吹き荒ぶ北風が障子を揺すり、降り出した雨が瓦を打った。
 明けを告げる鳥の囀りは雨音にかすれ、弱々しく遠く聞こえるのみ。障子に透ける緑色の木々は、止まり木の役目も果たさぬとばかり揺れていた。
「起きたか」
 葛木宗一郎の抑揚のない声に、志貴は上半身を起こして応えた。コンクリートで倒れたにも関わらず、やけに温かい理由にようやく気付く。志貴は布団に眠らされていた。
「事情は全て聞いた」
 夜の冷気を吸い取った掛け布団をはぐりながら、志貴は僅かに顔面を緊張させた。窺いたてるような視線を宗一郎に向けたが、引き締まった表情から窺えるものはない。
 無貌と呼ぶに相応しい面相で宗一郎は正座した体勢から微動だにしない。空気が鉛になったかのような重みを帯びて、志貴の体を張り付ける。宗一郎の背からぼんやりと立ち上る揺らぎが、絶体絶命のような緊張感を生み出していた。
「謝罪の言葉もありません」
 辛うじて零すと、宗一郎は指の骨を鳴らした。
「謝罪など必要無い」
 僅かな動揺もなく言い切って、宗一郎はゆっくり立ち上がった。立ち上る揺らぎが微弱になり、志貴は小さく安堵の息を吐く。
「殺されるかと思いました」
 率直な物言いに、背を見せようとした宗一郎が動きを止めた。
「私に、最早お前のような胆力など有りはしないがな」
 まさか。と志貴は内心で抗議した。宗一郎がその気になれば、自分の首など容易く飛ぶだろうことはそれこそ容易に想像できた。それは志貴が抵抗も何もしなかったら、という条件付きではある。だが宗一郎の能力は、恐らく志貴を上回っていた。宗一郎が「殺す者」だと直感的に理解できたように、その事実は何の疑念も混じることなく志貴の中に根を張った。
 宗一郎はじっと志貴の眼を見つめていた。何か言いたげな視線に、ほんの僅かに好奇心が交ざった瞬間、志貴はぞわりと首筋を粟立てた。戦慄といえば、これほどわかりやすいこともない。
「名を聞こう」
 遠野志貴
 そう答えることは許されなかった。死んだはずのアイツが、狂笑を浮かべながら埋没していた心底から隆起してくる。眼前の男が望むのはこのオレだ。そう喚き散らしながら這い上がってくる。
『志貴ではない志貴が、出てきてしまったから』
 志貴は息を呑み、そして小さく低く、しかしはっきりとこう発音した。
「──七夜」
 初めて見た宗一郎の微笑は、自嘲に塗れていた。



 荷物を纏め、雨が降りしきる外に出る。最早布切れでしかないジャケットを肩からぶら下げる様は、浮浪者同然だった。
 境内を歩くと、やがて山門の前で雨に打たれるキャスターに気付く。アサシンを縛っていたという山門を指でなぞっている。背中は泣いているように見えたが、振り向いた表情は穏やかなものだった。
「出るのですか」
「ああ、宗一郎さんは居たいだけ居ろなんて言ってたけど、そういうわけにもいかないだろ。これ以上巻き込めるか……」
 キャスターは最後に一度柱を撫で、それで何かを吹っ切ったように志貴に向かって歩いてくる。マントのフードはしていない。理由は、表情を見ればすぐにわかる。その美しい素顔を隠す意味は無くなった。人への復讐を止めると決意したそのときに、そんなものは露と消えたのだ。
「行こうか」
 静かにキャスターは頷いた。
 もう戻れない。
 七夜を語ったからには、もう後戻りはできない。
 トランクケースとは別に握った、細長い包みを力強く握ってから、志貴は歩き出した。




Excalibur



 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは不機嫌だった。メイドであるリーズリットとセラには原因の見当もつかなかったが、一睡もしていない目元は今にもとろけてしまいそうだ。
「イリヤ、眠らないと危ない」
「フン、どうせ寝たくても眠れないんだから、関係ないの」
「眠れなくても寝ないと。子守唄、歌おうか……?」
「バカにしないで! 頭がガンガンして寝るどころじゃないのよ」
 乱暴に怒鳴り、イリヤスフィールはナイフとフォークで食事を始める。その仕草さえ乱暴で、黙って事の次第を見守っていたセラがため息を吐く。
「お嬢様、リーズリットの言うことも正しいですよ。眠らなければ、お体に触ります」
「セラまでうるさいこと言うの。いいわよもう、バーサーカーと出かけてくるから」
