯者じみたものだった。さりとて、それを非難する口はセイバーには無かった。セイバーの力不足が取らせた行動だったからだ。
 アーチャーを倒せない己に憤慨するのなら、その生き人形の如く冷めた瞳にも憤りを感じた。勝利のためならば手段など厭わない。そのどこか過去の己と似た姿が、殊更にセイバーの心をかき乱した。だがそれも過ぎたことだ。切嗣の息子と契約している己を運命とするなら、ここで再びアーチャーに敗北するというのも運命と言える。
 戦争の最中に、敵に求婚するという異常な英霊は、恐らく今度こそ良い返事を聞くつもりでいるのだろう。半死半生のセイバーに止めも刺さないでいるのがなによりの証拠だった。
「ヘラクレス……」
 赤い光と全てを切り裂く風の中で、ぽつりと志貴が零したのは、セイバーが相殺すら叶わなかった宝具を押し止める英霊の真名だった。覚えがある。セイバーは震える顎を上げて、巨獣の背に眼差しを向けた。死後に神に迎えられた正真正銘の英雄の神々しさが、セイバーが失ったものが、そこにはあった。バーサーカーというクラスに堕とされ、その英知の全てを身体能力に注ぎ込んでも尚、その背には英雄の気質が渦巻いている。
 その腕が握っていた、切れ味など一分の考慮にも入れられていない剣を放棄し、体一つで宝具を跳ね返さんと堪えていられる奇跡。
 それを受けては、さしものアーチャーからも余裕は消えていた。歯を食いしばり、魔剣に魔力を注ぎ込む顔は、セイバーを相手には決して見せないものだ。全身全霊をかけなければならない相手。それを得て、あの英霊などというモノからは最も遠いと思っていたアーチャーが、神気を帯びていた。
 その対峙も、十の命を燃やし尽くしたバーサーカーの死で締めくくられた。勝負としてならば、バーサーカーが勝利した。彼は確かに背後の主には被害を及ばせなかった。だが、殺し合いとしての勝者は紛れもなくアーチャーだった。
「侮ったか。腐っても半神……貴様は見事だったヘラクレス。だがな、オレの勝利だ」
 嘲るでもなく。見下すでもなく。アーチャーが持ちうる最大の賛辞が、バーサーカーに向けられる。対等の者を得た喜びと、それを失ったという僅かな哀惜。表情にこそ出さないが、知らず口に出てしまったのは彼もまた誰もが認める英傑だったからだろう。
 だが、それも一瞬だった。忽然と姿を消していたキャスターの「逃げなさい」の声が聞こえたときには、アーチャーの背後には宝具が展開されていた。
 セイバーの体は動こうとしない。魔術ならばどれだけのものでも無効化できるという自負がある。だが、高度な呪いの類になれば話は別だ。そういったものも無効化できるのならば、キャスターの宝具で契約を破棄されることもなかった。アーチャーがこの四肢を貫いた剣や鎌は何れもが対象の動きを封ずるに特化したもの。剣を杖代わりに立ち上がるのが精々だった。
「貴女が、傷一つ負わせられなかった?」
 駆け寄ってきたキャスターが、階下の惨状と、セイバーを見比べて訝る声をあげた。
「もし、志貴が生き残れたなら、彼を連れて逃げなさい。私では、ほんの一瞬が限界よ」
 死ぬ気か? の言葉は声にならなかった。キャスターは階段を駆け下りしなに何か呪文を呟き、「早く逃げなさい!」という叫び声と共に、鎖を無効化すべく解呪の魔術を放った。
 志貴がイリヤスフィールを抱いて宙を翻る。襲いくる宝具のほとんどを回避した絶妙の跳躍は、直感のスキルでも持っていなければ不可能な芸当で、更に四つの宝具を迎撃したそれは、最早奇跡でしかない。
「アレをも、殺すか──」
 故に、たった一つ回避も迎撃もできなかった魔剣が、イリヤスフィールの小さな腹を貫いたとしても、それは志貴の責任などではなかった。
 剣の力に押されて大地に仰臥した志貴の、呆然とした顔こそが場違い。その奇跡を生んだ体を褒めこそすれ、罵倒する理由などないというのに。
「イリヤ?」
 志貴は心底痛々しい姿で、転がるイリヤスフィールを見下ろした。
「志貴、ソレは捨て置きなさい。早く、撤退を」
