半身不随状態の者を討つことは、アーチャーの最後の理性が拒否した。だが、最終的には殺すのだ。ならば今殺しても、後で殺しても変わらないはずだった。なのに拒否する。あまつさえ、応急処置さえ施している。
 ──機会を伺うには、事態が逼迫し過ぎている。
 言い訳じみたことを考える自分を、アーチャー──英霊エミヤは自嘲した。
「ほんとに休まなくていいの? バーサーカーの相手してたんでしょ」
「救えん小僧だ。私の剣などと、甘すぎる」
 アーチャーは答えずに、激しく身悶える士郎を感情の篭らない目で見下ろした。
「行くぞ、凛。もうここに用は無い」
 凛は喘ぎ苦しむ士郎を、沈痛な面持ちで見つめた。
「ちょっと待ってアーチャー」
「何だ、こんな場所に未練でもあるのか。ソイツは既にマスターではない、ならば休戦協定も無為になるだろう」
「違うわよ。このまま出て行ったら、衛宮くんは間違いなくアインツベルン城に来るってこと。それに、アンタその傷じゃバーサーカーの相手は無理でしょ」
「ならば明朝、こいつにそう告げてから出るか? 私としては、セイバーが抗っているうちになんとかしてしまいたいのだが」
「わたしが話すから、あなたは休んでて」
 自嘲するように笑って、アーチャーは部屋を出た。そして、その場で片膝をつく。強がりも限界だった。
 どてっ腹にはおぞましいほど巨大な穴が開いている。治癒は行っている。それでも、あと少し食い込んでいれば致命傷だった。
 ──情けない。
 月を見上げながら自嘲した。
「アーチャー」
「何だ……キミももう眠れ」
「ありがとう。無事でよかった」
 答えずに霊体化する。知らず微笑んでいた顔を、見られたくはなかった。




