凡庸な一突きはこの胸を貫き、オレをその場に磔にした。
 理想を求める心、夢を追う気概。そんなものを、心に突き立てる一撃。
 理想と現実が混ぜっかえり、真実を見失う。その時点できっと、オレはオレでなくなったのだろう。或いは、オレがオレに立ち返ったのか。
 目を覚ませば、陽が昇りかけている。
 見下ろす遠坂凛の心配げな視線を見返して、オレは苦笑しながら呟いた。
「おはよう、遠坂」




Excalibur




 起きてからしばらくは、じっと天井を見つめていた。襖の向こうから聞こえてこない息遣いを探すように、左手に感じていた繋がりを求めるように。じっとじっと天井を見つめた。
 朝だ。傍らでじっと見下ろしてくる彼女に『おはよう』と言ったのだから朝だ。死神に一太刀も浴びせることなく、斬られることもなく、馬鹿正直に足蹴にされ、失神したのだ。そこから無様に眠り続け、もう朝が来た。
「調子はどう? アーチャーが滞ってた流れを正常に戻してくれたから、死ぬほど辛いってことは無いんじゃない?」
 遠坂凛は朝なのに凛とした顔つきだった。寝ぼけた頭が一瞬で覚醒する。無表情に一抹の情も表さない顔は、学校でガンドを乱射したときに良く似てる。凛が時折見せる魔術師の顔。士郎はアーチャーが助けてくれたという異常に対する疑問さえ飲み込んで、凛と対峙するように見つめあった。
「最後に餞別ってところね」
 半ば予想通りの言葉だったといえるが、それでも脳みそが攪拌されるのは回避できなかった。最後という言葉は額面どおりの意味だろう。遠坂凛は衛宮士郎とここで訣別すると言っている。
「元気ならもういいわね」
 凛は立ち上がり、背中を向けた。
「待てよ遠坂。行くんだろ、アイツのとこに」
「ええ。だから、さようなら衛宮くん。ちゃんと療養しなさい」
「待て、俺も──!」
 腹に力を込めようとして、唖然とした。体が起き上がらない、動かない。まるで金縛り。全身が硬直していて、脳みそが必死に送る電気信号が受理されない。
「わかったでしょ、死ぬほど辛くはないだろうけど、動ける体じゃない。だから大人しくしてなさい」
「でも、だからってお前だけ危ないところに行かせられるか!」
 士郎の言葉は必死だった。それこそ哀れになるくらい。しかし、ここで行かせたら何かを失ってしまう。その理性が、彼女を行かせるのを是としない。懸命に言葉を捜す。
「勘違いしないで。わたしたちはセイバーを助けに行くんじゃない。マスターじゃなくなった衛宮くんとはもう休戦協定なんて組む必要は無い。だから、セイバーがまだ陥落していないっていう望みに賭けて、セイバーごとキャスターとバーサーカーを倒しに行く。ここを逃したら、つぶされるのを待つだけの蟻になる。そんなのは嫌だから、打って出る」
「それはおかしいだろ。セイバーが連れて行かれたのは俺のせいなんだから、遠坂たちが危険な目に遭う必要なんかない」
 凛のまぶたが落ちた。言葉を吟味するように。あるいは止めを模索するように。士郎は生唾を飲み込んだ。
 僅かな呻吟のあと、開かれた瞳には、敵対心のようなものが滲んでいた。それで何となく、次の言葉も予想できてしまった。
「わたしはね、あなたが邪魔だと言っているのよ、衛宮士郎」
 止めだった。
 力が抜けた。ずっと憧れていた。いつの間にか、ただ遠くから眺めていただけの彼女と、生死を供にするまでの仲になった。憧れは好意に変わっていった。だからその言葉は衛宮士郎が最も恐れた言葉だ。言われては最早どうすることもできない。ジョーカーみたいな言葉だったから。
「さようなら」
 呼び止める言葉が見つからない。『がんばれ』『死ぬなよ』どれも間抜けだ。なら士郎に言葉はなかった。
「アイツ──は」
 凛は振り返らず、立ち止まっただけだったのだから、
「アーチャーは大丈夫なのか」
 そんな、藁にも縋るような言葉に意味はない。
「大丈夫よ」
 それで本当に手詰まり。士郎は目を閉じ、凛を送った。

