衛宮士郎の朝は静かに訪れる。何年間も続けた一人暮らしによって、体内時計には一分の狂いも無い。今朝も午前六時には着替えを済ませ、朝食の準備に取り掛かっていた。
「おはようございます」
 味噌汁の味見をしていると、セイバーが重そうな瞼を引きずりながらやってきた。「おはよう」と返すと、もそもそと緩慢に居間に戻っていく。昨晩はアーチャーと交替で見張りをしていたから、その疲れが残っているのだろう。
「セイバー、眠かったらもっと寝ててもいいんだぞ」
「アーチャーはピンピンしていますから。平気です」
 セイバーは解りづらい返答をすると、机に突っ伏して士郎を見つめ出す。見つめるというより、穴が空くほどに睨まれているのだが、その理由は簡単なことだった。
「すぐできるから」
 フライパンの中の卵焼きを見せつけてやる。食欲をそそる黄色いだしまき卵は、素晴らしい出来具合だった。セイバーはばつが悪そうにそっぽを向いた。
「……まるで私が催促しているようではないですか」
「昨日の晩は頑張ってくれたんだから。腹が空くのは当たり前だろ」
 さも当然とばかりに言われて、セイバーは再び士郎に視線を戻した。いちいちからかい甲斐のある反応にしのび笑って、まな板に移した卵焼きを適当な大きさに切っていく。
 そうこうしていると三白眼の凛がやってきて、朝食と相成った。
 忍び寄る影には、気付けなかった。



Excalibur






 高い天井、吊るされたシャンデリアのような照明。ベッドは屋敷で使っていたものより更に上等で、起きぬけの思考は一瞬忘我の彼方へ追いやられた。
「シキ様。朝食の準備ができましたので、食堂へいらっしゃってください」
 その声に懐かしい響きを聞いて、志貴は思考を手繰り寄せると風を切るほど首を回して振り向いた。白い服に全身を覆われた女性が扉口で志貴をじっと窺っている。肩を落とした志貴を見て、女性は訝しむように眉をしかめた。
「わざわざ申し訳ないんですけど、朝食は食べられそうにないんです」
「承知しました」
「あ、それと。目を隠せるようなものを貸してもらえませんか」
「目を……隠す? 少々お待ちください」
 女性は背を向け、ふと思い出したように向き直った。静かな瞳が微かに色を灯す。彼女の脇には、まったく同じ格好の女性がいた。その女性は覗きこむように志貴を見ていた。
「私はセラ。彼女はリーゼリット。シキ様は現在イリヤお嬢様と同盟関係にあるということですので、客人として迎えさせていただきます」
「丁寧にどうも。よろしくお願いします」
 セラは一礼すると、今度こそ踵を返して歩いて行った。その背に従おうとして、今度はリーゼリットが振り返る。
「ワタシ、ニホンゴ、ア・リトル。用がアタラ、セラに」
 リーゼリットは片言の日本語で言うと、セラのあとを追っていった。見送った志貴はベッドに倒れこみ、強烈な痛みに耐えた。
「志貴……」
 キャスターの声は窓際から聞こえてくる。彼女たちが怪しい動きを見せたら即刻殺すつもりだったのだろう、キャスターの右手が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れていた。
「目は、見えていますね」
「視えすぎて困るくらいに見える」
「私は──」
 キャスターはゆっくり近づいてくる。ピンと尖った耳に、青みがかった銀色の髪。彫刻のような美しさを持つキャスターは、顔を俯けていた。
「後悔しています」
「何を後悔してるっていうんだ」
「志貴の口車に乗せられたことを。私の説明不足です」
「キャスターの説明は聞いたよ。聞いたうえで俺は頼んだんだ。魔眼ごと強化してくれって。だから、キャスターが後悔することは何一つ無い。この先盲目同然っていうリスクはあるけど、そうでもしなければライダーの点は突けなかった。それに、さすがのキャスターの魔術でも、この眼は強化し切れなかったみたいだ。この眼はただ使うだけで体を蝕むんだよ。どの道こうなる運命だったんだ。後悔なんてしてる場合じゃないだろ」
 志貴はもう一度部屋を見回した。眼鏡はしている。だが、豪華絢爛な部屋は、まるでツギハギだらけのボロ屋敷のように見えた。壁という壁、物という物に走る死の線。酷い頭痛は頭を割らんばかりで、今にも気を失ってしまいそうだった。
 魔眼の暴走とイリヤスフィールは言った。だが、志貴は違うと考えていた。この体が死に近づけば近づくほど、魔眼は強くなっていく。これは寿命だ。遠野志貴の寿命が、とうとうやってきただけ。決してキャスターの強化魔術のせいでも、ライダーの死点を突いたからでもない。魔眼によって弱っていく体が、死へと近づいているだけ。
 部屋の扉が開かれる。リーゼリットだった。
「ほうたい」
 綺麗に巻かれた目の細かい包帯を、志貴はありがたく受け取った。