Excalibur




 薪を暖炉にくべる。毛布を肩にかけ、石造りの床に腰を下ろし、木が爆ぜる心地良い音を聞いていた。赤々と燃える炎の揺らぎを想像した。きつく巻いた包帯が眼球を圧迫してくれる。それで、わずかながら不安を拭うことができた。
 それでも震えは止まらなかった。
 千切れかけた左腕は魔術で治癒を行った。今は指さえ動かないが、明日には治るらしい。ならば問題は無い。原因はそんなことではなかった。志貴は暖炉に向けていた顔を、鉄格子のむこうに向けた。
 アインツベルン城地下牢。その一室、硬いベッドの上で小さな寝息を立てる少女──セイバーは、まるで死んだようだった。
 身じろぎもせず、呼吸も小さい。だが見えない分だけ良く感じ取れる。少しずつ、その眠りが浅くなってきていることを。
 ここに連れてくるまでに触れた細い腕。華奢な体。その体が振るう剣戟一つ一つの、信じられない重さ。込められた想いと願いが、竜巻のような太刀筋となって志貴を切り刻んだ。
 全身が震えている。恐怖か、武者震いか。どちらにしろ、セイバーによって植えつけられたものだ。一撃ごとに鈍くなる反応。一撃ごとに失っていく握力。線は視えている。なのにそこに刃を通すことなど、不可能だった。
 絶対的な戦力差を突きつけられた恐怖が脳裏を埋め尽くした。コレには勝てない。学園で目にしたときの怖れは、決して誇張でもなんでもなかった。この体はそれにのみ特化したものなのだから、間違いなどあるはずがなかったのだ。
 志貴は傍らに置いた刀剣を手のひらで撫でた。美しい装飾を施された剣だった。凝った装飾ながら、実用性にも優れる片手半剣。風の結界に覆われて、ずっと姿を見せなかった剣。指先が感じる造形は、雄雄しく美しい。人の手からは決して生まれないような完全がそこにある。
 志貴は刃物に目が無い。あえて言うことではないからクラスメイトたちは知らないし、遠野の屋敷から追い出されて世話になっていた有間の家では、義理の両親に心配をかけないためにとひた隠しにしていた。それでも、国宝物の刀剣が展示されていると聞けば電車を乗り継いで見に行くことがあった。そこで目にする天下名だたる名刀たちも似たような雰囲気は持っていた。常識離れした美しさや気品、猛々しさが、もはや原型を留めていないような刀にもあった。それを言えば、志貴が現在扱う「骨刀・刀崎」にもその雰囲気はある。腕一本を犠牲にすることで、刀に魂が吹き込まれている。だが、セイバーの剣は違った。その剣には作り主の魂が篭らない。ただ湧き上がる力がある。人に不屈の闘志を与えるような力がある。
 ふと、セイバーが動くのを耳で感じ取って、志貴は顔をあげた。包帯越しでもわかるほどに、セイバーの瞳が志貴を射抜いていた。
「貴様は──!」
「こんばんはセイバー。またなってセリフ通りになった。今度は、立場が逆だけど」
「は……?」
 セイバーの視線が外れたような気がした。
「どうかした?」
「……なんでもありません。構えていた自分が少し間抜けに思えただけです」
「これ、綺麗な剣だな。俺が今まで見た剣で一番綺麗だ」
「その剣は勇気と決断を司る……あなたには、そして私にも相応しくない剣だ」
「勇気と決断か」
 志貴は苦笑する。
「確かに、俺には相応しくない。これ以上ないってくらい豪快に、その道は踏み外した」
「ここは?」
「アインツベルン城。イリヤの家ってところかな」
「シロウは無事ですか」
「傷一つついてない」
 セイバーは安堵の吐息と共に、ゆっくりと起き上がる。
「なぜ、私を殺さなかったのです」
「そういう約束だった……と言うと聞こえはいいけど。正直殺すつもりだった。そうでもしなきゃこっちが死んでた」
 志貴は再び苦笑する。歪につりあがった唇は引きつってさえいた。つまらない見栄を張る必要はない。力の差ははっきりしているのだから。