 屋敷は静かになった。腹をすかせたセイバーの声も、起き抜けで幽鬼のような姿の凛もない。たった一人だ。震えるほどに寒い。
 藤村大河があわただしくやってきて、桜と一緒に朝食を作る。ほんの数日前まで、それが日常だった。だが、聖杯戦争に奪われた。大河は入院している生徒たちに付きっきりで、桜は慎二に連れ戻された。
 大河は元気だろうか。慎二は無事だろうか。桜は──。
 身の回りが一変した。聖杯戦争から脱落して、周囲が元に戻るならいいだろう。しかし、既に大きな変化がある。遠坂凛をただの優等生と見て、憧れることはできなくなった。慎二が学校中を巻き込んだ者だという認識を消すことはできない。それが、半端な覚悟で聖杯戦争に臨んだ衛宮士郎に突きつけられた代償だ。
 この先、凛が勝利して平和になればいい。だが、もう元に戻ることなどない。サーヴァントが居る限り、いつまた崩壊するとも知れない。少なくともこの街は、サーヴァントが消滅するまでは安全ではない。そんなところに友人や無関係な人々を置き去りにして、逃げようとしている自分は何者か。
「けど、俺には──力がない」
 及ばない。限界を見せ付けられた。たった数日の稽古では及ばないところに在る者と出会ってしまった。決死の剣は容易く受け流された。サーヴァントでも何でもない、人間に。それで、数年間にも及ぶ日々の修練が、自己満足以外の何物でもないと思い知らされた。
 衛宮士郎はここで終わる。正義を夢見た男は、その実くだらない自尊心さえ満たすことができずに、終わった。
「理想を抱いて溺死しろだって……? その理想さえ、俺は貫けなかった」
 貫こうとした。貫こうとはした。しかし邪魔だと言われて。おまえの振りかざす正義は邪魔なのだと言われて、衛宮士郎にどんな手が残されているのか。
 もう眠ってしまおう。
 何もかも忘れて、消えてしまおう。