***





「セラ」
 テーブルの上座に腰掛け、ナイフとフォークを器用に扱っていたイリヤスフィールが背後に控えるメイドに声をかけた。
「はい」
「シキは?」
「体調が優れないと」
 セラの表情は硬い。イリヤスフィールは「そう」と返して、黙々とサラダを頬張る。いつもどおりに佇んでいたセラだったが、やがて意を決したように息を吸い込んだ。
「あの男、使い物になるのですか。目を隠すものをくれだなどと、戦いを放棄しているとしか思えませんが」
「シキが使い物にならなくても、全然関係なんかないのよ」
「……同盟……では?」
「餌よ、シキは」
「餌……ですか」
「悔しいけど、シロウ達が恐れてるのは、わたしじゃなくてシキなの。何せ人間のくせにライダーを倒しちゃったんだから。そのシキがバーサーカーと組んだって知ったら、何が何でも落としに来ると思わない?」
「ですが──」
「それに、こうすることでシキはセイバーたちに勝手に手出しはできなくなる。ランサーはどうせやる気無いし、わたしはシロウを殺せたらそれで満足なんだから。コトが済んだらキャスターを殺して……シキも殺すことになるんだろうけど、それでおしまい」
 セラは深いため息を吐いた。
「お嬢様は恐ろしい方です」
「あ、でもこういう話はこれでおしまいね。キャスターに聞かれたら面倒だもの」
「承知しました」
 セラは深く腰を折る。
 大きな音をたてて食堂の扉が開かれる。二人の視線は深々と被ったローブで顔を覆い隠したキャスターに注がれた。
「おはよう。よく眠れた?」
「獣臭くて、眠るどころではないわね」
「意外と小物よね、貴女って。何か用? アサシンのあだ討ちでもしかねない雰囲気だけど。それってお門違いよ。バーサーカーは殺されたんだから」
 キャスターはフッと口元を緩めて、ローブをはぐり取った。セラが息を呑むのを背後に感じたイリヤスフィールは、へえと声を漏らした。
 キャスターの素顔は絵画か彫刻から抜け落ちてきたような、幻想的なつくりのものだった。英霊は皆が皆美しい顔立ちをしている。それが生前からのものなのか、それとも神話に生ける者を美化した結果なのかは定かでないが、およそ奇跡としか言い得ないレベルで、彼らは象られている。その顔が苦渋に染まっているのを見るのは非常に不思議な気分になる。イリヤスフィールは内心に湧き上がってきた好奇心と嗜虐心を抑えつつ、キャスターの言葉を待った。
「小次郎のことはどうでもいいの。志貴からの伝言を伝えに来ただけ」
「言って」
「今晩セイバーたちを倒しに行きたいから協力してくれ……だそうよ」
「へ?」
 イリヤスフィールは素っ頓狂な声をあげて、呆然とキャスターを見た。キャスターの苦渋の正体に気付いて、イリヤスフィールは思わず頬を綻ばせ、声をあげて笑ってしまった。
「……私だって笑いたいものね」
「かわいそうなキャスター。そんなのがマスターじゃ、街中から吸い取ろうって気にもなるってことね。よく解る。ほんの少し突かれただけで死んじゃう人間のくせに粋がってる。だからキャスター、あなたが少しでも自分が強くならなきゃだめ。ああキャスター。あなたとっても最高」
 突然笑い転げたイリヤスフィールに、セラは目を丸くしている。「ところで」とイリヤスフィールは上目遣いにキャスターを見上げた。
「なんで今夜なの?」
「志貴は六日以内に聖杯を手に入れなければならないのよ」
「六日以内に叶えたい夢なんて、見かけによらず野心家なの?」
「無欲な人間よ、恐ろしいほど。私より悲惨な過去を持っていると言っても、過言じゃないのにね」
 キャスターは自嘲するように笑う。イリヤスフィールは目を輝かせた。爛々と輝く瞳に気付き、キャスターは嫌な予感に鳥肌をたてた。
「シキの過去を教えてくれたら今晩の作戦に協力してあげる」
 予想通りの言葉を突きつけられ、キャスターは小さく唸る。勝手に喋るわけにはいかなかった。かといって志貴が喋っていいと言うとも思えない。
「それでいいのかしら。セイバー如き、私一人でどうとでもできる。そうされて困るのは貴女ではなくて?」
「あら、もしかして聞こえちゃってた?」
「外まで筒抜けよ、おばかさん」
 今度はイリヤスフィールが唸る番だった。だが、イリヤスフィールはキャスターの肩越しに人影を見つけ、パッと花を咲かせた。
「シキ、キャスターは随分ケチね」
 慌ててキャスターが振り向けば、そこには包帯で目を覆い隠した志貴と肩を貸すリーゼリットがいた。志貴の口元は苦笑いを浮かべている。
「休んでいなくていいのですか?」
「ああ、乗り込むのは今晩なんだから、眠ってなんていられないよ」
「シキー! 教えなさい」
「と、言ってますが……」
「いいよ、話してあげても。相手のことを知らないで共同戦線張るってのは少し、無謀かもしれないしね」
「ならばイリヤスフィール、あなたからも何か有意義な情報をいただくわ」
 セラは目を丸くしたまま成り行きを見守った。
 ──これほど楽しそうなお嬢様を見るのは、一体何年ぶりだろう。
 そう思いながら。