「実際は殺せなかっただけだよ。結果的に約束は守ることになったから、士郎くんが来るまでは殺さない」
 セイバーは鼻で笑った。
「こちらこそ、殺すつもりでした。シロウへの言い訳を考えていましたよ。いくら貴方とて、人を殺したとなれば私のマスターは怒るでしょうから」
「その割には、セイバーが倒れた瞬間、両手にアーチャーの剣を持って襲い掛かってきたな。アレこそ、殺す気だった」
 アーチャーの剣という言葉に、セイバーが反応した。訝しげに眉を寄せる。
「アーチャーの……剣?」
「黒と白の二刀。獲物を消すのが流行ってるのかな。アーチャーに至っては殺しても殺しても出てきた。どうなってるのか、聞きたいな」
 本気で訊ねたのだが、セイバーには聞こえていないようだった。肩を落とし、再びセイバーの剣をいじり始めた志貴に、セイバーの鋭い視線が突き刺さった。目が見えなくとも、視線はわかるものだ。
「……できればその剣は返してほしい」
 露骨に嫌悪感を滲ませた声だった。
「いくらなんでもそれはできない。この剣渡したら暴れまわるつもりだろ。いくら令呪で絶対服従なんて命令してても、セイバーはとらわれない気がするから」
 セイバーは尚も強い視線でにらんでくる。
「わかったよ。触らない。それでいいか?」
「別に、そこにあっても消せる」
「嘘は良くない。宝具はその手で持ってないと消せないってことくらい、キャスターから聞いてる。たとえば相手に弾き飛ばされても消して、またその手に握れるってんじゃ、矛盾が生じる。投げても戻ってくるっていう伝承がある武器なら別らしいけど。わざわざ言うってことは、そういうモノじゃない。あってるか?」
 セイバーは深いため息を吐いて黙ってしまった。どうやら図星らしい。
「まるで別人ですね。吐き気を催すほどの殺意を、今の貴方からは感じない」
「吐き気……か」
 そうだろうな、と志貴は自嘲した。
 ここ数日の戦いを通じて、自分でも恐ろしくなることがある。思考が何かに占有される。血が熱く滾り、眼前の標的を殺せとがなりたてる。昔は抑えることができた感情だ。だが、秋葉がああなってから、自分でも驚くほどに攻撃的になることがある。焦り、不安、怖れ。そんな感情に負ける。自分は変わってしまったのだ。あるいはもともとそうなのかもしれない。
 死ぬことを怖れるようになった。死ねば秋葉を救えない。勝ち残らなければ秋葉を救えない。今の自分なら、秋葉を理由にして、どんな非道をも許容してしまいそうだった。
「キャスターやバーサーカーのマスターはどこに」
「イリヤは寝てる。おまえの寝顔を見て機嫌悪そうに部屋に戻っていった。キャスターならイリヤと何か話して、そのままふらっとどこかに消えた」
「ならば、今ここで貴方を倒せば私は容易く脱獄できるということですね」
「やめろ」
 強い言葉に、セイバーが目を鋭く細めた。空気が張り詰める。
「セイバー……おまえは倒す。けどそれは今じゃない」
「聞き捨てなりませんね。この程度の拘束で、私をどうにかできるとでも。それに、その理屈はつまらない。今は殺さない? 今でも後でも、何も変わらない」
 セイバーは掴み掛かる勢いで立ち上がる。だが、その足はすぐに縺れ、無様に倒れこんだ。再び、硬いベッドの上に。
「な……」
「使った令呪は二つ。俺とキャスターに従うこと。それと、目を覚ましたその場から決して動かないこと」
「二つも使ったと……それも、そんな効果の薄いものに。では、最後の一つを使わせれば私の勝ちですね」
「それも無理だ。最後の一つの使い道はもう決まってる」
「……何?」
「自害することだ、セイバー。だから抵抗はするな。つまらないことをすればキャスターは躊躇わず最後の令呪を使うよ」
 弛緩していた空気はすでに限界まで張り詰められた。セイバーの視線はそれだけで人を呪い殺さんばかりだった。悔しさからか、唇が白くなるほどにかみ締められている。
 それ以上、志貴もセイバーも口を開かなかった。