『貴方が、わたしのマスターか』
 月明かりが照らす土蔵の中。彼女の第一声はそれだった。威厳たっぷり。誇りの塊みたいなソイツは、じっとあの碧玉で見下ろしていた。

 ──違う。俺は、おまえのマスター足り得なかった。

 目を閉じる。セイバーや凛の様々な表情。この数日間に見た喜怒哀楽が、脳裏に浮かんでは消えていく。
 走馬灯とは違う。体が最後の力を振り絞って、諦めようとしている頭を説得している。彼女たちを見捨てるのかと、がなり立てる。けど仕方がない。邪魔だと言われたんだ。衛宮士郎が本当に正義の味方になれたのなら、邪魔だなんてことは、絶対にありえないのに。
 ふと伸ばした手は、何も掴まずに握り締められた。その手は何を掴もうとしたのだろう。
 血塗られた丘を歩む彼女を救うと決めた。共に勝ち抜こうと決めた。その彼女を奪われ、途方にくれている。同い年の少女に邪魔だと言われ、魂が抜け落ちたような顔をしている。なんて情けない。なんて間抜け。
 気づけば涙が浮かんでいた。その生を否定された空しさに。届かぬ力への悔しさに。
「しろぅ……おなかへったよぅ。どこー?」
 突然聞こえた威勢のいい声に、間の抜けた返事をする。
「藤、ねえ?」
 声に反応したように、大きな音と共に襖が開け放たれた。むすっと膨れっ面がそこにある。きっと二日間ろくに眠っていないのだろうに、藤村大河は藤村大河だった。
「こんな時間まで寝てたらいけないん──士郎……? どうしたの?」
 手も動かないから、涙は拭えない。士郎は頬を濡らしたまま、大河を迎えていた。
 膨れっ面は呆然となり、やがて青褪めていく。まるで百面相だ。
「調子悪いの? なんで言わないの。何かあったらすぐに連絡しなさいって言ったのに!」
 喚きながら駆け寄ってきて、士郎の体に触れる。その顔は、最早蒼白だった。
「すごい、熱。バカ士郎! 強がって。あなただって学校に居たんだから、検査くらいしなきゃいけなかったのに。泣くほど辛いのになんで言わないの! バカ士郎!」
 大河は勘違いをしている。けれど、今にも泣き出しそうなその顔を見ていれば、わざわざ訂正する気にもなれなかった。冷たい大河の手のひらが気持ちいい。頬に触れる手のひらが心地いい。
 大河は元気だった。士郎の心配が間抜けに思えるほど元気だった。彼女の泣き顔はとても綺麗で、十年も共に居た彼女は真摯に士郎の身を案じてくれている。それが嬉しくて、彼女が悲しむ姿なんか見たくなくて。
 そんな顔をさせるくらいなら、こんな体はどうなってもいいんじゃないか。そう思った。
 誰もが笑って暮らせる世界。誰もが幸せでいられる世界。それは誰が望み、誰が受け継いだ夢だったのか。
「ハ──ハハ」
 何故忘れてしまっていたのか。それこそが、衛宮士郎が生きる理由。存在する意味だったのに。
「切嗣の夢──」
「士郎?」
「俺の夢だ」
 そんな、簡単なことも忘れていた自分に気づいて、士郎は笑った。力が及ばなくても、諦めずに戦う。セイバーを勝たせると約束した。彼女の苦しむ姿を見たくないと強く思った。
 何故自分は凛にかける言葉など模索したのか。本来言葉など不要だ。信じる理想があれば、言葉など無価値無意味だ。凛が納得しなくとも、セイバーを勝たせるという誓いはまだこの胸にある。だから、理由なんてそれで十分すぎた。
 断線した筋肉を無理やりに結ぶ。ぎっちりと、硬結びに結んでやる。ほら、それだけのことで、体は動く。
「何してるの士郎。わたしのご飯なんか良いから、寝てなさい」
「うん、ごめん藤ねえ。飯は作れそうにない」
 誰もが笑っていられる世界。それを望む人間が、身近な者の泣く姿を許容していいわけがない。セイバーが、遠坂凛が、消えてしまっていいわけがない。
「わかってる。だから無理しないで。今お医者様呼ぶからね!」
 大河は起き上がろうとする士郎の肩を掴んで、押し留める。涙をぽろぽろと流している様を見れば、自分がどれほど故障しているのかなんて、嫌でも理解させられた。
 肩を押さえつける彼女の手に、士郎は優しく手を重ねた。
 大河の顔は自責にとらわれてもうぐちゃぐちゃだった。士郎がこうなったのはわたしのせいだ。自分がもっとしっかりしていれば。自分が傍に居れば。濡れた瞳がそう嘆いていた。
「違うよ藤ねえ。ありがとう。けど、行かないと」
「何をしに行くっていうのよ。お願いだからやめて……士郎が、士郎がいなくなっちゃいそうだよ……」
 重ね合わせた手に力を込める。大河は肩を震わせた。声も震えている。掠れて、彼女こそ今にも消えてなくなってしまいそうで。彼女をそうさせているのが自分かと思うと悔しくなる。けれど進まなければならない。立ち止まってはいけない。そうしたら自分は、本当に終わってしまう。言葉は失ってもいい。けれど理想を目指す行動だけは止めてはならない。
 遠野志貴相手に日々の鍛錬の成果など見込めなくとも、この身体にはもっと別の力がある。
 ゆっくりと上半身を起こし、同じ高さから大河と見詰め合う。いや、少し士郎の方が高い。いつの間に追い抜いたのだろう。十年前の自分は大河の半分ほどしかなかった気さえするのに、大河はわずかに首を上向けて、しゃくりをあげていた。
「帰ってきたら、目いっぱい旨い物を食べよう。だから、今はごめん。必ず帰ってくる」
 手を握ったまま、正面から見詰め合った。やましいことなど何もない。俺は必ず帰ってくる。その想いを、視線に乗せる。
 たっぷり一分間はそうしていた。見詰め合うなんて生易しいものじゃない。大河の視線は冗談ではなく戦士のそれだ。だからその一分間、士郎は有りっ丈の想いをぶつけた。今までは、勝てなかった。いつだって本気の大河には勝てなかった。
 けれど今回は負けない。
 再び一分間が経った。
「……こうなったら、士郎は聞かないんだから」
 溜息とも、嗚咽ともとれない吐息が零れる。
「行ってきなさい士郎。けど、何かあったら許さない。地獄の底まで追いかけていって面打ち一千本よ」
「ああ、必ず帰る」
 最後にもう一度手を握って、立ち上がる。強引に繋げた筋肉は思いのほか、いや、普段よりも良く動く。最初の右足を踏み出す。それが畳を踏みしめた瞬間、士郎は風になっていた。塀を飛び越え、歩きなれた道を文字通りに疾走する。
「待ってろ、セイバー」
 目指すのは、郊外の森。