***




「仕事に戻りましょう、リズ」
 これ以上見ていられない。セラは顔を俯けて、部屋から立ち去ろうとした。
「え、なんで。だってイリヤ」
 志貴は眠れと強く勧めるキャスターに押し切られるかたちで、作戦会議の名を借りた雑談は志貴に宛がった部屋で行われた。
「イリヤ、楽しそう。だからもうちょっと」
 会話は日本語で行われていたため、リーゼリットにはまるで理解できないのだろう。しかしイリヤスフィールの華やいだ表情を見るリーゼリットの表情は、穏やかなものだった。
「そうね……とんだ厄介ものかと思ったけど」
「でも本当はエミヤシロウとああしていたいんだと思う」
 志貴はベッドに腰掛け、イリヤはその隣、キャスターは正面で椅子に腰掛けている。ぽつぽつと記憶を語る志貴の表情は硬かったが、まるで夢物語のようなその話に、イリヤは興味津々だった。
 はたから見れば兄妹のようにさえ見える。兄が妹に絵本を読んで聞かせているようだった。そこにエミヤシロウが居られれば。セラは僅かに唇を噛み締める。
 神は残酷だ。あまりにも。あの小さな命を引き合わせ、殺し合わせる。二人を出会わせたことが神の慈悲だというのなら、そんなものは独りよがりの偽善でしかない。
「どんな話をしてるの?」
「悲しい話。とてもとてもね」
「……わかりづらい」
 セラは小首を傾げ、必死に聞きとめた単語をつなぎ合わせる。
「彼には、吸血鬼になった妹がいる」
「え……」
「その妹が六日後に処刑されてしまうから、それまでに聖杯を手に入れて人間に戻したい……そんなお話」
「悲しい。けど……セラ聖杯は」
「駄目よ。口にしないで。教えてはならないの。確実に、七つの魂を納めなければならない」
 だからこそセラは見ていられない。聖杯の真実を知っているイリヤスフィールの笑顔に見え隠れする、陰を。
「カレーパンの食い方も知らないヤツだったんだ」
「かれーぱん?」
 我慢ならないとばかり、セラは踵を返した。クレナイセキシュ。トオノ。オニ。センゾガエリ。どれも聞き馴染みの無い極東の国の魔だ。どこの国でも、魔は人々に不幸を呼ぶ。言わば自分達だって被害者だ。
「あ、セラ待って」
 名残惜しそうなリーゼリットの声を背中に聞きながら、セラは拳を握り締めた。既に収まったサーヴァントがいる。今晩セイバーを受け入れれば、変調も時間の問題だった。



***




「こんなところかな」
 包帯の向こうに隠された瞳は、一体どんな表情なのだろう。
 イリヤスフィールは自身が抱いた素朴な疑問に驚愕した。遠野志貴という敵に興味を抱いている自分に。
 目的は衛宮士郎。彼のことならば何でも知りたかったし、独占したかった。その果てで殺す。アインツベルンを裏切って、聖杯を破壊した衛宮切嗣の息子を殺す。そうすることでアインツベルンの復讐は完遂される。イリヤスフィール個人の復讐も遂げられる。
 だから衛宮士郎には興味があった。実際に会い、話し、興味は尚増した。では、それと似たような感覚を遠野志貴と話して得るのは何故なのか。
「シキ」
 声は震えていたかもしれない。
「わたしは、あなたを殺すわ」
 キャスターが殺気立つが、志貴は動じなかった。
「そのときは、俺もやり返すよ」
 真面目に言われた言葉に胸が疼いた。怒りと憎しみと、よくわからない気持ちが絡み合って互いに噛み付き合う。
「……そういうのは、わたしのロールなのに」
「とにかく、しばらくの間はよろしく、イリヤスフィール」
 言って、志貴は右手を見当違いの方に差し出した。
「イリヤでいい」
「じゃあよろしくイリヤ」
 渋々志貴の手を握ったイリヤスフィールの体が、力強く振られる志貴の腕に振り回されて跳ねた。クスクスと嘲笑しているキャスターを睨み付けて、イリヤスフィールは大きなため息を吐いた。

「じゃあ、今度はわたしの番ね」
 ようやく手を離した志貴に散々文句を言った後、イリヤはそう切り出した。
「バーサーカーの真名はヘラクレスよ」
「ヘラクレスって十二の試練の……?」
「そうよ。英霊としては最高クラスなんだから」
 志貴とキャスターの驚きの顔が心地いい。イリヤは内心でほくそえみつつ、二人の様子を窺った。キャスターは針のような殺気を放ちながらそわそわし始め、志貴は口を半開きにしていた。
「そういえばキャスターの真名は何?」
「教えると思って?」
 憮然と言う。
「……けち」
「そんなことより、いい加減本題に入らなければ。時間が無いのですから」
「それもそうだな」
「作戦は?」 
「昨日みたいにできればいいんだけど」
「セイバーを誘い出すの? それは無理よ」
 イリヤの反論に、二人は顔を見合わせた。
「キャスターの見立てじゃ衛宮士郎はろくな魔術を使えないらしい。衛宮士郎を誘い出せばセイバーもついてくる。そこを突くのが一番だと思うんだけど、無理なのか?」
「昨日はアーチャーに覗かれてたもの。アーチャーとセイバーは組んでるんだから、対策は取ってるはずよ」
 そんなことにも気付いてなかったのかという皮肉を込める。
「……気付かなかったな」
「あの結界は二流品ですから。内側を強力な催眠で埋め尽くすために、外側の情報をある程度遮断してしまっている」
「よっぽど急いでたのね。で、作戦ってまさかそれだけ?」
 キャスターが首を振った。
「バーサーカーの助勢を期待できるのならば、こちらは手を汚さずにセイバーを戦闘不能に陥らせることができるわね」
「どうするの?」
「マスターとセイバーの契約を断ち切ってしまえばいい」
 キャスターは事も無げに言う。志貴は名案だとばかりに顔を上げるが、イリヤにしてみれば気になるところが山ほどあるような話だった。
「他人の契約に干渉するつもり? いったいどれだけ時間がかかるか──」
「私の宝具を使えばほんの瞬きをする間に可能よ」
「ふうん……そういう能力の宝具なのね?」
「ええ。どうするのかしら。協力してくれるの?」
 協力なんて、バーサーカーに必要ない。志貴は衛宮士郎を誘き寄せるための餌だ。
「協力してあげる。でもその代わり、セイバーは殺すんじゃなくて捕まえる」
 士郎との決着をつける前に、魂を取り込みすぎては意味が無い。あくまでもイリヤスフィール・フォン・アインツベルンとして、士郎を殺さなければならないのだから。
「ああ、構わないよ」
「お話は終わりましたか?」
 イリヤは突然の母国語に肯きをかえした。
「昼食の準備が整いましたので、食堂までおいでください」
「もうそんな時間か」
 志貴が柱時計を見ながら言った。ゆらゆらと振り子を揺らす時計は十二時半を指していた。三時間近くも話し込んでいたらしい。
「シキの話が長かったから」
「やっぱり退屈だっただろ」
「ううん。御伽噺みたいな話だった。けど、聖杯はわたしが手に入れるから。お零れならあげるわ」
「そうだね、そのときは全力で立ち向かうよ……英雄ヘラクレスに」
 イリヤは笑う。志貴も包帯をゆがませて微笑んだ。優しい笑顔だった。昨晩の阿修羅のような凶暴さはどこにもない。
 凄惨で陰惨な過去を哀れとは思わなかった。そういう星の下に生まれてしまった人間なのだ。ヒトですらないホムンクルス自分がいるように、志貴もまた人間から外れた者。
「シキも昼はたべなさい」