 キャスターの声も聞こえていないのだろう。志貴は紫色のコートを黒く染め上げる血に触れようとして、恐れるように手を引っ込めた。
「ウソだ」
「聞こえないのですか!」
 震えている。迷子になった子供のように、一人はぐれた子羊のように、志貴が震えていた。ライダーと対峙したとき、セイバーと対峙したときにみせた、冷淡な殺人鬼のイメージが払拭されている。
 昨晩から、既におかしかったといえばおかしかった。
 目覚めたセイバーを待っていたのは、気のいい好青年風の志貴だった。睨み据えられると震えが来るような魔眼を包帯の下に隠して、羊の皮を被っているだけの獣だった。好青年を演じる志貴はどこかズレていて、セイバーにはそれが可笑しかった。切り掛からんばかりに臨んでいた自分を諌めるためにそうしていたのかと考えてしまえば、わざわざ剣呑な態度で接する気勢も殺がれてしまった。
 きっとあの男はずっとそうしてきたのだ。羊の群れに紛れ込むために、羊の皮を剥いで着込み、懸命に順応しようとしてきたのだ。あの許容外の魔眼を有しての生活となれば、その困難は計り知れない。
 とっくに精神は擦り切れていたのだろう。志貴の寝顔は心底安らかで、それこそ永遠の眠りを連想させた。あまりにも、ネガティブに安らかな寝顔だったのだ。死んだように眠る志貴を見て、己の願いの矛盾を嘆いた。志貴を鏡像に仕立て上げて、過去の己と対峙した。
 何にせよ、志貴のせいで、気付かなければ良かった矛盾を知った。気付かなければ平穏でいられた心を踏み躙られた。それが、その変貌は何なのか。戦う覚悟も無かったような顔をして、イリヤスフィールを悼むそれは何なのか。
 羊の真似事に興じるのはやめろ。この私の願いさえ汚して存在したおまえが、そんな顔をするな。
 怒りのままに叫ぼうとしたとき、セイバーの背筋を悪寒が襲った。志貴の震えていた指先がイリヤスフィールの顔を這った。指先が瞼を下ろす。
 まるでこの現実が信じられないと喚く中で、それでもイリヤスフィールの目を閉じさせたのは、内面で鎌首をもたげた冷静な何かを象徴しているようだった。
「ワカラナイ……なんだって、おまえが……」
 鎌首をもたげた何かは、皮を引き裂く。羊の毛皮を引き裂く。現れたのは巨大な牙。挑むのは世界の王。
 遠野志貴は確実に殺される。あの英霊は人間では届かない高みにある存在だ。ここでキャスターの言葉通りに逃げれば、或いはいつか好機がやってくるかもしれない。しかし、今戦えば死ぬ。だというのに、薄く輝いてさえいる魔眼が、一直線にアーチャーを射抜く。
 襲い来る宝具の雨を前に、日本刀の煌きは奇跡のような軌跡を描いて、確実に主の命を撃ち抜こうとする投擲を殺す。その刀捌きは理屈ではない。かと言ってセイバーのように迫力があるわけでもない。ただ最小限の中に最善を見出して振るわれる。命を刈り取る一撃を、確実に防いでいく。間合いを詰めるために、縦横無尽に駆け回りながら、避け、いなし、殺す。突き刺さるはずの投擲が、防がれていく。
 表に生きたセイバーには想像もできない動きだ。己が生き残るためには敵に背すら見せる。闇に生きる者の動きと知れた。勝てばいい。信じられない跳躍力も、緩急の区別がまるでつかない動きも、誇りなどというものとは対極に位置する動作。
 キャスターは巨大な杖を振り回し、次から次へと迫り来る刀剣の全てにガラスのような防御結界を放ち続けた。それが易々と貫かれると、今度は空間そのものを固着させる大技を繰り出す。志貴を空中で静止させたものと同じ魔術だ。志貴を取り囲むように放たれた空気の澱みは、絶えず移動する志貴の動きを邪魔しないようにと、展開しては消しての繰り返し。その負荷はキャスターと言えど耐えられるものではない。次第に息を荒げていく彼女を見れば、魔力は空に近いと知れた。
 それほどに無理をしても、勝利は無い。キャスターがいくら宝具を僅かに鈍らせようと、志貴が渾身を篭めて接近しようとも、その鎧には届かない。
 それでも構わない。眼が告げていた。