***




 イリヤスフィールは寝巻き姿でスリッパをパタパタと鳴らしながら、広いアインツベルン城を一人歩いていた。部屋を出てから一体いくつの階段を下りただろうか。そもそも、人が三人しかいないのにこの城は巨大すぎる。
 真っ暗な廊下に点在する蝋燭に、魔術で火をつけながら歩くのは非常に面倒だった。
 しばらく歩くと、突き当たりに光が漏れている扉を見つけた。図書室だった。
 扉を押し開いた。キャスターは机の上を書物で埋め尽くし、椅子に腰掛けて一心不乱にそのうちの一冊を読みふけっている。
「ねえキャスター。さっきから何してるの?」
 キャスターが顔を上げた。
「あら、眠っていなかったの」
「眠れなくて。で、何してるの」
「調べ物。ここは書物がたくさんあって、調べ物には事欠かない。素敵な人形もあるようだし」
「ほとんど写しだけどね。それよりシキを見てなくていいの?」
「薄々はそうかとも思っていたけど」
「ん?」
「貴女の先ほどの話。それを聞いてしまえば、対策をとりたくなるのも当然でしょう。セイバーは仮にも令呪で縛っているのだから、よほどのことが無い限り平気だろうし」
 キャスターは目にも留まらない速度で書物を読み流していく。古い呪いの儀式にまつわる書だ。イリヤには適当に眺めているようにしか思えなかったが、目の動きを見ると、どうやら本当に読んでいるらしい。
「そうよね。シキが戦争をあきらめたら、わたしはキャスターも殺すもの」
「そう簡単にやられるつもりもないけれど……」
 キャスターは珍しくのんびりした口調で言った。あくびをして、目のふちに涙をためている。まるで自分の家のようなくつろぎようだった。
 初めて顔をあわせたとき、キャスターは深々とローブで顔を覆い隠し、志貴ではないマスターに連れられていた。そのマスターは魔術師としての能力は悪くなかったが、息が臭かった。別に間近まで迫って息を吹きかけられたわけではない。ただ、反吐が出るほど嫌いなタイプだと一目見てわかる、典型的な魔術師だった。
 魔術師は、バーサーカーを見るやキャスターに命令して逃げ去った。そのときのキャスターの顔が面白かった。弱弱しく、まるで小娘のように弱弱しく頷いたくせに、背を向けたマスターを見る目は氷のように冷たかった。ローブの向こうに隠れて瞳は見えなかったのだが、その代わりとばかりに放たれた、見えるほどの殺意に喉がキュッと縮んだ。だがそれも一瞬のこと。キャスターはすぐに小娘に戻り、魔術を行使した。
「……興味深い本だけれど、考えが薄いわ。複雑な言葉を並べ立てて、本質を見失っている。理屈を捏ねる前に自然を見れば一目瞭然だというのに。呪術にしたってそうよ。万物それぞれが持つ特性と相性を感じ取れなければ、効果的な術は使えない」
「あのね、アナタみたいな規格外品の考えを、たかだか人間の魔術師がわかるわけないでしょ。それに、その程度のことはどの魔術師だって知ってる。誰でも知ってるけど、誰もできない。だから体験しようとして理屈を捏ねるんだから」
 「そういうものかしら」と小首を傾げるキャスターには、以前の険は無い。あのマスターがどうなったのかなんてことは、想像するまでもないが、この変貌には驚かされる。志貴が原因なのだろうが、果たして彼にどれほどの魅力があるのか。ふと疑問に思って、イリヤは問いかける口を開いた。
「ねえ、シキに裏切られたらどうするの?」
 キャスターが本に落としていた視線を上げる。
「裏切るも何も、私たちは互いに困っていたから組んでいるだけなのよ。志貴はサーヴァントが欲しくて、私は現界したかった。そのまま続いてはいるけど、私は早いうちに人形にでもするつもりだったし」
「酷いことしようとしてたのね」
 キャスターはさらっと言う。イリヤも納得した。キャスターはそういうモノだ。人間なんてゴミクズ程度にしか見えていない。少なくともあの殺意の視線を見たときはそう思った。だからその言葉はきっと真実だろう。
 だが、驚きもあった。今のキャスターは志貴を信頼し切っているように見えるからだ。
「だから、裏切ったのは私なのよ。それは許さない。けどそれさえ包み込んで共に歩いてやる。そう言われてしまえば、私には何ができると思う?」
 キャスターは本を閉じた。山のように積まれた書物の中から再び一冊を選んで広げる。平静を装っていても、不安なのが見て取れた。
「変わったのね」
「イリヤスフィールだったかしら?」
「そうよ」
「貴女こそ、私は寝首をかかれるものとばかり思っていたのに、何もしてこないのね。志貴ではバーサーカーには勝てない。わかっているのでしょう」
 言われて、つい数時間前のことを思い出した。アーチャーとの駆け引きが思いのほか長引き、セイバーを相手にしている志貴の生存など絶望視していた。手間が省けるので、それでも構わなかった。
 イリヤがようやく到着したとき、志貴は無事だった。左腕に酷い傷はあったが、他はまるで無傷だ。バーサーカーと互角に戦ったセイバーを、押し留めていたのだ。初めて志貴を脅威と感じた。だがそれでも、バーサーカーには及ばないだろう。十一回も殺すことは、隙を突くことでしかサーヴァントを仕留められない志貴には不可能だから。
 キャスターが昨日イリヤを警戒していたのは、その辺りを懸念してのことだったのだろう。だが今は、手を組んでいる間は利用し尽くしてやるという考えにシフトしている。そういう柔軟な発想ができることは強みだ。魔術師は頭が固いと相場が決まっているが、中にはこういう者もいる。大魔術師になるのにそういうタイプが多いのも事実だ。
「きちんと敵を排除してから殺すんだから、今はまだ殺さないだけよ」
「困るのでしょう、私やセイバーが死んでは。キャパシティは十分に残しておかなければならない。貴女には別の目的があるようだから」
 イリヤが表情を無くす。
「ほんと、やっぱり気に食わないわ、その性格」
「お互い様よ、イリヤスフィール。これ以上私たちがサーヴァントを倒す前に行動に出たのは上手かった。ずいぶん焦ったのでしょうね」
 キャスターは本に目をやったままで言う。
「ところでセイバーのことだけど」
「何? まだ殺しちゃだめよ」
「わかってるわ。貴女の目的が達成されるまでは、でしょう。そのことなんだけど、貴女の目的は志貴には言わないほうが賢明ね」
「そのつもり。邪魔するんでしょ、シキは。キャスターだって『部屋一つ分の陣地』じゃ何もできないものね」
「そう、今バーサーカーを相手にするのは良くない。けど、あの坊やが狙いだなんて、志貴は間違いなく反対するわ」
「フン、シキは狂人のくせにそういうところまともだから大変ね」
 キャスターは否定も肯定もしなかった。これ以上口を開きそうにない。イリヤはほうとため息を吐いて、踵を返した。と、何か思い出したように振り返る。
「ねえ、シキにはいつ言うの?」
「これから言おうと思ってる」
「そう。志貴が抜けると言ったらすぐに逃げ支度をしなさい。シロウを殺したら真っ先に殺しに行くから。おやすみキャスター」
「ちょっと待ちなさい。眠る前に一つ頼まれてくれないかしら」
 イリヤは小首をかしげた。