***





 踏み込みからのバリエーションは十ではきかない。流水のように形を変え、一直線に急所を狙う。ならば迎撃に要するのは技術ではなく、数日間の訓練で培った常人に毛が生えた程度の勘だった。
 とっさに上段に構えていた竹刀を打ち下ろし、掬い上げるような剣閃をたたきつける一撃で弾く。
「実の入らない防御では──」
 だが、セイバーの竹刀は打たれた衝撃さえ意に介さず、昇竜の勢いで士郎の竹刀ごと士郎の顎を打った。
「赤子の一撃とて防げませんね」
 脳みそが頭蓋骨に叩きつけられる感触を、宙さえ舞いながら感じた士郎は次の瞬間には板張りの床に仰臥していた。
「何分?」
 士郎は大の字のまま天井を見つめ、見下ろすセイバーに尋ねた。
「約一分というところです。数十分もノびていることは無くなりましたね」
「そりゃ、毎日こうして気絶させられてれば耐性もつく。人間は順応する生き物なんだから」
 腫れ上がった顎をさすりながら立ち上がる士郎に、セイバーは手を貸す。意地を張って自分ひとりで立ち上がると、セイバーは苦笑した。
「もうじき日も暮れます。今日はこの辺にしておきましょう」
「夕飯でも作るよ」
 顎をさすると痛みが走った。顎がぷっくりと腫れ上がるのを想像すると情けなくて笑えてくる。手加減をしているセイバー相手でこの様だ。本気のセイバーと立ち会えば、一秒だって持ちこたえることはできないだろう。強化魔術しか使えない衛宮士郎は、サーヴァント達との戦いにおいて邪魔者になる。凛やセイバーは、マスターとはそういうものだと言うだろう。だがそれでは無意味だ。キャスターやライダーのような者を、この手で叩くことができなければ、意味などは消えてなくなる。
「セイバー」
 道場の入り口に立った背中に、セイバーの視線が向けられる。いつもどおりの、柔らかい視線だ。遠野志貴と向き合ったときのような、敵対心など欠片も感じない視線だ。
「俺、強くなってるか?」
 一拍の間。それが永遠に感じられる。返ってくる答えはわかりきっているから、この間こそがセイバーの本音だった。衛宮士郎が考えていることなど、彼女は見透かしている。
「ええ、強くなっています。驚くべき速度で上達しているのですから、私も師として鼻が高い」
 ──勝てるのか。 
「そっか。サンキュ」
 道場から遠ざかっていく。夕食の献立を考える頭に、あの雪のような髪と青い瞳がよぎる。
 ──遠野志貴に勝てるのか。
 ズボンのポケットの中に忍ばせておいた鉄塊を握り締める。あの日志貴から取り上げた、何の変哲も無い飛び出し式のナイフ。だが、ただの飛び出し式ナイフはアーチャーの猛攻を防ぎ、凛の魔法陣を破壊した。一つか二つ年上の男が、その気になれば世界さえ救える男が、ただ己の欲望のために力を振るう。他人を傷つけてまで勝とうとする。それは衛宮士郎には理解できない。
 士郎はナイフを振った。刃こぼれの一つも無い銀刃が苦々しくゆがんだ士郎の顔を映し出していた。


