願いは脆くも崩れた。見たのはキャスターの夢だった。ままならないものだ。暗澹たる気分で目を開ける。時刻は昼前と当たりをつけて、身体を起こした。キャスターから十二分に魔力を吸い上げ、漲る力は今にも溢れ出さんばかりだった。
 暖炉の薪はとうに切れていた。牢屋の中は凍えるほどの気温なのだろうが、寒さは苦にならない。寒かろうと暑かろうと、この身が鈍ることはあり得ない。
 暗い牢獄の光源は、鉄格子の向こうに申し訳程度の炎を燻らせるランプのみだった。ランプの灯りの下に、キャスターが立っている。深い紫色のローブは夢の中と同じ。違うところがあるとすれば、素顔を晒していることか。夢の中で、キャスターは一度も顔を見せなかった。
 キャスターはうつむけていた顔を僅かにあげて、セイバーが起床したのを確認すると、途端に頬を吊り上げた。それを人は魔女の邪笑と言った。情けないほど揺らいだ瞳には気づかず、彼女を恐れた。とるにたらない、ただの人間を恐れ、迫害し、結果反英雄に成るほどまでに囃し立てた。
 悪事は全て魔女のせい。そう決め付けられては、キャスターは魔女として生きるよりなかった。
「目覚めたのね、アーサー」
 アーサーと呼ぶ声に驚くことは無い。セイバーがメディアの夢を見たように、キャスターもアーサーの夢を見たのだろう。
「朝が早いのだな、メディア」
 それで何が変わることもない。セイバーにとってキャスターは打倒すべき敵であり、キャスターにとっても同じものだ。恨みは掃いて捨てるほどにある。その大半を占めるのが遠野志貴によるものだが、主の不足は部下が補うしかあるまい。
 故に、願いを踏み躙られたと猛る心は、今この場で彼女を切り捨てたい衝動を体に伝える。
「人の気配がまるで無いが、そこまで油断していて良いのか」
「そうね、油断かもしれない。城で迎え撃てばそれでいいのに。でもあの小娘は待てなかったんでしょう。一刻も早く、坊やを殺したくて殺したくて……」
 気が触れたように、キャスターはケラケラと笑い出した。
「ほんと、おかしくなるくらい一途で困るわね」
 セイバーは哄笑をあげるキャスターから視線を外した。狂人に付き合う余裕はない。揺らいだ夢。それを、どうやって取り繕えばいいのだろうかと、そこに意識が集約される。一晩眠ったくらいでは解決の足がかりにもならなかった。
 自分で気づいてしまった矛盾。遠野志貴というひび割れた鏡に映った己。鏡の向こうに、剣を携え騎士の遺骸を見下ろす自分がいる。血に濡れた赤い丘。血生臭い風に髪を靡かせて佇んでいる。それがアーサー王。忌むべき己の過去。傲慢で、尊大で、救いようの無い愚か者。たかだか剣を抜いただけでその気になり、良い国であるようにと小ざかしい夢を見た王。だがそれはあまりにも頑なで、セイバーには打倒し得ない。数え切れない返り血を浴び、それでも表情一つ変えなかった暗君。

 ──決めた。

 聞こえない。そんな馬鹿者の言葉など聞こえない。この戦争を勝ち抜くことで、おまえは消える。だからもう何も言わずに消えろ。その厚顔無恥な顔をみせるな。
 拳に鈍い痛みが走った。壁に、思い切り拳を叩き付けたのだ。一滴、また一滴とベッドに零れ落ちる赤い雫。壁には傷一つついていない。巌をそのまま持ってきたような、凹凸の激しい壁に、千切れて張り付いた肉がこびりつく。
 徒に体を痛めつけただけ。剣を持たなければこの程度でしかない自分は、笑う以外にどうすればよかったのだろう。
「惨めだな、この上なく」
 ちぎれた肉は既に再生していた。傷を負えば、半ば強制的に魔力を消費して、回復する。無様で生き汚い。この体は穢れている。多くの人々の怒りや嘆きを黙殺し、挙句国を滅ぼしたこの体は穢れている。
 だから消す。新たな王に任せよう。それが、最良だ。
 活目する。迷いは断ち切った。