***




「用事って?」
 志貴はイリヤが灯したろうそくの灯りを頼りに、何度か壁に頭をぶつけつつ図書室に足を運んだ。キャスターは一つ伸びをして、椅子から立ち上がる。伝わってくる気配が硬かった。その口が何かよくないことを口にするような気がして、志貴はあわてたように口を開く。
「イリヤがぶーたれてた。わたしを顎で使うなんて信じられないとかで」
「そうでしょうね」
 何でもない軽口に、キャスターは何でもないように答えた。まじめな雰囲気は崩れない。
「明日か、明後日か、アーチャー達との戦いは壮絶なものになるでしょう。私があの小娘の家に押し入ったときのことを考えてもらえれば、わかるでしょう?」
「ああ、あの剣幕で襲われたらさすがに肝が冷えるよ」
「だから、その前にお話したいことがあります」
 背中が冷えた。キャスターがどんな顔をしているのか手に取るようにわかる。きっと不安に唇を震わせて、崩れそうになる何かを必死でこらえている。それは、「私は貴方を裏切った」と告白したあの日のような、弱々しい気配。
「貴方の願いを教えてください、志貴」
 真摯な言葉を、茶化すことなどできない。
「聖杯を手に入れて、妹を──秋葉を人に戻すことだ」
「ならば、今すぐに──」
「待て、何を言おうとしてるんだおまえ」
 キャスターは口をつぐんだ。それはきっとキャスターにも覚悟が必要なことなのだろう。こんなときに目が使えない自分の不甲斐なさが、頭にくる。
 表情さえ見ていれば、きっとその先は絶対に言わせなかった。
 聞いてはならない言葉を、キャスターは今から口にしようとしている。なら止めなければならなかったのに、
「簡単なことですよ。志貴、今すぐその妹のところへ帰りなさい。この戦争では、貴方の望むものは手に入らないのだから」
 止めることができなかった。
「そう──か」
「妹は大切な人なのでしょう。私のことは気にしないで。どうせ、戦争が終われば消える身ですから」
「そうか……」
 キャスターは立ち上がって、落ち着いた足取りで近づいてくる。冷たい手が頬を撫でた。熱なんてどこにもない。氷のような手のひらだった。
「おやすみなさい志貴。セイバーのことはもう私に任せて、眠りなさい」
 促されるがままに部屋を出た。真っ暗な廊下を歩く。だというのになぜかどこにもぶつからなかった。宛がわれた部屋に転がり込む。部屋に入ってすぐ、途方に暮れた。
 帰れ。帰れってどこに?
 三咲町に?
 何のために。秋葉を救うため? 秋葉を救いたくてこの眼を犠牲にしてライダーを殺した。街中の人間を犠牲にした。だから、秋葉を元に戻したくてここにいるのに、なぜ帰らなければならないのか。
 俺は何のタメにここにいたんだろう。
 俺はなぜこんなところで立ち尽くしているんだろう。