 ──戦うと決めた。

 それは、セイバーとは根本から異なる願いのカタチだった。単純なことだ。志貴はイリヤスフィールを殺された怒りで、戦うと決めた。
 無闇に難しく考えていた自分に、可笑しさがこみ上げてきた。
 まるでくだらない。自分で矛盾に気付いておきながら、人のせいにして逃げようなどと、この身はそれでも英雄と呼ばれた者の果てか。

──戦うと決めた。
   たとえ全てを失って、みんなにきらわれることになったとしても。
   それでも、戦うと決めた王の誓い。

 それが、彼の王のたった一つの誓い。
 まだ何も解決などしていない。心に抱えた矛盾はそのまま。だが
「我が名はアーサー。信念によって助太刀しよう、遠野志貴」
 脳裏を埋め尽くしていた絶望の二文字は、霧を払ったかのように消えうせていた。




Excalibur



「我が名はアーサー。信念によって助太刀しよう、遠野志貴」
 その声に振り向いた。二階で膝をついていたセイバーが、全身から青白い雷光を放ちながら不可視の聖剣を携えて立っていた。
 漂う威厳。前だけを見据える鋭い眼光。まるで別人だなの感想を抱いた志貴は、アーサーという名に内心で苦笑する。一方で、その名が持つ不思議な力に安堵したりもした。
 彼女を中心にして巻き起こった風の渦は、黄金のサーヴァントから受けた傷を吹き飛ばす。届かない不安や恐れ。負の感情の一切合財が払拭された。
「フン、足掻くか。それも良かろう。いずれ我が物となる身。存分に刃向かい、決して届かぬ絶望を知るがいい」
 悠然と駆け出したセイバーは、一歩で階段を飛び降り、そのまま一直線に黄金のサーヴァントを目指した。バーサーカーには及ばないものの、風を纏って駆ける姿は疾風そのもの。
 宝具の雨を跳んで避ける志貴の足元を、突風が吹きぬける。黄金のサーヴァントは再び背後に武器を浮かべ、駆け抜ける風目掛けて打ち放った。セイバーが不用意に足を止める。意図を察した志貴は着地と同時に一歩を踏み出す。
「どうしたセイバー。勝てぬと悟ったか?」
 黄金のサーヴァントの嘲笑が聞こえる。そこでセイバーが跳躍した。黄金の男には見えていない。その背に紛れた伏兵の姿など。
 顔を見られぬのが残念だと内心で吐き捨てて、志貴はセイバーの小さな肩を蹴りつけ、大きく前方に跳躍する。そこでようやく見た。ありえない場所から飛び出してきた思わぬ伏兵を眼前に受け、咄嗟にその手に剣を取った黄金の男の顔を。
 着地と同時に、一歩で黄金のサーヴァントに肉薄した。全身全霊を込めて、右腕を抜く。男の右脇腹から左肩までを走る死の線めがけて。男の剣が刀崎を砕くべく振り下ろされるが、それは無視する。何せ背後には──
「ッハァアア!」
 宝具の雨を掻い潜り、同じように接近してきたセイバーがいるのだから。
 冷気を抱いて振り下ろされる剣を、セイバーは不可視の聖剣で迎え撃った。耳元で激しい火花が散る。金属同士が打ち合ったとは思えない爆音が鳴り響き、セイバーが大きく弾き飛ばされる。だが、男もまた右腕を大きく跳ね上げられていた。
 ──ここを確実に射抜く。
 反動でたたらを踏んだ男の脇腹に剣が届く。殺せると思った刹那、悪寒に飛び退いた。五メートルほど後退したあと、たった今まで己が居た場所を見れば、巨大な剣が土煙をあげながら鎮座ましましている。
「志貴!」
 声と同時に跳躍した。セイバーは左へ。志貴は右へ。追ってくる宝具は五つ。セイバーの方に七つ。瞳を限界まで見開いて、無機物──それも幻想の域にまで達したそれらを睨めつける。脳髄が焼けて鼻から出そうな痛みに堪えながら三つを殺す。が、残りの二つが脇腹と右足を掠めた。肉をごっそり持っていった痛みに意識が朦朧としたが、次の投擲を視界の隅で捉えていれば、休む暇など無かった。
 続けざまに四度床を蹴って、避け続けた。殺す。腕は意識とは別に、線をなぞるだけの機械になっている。殺す。目的は一つ、イリヤの命を奪ったアイツを切り刻むこと。
 顔色一つ変えずに、ただ淡々と宝具を放ち続けるアイツに、一泡吹かせてやること。倒せないなんてことは判っている。どうしようもないくらいに、世界が違う。武器を両手でしか持てない人間では、アイツには敵わない。両手両足に括り付けたところで、アイツには敵わない。
 回避に成功したセイバーが、次の回避に移る。彼女──アーサー王でもあの英霊には勝てない。それを判っていて、戦っている。接近さえできない相手。先ほどのような奇襲はもう通じない。あの場で仕留められなかったのなら、もう二度と勝機は無い。だがそれでも、イリヤのために退く訳にはいかない。
 宙返りする天地の中で、キャスターと視線が合った。今朝方の気まずい雰囲気はいまだ残っている。それでも見捨てようとした主を、彼女は護ってくれた。その気持ちを裏切らないためにも、退けない。そう思ったとき、キャスターが笑みを刻んだ。酷く美しい、戦場には似合わない笑みを。
「一瞬、ですよ」
 確かにそんな声が聞こえた。