 ──と決めた。

 聞こえない。代わりに聞こえたのは、忘れようの無い、金色の英雄の魂の音。
 前回の戦争で味わった二番目の屈辱。倒せないばかりか傷一つ付けられない。名だたる英傑たちを屠り去ったセイバーの太刀が、まるで効かない。そんな相手の気配を、忘れるはずが無い。
「感じているな、キャスター」
「ええ、もちろん。まったく記憶にない気配ね」
「令呪が仇になったな。これでは私は剣を抜くことさえできない」
 何故この気配がここにある。何故この時に存在する。内心の焦りなどおくびも見せずに、キャスターに『最後の令呪を使え』と言った。キャスターは渋面で上階を睨みつけている。
「決めろキャスター」
 キャスターは答えずに向き直って、小さな声で呪文を唱えた。青白い輝きに包まれた指先をセイバーに向ける。
「私に魔術は効かない」
「でしょうね」
 閃光が迸る。薄暗い部屋を一瞬照らした魔力の弾丸は、セイバーではなく、彼女が腰掛けるベッドを粉微塵に粉砕した。
「その様子を見ると、志貴はきちんと説明したようね」
 笑みを浮かべながら、キャスターは暖炉に歩み寄った。そこにはセイバーの聖剣が立てかけられている。
「それに触れるな」
 キャスターが触れようとした瞬間、セイバーは鉄格子目掛けて駆け出していた。令呪の縛りなど感じない。昨晩のように転倒せず、セイバーはまるで自由に走っていた。
「動ける……?」
「本当はね、セイバー。私がした命令は『目覚めた場から動くな』ではなく『ベッドから降りるな』だったということよ。つまりベッドが消えてしまえば、効果は無くなるわね」
 キャスターは聖剣に伸ばそうとしていた手を引っ込めて、再び鉄格子に向き直る。
「少し離れなさい。その綺麗な顔に火傷の痕なんて、似合わなくてよ」
 再びキャスターが一言呟く。一瞬の閃光のあと、鉄格子が溶解した。赤熱した鉄が、石を焼きながら地面を伝わる。セイバーとキャスターの間を遮るモノが消えた。
 セイバーならば、一瞬で間合いを詰め、聖剣を拾い上げてキャスターなど一刀の下に切り捨てられる。だというのに、鉄格子を破壊した。
 絶体絶命のはずだ。セイバーを僅かに押さえつけていた令呪さえ己から解除した。だがキャスターに焦りはなかった。
「上のアレ、私では勝てそうにない。でも、志貴を帰すまでは死ねない。彼がきちんといなくなったのを確認しないと、死ねないのよ。だからセイバー」
 つまりは、そういうこと。確かにそれは正しい。
「言うな。言われなくとも、そのつもりだ。私も先ほどから見知った気配を感じている。彼がアレに見つかる前に、何とかしなければ」
「それは頼もしいわね」
「そうするしかないのだから、仕方がない」
 夢が揺らごうとも、誓いだけは忘れてはならないのだから。
「アレの狙いは、何かしらね。貴女? それとも、イリヤスフィール?」
 ぶつくさと呟くキャスターは、何か考え込んだあと、セイバーを真正面から見据えた。
「五分でいいわ、持ちこたえられるかしら」
「善処しよう」
 ──信念さえ覚束ない体では、死にに行くようなものだろうが。
 微かに自嘲し、セイバーは聖剣を握った。