 ──セイハイでは秋葉を救えない。

 意味なんて考えたくもない。頭が意味を理解してしまう前に捨て去ろうとしたが、先に腰が砕けた。扉を背にしたまま崩れ落ちて、初めて、涙がこぼれた。何が悲しいのか自分でもわからない。
 何もかもがわからない。でもとにかく悲しくて、ただ泣くことしかできなかった。
「ショックが大きいみたいね。でもきちんと考えなさい。このまま抜けることだけは許さないんだから」
 部屋のベッドの辺りから、小さな鈴の音が聞こえる。
 その声はだんだんと近づいてきて、志貴の前に立ちはだかった。
「今は同盟を組んでるんだから、勝手に抜けるなんて許さない。抜けるなら抜けるで、キャスターを生贄に差し出さなきゃだめよ」
 わけもわからず、わーわーと喚く少女の頬に触れた。柔らかい感触に手のひらが包まれる。少女は体を跳ねさせて、後退りした。
「や、何?」
「情けないところ見せちゃったな」
 志貴は包帯を外した。目を開いただけで、気を失いかねないほどの頭痛が襲う。堪えながら涙を拭う。約一日ぶりになるイリヤの顔は、子供のらくがきみたいにひび割れていた。
「目、青いままね」
「治らないだろうな、これはもう」 
「シキはどうするつもりなの?」
「どうするって?」
「聖杯じゃ願いを叶えられない。叶えられるかもしれないけど、それはきっとシキの望む形じゃない。ならトオノシキは聖杯戦争を続けるの? っていう質問」
 うな垂れた志貴を、イリヤは蔑むように鼻で笑った。
「それは、間違いない情報なのか?」
「キャスターも薄々はそうなんじゃないかって思ってたみたい。そこにわたしの話が加わったから確信したんだって。キャスターったらこの戦争の原理なんかとっくに理解しちゃってたんだから、本当に油断ならない」
「戦争の、原理?」
「まあ、シキは知らなくてもいいことよ。今あなたにとって大事なのは戦争を続けるか続けないかっていうことだもの。でも、アキハは助けられないんだから、決まってるんじゃない?」
 イリヤはひび割れた顔で見下ろしてくる。無垢な表情ばかり見てきたせいか、そこに張り付いた笑みが、ひどく妖艶なものに感じられた。イリヤは笑っている。ネズミをいたぶるネコの顔で。
「でもだめよ。やめるならキャスターを置いていきなさい。そうしたらわたしが責任を持って殺してあげるわ」
 悪魔みたいな子供だと思った。子供のふりをして人をたぶらかす。その挙句に魂を持っていく悪魔だ。
 こっちはまだ心の準備も何もできてない。刀崎翁から聖杯戦争の概要を聞き、神父に一蹴されたとき、遠野志貴は『願いは叶う』という話を妄信した。それがここに来て『あれは嘘だった』と言われたって、どうしていいのかわからなくなる。それを判っていて、イリヤは意地悪な言い方をしているのだ。ああでも──
「小悪魔っていうのかな」
「ナニソレ」
「イリヤのこと。秋葉にそっくりだ、相手が困るってわかってていじめるところとかね」
 イリヤは本当に怒ってしまったらしい。睨む視線に力を感じる。
「そ。死にたいっていうなら別にいいわ。せっかく人が妥協案出してあげたのに」
「なあ、イリヤ」
「人の話聞いてるの!?」
 そういう子は、
「もう一度触らせて」
 こちらもいじめたくなるものだ。
「あ──」
 当惑するイリヤの頬に手を伸ばす。イリヤは拒まなかった。つきたての餅なんて、古臭い表現がぴたりと当てはまる。懐かしい感触。アイツの肌も、柔らかくて暖かくて。
 志貴はへたり込んだまま。イリヤは立ち尽くす。互いの視線が交差して、
「なんで──」
 零れ落ちた声がぼやけている。イリヤの顔にまるで焦点が合わない。それでもなんとか笑みを返し、立ち上がり、部屋を出た。