咎闇ニュクス病風アエロー、疾りなさい」

 それは文字通り、キャスターの全てを内包した魔弾だった。暗い常闇が地面を走り、紫色の魔風が空気を切り裂く。遠坂の屋敷を崩壊させた魔弾が五つあると考えればいい。後のことなど考えない一撃は、宝具の雨を掻い潜って確かに男に着弾した。
「小賢しい、大人しくしていれば楽に死ねたものを」
 青白い輝きが広間を埋め尽くした。それは命中の光ではない。あの男が取り出した何かが、キャスターの全力を跳ね返した光。照り返された魔弾は、主に反旗を翻すかのように反転し、キャスター目掛けて飛ぶ。
 ──一瞬、ですよ。
 その魔弾の先に、精根尽き果てて倒れているキャスターがいることは知っていた。それを受けては彼女が無事ではいられないことも知っていた。
 だが、ほんの一瞬の静寂。盾を構えるためにほんの一瞬だけ途切れた雨を、見過ごせなかった。それを見逃し彼女を助けようなどという思い上がりは無かった。彼女が命を賭けて作ってくれた一瞬。それこそが、志貴に遺された最後の好機。
 セイバーは、まだ回避後の体勢を戻せていなかった。故に走ったのは志貴のみだった。与えられた一瞬を逃さないために、全身のバネを最大限に活用して、走った。体勢を低く低く。あの男の膝より更に低く倒して、縫うように駆ける。
 それは奇しくも、昨晩セイバーの剣の結界を殺したときと、非常に似通った状況だった。
 背後で轟音が轟き、背中を灼熱の風が焼いた。だがそれさえも追い風にして駆けた。キャスターの血が混じった風を背中に受けて、いまだ燃え盛る火柱に目をやっている間抜けの懐に潜り込む。いや、半歩、足りない。咄嗟に思考した体がもう半歩足を滑らせたとき、男の眼が真上から志貴を見下ろした。
 似通っているが故に、そこで過ちに気付いた。昨晩はここで全てを決していた。セイバーが視線を戻したときには既に全ては終わっていた。だが今回、誤算があったとすれば右足。脹脛を抉られる傷は、決して浅くは無かった。
「気付いていないとでも思ったか、雑種」
 何から何まで今さらだった。熱くなりすぎて、冷静になれなかった自分の敗北が視える。だが、止まるわけにはいかなかった。この体が動く限り、左脇腹から右肩まで斜めに駆け上がる線。そこに寸分の違いも無く斬り込む。
 踏み込みは大地を砕かんばかりに。打ち込む刃は神速でなければならない。
 理想通りの太刀筋が、雷の如く走った。確かに鎧を打ち、振りぬいた。
 だというのに、背後からはセイバーの悲痛な叫び声が聞こえた。ああ、似合わない。アーサー王ともあろう者が、そんな絶叫は似合わない。アーサー王が女の子だった事実はまだ受け入れられないし、繰り返してみると妙な気分だった。メディアに、ヘラクレスに、アーサー。なんて馬鹿げた場所に俺はいるんだろう。刃を振りぬいた格好で、少し抜けた思考を巡らせてみる。
 秋葉を助けたくて、殺し合いに身を投じた。キャスターはとんでもないことをしてくれたし、この手でライダーの息の根も止めた。それなのに結局秋葉は救えないらしい。悩んでいたら、イリヤが殺されてしまった。それが頭に来て、八体目のサーヴァントに喧嘩を吹っかけた。ああ、だからこんなところで、腹に剣を突きたてられているのか。
「イリヤ、キャスター──」
 腹に感覚が無かった。右手の刀がやけに軽かった。
 体が浮く。否、そんな生易しいものではない。放物線など描かず、弾丸のように体が飛んでいた。視界が流れて、このまま永遠に飛び続けるのかと思った途端、酷い痛みと共に、体が停止した。その拍子に落下した刀崎は、根元で折れてしまっていた。腹に食らった剣のせいで、狙いが逸れたのだ。刀崎は黄金の鎧を直に叩き付けられて、折れてしまった。刀崎翁の人生が、折れてしまった。
 目の前に階段があった。階下で、セイバーが絶叫をあげながら宝具を開放しようとしている。
 その背後でキャスターが横たわっていた。血塗れだった。イリヤの姿はどこにも無かった。何故だろうと考える余裕が無かったので、きっとどこかで無事でいてくれていると信じることにした。数瞬前に、背中で吹き上がった爆炎に巻き込まれたなんて、考えたくも無かった。
「ごめん」
 呟くと、意識が消えていく感覚に背筋が凍りついた。だから最後、左手の奇妙な模様に意識を集中して、呟く。
「絶対に、死ぬな……キャスター」
 まだ微かに息がある彼女だけは、こんなところで死んで欲しくなかった。