「いけません」
「だめ」
 二人同時に反対され、イリヤスフィールは膨れっ面で沈黙する。リーズリットとセラは苦笑しつつ顔を見合わせて、わがままなお姫様を暖かな目で見つめた。娘か姉妹を見つめるような視線に、イリヤスフィールはますます動けなくなった。二人の信頼し切った表情には、弱い。
「わかったから、そんな目で見ないで。今日はおとなしくしてる。それでいいんでしょ」
「イリヤ、偉い子」
 リーズリットが頭を撫でようと伸ばした手を、セラが叩き落とす。身構えたイリヤはほっとした顔になった。
「リーズリット、お調子が過ぎるわよ」
 リーズリットは聞き流す。
「それで、イリヤ。イリヤが眠れなかったのは『お兄ちゃん』のせい?」
「ううん。キャスターのマスター」
「キャスター? 何かされたのですか」
「殺されるところだったかも」
「……油断し過ぎ」
 うるさい。とイリヤはリーズリットを睨んだ。
「殺されそう、とは。バーサーカーがついていながらですか」
「キャスターじゃなくてそのマスターにね。バーサーカーはキャスターのマスターを庇うし。わたしはわたしであんなヤツに魔力分けるし。らしくない」
「挙句に寝不足で不機嫌」
 イリヤは今度こそ鋭い眼光でリーズリットを射抜く。リーズリットはセラの背中に隠れた。セラがずれると、リーズリットも一緒になって動く。イリヤスフィールは大きなため息を吐いた。
「とにかくお嬢様。お食事が済みましたらお休みください」
「ええ、そうするわ。やっぱり疲れてるもの」
「それがいい。無理して倒れたら困るから」
 テーブルの下でぶらつかせていた足を止めて、代わりにナイフとフォークを動かす。セラが用意する食事はいつも豪勢だったが、今朝は体調の優れないイリヤスフィールを察してか、柔らかなものが多い。それをぺろりとたいらげて、イリヤスフィールは席を立った。
「じゃあ、おやすみ。何かあったらすぐ起こして」
「おやすみ、イリヤ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
 イリヤスフィールを見送ったあと、リーズリットは横目でセラの様子を窺っていた。気付いたセラが見返すと、リーズリットは納得いかない顔で目をそらした。
「何?」
「なんで今日はイリヤって呼んでも怒らなかったの?」
 セラは肩を竦めたあと、食器を器用に重ねて運んでいく。そのあとを着けながら、リーズリットは答えを待った。
「随分滅入ってらっしゃるようだったから、貴女のその不躾な言葉で少しは元気を取り戻すかと」
「セラもイリヤって呼べばいいのに」
「それじゃ意味が無いの。貴女じゃないと」
「難しい」
「そう、難しいの」
 目を細めたセラは遠くを見つめた。リーズリットも視線を追う。壁にかけられた一枚の絵画。美しい女性が描かれた絵画。銀糸の髪に、透き通るほど白い肌。光を閉じ込めたような、美しい瞳。イリヤスフィールが成長したらきっとそうなる。まるで成長した姿を描いたかのように、絵の中の彼女はイリヤスフィールに酷似していた。だが決して、イリヤスフィールは絵画のように美しい女性になることはない。
「難しいのよ」
 セラは台所に消えていった。



***



 聖杯戦争に於いて自分が敗北することは有り得ない。そんな自負が、ほんの少し傾いでいた。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンにとって、昨晩は生涯忘れられない日になった。
 衛宮士郎以外に興味は無い。イリヤスフィールは衛宮士郎を殺すために生まれてきたのだから、それ以外の人間には価値が無い。だから、そこを割って入り込んできたあの男に受けた衝撃が、許せない。
 サーヴァントを抱いたバカな男を見つけた瞬間、イリヤスフィールは人知れず舌なめずりをした。アサシンにしてやられた怒りを、その男にぶつけてやろうと思ったのだ。
 今にも消えそうなサーヴァントを胸に、男は必死に走っていた。その姿は傍目にも無様で、情けなくて、あまりにも弱者然としていたから最適だと思った。
 弱々しく震える瞳。サーヴァントと戦闘でもしてきたのか、着衣は襤褸雑巾。凝固した血液から見るに随分前の出血らしいが、そんなことはどうでもいい。ふと、街灯の光の中に入った男の顔が見えた。遠目で見たのと同じ顔。女みたいに弱々しい目。厚ぼったい眼鏡。病弱そうな白い肌。
