「く……」
 くぐもった笑い声を聞いて、士郎は声の主を見る。セイバーが鎧をカチャカチャと鳴らしながら震えていた。クスクスと漏れる声は途中でヒックと止まり、セイバーはゆっくりと顔をあげた。
「いっそ清清しいものですね、ここまで盛大にしてやられると」
「セイバー……」
「安心してくださいシロウ。昨晩の件は私も忘れてはいない。あなたを狙ったキャスターも。そして、アーチャーも、倒すことには変わりありませんから」
 肩を竦める士郎を見て、セイバーが甲冑を解除した。ブルーを基調にした時代物の服を夜風になびかせる。本当に清々したとばかりに深呼吸をするセイバー。士郎も考え込んでいた頭を切り替える。
「わたしの家が壊れたってのに嬉しそうじゃない、セイバー」
 背中から声をかけてきたのは、今にも倒れそうなほど憔悴した凛だった。外傷は無かった。屋敷の崩壊に、意識がついていかないのだろう。
「その、遠坂。もしよければウチに来ないか。部屋ならいくらでも余ってる。流石にこれじゃ、無理だろ」
「そうね、どうせこれじゃしばらく住めないし。人除けの結界を強めたらお邪魔するわ」
 名残惜しそうに屋敷を見つめながら、凛が頷いた。




Hunting High and Low.