***



 気付いた瞬間には、真名を叫ぶべく聖剣に魔力を注ぎ込んでいた。志貴が万全だったなら、セイバーでさえ感知できなかった斬撃は、全てを終わらせていたはずだった。だが、昨晩の焼き直しのような攻防は、志貴の敗北で終わった。傷ついていたがために足りなかった半歩。それが明暗を分けたのだ。志貴は刃を振る途中で腹に剣を突き刺され、彼にしか視えない標的を外し、愛刀諸共吹き飛んだ。
「貴様ァ!」
 仲間意識など無い。ここで生き残れたならば再び殺しあう間柄だ。だが気付けば叫んでいて、聖剣は呼応するように光を撒き散らした。
「まだ刃向かうか。今のオレは機嫌が悪い。加減などできぬぞ?」
「加減などしてみろ。消し炭と化すのは貴様の方だ」
 アーチャーは鼻を鳴らす。吹き上がるような殺気を見るに、機嫌が悪いというのは事実らしい。志貴に殺された宝具は軽く二十を超える。手痛い損失には違いない。
 つい数分前にも敗れた聖剣。勝算があるとすれば、黄金のサーヴァントも、この聖剣を迎え撃つには“天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ”を放たなければならないということ。それも、奴は三度目。セイバーとて二発目になるが、あれだけ宝具を連発した黄金のサーヴァントが、全力を込めた聖剣を押し止められるのか。それが勝算。
「“約束されたエクス──」
 神が造り上げた聖剣。その真名を前にアーチャーは円錐状の剣を握った。刀身になる三つの円柱が、風を巻き込んで回転する。
 対して聖剣は風の結界を解除し、暴風と共に輝きを増し続ける。その発光が臨界に達した瞬間、
「──勝利の剣カリバー”」
 怒号にも似た叫びと共に、光が放たれる。
「“天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ”」
 アーチャーもまた断世の渦を解き放った。
 二つの力は床を砕き、壁面を吹き飛ばし、崩れかけていた城を崩壊させていく。
 降ってきた瓦礫を蒸発させ、巻き上がる旋風と爆熱が彫像を溶かす。
 目が眩むほどの閃光の中で、赤い風が黄金の光を押し始めたのを見た。衰えなどなかった。三度目の開放にしてこの威力ならば、最早勝ち目は無い。これほどの宝具ならば、魔力消費とて尋常ではないはずだった。アーチャーの魔力量はそう多い方でもなかった。許容量でいえばセイバーの方が格段に上手のはずだった。それでも敵わない。微かな勝算も崩れて消えていく空しさにを堪えながら、悔いは無いと内心で呟く。
 全力で挑み敗北するなら、それは必定。仮にも英霊の端くれ。悔いなど無い。
 手元まで迫った断世の風を見つめながら、セイバーは歯を食いしばった。食いしばって、もう絞るだけの力も残されていないことに安堵し、エヌマ・エリシュに包まれる。
 鎧が溶けた。篭手が跡形もなく消し飛んだ。肌が音を立てて焼けていく。だというのに痛みも無かった。
 足が地から離れ、体が浮き上がる。あとは暴風波の成すがままにかき回され、焼き尽くされ、消える。