Excalibur
英雄





 疾風はしる。突風のように。
 はしる。津波のように。
 邪魔を切り裂き、なぎ倒し、限界を超えて更に走った。
 二つの風と濁流は常軌を逸した速度で疾走し、やがて森の切れ目を迎えた。それでも速度は衰えない。アーチャー達は唐突に反転した志貴達を、いくらか遅れて追いかけている。アーチャーは切り裂かれ、血に塗れた外套を翻し、全速力で走っていた。それでも追いつかない。万全でも追いつけるという自信は無かった。それほどに、バーサーカーと志貴は異常だった。
 志貴は、己が何のために駈けているのかさえ忘れていた。キャスターが戦っている。知ったその瞬間に、悩みなど消え失せた。誰かにキャスターが倒される光景は、見たくない。見てはいけない。彼女を送り出すときは、作り物でも笑顔を向けて「ありがとう」と言わなければ、気がすまない。
 今になって気付く。キャスターが聖杯の真実を話す必要など無かったことに。聖杯戦争に勝ち抜くことが目的ならば、妹を救えないという言葉は隠せばよかったことに。
 人間など滅びてしまえばいいと思う裏で、人の温もりが愛しいとずっと願ってきたのだから、言わなければよかった。そうすれば遠野志貴は、何も知らずに彼女と共にいたのに。
 だが報せてくれた。怖がりながらも教えてくれた。信頼してくれていたのだろう。でなければできない。ならば、裏切ったのは誰だ。
 こんな終焉は認めない。絶対に認めない。
 知ってしまった以上、これ以上戦うことはできない。けれど、彼女に謝ってからでないと、帰るなんて選択肢は、選べない。
 故に疾風はしる。突風のように。
 バーサーカーはただ主に従うだけだった。ただ主の必死さに比例して、足に力を込めるだけ。まともに思考する頭脳などありはしない。主が『走れ、もっと速く、速く』と繰り返すたびに、力強く大地を踏みしめる。主が必要とするならば、海さえ割って走る自信がある。
 主の心から不安で零れ落ちているようだった。バーサーカーとて気付いている。あの騎士と対等以上に戦うこの気配が、此度召喚された七騎のいずれにも該当しないということに。
 だがそんなことは関係がない。主が必要とするからはしるのみ。津波のように。
 腹に響く地鳴りが、屋敷の窓ガラスを粉々にしながら襲ってくる。何度も何度も、その度に志貴の体は冷えていく。
 セイバーとの契約で、キャスターはその強大な魔力量を半分近くまで減らしているが、無尽蔵に近い魔力には余裕がある。魔力を世界から取り込む技術において、キャスターほど長けた者はいない。それでもこれほど影響されるということは、セイバーを戦わせているためだろう。剣戟の一撃で閃光が城を包み、疾走するだけで床が踏み抜かれる。
『セイバーも哀れよね』
 ふと、いつだったかキャスターがぽつりとこぼしたセリフを思い出した。
『他の魔術師と契約していれば、もっともっと強かったでしょうに」
 それを体現したのがこの地鳴りだ。昨晩は耐えられた。だがこれはどうだ。遠く離れていても感じる、強い魔力。大気を揺るがす裂帛の気合。その全てが、神技の粋。
 セイバーが反旗を翻し、キャスターに刃を向けているのか。
 あるいは乱入者を二人で迎え撃っているのか。
「嫌な、予感がする……」
 イリヤが呟いたとき、アインツベルン城の城門を抜けた。その先は、広間になっている。正面の階段は、二階のテラスと奥の廊下に繋がっている。だが、階段はその半分が破壊され、テラスは大部分が落下している。絢爛華美な広間は、荒れ果てた廃墟のように、荒涼としていた。
 バーサーカーは立ち止まる。その横に、志貴もまた停止した。
 金色の男が立っている。黄金の鎧、篭手、具足。逆立った黄金色の頭髪。黄金のピアス。赤い瞳を残した他を全て黄金で統一した男は、いつか、そう確か教会で見た男に酷似していた。
 問題はそこではない。あの神父がろくな人間ではないということなど、第一印象から判っていた。たとえサーヴァントを持つ参戦者だったとしても、おかしくはない。ソイツが八人目だとしても、どうでもいいことだ。聖杯の気紛れだと考えればなんてことはない。異常なのは、セイバーが階段の上で膝をついているということと、キャスターの姿がないこと。