 ──わたしの士郎を殺そうとした男だ。
 最早躊躇は無い。一撃で粉々に砕き、千切り、血と臓物の雨を降らせてやろう。
「行って」
 バーサーカーに小さく命令する。バーサーカーはその巨躯に見合わぬ速度で駆けた。音も立てなければ気配すら殆ど皆無。バーサーカーに有るまじきその技は、イリヤスフィールという本物あってこそのもので、瀕死の魔術師に察知できようはずもない。
 巨大な斧紛いの剣を振り上げ、横に薙ぐ。剣風は最早暴風だった。空気さえ砕きながら驀進する斧剣。だが、くたばり損ないの魔術師は大きく体を捻って回避する。避けたといっても豪腕、怪腕のバーサーカーの一撃。纏う風圧だけで人間程度容易く吹き飛ばす。例に漏れず吹き飛んだ瀕死の魔術師は、抱いたキャスターのために受身を取ることもできず、キャスター諸共壁に叩きつけられ、アスファルトに仰臥する。それは恐らく致死性のダメージだったはず。だが──
「こんばんわ、キャスターとそのマスター」
 背を見せて立ち上がった魔術師の背中に、怒りに打ち震えた声をかける。何故避けられる。なぜ立ち上がる。死んでもおかしくない攻撃だったのに。背中に目でもついているのか。
「こんな時間に瀕死のサーヴァントを連れて歩くなんてバカね。予定には無いけど、ついでだから殺しちゃうね」
 魔術師は振り返ることなく、質量さえ忘れ、ゆっくりと地面に落ちたキャスターの頬に手を置いた。優しく撫で、無事を確認するように、あるいは別れを惜しむように、じっと蹲ってそうしたあと、肩を落とした。
「怖くて声も出ない? でも許さない。シロウに手を出したんだから消すわ」
 声は尚震えていた。まるで思い通りにならない。こんなことは初めてだった。殺そうと思えば殺せる力。支配するための力。聖杯戦争に於いて最強足りうる力。それを持つ自分が、何故全てをコントロールできないのか。
 バーサーカーを一度殺すなんて芸当をしてみせたあの出来損ないも。
 死ぬべきなのに死なないこの男も。

 その後の不覚は、怒りに我を忘れていたためか。
 背後を取られ、バーサーカーのお荷物になるという失態。
 ただ、瞼の裏に焼き付いたのは、死に損ないと決め付けていた男の蒼い瞳だった。
 思い出すだけでイライラする。見逃された屈辱は喩えようも無いほどに胸を焼く。本来死ぬべきは自分だった。アレが例えば遠坂凛だったらどうだ。彼女に背後を取られるなどということは有り得ないが、もしそうなってしまったら、イリヤスフィールはあっという間に死んでいた。
「はぁ……やっぱり眠れないじゃない」
 イリヤスフィールは布団を跳ね飛ばし、勢いよく起き上がった。キョロキョロと辺りをうかがい、続けて遠目の魔術でセラとリーズリットの位置を確認する。二人とも安心して仕事に就いたようだった。
「おいで、バーサーカー」
 霊体化していたバーサーカーを部屋に現界させる。屈強という言葉では足りない。頑強な巌のように佇む巨漢は、小さく唸り声をあげながらイリヤスフィールを見下ろしている。
「セラとリズに見つからないように外に連れ出して」
 バーサーカーは頷きもせずにイリヤスフィールを片手で抱えると、窓を開け放った。バーサーカーを通すには小さく、イリヤスフィールを通すには大きすぎる窓。そこから巨大な腕をイリヤスフィールごと突き出して、彼女を抱いていた手を離す。
「え、何……あ、あぁ!」
 抗議の声をあげる間も無く、イリヤスフィールは十数メートルの自由落下。内臓が浮き上がった拍子にこみ上げてくるものを堪えて、あっという間に迫った地表を睨む。あまりにも唐突で、魔力を通す暇も無い。従僕の突然の謀反に驚きと怒りの形相で落ちるイリヤスフィールの眼下に、両手を広げて待ち構えるバーサーカーが映った。
「バーサーカー」
 ストン、と軽い音と共に、イリヤスフィールはバーサーカーの胸の内に収まる。イリヤスフィールは気の抜け落ちた顔で文字通り放心していた。いつもなら真っ先に口をつく罵倒の言葉も出ない。
『どこへ行く』
 バーサーカーの横顔が問いかけていた。
「あの魔術師のところ……! こ、今度やったらただじゃおかないんだから!」
 気にした風もなく、バーサーカーは自身の肩の上にイリヤスフィールを載せ、深いアインツベルンの森へと消えていった。