 ──“熾天覆う七つの円環ロー・アイアス

 士郎を斬って捨てようとした不届き者の声が聞こえたのはその時だった。吹き飛ぶセイバーの視界に、突如巨大な花弁が七枚展開する。一見脆弱そうなそれは、エクスカリバーでいくらか威力の鈍ったエヌマ・エリシュを、花弁を散らせながら押し止めた。
 その奇跡のような光景を、半ば夢心地で見ながら宙を待った体は、受身も取れずに床に転がった。
「セイバー!」
 床に背中を打ちつけて落下してから、声の方に首を巡らせる。それだけで全身が音を上げたが、志貴を背負った凛と、重症の体を引きずる今回のアーチャー。そして、階段を駆け下りてくる士郎の姿を見れば、痛みはどこかに消えていた。
「な、ぜ……ここに」
「バカ! お前を助けに来たんだセイバー」
 その押し付けがましい声音も懐かしい。たった一晩離れていただけなのに、心底懐かしい。身を挺してセイバーをバーサーカーから護ったことも懐かしければ、早々に見切りをつけた自分も懐かしい。独断専行で柳洞寺に乗り込んで、アサシンと奇妙な邂逅を果たしたりもした。志貴のことで気まずくなって、志貴に逃げられたあとで仲直りをしたりもした。
「……バカはあなたです、シロウ」
「そうだ、バカなんだ。だからそんなバカはおまえが見張っててくれないと、困る」
 瓦礫が次々と落ちてくる中、焼け焦げて湯気をあげる体に触れながら、士郎はあくまでも優しく言った。だからだ。敢えてつっけんどんな言い方になってしまうのは、そんな彼に再び会えて心底安心している自分を知られたくないからだ。
「次から次へと……蛆か蝿の類か下郎共。手を離せ。ソレは、オレのモノだ」
 そんな気分を台無しにする声が聞こえてきて、セイバーは体に力を篭めた。呆けている場合ではない。士郎たちが来たのなら、もう一度剣を執り、彼らを逃がさなければならない。
「聞こえなかったか雑種。貴様が触れて良いモノではない」
 その声には殺気が含まれている。見れば十を超える宝具が向かってきていて、今にもシロウを串刺しにしようとしていた。
「シロ……ウ! 逃げてく、ださい」
 途切れ途切れに叫ぶが、士郎の顔はまるで変わらない。変わり果てたセイバーに向けられる表情は、泣き笑いだった。
「大丈夫だよセイバー。アイツがいる」
 セイバーの視界に影が差す。襤褸切れのような赤い外套。ひび割れた甲冑。元から赤い外套は、己の血で真っ赤になっていて、歩けば血の足跡を残す英霊。既に限界寸前で佇むアーチャーだった。
「アー、チャー」
 その背が少しずつ遠ざかっていく、十の宝具に向けて一歩一歩近づいていく。足が止まり、背中が小さく息を吸った。
投影、開始トレース・オン
 その呪文には覚えがあった。だが、士郎はずっとセイバーの方を見ていて、口を開いていない。それに、響きの中の重みがまるで違う。世界にただ一人の担い手であるはずの士郎よりも滑らかにつむがれた呪文。
 赤い騎士が唱えたものだった。
 アーチャーの背から剣が飛ぶ。その数十。黄金のアーチャーが放ったものとまったく同じ宝具が、十。
 疑惑と確信が交差する中、『正義の味方』という言葉が思い出された。衛宮士郎の夢。理想。叶うはずなんてない、ただの青臭い理想論。ただの理想論のはずだった。アーチャーも、それを嫌悪したからこそ士郎に手を出したのだと思っていた。
 けれど、そこにいるのが彼の理想の権化だったとしたら。
「──エミヤ、シロウ──?」
 十の剣戟が響いた。甲高い音に、双方の武器が砕け散った気配を悟る。
贋作フェイク、だと」
 アーチャーが魔力を増幅させた。