 見知らぬ男は肩で息をするセイバーに向けていた目を三人に向けた。
「──ほう、帰ったか。余りにも暇だった故、余興が過ぎた。下がっていろ騎士王、今はお前と戯れる時ではない」
 信じられるはずがなかった。セイバーは階上。男は階下だ。その優位にあって、セイバーは膝を折る光景など、信じられるわけがない。
「何なの……アナタ」
 イリヤの様子も、ここに来て最悪のようだった。震え、幼子のように首を振り、あり得ない光景を否定しようとしていた。
「この身はオマエもよく知るサーヴァントだろうに、何を恐れることがある」
「知らない、アナタなんか知らない……わたしが知らない英霊なんて居る筈がないんだから──」
 取り乱した様子で首を振るイリヤは、最早正常な思考など忘れていたのだろう。その体は軽やかに宙を舞い、着地するやセイバーを傅かせた英霊を相手に、バーサーカーを送り出した。
「殺しなさい、バーサーカー!」
 狂戦士が吼えた。志貴の脇を、黒い猛獣が疾駆した。その瞳が一瞬だけ志貴を見た。感情は読み取れない。ただほんの一瞬目と目が合わさってだけで、伝わってきた。
『アレは我が抑えよう。貴様は主を連れて往け』
 一直線に猪突猛進する。それ以外は知らないと、ヘラクレス本来の卓越した剣技、弓技を棄て、狂った猛獣と化したギリシャ最強の英雄は、黄金の男を肉塊にすべく駆けた。
 黄金のサーヴァントは無表情に、向かい来る巨体を見据えた。
 イリヤを抱きあげて、敵に背を向ける。イリヤは暴れた。バーサーカーの側から離れたくないと喚いた。
「俺たちが居たら邪魔になるんだ」
 嘘ではなかった。しかし虚言だ。
 とっくにイリヤも理解している。だからこそ、バーサーカーと会えなくなるから嫌だと、彼女は嘆いているのに。正論ぶった言葉をぶつけて、逃げようとしている。
 ──死ぬわけにはいかないから。
 構わずに走った。城門は目の前。だがその直前で、志貴は反転を余儀なくされた。凛を殺そうとしたように、体が勝手に舞い上がった。両手をふさがれていては、完全とはいえない跳躍。それが回避行動だったのだと気付くより先に、焼け付くような痛みを背中に感じていた。
 何かが背中を掠めただけ。だがその傷は灼熱の衝撃波で肌を焼いた。
「ほう──。それを避けるか」
 宙返りをする視界の中に、黒光りする剣を見た。セイバーの剣と対等な、神々しい気配を持った剣。志貴の背中を切り裂いて飛んだ剣。宝具と見て間違いないそれは城門を突き破り、崩壊させ、蓋をした。
 広間から出られる道は二つ。今塞がれた城門と、セイバーが倒れている二階。城門を瓦礫で塞がれた以上は二階から出るしかない。だが、そこに向かうにはあの黄金のサーヴァントを越えなければならない。だが今投擲されたものは、宝具。なら、今あの男は丸腰ではないのか。
 ──宝具を投擲するなんて、馬鹿か。
 焼け付くような痛みを堪えつつ着地する。退路を見定めるために顔をあげて、戦慄した。今度は三つ。形の異なる、紛れもない宝具たちが襲い掛かってきていた。
 馬鹿か。と今度は自分を罵倒する。バーサーカーを相手にしなければならない者が、武器を棄てるはずなどない。もっと強力な術があるからこそ、あの魔剣を投げてきたのだ。
 緩く巻いたベルトに差し込んだ鞘を放り投げ、刀崎を握った。刀崎翁一人の人生を打った一刀。その紛れもない名刀が、三振りの魔剣聖剣を前にしては、役不足でしかなかった。
「──クソ」
「シキ……わたしを置けば逃げられるでしょ」
「できるか、そんなこと」
 遠くで、バーサーカーが雄叫びを上げた。それに呼応するように慧眼を光らせる。脊髄から脳髄まで駆け上がる電気ショックのような痛みは、気力で相殺した。既に包帯を外してから三十分以上経過している。これ以上は酷く成りようがない。信じて、無機物──それも宝具の死を睨め付けた。
「視える」
 薄く細い線が数本、三振りの剣それぞれに視えた。だが、こちらに刃を向けて飛ぶ以上、線は点でしかない。イリヤを片手で抱いている状態では、迎撃は不可能だった。
「首に腕回して」
「え?」
 イリヤの体重はおよそ三十キロと半分ほど。無論軽いのだが、ろくな鍛錬を積んでいない志貴では、彼女を片腕で抱いたまま跳んだり跳ねたりは難しい。
「早く」