 志貴を見送って、イリヤは軽く頬に触れてみた。暖かい。
「暖かいってなんなの……あんなに、あんなに……」
 震えてたくせに。



***



 地下なのだろう。壁に触れてみても、向こう側には何か──おそらく土──がぎっしりつまっていて、破壊することはできそうにない。
 志貴がイリヤスフィールに連れて行かれてから三十分ほど経った。その間、セイバーを監視する者はいなかった。令呪で縛っているのだから監視など必要無いということか。それとも何か問題が起きているのか。どちらにせよ、セイバーにはあまり関係の無いことだった。「絶対服従せよ」との言葉で縛られているこの身は、志貴が去り際に残した「大人しくしてろ」の声に律儀に従おうとしているからだ。
 効果的ではない命令なため、動けないほどの苦痛ではない。それでも動きは鈍るし、キャスターや志貴に何か命令されれば更に重くなる。そのくせ、キャスターとの契約によって士郎と契約していたときよりも力を感じるのだから、笑えない冗談だった。
「不甲斐ない……これではシロウにあわせる顔がない」
 アーチャーに危害を加えられていないだろうか。凛は士郎をいまだ仲間として扱ってくれているだろうか。
 衛宮士郎を守ると誓った。彼が衛宮切嗣裏切り者の息子であろうとも、その約束だけは違えようとは思わなかった。
 端的に言えば、セイバーは士郎を気に入っている。頼りないマスターだと思ったし、この身に相応しくないとさえ思った。青臭い理想論を吐くし、サーヴァントを押しのけて戦おうとする。志貴の話では、自分が倒れた瞬間、志貴に飛び掛っていったという。キャスターの魔術で強化され、最早人とはいえない状態にある志貴に。無謀だ。だが、心地が良い。いつの間にそんなことを思うようになっていたのだろうか。
「どうか、ご無事で」
 祈るように呟いた。士郎とつながっていない不安が、ほんの少しの弱気を生む。目を閉じて壁に触れた。穏やかな表情は、その向こうに想い人の影でも見たかのようだ。
 ゆえに、アタラクシアが生んだ静謐を壊さないようにと、静かに腰を下ろした気配には気づかなかった。
 やがて、ゆっくりと目を開く。鉄格子の向こう。残った薪が、ゆらゆらと陽炎を立ち昇らせながら燃えていた。暖炉の正面に置かれた彼女の聖剣が、赤く燃えていた。鞘の無い聖剣は、寂しそうに火に照らされている。それは、まるで士郎とのつながりを失った自分自身のようで、セイバーは知らず目をそらした。
 いつの間にやってきていたのか、そこに遠野志貴が座っていた。『触らない』と告げた通りに聖剣から離れ、所在無く座り込んでいる。
 セイバーには、彼が死んでいるように見えた。頭は力なくうな垂れ、指先もだらしなく弛緩していた。口元から零れる白い呼気だけが、彼を生かしているような、そんな錯覚。だが、それはきっと錯覚ではないのだろう。死を体現する体が生きていては、冗談にもなりはしない。あの身は既に朽ち果て、死そのものになる日をただ死にながら待ちわびている。志貴が望むにしろ望まないにしろ、彼は死人なのだから。
 死を待ちわびているといえば、セイバー自身も似たようなものだ。体は死の寸前で止まっている。違うところがあるとすれば、志貴が死人なのに対して、セイバーは生者だということ。
 彼の魔眼はバロールではなく直死の魔眼と呼ぶそうで、過去現在未来と、おそらく彼一人が持つ魔眼。遠野志貴がそれを持つに至った経緯はそれこそ、奇跡そのものなのだろう。死人がリビング・デッドの如く生者の真似事に興じているのだから、神の気まぐれ以外の何物でもない。或いは神ですら予期しえなかったことなのか。それに敵対しようとする自分は愚かなのだろう。それでも目的のために妥協する気はまったく無い。

 ──そのためならば、士郎をその手に掛けることも……。

 セイバーは頭を振った。
 嫌な想像をしてしまった。それは考えてはいけないことだ。たとえそんな契約が目の前に転がってきても、考えてはいけない。
 何か別のことを考えようとした頭に、いつかの会話が思い起こされた。
『一つ聞きたい。あなたは一体何故聖杯を求めるのか』
『俺のせいで死ぬ妹を助けるため。遠野志貴という存在を初めから無かったことにしてもいい。奇跡でもなければ、無理なんだ』
 ──わたしの願いは何だっただろう。
 曇りない目で自己の消滅を望むと言われたとき、不覚にも思ってしまった。願いは高尚なものではなくとも、尊いものであるはずだった。少なくとも、アーサー王にとっては、最良の願いだったはずだ。

 選定の剣カリバーンを、別のものに引かせる。

 アーサー王では果たせなかった夢を、別の者に肩代わりして欲しい。
 叶えば、アルトリアという少女は少女のまま過ごすことになるだろう。だがそれはセイバーではない。アーサーセイバーは皆の記憶から消えてなくなる。アーサー王として世界と契約したセイバーは、誰の心に残ることもなく、ただ世界に使われることになる。それは自己の消滅と同義だ。それでもいい、ブリテンの繁栄こそがアーサー王が愚直なまでに願った夢だ。だからその願いさえ叶えば、何も思い残すことはない。
 そう信じていた心が、揺さぶられた。青い目でまったく同じ願いを口にした人間によって、信仰にも似た願いが揺らいでしまったのだ。
「同じ願い……?」
 自分は、この死人と同じことを願っているのか。違う、自分はもっと別のことに気づいてしまって、動揺したのだ。己の失敗をやり直したい。誰しもが思うことだ。それは狂人であれ同じだろう。だから、セイバーはもっと別のことに気づいて、震えた。
「その妹の願いは、どこへ消えるのです」
 似た願いを持つ者を前にして、初めて気づいた矛盾。気づかないほうがよかったのか。気づけてよかったのか。セイバーは己の願いの矛盾に恐怖する。
「確かにそこまで歩んだという軌跡は、貴方の中だけにあるわけではない。たとえどれだけ無念だろうと……消滅を求めるのは……逃亡……ではないのか」
 声になどならない。
 やはり、気づかなければ良かった。それはそのまま己を否定することに繋がる。
 あの時、何故問いかけたのか。こんな、人間一人の取るに足らない願いなど、聞かなければ良かったのに。
 心のどこかで己の願いを否定していたなんてことはあり得ない。唯一無二の願いだった。それを、この男は粉々に砕いてしまった。アーサーとしての願いを否定されては、この身に生きる術などありはしないのに。
「なぜ……現れたのですか……この、私の前に」
 切嗣も、志貴も。聖杯戦争で出会う者たちは、私に何か恨みでもあるのだろうか。思わずにいられないほどやり切れない。叫び出したい。喚き散らしたい。保ってきた尊厳なんて、どこかに放り出してしまいたい。歯がゆくて、そのまま顎ごと噛み砕いてしまいそうだった。
「憎い……遠野志貴、貴方が憎い」
 志貴にとっては、自己の消滅とはあくまでも副次的なものなのだろう。でなければ『自分を消してくれてもいい』などという言い方はしない。覚悟の吐露でしかなく、故にセイバーの感情を逆なでする。心底願っていた夢を、何の脈絡も無く、自滅するような形で踏みにじられる痛み。これまで受けたどの太刀傷よりも痛く、切ない。
 戦う理由が薄れている。