「屋敷と一緒に埋まっちゃったかと思ってたけど、それ衛宮くんが持ってたんだ」
 午後六時二十分。縁側で浮かぶ月を眺めつつ手持ち無沙汰にナイフを煌かせていた士郎に、凛が声をかけた。
「どう見えるの? 衛宮くんには」
「何の変哲もないナイフにしか見えない。名工の作ってことはわかる。けど特別な力は感じない。遠坂にはどう見えるんだ」
 刃をしまって手渡すと、凛は勢いよく振って刃を出した。まじまじと見つめる目は真剣そのものだ。わずかに漏れた凛の魔力が、士郎の背筋を痙攣させる。
「やっぱりなんでもないナイフみたいだけど」
「けど?」
 凛は握りに刻まれた文字を指差した。
「七つ夜……ってのが気にかかるのよね。どこかで似たような言葉を聞いたような気がするんだけど……どこだったかな」
「銘にしては変な気がするな。七つ夜……七つ夜……七つ時のことかもしれないぞ。午前四時頃に出来上がったから七つ夜」
 凛は考え込んでいる。士郎は再びぼんやりと月を眺めた。屋根の上ではセイバーもこの月を見上げているのだろう。普段監視につくアーチャーは今夜も偵察に出ている。代わりにと申し出たのはセイバーだった。
「セイバーなら何か感じ入るものがあるかもしれないな。何せセイバーなんだから」
「そうね。セイバーの剣って見えないから、もしかすると短剣(ダガー)を振り回してるのかもしれないし。聞いてみる?」
 凛はセイバーをからかうように言う。
「失礼な。私が握るのはれっきとしたセイバーです。その様な品と一緒にしないでほしい」
 しっかりと聞いていたセイバーが頭上から言ってきた。
「ところでそのナイフは飛び出すようですが、そんなもので戦うメリットとは何でしょう。人とは比べ物にならない臂力を持つ英霊を相手に、いくらキャスターの強化があったとて、その低い剛性では耐えられるはずが無い。私が打てば二つに折れかねませんよ」
「そういえばそうだな。でもアーチャーの剣戟は受けたんだろ?」
「結果としてはそうですが、アーチャーの二刀を見て、己の獲物では役不足だと感じなかったのかという疑問です」
「確かに疑問かもね。アーチャーが言うには、昨日の志貴は刀を使ってたって。そんな立派なものがあるのに、わざわざナイフを使うっていうのはどういうことなんだろう」
 セイバーにとっては暇つぶし程度の疑問らしいが、凛はまじめに悩んでいた。ナイフを裏返してみたり、下から見上げてみたりしている。
「アサシン」
 士郎はふと頭に浮かんだ単語を口に出してみた。
「アサシン? バーサーカーにやられたアサシン?」
「違う違う。暗殺者っていう意味のアサシン。ぱっと見た感じはそれただの鉄塊だろ。文鎮だって言われても信じそうだ。それなら目標に近づいていって、鉄塊を取り出したと思ったらナイフで……って駄目だ。それならこの時代、拳銃でも使ったほうが確実だ」
 考えすぎだと自分を笑いながら、凛を横目で伺う。すると凛は目をまん丸に広げて士郎を見ていた。
「すごい……衛宮くんすごいかも」
「なんでさ」
「七つ夜……ひっかかると思ったら七夜のことだったってわけ。なるほど道理であの動き。偽名を使ってるか、遠野に養子として引き取られた七夜の生き残り?」
 凛は興奮した様子で独り言にいそしんでいる。まるで理解できていない士郎にようやく気づくと、咳払いを一つした。
「衛宮くん遠野グループってわかる?」
「CMとかで良く見るけど……ってまさかアイツが?」
 遠野グループといえば、財閥めいた資産力を持つ一大企業グループだ。衛宮家にもその息がかかった製品はあるし、保険や銀行などでもたびたび名前を耳にする。二年前の遠野槙久の逝去はちょっとしたニュースになったくらいだから、士郎にも覚えがあった。
「そう。遠野っていうのはあの遠野」
「ちょっと待ってくれ。なんで日本でも一二を争ういいとこのお坊ちゃんが、あんな化け物じみた動きをするんだ」
「衛宮くんに一ついいことを教えてあげる」
 にこり、という綺麗な笑みに、士郎は思わず上体を仰け反らせる。首筋が一瞬であわ立ったのだ。
「この国で魔術師をやりたいのなら、名のある家には近づかないこと。そもそも遠野は魔との混血っていう噂があるの。この国の魔術師の間でまことしやかに流れてた噂なんだけど、わたしは確信してる。この前志貴に見せてもらった写真からは、とんでもない魔の匂いがした」
「魔っていうのは妖怪とかの類か」
「そういうものだと思ってもいいわね。だから遠野の当主は早くに亡くなる。何年か前に遠野の当主が死んだってニュースがあったでしょ。あれも、魔の血に耐えられなくなって死んだって話だし」
「だから志貴が化け物じみてるってことか?」
 凛は首を振る。
「もしかしたらそうかもしれないけど、わたしは違うと思ってる」
「さっきのナナヤってやつか」
「そう。七夜っていうのはね、衛宮くんが言うとおり暗殺者の一族のこと」
 暗殺者。思い出すのは柳洞寺の一戦。ヒットアンドアウェイの究極のような戦法は、確かに如何にも暗殺者的ではあった。
「どうして志貴が七夜だと思ったのか説明してくれ。七夜の人間から貰ったのかもしれないし、どこかの店で買ったものかもしれないだろ」
「七夜っていう一族はとっくに根絶やしにされてるのよ。七夜は遠野みたいな『混ざり物』を殺すための一族。だから、その力を恐れた混血の家系に七夜は滅ぼされたんじゃないかって」
「だったら尚更志貴は遠野の人間だってことになるんじゃないか。その……根絶やしにされたんだろう?」
 凛の言うことは矛盾している。志貴は遠野を名乗っていて、七夜が滅ぼされたというならば、志貴は遠野の人間と考えれば自然だ。
 凛はしばらく呻吟したあと、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「言われて見るとそうね……うーん……なんで七夜って言葉に反応しちゃったんだろう。間違いないと思ったんだけどな」
「アレは人間ですよ、正真正銘の。きっとどこまで辿っても、邪なものと契約した形跡は無いでしょう」
 セイバーの声が頭上から降ってきて、二人は天井を見上げた。
「邪なものと契約した者は臭いますから。間違いありません。そのトオノという家が何と契約したのかは知りませんが、魔と称されるのであればそれは邪なものでしょう」
「邪というか、魔としては最高レベルの存在よ。鬼って言って、この国じゃ最悪の幻想種ね」
「ならば、凛の考察は正しい。暗殺者と言われれば、私にも納得できるものがありますから」
 落ちてくる声には、鈴が鳴ったような透明感があった。
「ただ、どこまでも純粋な人間であるからこそ、私はあの男を恐ろしいと感じている」
 セイバーはそれっきり黙りこんだ。凛も士郎も言葉は無く、呆けたように月に思いをはせる。千切れ雲の合間に浮かぶ月は柔らかな光で夜の街を照らし、三人が抱える不安を拭ってくれるようだった。
 バーサーカーとキャスターの両方を相手にしなければならないというのは、想像以上の重責だ。バーサーカーは単体でもセイバーを脅かす。墓地で戦ったときのように機転をきかせればなんとかできない相手でもないのだが、そこに策謀家であるキャスターが加わると、逆にこちらが窮地に誘い込まれかねない。
 いまだ、結界の強化以外に、バーサーカーとキャスターへの対策は立てられていなかった。