 おずおずと腕を回したイリヤが、胸に顔を埋める。震えていた。胸が痛い。こんな子供が、何で殺し合いの戦争なんかに参加しているのか。
 左足が縮み、地面を蹴った。三本の魔剣聖剣の間隙を縫うように体を移動させる。回避には成功したが、今度は右腕と頬に裂傷を負った。
 追撃はなかった。つまらなそうに吐息を零した黄金の男は、突進してくるバーサーカーには目もくれず、志貴を見ていた。
「バーサーカー!」
 狂っている。
 志貴は初めて、男がどういった方法で攻撃しているのかを見た。
 男の背後には無数の刀剣があった。古今東西、どうすればそれだけのものを集められるのかという数の剣が、浮遊していた。あるいは待機していた。王の号令を待つ兵士たちのように。剣を砥ぎ、己を高め、放たれる瞬間を待ちわびている。そこに雑兵はなかった。皆が皆歴戦の猛者であり、王だった。
「全部が、宝具……?」
 それを、バーサーカーは一身に受けていた。宝具クラスの武器を全身で受け止め、時に叩き落しながら、じっと堪えている。何かを守るように、仁王立ちしている。頭が飛び散り、腕が寸断される。それでもバーサーカーは踏みとどまっていた。
 こちらを探るようなバーサーカーの様子に、志貴は己の迂闊さを呪った。
「全部避ける。好きに戦ってくれ」
 バーサーカーは動かない。頑なに、動かない。その身は彼女の言葉を待っていた。主の一声を。
「シキ?」
「言ってやれ」
 イリヤが頷く。小さな口が躊躇いがちに開閉し
「狂え、バーサーカー」
 轟と、猛獣が哭いた。途端、バーサーカーはその巨体に見合わぬ速度で横に跳び、黄金の男目掛けて疾走する。
 速かった。剣の雨は標的を見失い、見当違いの床や壁を破壊して消える。あの巨体が霞んでいる。二メートルを優に越える巨体が、あまりの速度にブレてみえた。かのランサーのように、受けて、回避し、前進する。イリヤがぽかんと見蕩れるほどに、速かった。
「あんなバーサーカー……見たことない」
 流れ弾を回避する志貴の腕の中で、イリヤが呆然とした声をあげる。それも当然だった。バーサーカーの背後にはいつもイリヤが居たに違いない。だから、バーサーカーは常に防戦を強いられた。彼女を傷つける要因を全て排除するために、バーサーカーは動かず戦ってきた。その、ランサーにさえ引けを取らない機動力を、開放する機会がなかったのだ。
 狂化すれば、サーヴァントは標的を殺すためだけの殺戮兵器に堕ちる。その点ではこのバーサーカーもそうだった。だがその動きには、確かな知性を感じた。標的を打倒するために、一直線に進路を取るのではなく、最短で殺すための行動を取る。それが、ギリシャ最強の英雄に染み付いた常識。剣技を忘れようと、考える知能が無くなろうとも、染み付いた癖は消しようがなかった。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンでしか為し得ない奇跡が、そこにあった。
 振り払った豪剣は、三つの宝具を叩き落す竜巻だ。黄金の男の顔は無表情ではあったが、既にこちらには意識の欠片も向けられていなかった。眼前の脅威を排斥することに、全力を注いでいる。止め処もなく刃を射出しては、バーサーカーを殺そうとする。だが、それらは空しく空を切った。あるいは叩き落された。豪腕だけで、宝具など物の数ではないと吹き飛ばす。
 ゆえに、『全部避ける』という言葉は不必要になった。その力の全てがバーサーカーに向けられた今、志貴たちを狙う剣は一本たりともなかった。バーサーカーは、黄金の男を支点に志貴たちと対極側に回っていたから、最初に回避した一回を除けば、流れ弾さえ消えた。
 目指すのは階上。剣を杖のようにして立ち上がろうとしているセイバーの元へ。それは賭けだ。彼女が志貴たちを見逃してくれるかどうか。
 志貴は駆けた。バーサーカーが押し止めてくれているその間に、脱出すべく。いや、あの様子では、逆に殺しかねない。
 硬く、強く、速い。
 そんな文字通りの怪物を、どうして倒せるのか。だが油断などできない。今は脱出し、身を隠し、勝利したバーサーカーを迎えればいい。
 そう考えた瞬間だった。
「それほどに護りたいか……」
 底冷えのする声が聞こえたのは。