 遠坂を別館の客間に案内して、俺はすぐ土蔵に向かった。時計の針は午前二時を指している。いくら明日が休校になろうと、いい加減寝なければいろいろと支障が出る。藤ねえは曜日関係なくやってくるのだから。だけど、五年間続けた訓練は、やらないと眠れない域にまできていた。
 土蔵で一通りの行程を終える。ここのところの強化魔術の精度はうなぎ上りだ。今日の強化は過去最高の出来だったからか、気持ちが昂ぶって眠気の『ね』の字もない。仕方なしに、昨晩のことを思い起こしてみた。
 二月五日の柳洞寺。キャスターの魔術でまんまと誘き出された俺は、絶体絶命の危機をアーチャーによって救われた。
 矢が雨のように降り注ぐ中、俺は視界の端に奇妙な影を見つけた。魔力を通した目でも、見えるか見えないかというほどの違和感。結果、セイバーを憤怒させる原因となった影だ。
 そのときは見間違いだと思った。それよりも、目の前でとんでもない事態が引き起こされているんだから、そんなものに構っていられる余裕は無かった。
 二人のサーヴァントがいがみ合っている。アーチャーとキャスター。俺に背を向けて仁王立ちするアーチャーはあくまで皮肉げにキャスターの相手をしている。だが、その背中から漂う研ぎ澄まされた敵意は、俺の臓腑を縮ませて余りある。
 そのアーチャーが、キャスターを一刀に両断した。目にも留まらぬ、巨象の圧力と獣の瞬発力。はらはらと舞うローブを見つめて、俺は僅かに胸を撫で下ろした。とりあえず、脅威は去ったと思ったからだ。だが──
「……残念ねアーチャー。貴方が、本当にその程度だったなんて」
 キャスターの静かな声は、確かに上から聞こえた。俺とアーチャーは同時に空を見上げる。刹那、アーチャーは剣を振り、俺は圧倒された。
 赤い焦げ跡を残し、霧散した何か。赤い雷光としか思えない攻撃は、羽根のようにローブを広げて空に浮くキャスターが放ったものだ。その佇まいはさながら伝説に出てくる魔法使い。漆黒のローブに、長大な杖。
 辛うじて砲撃を打ち落としたアーチャーは、肩に裂傷を負っていた。おかしな話だ。いくら不意打ちだろうと、俺でさえ来るとわかった物を、あのアーチャーが迎撃し損なうなんて。
「──空間転移か固有時制御か。どちらにせよこの境内ならば魔法の真似事さえ可能という事か。実に厄介極まる」
「本当に見下げ果てたわアーチャー──」
 アーチャーは再び双剣を構えなおし、上空を見据えている。嘲るように釣りあがった唇こそ変わらないが、焦りが見えた。
 キャスターが両手を広げる。それに呼応するように、羽根は更に広がる。目に見えない魔力が渦になってキャスターへと取り込まれていくのを、俺は黙って見つめていた。
 昔テレビで見たことがある。狭いガラスケースみたいなセットに押し込められて、上では膨れ上がっていく風船。回答者は必死に問題を聞いて、答える。
 この場合違うのは、風船は時限爆弾で、問題が無ければ回避方法も無いということ。
「堕ちなさいな、あの座まで!」
 時間が来た。俺は案外に冷静だった。光の筋は何十とある。喩えるなら絨毯爆撃。轟音と眩しいほどの魔力の奔流に一瞬目を奪われると、駆け抜けるアーチャーの体が見えた。双剣で迫る光弾を弾きながら、ほんの僅か、人間が一人通れるか通れないかの間を見つけてそこに駆けていく。
 その体が突然反転し、俺のほうを目指してくる。呆けていた俺に向かって、アーチャーが何か叫ぼうとした瞬間。アーチャーの体がグラリと傾いだ。
「な……に!」
 倒れることこそ無かったが、踏みとどまったがために一瞬アーチャーの動きは止まった。その隙をキャスターが狙わないわけが無い。新たな光弾が降り注ごうとした瞬間、俺は駆け出そうとする。仮にも命を救われて、これで見殺しにしたら遠坂になんて言い訳すればいいかわからない。だが、アーチャーは鋭い殺気を宿した目のままで俺を射抜き。
「来たら貴様ごと殺す」
 そう、語っていた。
 アーチャーはすぐさま飛びのき、光弾を回避する。右手から出血している。またしても裂傷。キャスターの攻撃で裂傷などありえない。あれは命中箇所をごっそり持っていくものだ。じゃあなぜ、アーチャーは斬り傷を負ったのか。
「セイバーが、やられた……?」
 あの傷はアサシンの仕業ではないのか。
「たわけ。己のサーヴァントの気配くらい探れるだろうが」
 すぐ眼前まで迫っていたアーチャーが血相を変えて叫ぶ。そのまま血が滴る腕を俺に伸ばし、片腕で俺を持ち上げた。
「降ろせバカ! 何するんだお前」
「黙っていろ。それよりセイバーはまだ無事だろうな」
「ああ、すぐそこで戦ってるはずだ」
 そうか、と呟いてアーチャーは突然俺を睨み付けた。
「飛べ」
 まるでゴールキック。アーチャーの足は俺の腹にめり込んで、俺の意識の芽を刈り取りながら振りぬかれた。俺は空を飛び、強かに背中を打ちつける。失神こそ免れたが、遠慮の一つも無い蹴りで腹がおかしい。
「てめ──!」
 胃からこみ上げてくるものに耐えつつ、起き上がる。アーチャーは背を向けたまま硬直していた。アーチャーを囲む空気そのものが固着し、アイツを閉じ込めているような。キャスターの魔術だとすぐにわかった。
「勝手に人を助けといて何固まってんだおまえ」
 ギシギシと軋む背骨のせいで走れない。二度も助けられた悔しさが胸に募る。己の不甲斐無さが、頭にくる。そんな思いでキャスターをにらみつけると、羽根を開いた魔女は呆然とアーチャーの体を見ているようだった。
「あなた、その傷は何?」
 上空のキャスターの、間の抜けた質問だ。
「何って、お前がやったんだろ」
 怒鳴ってやる。だが、キャスターはまるで意に介した様子が無い。ただ、この好機を失わないように魔力を集中させ、「避けろ、キャスター。死にたくなければな」の声に、慌てて首をめぐらせた。
 上空を、ブーメランよろしく飛び交う何かが、キャスターを切り裂こうとしていた。俺を蹴る瞬間に投擲したらしい双剣だ。さすがは弓兵(アーチャー)と思わざるを得ない。
 アーチャーの助言で辛うじてキャスターは難を逃れる。
「アーチャー、どこに──」
 そこまで言って、絶句する。それはキャスターも同じだった。
 アーチャーはとっくに準備を終えていた。片膝をつき、巨大な弓を大空に向けている。セイバー諸共バーサーカーを攻撃したあの螺旋(ネジ)れた矢を番えている。そうしてヤツは、必殺の真名を紡ごうとした。
 繰り出せば必殺。サーヴァントをサーヴァントたらしめる宝具の真名を。

I am the bone of my sword(我が骨子は捻じれ狂う)