***



 いつかのホテルにチェックインを済ませると、疲れがどっと押し寄せてきた。六帖ほどの空間にベッドが一つ。キャスターは必要なとき以外は霊体で過ごすという。神殿と魔力を失ったのだから当然だった。
 志貴は備え付けの電話を耳にあて、番号をプッシュする。無機質なプッシュ音とコール音。四コールで、か細い声が受話器越しに聞こえた。
「はい、遠野です」
「もしもし、志貴だけど、翡翠?」
「はい、志貴さま。ご連絡をお待ちしていました」
 毅然とした口調ながら、以前電話したときよりも遥かに動揺した声だった。
「何か……あったのか」
 電話口で黙り込む気配は、肯定以外のなにものでもない。
「一昨日、久我峰さまから連絡がありました。今日から一週間後……だと」
 翡翠の息は荒かった。
「一週間後? まさか」
「はい。秋葉さまの……秋葉さまの」
「いい、言わなくていいよ、翡翠」
「申し訳……ありません」
 前に電話したときも泣き通したような声だった。けれど、今回は発狂しかねない雰囲気があった。荒い吐息に、掠れた声。それは志貴の知る翡翠の声ではなかった。
「わかった。ありがとう。それで、琥珀さんはいる?」
「姉さんは離れで暮らしています」
「翡翠はどうしてるんだ?」
「わたしは屋敷の清掃がありますので、屋敷に」
 頭をトンカチで殴られるような衝撃があった。そして思い出す。言ってやらなければ、彼女は主を失くしてからもきっとそれを続けるような少女だと。
 それしか知らないから、それしかできないから、きっといつまでも続ける。外に出ることも無く、狭い箱庭の世界で働き続ける。
 遠野の屋敷。そこは閉塞された異空間のようなものだった。
 数年ぶりに帰った我が家に感じた重圧は、決して年月の重みだけではなかった。遠野の名に雁字搦めにされた妹と、やがて知ることになった様々な暗い過去。そんなものが染み付いた屋敷。そこで暮らせば、誰だって現実を見失う。
「ばか」
「え……?」
「もういいから。屋敷のことは何もしなくていい。離れで琥珀さんと一緒にいてくれ」
 離れには、七夜志貴の過去がある。一緒に駆け回った思い出がある。それが、少しでも彼女に安らぎを与えると信じて、志貴は言う。
「そういうわけには──」
「命令。帰ったときに屋敷でメソメソ泣いてたら、クビにする」
 それで何かの線が切れてしまったのか、堪えていた何かが溢れるのを、受話器越しにも感じた。
「志貴さま……! 秋葉さまがいなくなられるなんて、頭が割れそうです」
「大丈夫だよ。そのときは俺が秋葉をさらってやる。もちろん、翡翠と琥珀さんもね。それでさ、どこか狭いアパートでも借りて暮らせばいい」
「そんなことをしたら、秋葉さまがお怒りになられてしまいます。わたしでは、鎮圧は難しいですよ」
「そっか。いい考えだと思ったんだけどな」
 会話が途切れる。少しは落ち着いたのか、大きく息を吐く気配を感じて、志貴はかすかに安堵した。やがて、翡翠が控えめに口を開く。
「期日までに、戻られるのですね?」
「約束する。必ず戻るから、翡翠は琥珀さんと一緒にいるんだ。いい?」
「……はい」
「じゃあ、近いうちにまた連絡するよ」
 受話器を下ろす。腕は恐怖か怒りかで震えている。
 窓の向こうに見える海は静かに揺らいでいる。眼下の通りには背広姿のサラリーマンやOLがあくせくと行き来している。そんな光景は、今自分が身を置く世界とはまるで別物のようだった。
 仕事の汗を流して、家族を養う。妻子を持った平穏な生活。そんな当たり前のことが、志貴には想像できない。生まれがそもそも平穏な世界ではなく、育ちもまた異常だった。だから、志貴は平穏を求める。
 死ぬほどの目に遭ったわけではなく、まさしく死を経験している。奇跡的に還ってきてみると、それは他人に命の肩代わりをさせただけ。七夜志貴という自分は死んで、遠野志貴という自分が生まれたのだという。そして、その遠野志貴はみんなとは少し違う世界に生きなければならなかった。
 ツギハギだらけの世界。足を踏み違えただけでモノが死にかねない世界。幼心に『世界がこんなにも危ないところなのだ』と気付いた感性は、既に壊れていた。