 I am the bone of my sword.体は剣で出来ている

 Steel is my body,and fire is my blood.血潮は鉄で 心は硝子

 I have created over a thousand blades.幾たびの戦場を越えて不敗

 Unknown to Death.ただの一度も敗走はなく

 Nor known to Life.ただの一度も理解されない

 Have withstood pain to create many weapons.彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う

 Yet,those hands will never hold anything.故に、生涯に意味はなく


 それは呪文。
 世界を編み変えて、心を映し出す呪文。
 英霊エミヤの、悲しい呪文。
 きっと、正義の味方になろうと奔走して、その理想の尊さに挫けそうになって、それでも立ち止まることなど許されなかった男の呪文。
 『投影、開始』の言葉に篭められた思いの全てはわからない。
 ただそれでも、重みだけは伝わった。
 エミヤシロウは突き進んだ。
 正義の味方になるために、どこまでもどこまでも突き進んだ。
 後悔したくないから突き進んだ。己が間違っていないと信じるために突き進んだ。


So as I pray,"unlimited blade works."その体はきっと剣で出来ていた


 炎が走る。世界を孤立させる炎が走る。
 陽炎に揺られる世界に、黄金の男と紅蓮の男が相対する。
 エミヤシロウは振り返らず、最後まで背中を見せたまま、炎の壁の向こうに消えていく。
「本当に、何て勝手な人なのだ、シロウは」
 焼け爛れた体を引き起こす。脳髄は動くなと命令を下していたが、体が許さなかったらしい。もう鎧を再構成する力もありはしないのに、最大限にバネを利用して、その炎の内に入るべく跳躍する。
「待て! セイバー。アイツが何のために──!」
「エミヤシロウの剣となると誓った。大丈夫ですよ、シロウ」
 大丈夫なわけがない。しかし、行かないわけにはいかなかった。
「何のつもりだ?」
 赤い荒野に仁王立ちにした。突然の乱入者に、アーチャーが怒りを滲ませた声を出す。
「二度も言わせないでください。私は、貴方の剣となると誓ったのだ。死後もこの手を焼かせるとは、何事です」
 たとえここで死すとも、後悔などあるはずが無かった。
 最後に士郎の憮然とした顔が脳裏を過ぎって、胸をちくりと刺される痛みがあった。



***



 衛宮士郎は炎の向こうに消え去ったセイバーの影を追うように手を伸ばし、拳を握り締めた。強く強く、肌が白く変色するまで握り締めた。
 赤い炎と、その向こうに透けた荒野。その光景を、瞼の裏に焼き付けて、士郎は活目した。
「頼むぞ、アーチャー」
 死を覚悟の上で固有結界と呼ばれる魔術を行使した、己の理想に吐き捨てる。
「衛宮くん。もう崩れるから、早く」
 二階で志貴を背負う凛が、静かな声をあげた。アーチャーとは二度と会えない事実を受け入れて、平静であろうとする声だった。
「キャスターを連れて行こう。志貴を説得できれば、強力な戦力になる」
「……そうね」
 凛が頷くのを待ってから、キャスターが倒れている城門の入り口へ行こうとする。だがその足は、轟いた轟音によって止められた。
「上!」
 咄嗟に頭上を仰ぎ、五メートルはある瓦礫いくつもが落下してくる異常事態を認めると、体は咄嗟に反転し、頭から床に転がっていた。その途中、仰臥したキャスターの顔が見えた。
 ──笑ってる?
 次の瞬間には落下してきた瓦礫によって消えたキャスターは、笑っていたような気がする。一体ここで何が起きていたのかも知らない。セイバーと志貴が共闘していたと思しき状況に心当たりもない。バーサーカーとあの少女の姿がない異常だって、わからない。そんな中で笑みを刻む理由は何なのか。
「キャスターは諦めて! 早く」
 急かされた体が走る。次々落下してくる瓦礫を必死に避け、途中で折れた刀の刀身と鞘を拾う。全力で駆けて、辛うじて階段の体をなしている階段を駆け上がった。
「くそっ! なんなんだ、あの金ピカ野郎!」
 結局セイバーを救えなかった己に歯噛みしながら、志貴を凛と二人で抱き、崩壊していくアインツベルン城から脱出した。





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