***



 ふとした違和感に目を覚まし、音もなく立ち上がる。セイバーは眠っていた。
 左腕は全快とはいかなかったが、きちんと反応するようだ。その甲には令呪もある。それに落胆とも安堵ともつかない感情を持っている自分に気づいて、志貴は激しく舌を打つ。
 頭にイリヤの声が響いた。
『アーチャーが来た』
 ならばそれは開戦を意味する。戦う理由など失った身体は、ただ惰性で刀崎を握った。セイバーを倒すまでは、イリヤとは休戦という形になっている。その後は、自由だ。三咲町に帰って秋葉をさらい、そのまま二人で消えてしまえばいい。キャスターには悪いが、もうこれ以上、何もすることはない。
「キャスター、強化を……」
 傍らのキャスターに声をかける。
「戦うつもり?」
「そういう約束だから。キャスターは、セイバーを頼むよ」
 二人の間には壁が出来上がっていた。聖杯を手に入れるというところで繋がっていたモノが、その壁によって寸断された。キャスターが昨晩、破戒すべき全ての符ルール・ブレイカーを手ににじり寄ってきていたのは知っていた。気づいていても止めなかったのは、『そうしてくれれば楽だ』と思ったからに他ならない。志貴は決断を恐れた。生涯を裏切りの螺旋の中で過ごしたキャスターにとって、その行為がどれほどの苦痛を強いるものなのか、わかっていて尚止めなかった。
 卑怯な逃亡だった。
 体に力がみなぎってくる。キャスターの魔術は、少なくとも志貴には暖かに感じた。優しげな潮騒のような流れ。それに包まれると安心できた。けれど、今日は違った。悲しみと、嘆きに包まれた、荒れ狂う大海原。それだけで、キャスターの悩みなんて手に取るようにわかった。
 破戒すべき全ての符ルール・ブレイカーを振り上げ、そのまま泣き崩れた彼女を知っている。一晩中暗澹たる思いで過ごした彼女を知っている。己に刃を立てようとして、それもできずに苦しんでいた彼女を知っている。それでも、志貴は彼女と共に歩む道を選べない。ごめんと口にすることなど、できるはずもない。
「行ってくる」
「セイバーのことは、引き受けました」
 後ろ髪をひかれる思いのまま、城から出た。包帯は外さなかった。キャスターに振り向きもしなかった。
 顔を見れなかった。振り向けなかった。罵倒されるのが怖くて。蔑まれるのが嫌で。志貴は森の入り口でバーサーカーの肩に乗っているイリヤの元まで走った。イリヤは紫色のコートに、紫色のロシア帽という普段どおりの出で立ち。志貴を見ると、いびつに顔を歪めてみせた。
「キャスターは?」
「セイバーを見ててもらう」
「……まあ、いいんじゃない? でも──」
「わかってる」
 二の句を次ごうとしていたイリヤは、遮られるとつまらなそうに口を尖らせた。
「ずいぶん無口なのね、今日は」
「殺し合いの前にヘラヘラできる方がどうかしてるよ」
「昨日は泣いたり人のほっぺ触ったりでやりたい放題。今日は不機嫌だから話しかけるななんて、とんでもない自己中心人物ね」
「悪かったよ。昨日のことは反省してる。ただ、おかげで少しだけ元気が出た。感謝もしてる」
 包帯を外す。酷い頭痛がする。頭痛のおかげで気が紛れる。何でもいいから、今はこの気持ちを鎮めたい。イリヤにまで八つ当たりをしては、情けないにも程がある。
 咆哮と共にバーサーカーが走り、志貴が追従する。木々をかいくぐり走る志貴と違い、バーサーカーは木々をへし折りながら走る。その怒涛の光景は圧巻だった。戦えば殺されていただろう。風圧だけで人を殺しかねない怪物を打倒する術はあいにくと持ち合わせていなかった。
 襲ってくる木々を掻い潜っていると、意味もなく古い映画を思い出した。アレは木々が避けていた。今自分たちは圧し折りつつ走っている。まるで木々が三人の行く手を遮るかのようだ。だが、とまらない。狂戦士はにじり寄ってくる敵を挽肉にすべく土石流の勢いで疾走する。肩に乗ったイリヤは、心地よさそうに揺れている。
 まるでアンバランス。だが、これこそが最高の関係なのだろうという認識は、より強くなる。互いに筆舌しがたい信頼で結ばれている。父に肩車される幼い娘。それこそトンデモナイ想像をして、志貴は我知らず頬を緩めた。
 唐突にバーサーカーが足を止めた。前方を睨むイリヤの視線を追って、志貴は納得した。赤い外套が風に舞っている。世界を作り変える英霊。無限に武器を持つ英霊。
「お腹が痛そうね、アーチャー」
「良い気付けになっている。感謝せねばな」
 学校で戦ったときとは違い、アーチャーは最初から弓を握っている。左手に弓。右手に捩れた剣。境内で一度破った弓矢だ。だとて安心はできない。あの剣のような矢からは、途方もない力を感じる。だから危険を顧みず一度は阻止したのだから。バーサーカーも態度には出さないが、その矢に注意を払っているように見えた。
「マスターはどうしたの?」
「どうやら置いてけぼりにしてしまったらしい。何せ、全速力で駆けてきたからな。だが、その方が都合がいい。この場合はな」
 アーチャーの闘気が膨れ上がる。アーチャーの昂ぶった精神に呼応するように木々がざわめく。腰を落とし、片膝をつき、弓を番える。イリヤはバーサーカーから飛び降り、数メートル下がった。
偽・螺旋剣カラドボルグ
 標的はバーサーカー。判断するや志貴は地面を蹴り、木を蹴って天高く舞った。足元を、空間ごと捻じ曲げて飛ぶ異形が通り過ぎていく。肝を冷やしながらも両手で骨刀・刀崎を握り締めた。刹那──