 この身は貴方の剣となる。

 誓いさえも違えてしまいそうだ。
 士郎ならセイバーの願いを聞いてどう答えるだろうか。同意してくれるだろうか。共に歩んでくれるだろうか。
 いや、同じように互いの夢を見ているのだとしたら、「おまえ自身のために使え」くらいは言われるだろう。必死の覚悟なんて彼の前では何の意味もなさず、ただ気に入らないというだけで否定されてしまうだろう。けれど、それは違う。セイバーの願いは己のためだから。ブリテンを救いたいと言いつつも、歴史を修正して安らげるのは、失敗してしまったアーサー王だけなのだから。
 アーサー王が国を滅ぼしたなんて、誰も知らない。そもそもアーサー王は存在しない。誰にも責められず、誰にも嫌われない。それが、己のためでなくて誰のためなのか。
「ああ……ヒスイはワインなんか飲んじゃ……」
 漏れた声には、驚くほど安らかな響きがあった。夢でも見ているのだろう。死人の顔に生気が戻っている。夢の中では誰しも幸福になれる。今だけは、そこに逃げ込みたい。
 キャスターの夢など見ないようにと願いつつ、セイバーはまぶたを下ろした。



***




 キャスターは眠る二人を遠目に見つめていた。志貴は部屋で眠るよう仕向けたのに、イリヤスフィールが手を出したらしい。好奇心の塊のような生き物だ。今回は善意からだろうが、感謝する気にはなれなかった。催眠の魔術をかけるのに、どれだけの覚悟を要したのかわかっていない。ようやく手に入れた信頼できる人。それを、手放す。考えるだけでも震えがくる。けれど、慣れているから平気だと自分を騙して、志貴を帰そうと決めた。
 だって、あまりにも哀れだ。悪の片棒を担いでまで聖杯を手にしようとしていたのに、それが嘘だったなんて。こんなところで死なせては、死んでも死にきれない。
 あとは眠ってから、破戒すべき全ての符ルール・ブレイカーを刺してしまえばいい。本当は部屋で行ってしまいたかった。城の中にいるかぎり、どこにいてもイリヤスフィールの監視はあるだろう。だからせめて、転移魔術用にと簡単な陣地にした部屋で行いたかった。
 だが、イリヤスフィールによって目覚めさせられた志貴を追ってみれば、志貴はセイバーの監視などという仕事を律儀にこなそうとしていた。それどころではないだろうに。そうする以外に何もできなかったのか。
 憎いと口にしたセイバーの懊悩の原因はわからない。その代わり、志貴が煩悶する様子は、手に取るようにわかった。
 ようやく手に入れられると思った平和が、跡形も無く消えた。絶望でいっぱいになった心から漏れ出した慟哭が、キャスターの胸を焼いた。痛い。苦しい。それは志貴が感じる痛みの欠片でしかない。こんなに苦しい思いは、しなくていい。早く開放してあげたい。
 懐から歪な形の短刀を取り出す。それを突き立てれば、志貴とキャスターは他人同士になる。
「志貴……」
 こんな形での訣別など、求めてはいなかった。





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