***





 イリヤは思い出に蓋をして、目を開いた。志貴に抱かれて走っている。その胸の中で、バーサーカーの姿を見た。巌のような体が風のように走る。強かった。圧倒的なまでに強かった。
 最強の名に恥じない強さ。イリヤは自分がバーサーカーの枷になっていたことを知った。だが、イリヤでなければ、バーサーカーがあの力を発揮できないとも知っていた。互いに互いが不可欠だった。
 ああ、本当に彼でよかった。彼ならきっと、あの見知らぬ英霊も倒してくれる。
「それほどに護りたいか。ならば防いでみせよ。同じ半神のよしみだ、我が全力を以って、貴様の主を屠り去ってくれよう」
 なのに、その言葉には、本当にそうしてしまいそうな力が篭っていて。
「イヤ……」
 バーサーカーはきっと、ここで命を落とすんだと、理解してしまった。
「“天地乖離すエヌマ──」
 ようやく手に入れた温もりだった。
 お父さんみたいだと、思った。
 抱き上げてくれなくてもいい、撫でてくれなくてもいい。器としての役目を果たすその瞬間まで、一緒にいてくれればいい。
 願いはそれだけ。
 復讐ももうどうでもいい。だから神様、
「──開闢の星エリシュ”」
 バーサーカーを助けてください。

『バーサーカーは強いね』

 初めて触れて、声をかけた。
 バーサーカーの体は温かかった。
 自分の声も、聞いたことがないくらい暖かかった。
 そんな思い出がある。一緒に生き延びた。一緒に戦い抜いた。
 バーサーカーは強い。世界で一番強くて大きくて、優しい。言うことを何でも聞いてくれる。言わなくてもわかってくれる。話を聞いてくれる。撫でてくれたり、抱いてくれたりはなかったけれど、イリヤが今まで持っていなかったものをくれた。
 だから、殺さないで。
 目を閉じて祈ると、目の前が真っ暗になった。