 決定的に外れているわけではない。皆の世界を1とするなら、志貴の世界は1.1。皆と同じものを食べ、同じように笑い、同じように泣く。けれど志貴の世界には死がある。0.1の差は、有って無いようなものだったが、しかし確実にズレていた。ズレを無くすことこそが志貴の望みで、生きる意義だった。無くせなくとも、無いものとして生きたかった。
 しかし、遠野志貴は選択を誤った。
 平穏を得たかったのなら、妹が反転したあの日、己の胸にナイフを突き立てればよかった。妹は戻り、屋敷には平和が戻る。琥珀と翡翠がやつれていくことも無かった。我が身可愛さに、借りた物さえ返せなかった自分は、きっと道を誤った。
 だから
「キャスター」
「はい」
 日常を取り戻すために非日常の中に自分から飛び込まなければならない。
 何があろうと聖杯を手に入れて、秋葉を目覚めさせなければならない。
 それはとんでもないエゴイズム。しかし、それだけが正義だった。
 だからこんな人殺しの戦争に身を投じたのに、できることなら戦いたくないなんて、間抜けにも程がある。
「ライダーを消す」
 志貴を見つめる見えない瞳は、物憂げに揺れていた。
「電話は家族? 随分と逼迫しているようね」
「期限も決まった」
 ため息を吐く余裕すらない。ぎらついた目で窓の向こうを睨み付ける志貴は、まるで別人だった。
「一週間、と言いましたね。それでこの戦争を勝ち抜くと?」
「無理か?」
「いいえ──」
 キャスターはわざわざ実体化して微笑んだ。背筋を凍らせかねない微笑は、しかし綺麗に澄んでいた。
「無茶ですが無理ではありませんよ、志貴。あなたの望みは、必ずや成就させましょう」
「ありがとう。少し、散歩してくるよ。いいかな」
 キャスターはどうぞ、と仕草で言う。志貴の尋常ではない気配くらい、彼女にも伝わったようだった。
「そうそう」
 ドアノブに手を掛けると、キャスターが思い出したように声をあげた。
「ライダーを倒すなら『マトウ』という家を探してくれないかしら。デンワバンゴウというやつで構わないから」
「わかった。マトウね」



 ホテルを出てから二十分ほど歩いた。震えの止まらない腕を掻き抱いて、当て所も無く。上着も羽織らずに出てきたせいで震えているのか、それとも──。
 自販機で買った缶コーヒーで体を温めつつ、震える右腕をさする。二月の初頭にしては温かいのだが、それでもジャケット無しでのんびり散歩と洒落込める気温ではなかった。
 とはいえ仕方の無いことだ。昨晩の一件で上下一着ずつの服を失い、唯一の防寒具であるジャケットもボロ切れになった。寒空の下、薄いシャツ一枚の青年に道行く人は不思議そうな目を向けてくる。
 震える腕に不審な挙動。その上季節外れの軽装となれば、好奇の視線もひとしおだった。耐えかねた志貴は、通り掛かったカジュアルショップに逃げ込み、適当な上着を見繕って購入する。安物のジャケットだが、身なりに頓着しない志貴にはどうでもいいことだった。無意識の好奇心に晒されることなく、寒さも防げるというなら御の字である。ジャケットを受け取りしな、震える志貴に店員が苦笑混じりに言った「大丈夫ですか?」という言葉が、空しく頭の中をリフレインする。
 そこからまた方位も確かめずに歩き始める。しばらく歩き、あたりを見渡してみると、ちょっとした広場のような、開けた場所に立っていることに気付く。オフィス街の憩いの場のようで、昼休みにのんびりと過ごすサラリーマンが目に付く。本を開いたり、自前の弁当を広げていたり。思い思いに時間を潰している。
 志貴は広場中央部の噴水周りに設置されたベンチに腰掛け、寒さが原因ではなかったらしい腕を強く強く擦る。そうすればするほどに震えは強くなっていく。右腕だけだった震えはやがて体中に伝播していった。志貴は全身を震わせながら、止まっていた思考回路に電力を送るように、頭を働かせる。
 残された時間は一週間。だが一週間を一杯まで使えるわけではない。万が一聖杯戦争を勝ち抜けなくなれば、志貴には自害する道しか残されない。死ぬことで秋葉との契約を破棄し、彼女本来の生きる力を取り戻させる。今まではそう考えていた。だが、秋葉を殺させないためには、志貴は一週間後には帰宅していなければならない。翡翠に言った攫うという言葉。それが現実味を帯びてくる。実行するために、志貴は一度帰宅して三人を連れて逃げることになる。琥珀と翡翠が嫌がれば、秋葉一人でも連れて逃げ出すだろう。何せ、自分の命を絶てば秋葉が救われると決まったわけではない。その選択は今更だ。紅赤朱に成りきれていなかった秋葉なら救えたかもしれないが、成ってしまった秋葉を救うには、それこそ奇跡でも必要になる。