 凛に肩を叩かれる。見ると、凛は立ち上がってナイフを差し出していた。
「あんまり外にいると風邪ひくわよ」
 言って、凛は居間に戻っていった。
 受け取ったナイフを片手でもてあそびながら士郎も立ち上がった。
「セイバーも中に入らないか?」
「いえ、私は見張っていますから、遠慮せずに中で温まってください。凛の言うとおり、風邪を引かれでもしたら大変です」
「そっか。じゃあもう少し月見をするよ」
「……やさしいですね、シロウは」
 あまりの不意打ちに、士郎はばね仕掛けの人形さながらに背筋を反らして叫んだ。
「ば──ッ! 何言いだ──」
「衛宮くん!」
 セイバーへの抗議は、部屋から飛び出してきた凛によって遮られる。血相を変えた凛は、既に左腕の魔術刻印を剥き出しにして周囲に注意を飛ばしていた。
「シロウ、凛! 伏せてください。キャスターの魔術が!」
 空が紫一色に染まる。二日前に遠坂の屋敷を瓦礫の山にした一撃が、屋根の上のセイバー目掛けて激しく閃光する。屋根から飛んだセイバーは、魔力の大砲とでもいうべきものを不可視の剣で両断し、そのまま庭先に着地した。鎧甲冑に剣を構えたセイバーの表情には、既に先ほどまでの穏やかさの欠片も無かった。碧玉の瞳が敵の気配を探っている。
「まさか二日連続で倒しにかかってくるなんて」
「文句言っても仕方がないぞ遠坂。早くアイツを呼び戻さないと」
「もう一発来ます! 伏せて」
 空が再び紫に染まる。目映い閃光はセイバーの剣の前にむなしく霧散するが、四方を取り囲まれているような圧迫感の前には、何の気休めにもならなかった。キャスターの攻撃は明らかに目くらましだった。本命は別にある。士郎も意識を総動員して気配を探るが、どこにも異常は見当たらない。最低でも志貴はどこかにいるはずだ。そしておそらくはバーサーカーも……。
「あのバカ……こんなときにどこほっつき歩いてるのよ」
 凛は焦りに表情を歪めている。士郎にしても似たようなもので、今にも破裂しそうな心臓の鼓動が、胸から首へ伝わり、耳朶をゆすっているようだった。
 世界が静まり返る。キャスターの魔術も、志貴の奇襲も無ければ、バーサーカーの雄たけびも聞こえない。己の鼓動と息遣いだけが、銅鑼の音のように鳴り響く。魔術の鍛錬をしているのと同じ感覚だった。極度の精神集中が生み出す自己の世界。
 士郎は己の内に埋没していく。深海へ、はたまた遥かな宇宙へ。意識は縮み、広がり、マクロとミクロを繰り返し、その過程で浮かんでは消える何かのイメージの奔流。その中から曖昧ではない一つのイメージを見つけ出し、士郎は撃鉄を起こした。
「──同調、開始トレース・オン
 手に収まるほど小さなナイフ──『七つ夜』を構成する要素の隙間を縫うように魔力を流し込んでいく。
「上です」
 睨み上げる。同時にセイバーが跳躍した。士郎の肩を越え、屋根から飛び出してきたそいつを迎撃するために。
 落下してくる襲撃者の顔は、暗闇に紛れて伺えない。闇に滲む襲撃者の輪郭と、手にした白刃はセイバーを目掛けて一直線に落下していく。
 不可視の剣が下段に握られる。それはつい今しがた士郎を失神させた構え。速く、重い一撃。それを、アイツはどう受けるのか。はたまた一刀の下に切り伏せられるのか。
「ハァ──ッ!」
 襲撃者──志貴が刃を振るうよりも早く、セイバーの剣が風を切り裂いた。見えない斬撃はさながらカマイタチだった。大斧の破壊力と、短刀の敏捷性を持ち合わせたそれはまさしく一撃必殺と呼ぶに相応しい。だが、肉を裂く音も、刃同士がかち合う音も無い。
「な──ッ」
 セイバーは剣を振りぬいたままで驚きの声をあげた。見上げていた士郎には、その光景は理解できない。志貴は空中で止まっていた。落下することはおろか、あらん方向──一瞬前にセイバーが通過した場所を見据えたままで、完全に硬直していた。刃は奇妙な方に刃先を向けている。