***




「──ならば防いでみせよ。同じ半神のよしみだ、我が全力を以って、貴様の主を屠り去ってくれよう」
 その声と共に降ったのは鎖だった。三百六十度を囲まれ、次の瞬間には全身が縛り上げられていた。
 見えなかった。絡みつく瞬間も、締め上げられていく過程も。鎖は現れた瞬間に志貴の四肢を捕えていたのだから、回避などできるはずがない。鎖の力は強くはなかった。それで十分だと言わんばかりに、ある程度弛緩させていた。かといって抜け出せるほど甘いものでもない。
 大きく跳躍した黄金の男は、剣の雨でバーサーカーを牽制しつつ、一振りの剣を握る。剣と呼ぶのもおこがましい風体のモノだったが、それは確かに剣として存在していた。肉を断つものではなく、もっと大きなものを切り裂くための剣。
 着地した男は、身動きの取れない志貴たちを見て、哄笑を上げた。呼応するように剣が回転を始めた。吹き上がる魔力。大気そのものを吸い上げ、暴風が巻き起こる。空気が打ち震え、大地が鳴動した。

「“天地乖離すエヌマ──」

 そのあまりに大げさな真名も、虚言ではない。回転する刀身から、ジェット噴射さながらに魔力が溢れ出す。だから、虚言ではない。それはきっとこの世をEarthAirに分けた、創世のEA。或いは、エアと呼ばれた神そのもの。世界を始まりに導いたものに名などあるはずもなく、ならばそれは、誰も知り得ない剣だった。

「──開闢の星エリシュ”」

 世界が断裂した。赤く巻く破界の渦に、世界が切り裂かれていく。閃光と風によって、アインツベルン城が崩壊していく。たかが人の造りだした建造物の一つなど物の数ではないとばかり、赤い波動が視界を埋め尽くした。
 死ぬ。
 頭の中がその単語だけで一杯になった。死ぬ。完膚なきまでに、殺される。
 夢も、最後の希望も志も何もなくした体を、天地を切り裂く剣が飲み込んでいく。暗い奈落の底に叩き落される感覚は、いつか経験したことがあるものだ。
 腕の中のイリヤを強く抱いた。震える体が、強くしがみついてきた。何かを強く祈るように、喚いていた。赤い閃光のせいで顔はわからない。それが幸いだった。自分の顔など見せられない。絶望に染まりきった顔なんて、見せられるはずがない。

 だが死はいつまでもやってこない。

 暗い闇の中、宙に浮いたような感覚の中、志貴は暗い世界において輝く背中を見た。バーサーカーというクラスが剥がれ落ちていく背中。隆々と逞しい筋肉に固められた背中。
 突風と閃光で朧にしか視認できない。その肌は雄雄しく肌色。その腕は世界を押さえ込み、幾多の魔獣を打ち破ってきた。
 聞こえたのは咆哮だ。城が砕け、瓦礫が落ちる音よりも尚大きい雄叫び。それは理性を失った怪物のモノではなく、一人の人間が、死力を尽くすために吐き出した咆哮。
 両腕を広げ、腰を落とし、巨大な足は地面にめり込みながらも、後退しなかった。十二の試練を越えた英雄は、星を割る力をその身一つで受け止める。ありえない。あってはいけない光景。だが、有り得ないことを可能にする者こそが英雄であり、紛れもない英雄がそこで、新たな伝説を作り出そうと堪えていた。
「ヘラクレス……」
 止まない咆哮が響き渡る。
 その背中はきっと、イリヤ一人に向けられたものだ。父が子を護るような、あまりにも雄大な背中。体は何度も何度も消え去る。だがその度に蘇り、堪え、また消滅する。それでもイリヤのために蘇り、身を焼く剣を押し止める。死ぬこと十度。世界を切り裂くはずの剣は、城の一つを半壊させるのみで、とうとうその刃を退いた。
 紛れもない、バーサーカーの勝利だ。
 残ったのは、無傷で巌のように構えた漆黒の狂戦士バーサーカー
「イリヤ、おまえのサーヴァントは、本物だ」
 胸の中で、イリヤは目を開かない。怖がっているのかと、左手でゆすってみた。しかし、動かない。それどころか、その体は体温を失っている。
 首に回された手に力がなかった。胸に押し付けられていたはずの頭も、力なくうな垂れていた。鼓動はあった。小さな心臓が、生きようとしている鼓動はあった。
 恐ろしい想像をした。何せ、理由がない。彼女が冷たくなって力を失う理由がない。バーサーカーは完全に受け止めきった。なのになんで──
「侮ったか。腐っても半神……貴様は見事だったヘラクレス。だがな、オレの勝利だ」

 ──死んでいる?