 ──俺が命を絶って、それで秋葉が戻らなかった場合、死刑執行は滞りなく行われる。遠野志貴が死んだことになど誰も気付かずに。
 それでは意味が無い。志貴は歯噛みした。
 秋葉を攫い、それから自害すれば、翡翠と琥珀が後はどうとでもしてくれる。秋葉が元通りになれば逃げ隠れる必要もなくなるし、三人は今までどおりの生活に戻れる。
 下向けていた視界に黒い靄のようなものが掛かったのはそのときだった。怖気づくほどの黒が、視界の片隅に細長くぼんやりと浮かぶ。それは線のようだった。
「まさか」
 視線をずらす。靄は動かない。
 震える腕で眼鏡に手を掛け、息を呑んだ。荒ぐ呼吸を落ち着けて、跳ねる心臓を押さえつける。恐る恐る、ゆっくり慎重に眼鏡をずらしていく。『先生』に貰った命よりも大切な眼鏡。志貴を人間でいさせてくれる眼鏡。
 取り外す。爆発するように眼球を襲う許容外の情報。視界は一瞬にしてひび割れて、死があちこちに溢れる死界へと変化する。
 靄は消えた。その代わり、靄があったのとまったく同じ位置に、黒々と線が引かれていた。
 理解する。耐えられなくなっただけだ。『先生の眼鏡』でも抑え切れないほど力が肥大してしまったのだ。
 胸の奥に焼けるような痛みを覚えて思わず蹲ると、唐突に焦りが広がってくる。じわじわと水が染み出してくるようにゆっくりと。それが魔眼の侵食なのだと気付けば、焦りの原因にも気がついた。
「時間が無い」
 眼鏡をしても抑えきれなくなれば発狂する。
 魔眼封じというダムは明日にでも決壊するかもしれないし、一生侵食を留め続けるかもしれない。ただそれが不確定である以上、時間は無い。一刻も早く敵対するサーヴァントを殲滅し、聖杯を手にしないと、秋葉をもう一度見る前に狂気に飲まれかねない。
 志貴は覚束ない足取りでホテルに戻る。途中の電話ボックスで住所録を引くと、『間桐』の家は容易く見つかった。メモ用紙が無いことに気付き、手早くそのページを千切ってポケットに滑り込ませた。
 ホテルにキャスターの姿は無く、代わりとばかり、慣れない日本語のメモがおかれていた。
「準備に出ます」



***



 ライダーは油断なく四方八方に意識の糸を飛ばしていた。突き刺さるような危機感。のんべんだらりとした体で無造作に歩いている主に、この危険性は伝わらない。
 日が落ちていること、やって来たのが広く開けた場所だったということ。それはライダーにとって僥倖だった。戦場は暗ければ暗いほど。広ければ広いほど良い。ところどころに立つ枯れ木は、障害物のうちには入るまい。ライダーが宝具を開放すればその瞬間、ここは更地になるのだから。
 冬木中央公園。聞けば前回の聖杯戦争の決着地だというここには、あまりにも強烈な腐臭が漂っている。昼夜問わず人が寄り付かないというのも頷ける話で、まさしく死地だ。数千の人の怨念と呪詛がそれぞれ巻かれ合い高まっていく。そんな螺旋構造の極みに、こんな淀みきった空間ができあがる。加えて、数千の軍勢に囲まれているような感覚をもたらす結界。とうに、自分達はキャスターの術中にはまっていた。
 こんなところにわざわざ足を踏み込んだのは、ひとえにマスターの命令だからであった。一本の電話。『おいで』とたった一言呟かれた言葉によって、間桐慎二は容易く陥落した。すぐに異変を察した間桐桜によって難を逃れはしたが、プライドを傷つけられたと猛る慎二は、桜の制止の声にも耳を貸さず、ライダーを連れて誘いに乗ったというわけだ。
 電気信号と化した電話越しの声でさえ呪術の媒介にできるキャスターも大概のものだが、わざわざ出向く自分達ほどバカな話もない。いくら魔力を吸って多少強くなったとはいえ、相手が誘い込もうとしている地に、必勝の計も無く飛び込んでいく。その行為のいかに無謀なことか。しかし慎二は聞く耳を持たず、復讐だと息巻いている。
「シンジ……ここでは貴方を守る自信が無い」
 慎二は聞こえていないかのように、ずかずかと公園の中央を目指す。ライダーは既に臨戦態勢だった。穏やかだった呼吸は、いつの間にか激しく変化し、一定のリズムを保っていた鼓動もまた、警鐘を打ち鳴らすように喚き散らしていた。