 ──壊れた幻想ブロークン・ファンタズム

 大気を揺るがす閃光に、視界を奪われた。砕け散った木の欠片が弾丸となって志貴を襲う。並のサーヴァントなら即死、志貴などあの場から動いていなければ消し炭さえ残らなかったに違いない。それがあの捩れた剣のような矢の能力なのか。それにしてはあまりにも強引だ。閃光に視界が埋め尽くされる直前、何かの悲鳴のようなものを聞いた。それは、カラドボルグという伝説の剣があげた、悲鳴なのではないか。
 バーサーカーは無事かと探ろうとしたが、目は何も映さない。爆発は回避しても、爆光によるダメージが大きいようだ。だが、あの程度で死ぬバーサーカーではないはずだ。
 ──なら俺は、そこで息を潜めている策士を、地に落としてしまえば良い。
 爆風で反れた軌道を、吹き飛んできた巨木を蹴りつけることによって修正する。目指すのは、辛うじて爆光の範囲から逃れた巨木の枝に潜むそいつ。おそらくイリヤを直接狙おうとしているソイツ。
 音もなく枝に着地して、刃を突きつけた。
「残念だったね」
 目を閉じ、耳をふさいでいたとしても、あの強烈な閃光は彼女の五感を狂わせ、ここまでの接近を許してしまった。
「遠坂さん」