 呆気に取られるセイバーは、いまだ跳躍の頂点に達していない。空で止まる志貴に再度斬撃を加えようかという刹那、志貴の体が物理法則を思い出した。士郎は志貴の体勢を見、即座にセイバーの不利を悟った。
「突かれるぞ、セイバー!」
 刀の刃先は、見当違いの方向を向いていると思われた刃は、その実見事にセイバーの喉下に突き付けられていた。
 セイバーは振りぬいた剣を戻すが、さしもの豪剣もほんの十数センチ突けば到達する刃を相手にするには荷が重かった。刀は寸分違わずセイバーの首に切っ先を突きたて──
「甘い」
 そのまま空を切った。
 セイバーの左手が、配水管を握り締め、力いっぱいに腕を伸ばす。上昇途中だった体は軌跡をなぞる様に落下した。猫のようなしなやかさで着地したセイバーは、再び下段に構え、落下してくる志貴を睨みつける。
「すばらしい連携だが」
 見えない剣が唸る。風を巻き上げる圧力は、真正面から志貴にぶつけられた。
「上から攻めたのは失策だ」
 だが、その迫力を一身に受けながら志貴は頬を吊り上げる。志貴の体が空中で翻り、すりガラスを蹴りつける。砕けたガラスのツブテをセイバーに浴びせかけながら、志貴は大きく跳躍し、着地した。
 バーサーカーがいない間に、一人でも動けなくしておくつもりなのだろう。セイバーは間髪入れずに駆けた。
「狙え、一斉射撃!」
 凛の声が響いたのはその瞬間だった。闇と同化する魔弾が、間断無く飛ぶ。発射された弾丸はおよそ三十。セイバーの周囲を取り囲む攻撃は、そのまま志貴の逃げ場を無くすものだった。前後左右に着弾する魔弾を冷静に分析しつつ、志貴は刀を構える。その刀身は銀色ではなかった。新雪のような白。誰も踏みしめていない、今降ったばかりの雪の白さ。
「私は貴様等に一度敗れている」
 駆けながら、セイバーは吼えた。
「故に、油断などというものは、一片たりとも存在しない!」
 鋭い剣閃が志貴を襲う。士郎と立ち会うときとはまるで別人のような踏み込み、振り上げ、振り下ろす速度。その本気の打ち込みを、志貴は後方に跳躍することで辛うじて避ける。シャツの一部がはらはらと舞った。
「セイバー、そいつは宝具も消すわよ」
「ならば決して受けられない一撃を見舞うのみです」
 烈火怒涛の攻めに、志貴は防戦を強いられていた。それでも戸惑いは無い。不安そうな表情も無い。それは、堅固な覚悟に身を任せている者の顔だった。
 セイバーに勝てるはずが無い。今は避けていても、いずれ追いつかれ、追い抜かれる。たとえどれだけ優れようと、志貴は人間だからだ。ならなぜそんな顔をしていられるのか。
 一撃ごとに白刃が軋む。剣戟は刀の悲鳴のようだった。
 セイバーの重く鋭い斬撃を受けて、志貴の手は痺れからか震えている。
 それでも表情は変わらない。青く燃える瞳が、セイバーの不可視の剣を一心不乱に見出そうとしていた。
 志貴が今、何を考えているのかがまるでわからない。姿を見せないキャスターを信じているのか、それとも同盟を組んだというバーサーカーの応援を信じているのか。ただ、往生際の悪いその様を、無様だとは思わなかった。
 志貴の左前腕から鮮血が迸った。動きが鈍った瞬間を見逃さず、凛のガンドが飛ぶが、それはどこからともなく展開されたガラスのような膜に阻まれる。後退した志貴をセイバーが追う。
「イリヤ!」
「逃げろ、凛!」
 志貴と、塀の上に立ったアーチャーが大声で叫んだのはその瞬間だった。アーチャーは血まみれの外套を引きずっている。左腕は半分に千切れ、胴体にも空洞に見えるほどの大穴が開いていた。
 一言叫ぶと、アーチャーの体はゆっくりと前傾していく。塀から落下し、庭に仰臥する。溢れる血が庭を赤く濡らしていった。
「アーチャー!」
 凛が叫んで駆け寄ろうとするのを、士郎は腕を取って止めた。キッと鋭く睨む凛は見たはずだ。視線は士郎を通り越し、その背後を見つめていたのだから。そこにたった今現れた、巨大な体躯のサーヴァントを見たはずだ。
「バー……サーカー」