 視線を僅かに動かした瞬間、月明かりと遠く見えるビル街の明かりが揺らぐのを見た。何者かの世界に飲み込まれた感覚。それは極限まで研ぎ澄まされていたライダーの五感だからこそ感知しえた変化。それが致命的なミスになる前に、ライダーは行動を起こした。
「シンジ! 私の後ろへ」
「敵か?」
「そうです」
 両手を顔の半分を覆う眼帯の前で交差させ、
自己封印・暗黒神殿(ブレーカー・ゴルゴーン)
 英霊・メドゥーサは、彼女を彼女足らしめる魔眼を解放した。
 背後で喚く主をその視界に納めないよう気を配りながら、ライダーは慎重に周囲を見回した。どこまでも続く枯れ果てた草原。まばらに屹立する樹木。運悪くライダーの視界に入り、ぼたぼたと落下していく蝙蝠たち。
 如何に強い対魔力を持とうとも、この魔眼の前には行動を制限される。それがライダーの石化の魔眼の能力。その名の通り、対魔力を有さないモノは見つめられた瞬間石化させることができるが、そこまでの効果は期待していなかった。相手はキャスター。呪詛返しの術でも使われかねない。だが、魔力を練るにしろ動きを制限されるにしろ、そこに隙が生まれるのは必定。ならばその隙にもう一つの宝具(.......)で先制、あるいは撤退すればいい。敵地に策も無く飛び込んだのだから、出し惜しみなどできるはずもない。幸い、魔力は釣りが来るほど有り余っている。
 ──だが
 ライダーは顔に苦味を混ぜた。
 前言を撤回する。ここが『夜』で『広い』ことはマイナスであり、疎らに立つ木々は障害物でしかない。暗闇が視力を低下させ、木々が生む僅かな死角は命取りになる。現にライダーは間違いなくこちらを監視しているはずの敵を見つけられないでいた。
「どこに──」
 冷静沈着が持ち味だと信じていた。感情を表に出さないだけでもあったが、自身を見直すことにかけて、ライダーは誰よりも長けている。何せ、考える時間はいくらでもあった。英雄に殺されるその日まで、暗い洞穴の中で自己批判と懺悔の日々を過ごしたのだから、その忍耐力は言わずもがな。だがそれも、非常時には容易く崩れ去った。
 元々メドゥーサは美しいだけの、ただの少女だった。戦闘に長けているわけでもなく、特殊な力を持っていたわけでもない。今持つ力にしろ、因縁から植えつけられたものだ。怪物になってからでさえ、彼女はただの一度も自分から人を殺さなかった。興味本位で洞穴に忍び込み、勝手に石になったバカな人間たち。彼女自身が願って得た力など、何一つありはしない。だから、恐ろしいに決まっている。こんな、あのときのように寝首をかかれるようなやり口は、ライダーが最も苦手とするものなのに……。
 沈みかけた気持ちを切り替えて、ライダーはダガーを一際強く握った。白く変色した指先がライダーの緊張を表している。
 耐えられない。
「退きますよ、シンジ」
「ふざけるな。ここで! 敵の真ん中で! 敵の罠を! 粉微塵に砕くんだ!」
 慎二の言葉から理性は感じられなかった。卑小なくせに野心プライドだけは一丁前。端から見ればあるかないかも怪しい信念こそ持っているようだが、ライダーにはそれが哀れに思えた。
 俗世であれば、弱者は結束して強者を淘汰するだろう。強者とはつまりイレギュラーだから、人類という種はそれを見逃せない。故に魔術師は姿を隠す。協会とやらが奇跡を隠匿するのは淘汰を恐れているからに他ならない。
 だが、その強者たちの中に紛れ込んでしまえば、淘汰されるのは弱者だというのに。強者という通常の中で弱きは異常でしかない。それを知っていながら引き返せない哀れな少年。それが間桐慎二。弱者は弱者なりの小細工で生き残る。魔術師が異常を隠すように、異常者は自分が異常だと悟られてはいけない──
「ならば相応の準備をしなければならない。このままでは犬死──」
 ライダーの腕が蛇のように伸び、慎二の襟首を掴んでそのまま空高く飛び上がる。瞬間、一陣の風が吹き抜けて行った。その影を見逃すことなく、上空から睨み付ける。正体は知れている。蒼い瞳に、細身の体。武器こそカタナを使用しているが瑣末なこと。ライダーと昨日死闘を繰り広げた遠野志貴その人だ。
「アイツ!」
 慎二が叫ぶ。
「シキ──やはり貴方か。蜘蛛のように網を張り、獲物を待ち構える。らしくもない。昨日の勇猛果敢な貴方はどこへ消えたのです」