***




 何か、性質のワルいユメだと思った。首筋に突きつけられた真っ白な日本刀。光を避けるために瞑っていた目を開けば、目の前にはそんなものがあった。息は止めていたし、一ミリたりとも動かないように努めていた。あの閃光で目が見えているはずはない。それでも気づかれていたというのなら、最早生き物としての規格が違う。いや、七夜だというなら、それこそが暗殺者として秀でた部分なのか。
 これは俗に詰みと言われる状態だ。首筋に突きつけられた刃は、ほんの少し動いただけで動脈を切り裂きかねない。
 だが、おいそれと諦める彼女ではない。何せ、諦めたところで待っているのはバーサーカーの手による斬殺だか圧殺だか殴殺だかよくわからないものだ。どうせ死ぬなら、爪痕の一つでも残さなければ、浮かばれない。
 刃の主を見た。遠野志貴。怪物だ。本当に恐ろしいくらい化け物だ。けれど、たとえどんな怪物だろうと、あの閃光で目が見えているはずは無い。その青い目は、凛を見ているようでその実、ほんの少しずれていた。
 体を僅かにずらした。そこで白刃が翻れば死ぬ。だが刃は動かない。もう半身、あくまでも慎重にずれた。それで、刃の射程から抜けた。
 右手は既に宝石を握っている。遠坂凛が十年間コツコツと溜めた魔力が詰まった宝石。放てばキャスターの魔術にだって対抗する自信がある。加工に費やす時間は無い。だが純粋な魔力としても、脅威足り得るはずだ。
「八番──」
 小声で唱えた瞬間、志貴の瞳が光を取り戻した。あと一言「開放」と言えば、志貴を倒せる。志貴もまた己が置かれた窮地に気づいたようで、刃を翻した。一歩踏み込んで刀を振る動作と、一言告げるという行為。そのどちらが早いか。

「解──」

 ──あぁ、死んだ。

 刃が早い。まるで雷。一瞬で制空権に凛を捕らえ、横一閃に振るわれる。凛は己が失念していた重大なことを思い出した。それは、遠野志貴の瞬発力が、人間の尺では計れないということ。矢とガンドの雨を掻い潜った反射神経を侮ってはならなかった。アーチャーと互角同然に打ち合った速さを忘れてはいけなかった。
 凛には刃を防ぐ手立てがない。今もノドは発声している。右腕は志貴に向けて伸びきっている。手詰まりだ。
 死を目前にしても、凛は揺るがなかった。聖杯戦争に参加すると決めたときから、覚悟の上だった。噂に聞く走馬灯のような云々は見ることができないらしい。思えば魔術の鍛錬に費やした半生だったし、学校では優等生を演じるばかりでろくな思い出が無い。辛いと思ったことは無かったが、それは普通ではなかった。
 今にも首を刎ねようとする刃がやけに遅い。だから少し視線を巡らせてみた。アーチャーは双剣を握って、バーサーカーを押さえ込んでいる。本当は遠距離から仕留めるはずだった。それも、この失敗によって崩れ去った。バーサーカーが凛の方に向かってこないようにと気張るその決死の形相を見れば、今すぐにでもこちらに駆け出したいのだと知れたが、それはできない。バーサーカーは、余所見をして戦えるほど甘くない。せめてありがとうくらい言ってみたかったが、そんな時間があるならば『開放』と叫んでいる。
 再び志貴に視線を戻す瞬間、凛は不可解なものを見た。幻覚を見るなんてらしくなかったが、こういうのは彼にとっては本望なのではないか。こんな窮地に現れるなんて、まるで『正義の味方』そのものだから。幻覚だとしても、彼はそれを誇っていい。トレーナーにジーンズ。色気も何も無い正義の味方だが間違いない、毎日毎日見た姿。衛宮士郎の幻だった。