 心臓は動いていても、魂が死んでいる。人として重要な何かが、欠落している。動かない、物言わぬ人形が在るだけ。
「“王の財宝ゲート・オブ・バビロン”」
「逃げなさい」
 声に振り向けば、二階から続く階段を駆け下りてくるキャスターがいた。その途中でセイバーを見下ろし、何か告げて、再び駆けてくる。今までどこにいたと訊ねることもできない。イリヤスフィールが死んでいる。
 納得できない。考えられない。何故死んだ。何故死んだ。
「早く逃げなさい!」
 キャスターの叫びと同時に、体を縛り付けていた鎖が緩んだ。
 宝具の雨が降る。バーサーカーは動かない。当然だ。彼こそとっくに死んでいる。
 咄嗟に鎖を抜け、イリヤを抱き上げて、跳んだ。もう止まってしまった体を、強く強く抱いた。空を舞う。半円を描いて、二十もの刃から逃れるために跳ぶ。十五を回避した。右手の刃は幾度も閃光し、四つの宝具を殺すことに成功した。
 だがそれは結局失敗に終わった。一つ。回避も迎撃もできなかった剣が、何かを抉った。
 小さな唇が血を吐いた。腹に暖かいものを感じた。服に染み込んで、肌を濡らす液体。両手が真っ赤に染まっていた。血。イリヤの腹を貫いた、名も知らぬ名剣が噴き上げさせた鮮血。
 幼い体を貫いても剣の勢いは止まらず、志貴ごとイリヤを地面に引きずり落とす。辛うじて立ち上がった志貴は、変わり果てた少女を見た。
 目を恐怖か何かに見開いて。
 つぐんだ唇から血を吐いて。
 まるで墓標のように背中から剣を生やして。
「イリヤ?」
 返事など無いと知っていながら、声をかけた。
 今度こそ完全に、イリヤの息の根が止められた。
「ウソだ……」
 バーサーカーが消えていた。最初からなかった様に。役目を果たせなかったとばかりに、何も言わず、消えていた。
 広間を風が悲しく凪いだ。
 イリヤの瞼を閉じる。仰向けにする。赤い血。白い肌。紫色のコートに帽子。
 悪態ばかりついている少女だった。もの悲しい悪態を吐く少女だった。悲しくて寂しくて人をけなすことで自立しようとする少女だった。頬は柔らかかったし、時折みせる笑顔は愛らしかった。
「ワカラナイ……なんだって、おまえが……」
 そんな彼女を、守れなかった。逃げることばかりに気を取られて、バーサーカーと共にアイツを仕留めるという選択肢を黙殺した。だから彼女は死んだ。思い上がりでもいい。志貴がその気になれば、倒せたかもしれないのに。
 ──だから俺はきっと、イリヤを見殺しにした。
 彼女の姿を二度と忘れないように瞼に焼き付けてから、志貴は顔をあげる。腕を組んでたたずむ黄金のサーヴァントを、蒼い目で見た。
 戦う理由を失った。
 奇跡を求める理由を失った。
 そんなことに拘って、腕の中で震える命の一つも救えないというなら、もう何も考えなくていい。
 今は、この胸に去来する怒りと悲しみだけに従えばいい。
 たとえ届かないとしても──
「助かった命、粗末にするというのなら最早加減もあるまい。去るならば見逃してやるつもりでいたが、あの半神ならばまだしも、雑種如きに足掻かれては甚だ不愉快だ。その身、肉片ものこらぬと思え」
 あのサーヴァントを──
「志貴!」
 斬刑に処す。






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