 必殺の一撃を避けられて、志貴はたたらを踏んでいた。更にライダーの視線に捕まり、枯れ木の陰に身を滑り込ませようとした志貴の動きが止まる。志貴はゆっくりと首を回し、頭上のライダーをにらみつけた。ライダーは口端を吊り上げて、面妖にほくそえむ。
「フフ、蜘蛛はどちらかしらね、騎乗兵」
 突然の声に、自由落下し始めた体を捻って背中に視線を向ける。紫色のローブをはためかせ、闇夜を魔女が舞っていた。右手には巨大な杖。ライダーの視線を一身に浴びながら、しかし魔女は平然と笑っている。
「その魔眼がさながら蜘蛛の糸というところかしら、メドゥーサ。けれど残念ね。蜘蛛の糸で蝙蝠は捕まえられない」
「私の名を──」
「反英雄メドゥーサ。キャスターを甘く見ないことね。それと、この私のマスターを」
 ライダーはハッとして志貴に視線を戻す。ほんの一瞬目を離した程度で解ける魔眼ではない。事実、志貴はいまだ石化したまま数ミリたりとも動けていなかった。
「シンジ、今すぐこの場を離れてください」
 志貴とキャスターを交互に睨みつけながら、ライダーは背中の慎二に声をかけた。
「シンジ──?」
 だが返事は無い。振り向けないことが仇になる。確認しなければならないのに、それができない。振り向けば、対魔術など持たない慎二は一瞬で石と化してしまう。
 斬られたのか。撃たれたのか。はたまた吸われたのか。その容態も確認できないようでは、この先戦いようもないというのに。
「無駄よ。あなたのマスターはもう返事をしない」
 着地し、片手で慎二を引き摺るようにしながら移動する。ゆっくりと一歩一歩。志貴とキャスターを同時に視界に納められる位置へと。
 死んだのか。否。背中に鼓動を感じる。
 気絶しているのか。おそらく正しい。慎二の体は操り人形のように力がない。ぶらんと垂れ下がった腕に、すぐに砕ける腰。
「それは貴女のマスターとて同じでしょう。私の魔眼の術中にあるうちは、いくら貴女が解呪したところで意味は無い」
 時間稼ぎのつもりで言うと、キャスターは一瞬きょとんとしたあと、心底おかしそうに腹を抱えた。
「アハハハハハハ! おかしな女。私は確かに言ったわね、マスターを甘く見るな、と」
 ローブの向こうの瞳が怪しげに光る。悪寒が足の指先から脳天まで駆け上がってきた。ライダーは荒い息で周囲を睨み付ける。極限まで高められた魔眼のために、あちこちで生命の終わる音がする。断末魔も無く、地面にぼたぼたと倒れる石。
 志貴もキャスターも動かない。今となってはそれこそが不気味だ。キャスターなら志貴の石化も解除できるだろう。空中からこちらを狙い撃ちにだってできるだろう。荷物(シンジ)を抱えたライダーを殺すには、慎二を狙えば事足りる。サーヴァントは、マスターを殺されるわけにはいかないのだから。だがしない。
 ──何を企んでいる。
「貴女の魔眼を解呪する必要など、はじめからないの。何故かしらね」
 キャスターの口調はおちょくるものだ。安い挑発。そんなものに乗るとでも思っているのか。
 ライダーは内心で毒づいて、監視の目を強くする。
「挑発には乗らないってわけ。いいわ。反英雄同士、仲良くしたかったのだけど。そろそろ終わりましょうか」
 言って、キャスターは指を鳴らす。乾いたスナップの音が響いた瞬間、今まで完全に硬直していた志貴が疾走を開始した。ライダーまで最短距離を一直線に走る志貴を正面に見据え、ライダーはダガーをその首に突き立てた。
「あら、自害するというの?」
 うるさい女狐め。
 兎を狩るのに鎧は要らない。笑い者にされるだろう。バカにされるだろう。それでも構わない。事態は常に悪い方向へ想像していくものだ。そう、たとえばその兎には猛毒があるかもしれないのだから。

 ──ならば私は、兎を狩るのに五千の兵隊を用意しよう。

 ダガーに切り裂かれた首から夥しい量の鮮血が吹き上がる。闇夜にあって目の覚めるほどに赤い血。魔力が全身に漲っている。生命力が血を赤く赤く染め上げる。円を描き、陣を組み、呪文を刻む。
 この首より生まれし幻獣。その主の名を以って、今一度我に従えと──。
 ゴルゴン三姉妹の末、メドゥーサの最高を以って貴様を葬ると。
騎英の手綱(ベルレ・フォーン)──!」
 

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