***



 体は完全に、死の予感に反応していた。目が見えなくなる直前に捕らえた場所に降り立ち、刃を突きつけた。だからそれで終わったと安堵した。だが、凛は反撃の拳を振り上げた。それに、体が反応してしまった。不安定な枝の上で一歩を踏み込み、刀を薙ぐ。止められない。もう、殺す理由など欠片もないのに、遠野志貴は殺人を犯そうとしている。
 ふと、背中に悪寒を感じた。決定的な予感が、新たな予感によって塗りつぶされる。
 空を裂く音を聞いた。弓か、弾丸か。とにかく武器だった。志貴は安堵している自分に気づいた。それを回避できるかなんて、野暮だ。回避など不必要。遠野志貴はこのまま刃を振りぬけばいい。それはきっと、
「テメェ!」
 この怒号の主が、弾いてくれるだろう。
 甲高い音がした。刃同士が弾け、火花を散らす。強い衝撃にたたらを踏む。落ちると思った瞬間には枝から飛び降りていた。着地し、攻撃を止めた者を見据えた。赤みがかった髪。病人かと思うほど青白い顔。それでも両目は強固な意思に見開かれている。
 衛宮士郎。
 わからないものだ。ただ指をくわえて見ているだけだった男が、一晩でこの変貌。そういう想いは、忘れて久しい。
 遠野志貴は完結している。全てを振り絞った義兄弟との死闘。そこで、遠野志貴は完結している。だというのにその結果を引きずり、奇跡にまで救いを求めた。結果無残に打ち砕かれた願い。なんて情けない。なんて無様。それでも、アイツが生きている限り、この身を差し出すと誓った。いつか必ず救うと誓った。
 志貴の足元に何かが突き刺さる。刀崎を弾き、空を舞った無骨な鉄塊は、志貴の良く知るものだった。
「七つ夜……」
 奪われていたナイフ。拾い上げて握る。良く、馴染む。
「大丈夫か遠坂」
「えみ、やくん……? な、なんで来たのよ!」
「俺だって役に立てる。邪魔だったら、捨てていってくれてもいい。それでも俺はアイツを取り戻す」
 やり取りに興味は無かった。セイバーを倒すまでは協力すると約束した。それを守ろう。約束も守れないようでは、何にせよ妹に合わす顔などあるまい。衛宮士郎がかかってくるならば相手になろう。負けるつもりはない。このナイフがあれば、男は神ですら殺せるのだから。
 バーサーカーとアーチャーの死闘はいまだ激しい。咆哮と剣戟が交互に鳴り響く。暴風のような攻撃を辛うじて避け、それでも必殺の機会を伺うアーチャーに、諦念は見出せない。唇は笑みを刻んでさえいる。何が可笑しいのかとは思わなかった。アーチャーも、衛宮士郎に窮地を救われるとは思っていなかっただけのこと。
 さて、と志貴は並んだ凛と士郎に向き直る。アーチャーは放っておけば数分と持たずに倒されるだろう。いくら笑みを浮かべようが、腹の傷は癒えていない。倒されるそれまでの時間稼ぎが仕事だ。それをこなす事だけを考えろ。こんなところで死んでは、笑い話にもなりはしない。
 二人が身構えた。凛は今すぐにでもアーチャーの援護に向かいかねない。殺さず押し留めるのは至難だが、絶対に殺すことだけは回避したい。
 凛の魔術には細心の注意を払わなければならない。それで以前致命的なダメージを負っている。
 士郎の得体の知れない能力にも気をつけなければならない。
 それとは別に、様子のおかしいイリヤも気になる。しきりに城の方に、何かよくないものでも見たような顔を向けている。何かある。感じてイリヤの視線を追った瞬間、臓腑から冷える悪寒を得た。キャスターが許容外の魔力を放ったとき、これと同じ感覚に見舞われる。
「──ックソ、ランサーしかいないじゃないか」
 なら、考える暇などどこにあるのか。
 七つ夜の刃を仕舞い、投げ捨てた鞘に刀崎を収める。それらが済んだときには、志貴は踵を返して駆け出していた。
「ちょ──シキ!?」
「キャスターが誰かと戦ってる」
「やっぱり。でも、気づかないなんて……バーサーカー!」
 イリヤの怒声に応えるように、バーサーカーはアーチャーを剣圧で弾き飛ばすと駆け出した。それを確認して、志貴は更に速く駈けた。こんな後味の悪い終焉など、断じて許さない。
 




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