 最初から、それが狙いだったのかもしれない。「バーサーカー」という言葉にセイバーは一瞬、注意を逸らしてしまった。眼球を僅かに横にずらし、正面で荒い息を吐く志貴に戻す。それが命取りになった。セイバーが視線を戻したとき、そこには志貴の姿は無かった。眼球を下向ける。そこに志貴は居た。戦いが始まって二度目の攻撃を繰り出し、既に完了させている志貴がいた。
 斬られた感触は無かった。生前何度も何度も味わった感触だから、間違えるはずは無い。斬られてはいないし、どこにも異常は無い。体には。
 異常は剣にあった。風が巻き起こっている。穏やかな風はやがてつむじ風となり、数瞬後には竜巻のそれとなった。 
風王結界インビジブル・エアが……」
 解けていた。
 セイバーは片手で握っていた聖剣を両手で強く握り締めた。風王結界に溜め込まれた風は、すべてをなぎ倒す。それを押さえ込むために、セイバーは動きを止めた。だからきっとそれも、
破戒すべき全ての符ルールブレイカー
 狙い通りだったのだろう。
 音も無く現れたキャスターに胸を貫かれ、セイバーは二度目の敗北を認めた。


「セイ、バー!」
 バーサーカーの巨体の向こうで、セイバーが地に伏せるのを見た。同時に、左手の甲に焼け付くような痛みを感じた。令呪が消えていくのを見て、セイバーが倒れているのを見て、士郎の中で何かの栓が抜けた。否、起こした撃鉄が、勝手に降りた。イメージがより強くなる。ぼやけて見えたさまざまなイメージの欠片。ついさっきは何のイメージなのかさえ定かではなかった。だが、今は見える。まだぼやけているがそれらは剣。赤い荒野に突き刺さった、無数の剣だ。

 理想を抱いて溺死しろ。

 ふと浮かんだのはそんな言葉。ならば、この世界はアイツの──。

投影、開始トレース・オン

 毎日繰り返した言葉。そこに言霊が宿った。慣れ親しんだ呪文はまるで新しい響きとして口をついた。理想イメージ現実リアル顕在トレースさせる。それはきっと、衛宮士郎の意味だった。
「衛宮くん、それアーチャーの……」
 考察する。否、必要ではない。今はただ、眼前の障害を取り除き、セイバーを取り戻す。
 ならば策を考案する。否、必要ではない。元々、敵うはずの無い相手なのだから。
 だが逃げる手だけはあり得ない。ならば、戦うしかない。
「どけェ木偶の坊!」
 走った。二メートルをゆうに越すその巨体目掛けて。両手に握った「干将・莫耶」の重みだけを頼りにして。
「ちょっと! ったく……揃いも揃って……」
 バーサーカーは接近する人間を脅威と認めていない。だが、集った蝿を尾で打ち落とす馬の如く、その腕が振り上げられる。それを受けとめる術など存在しない。巌さえバターのようにスライスする攻撃は、受け止めようが無い。かと言って避けられるかといえばそれも不可能だった。バーサーカーはその鈍重そうな体躯に見合わない速度で、既に角ばった岩のような斧を、振り下ろしているのだから。
「七番、開放!」
 こめかみを強烈な痛みが襲った。見れば、魔力の塊が士郎を追い越してバーサーカーへと飛んでいく。空気を打ち震わせる、加工も何もしていない純粋な魔力。正面から受けるには強烈過ぎる魔力の塊に、バーサーカーは標的を変えた。士郎もまた標的を変える、魔弾に注意を向けたバーサーカーを、わざわざ相手にする必要は無い。もはや視界に映るのは、ふらふらと覚束ない足取りでセイバーに歩み寄るキャスターと、千切れかけた腕から血を吹きながらも、士郎を迎え撃とうとする志貴の姿だけだった。
 振り上げ、振り下ろす。士郎がそうする間に、志貴は何度斬りつけてくるだろうか。だが、何度斬られようと、この足を止めてはならない。欲望のために悪さえ容認する者を、許してはならない。
「遠野、志貴──!」
 裂帛の太刀を、志貴は容易く防ぐ。間髪いれずに左腕を振るう。流れるような動作で翻った刀が、それも弾く。再度右の剣を打ち払う。志貴は僅かに反応を遅らせたが、逆に強く刀を打ち付けてきた。弾かれ、体勢を崩した瞬間、腹に激痛が走る。気付けば体が宙を舞い、背中をしたたかに打ちつけた。
「志貴……戻ります」
 キャスターがセイバーの腕を肩に回しながら言う。
「イリヤスフィール、一人で戻れるわね」
 首を回せば、紫色のロシア帽をかぶった少女が塀の上に腰掛けて、天使のようにやわらかく微笑んでいた。
「当たり前でしょ」
 少女──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは不服そうに頬を膨らませたが、すぐに士郎に微笑みかけた。
「ちゃんとセイバーを助けに来るのよおにいちゃん。そしたらそのときはセイバーと一緒に殺してあげるんだから。でも早く来ないと、セイバーだけが死んじゃうかも」
 立ち上がり、バーサーカーに戻ってくるよう命令するイリヤ。バーサーカーに捕らえられていた凛が開放される。咳き込みながらイリヤを睨む目はまだ死んでいない。必ず倍返しにしてやる。そんな目だった。
 消えていくセイバーを黙って見つめている。もう指を動かすだけの力も無かった。
 情けなく仰臥する士郎を、志貴はあざ笑うでもなくじっと見ていた。青い瞳は何かを語ろうとして、やめた。しかし士郎には聞こえた。「うらやましい」と、確かに聞いたのだ。だから気付いてしまった。
 志貴は、未来など見ない。
 あの死を見る瞳は、そこにある終局しか映し出さないのだと。
 自分たちは、決して相容れない人間なのだと。



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