 キャスターは半ば狂乱する形で何かを詠唱している。だが遅い。アーチャーの指は、矢を放った。

「“偽・螺旋(カラド・ボル)──」

 言葉が途切れたのは、あまりの驚き故に。
 撃ち放った矢は、あらん方向へと軌道を変え、虚空に呑まれていった。真名を開放する寸前だったからこそできた芸当。ついでに、俺はアーチャーの裂傷の正体を見た。
 そいつはバカみたいに速く。
 嘘みたいな身のこなしで。
 アーチャーの弓を、弾き飛ばした。ちっぽけなナイフで。
「え……?」
 ぽつんと呟いて、ゆっくりと降下してくるキャスターの足元で、そいつは蹲るようにして残心を終えた。
 緩慢な動きで立ち上がり、振り返る。凍えるような蒼い瞳にこそ覚えは無いが、他が全て一致した。
「遠野……志貴」
 二日前に学校で遭った男だった。嫌味ったらしいほどに澄んだ目で、俺を見つめていた男。この世の不幸なんてどこ吹く風。そんな雰囲気を持つ能天気そうな男だった。それが、氷のような目でこちらを睨み付けてくる。
「コレが傷の正体か。キャスターの傀儡だ」
「かいらい? 操られてるってことか」
「他に考えられまい。人間が、あの砲撃の雨を掻い潜ってサーヴァントに傷を負わすなど。それよりキャスター。こちらには続ける気が無いのだが、そちらはどうなんだ」
 地に降り、志貴の背後で視線をあちこちへと飛ばしているキャスターに、アーチャーが尋ねた。
「この道化……最初からその気は無かったということ?」
「挑発に乗っただけだ。この小僧にこそ用がある。そちらもどうやらソレの出現は予定外だったようだからな、手を引かせてもらおうか」

 その後、俺はアーチャーに斬り付けられた。
 “理想を抱いて溺死しろ”
 そんなことも言われた。その言葉は今もひどく心にまとわりついているし、思い出すだけでムシャクシャする。でも、今は遠野志貴のことで頭がパンクしそうだった。
 操られているだけだと思っていたのに。一成の友人だと本気で信用したというのに。アイツは一成を騙していた。ライダーを攻撃したのはせめてもの罪滅ぼしのつもりか。それでもキャスターが犯した罪は覆らない。
 なのに俺は、羨ましいと、そう思ってしまっていた。アーチャーの不意を突ける機動力。化け物じみた魔眼。ちっぽけなナイフで闇に紛れて人を襲う。それは俺の理想とはまるで正反対の姿だ。けれどその完成した形を、俺は羨ましいと思った。
 志貴に話しかけなかったのは、怒りと羨望とでごちゃ混ぜになった頭を冷やすため。
 街から魂を吸っていたのはキャスターの独断専行だった。だからアイツ自身はきっと良いヤツなんじゃないか。と、くだらない妄想をしながら数時間考え込んだ。
 希望的観測でしかない。結局アイツは操られてなんか無かった。だが、キャスターの行為に静かに激昂もした。捕らえて、遠坂の家で見た遠野志貴は、初めて会ったときと同じ、澄んだ目をしていた。
 殺そうとしたセイバーと、生かそうとした俺。
 どちらが正しかったのか。
 キャスターの行為を糾弾さえするだろう。それに、柳洞寺の志貴はキャスターの行為を知らなかったはずだ。なら、アイツは被害者だ。
「なんでさ……」
 解ることは唯一つ。
 俺には力が必要だってこと。
“喜べ少年
  君の願いは、ようやく叶う”



 衛宮家の縁側に腰を落として、月を見上げている。凛は眠り、士郎は土蔵に篭もっている。
 一日で激変した己の立ち位置を噛み締めるように、セイバーは大きなため息を吐いた。
 士郎との関係の悪化がその最たるものだ。元々ソリがあわないなりにも上手くやってきていた関係が、ひび割れた歯車同士のようにかみ合わない。
 ──そもそもシロウはアルトリア・ペンドラゴン。つまりアーサー王。ひいてはサーヴァントというものを理解していないのだ。
 猛ろうとして、セイバーは顔を俯けた。信用できないと言って己の真名を明かしていないのは誰だ。いまだセイバーを少女として扱おうとするのも、無理の無い話ではないか。この世界ではアーサー王が女だったという伝承は無いのだから、士郎がこの身を割れ物のように扱うのも仕方が無い。
 ふとして、キャスターと志貴の姿を頭に浮かべた。
 あれだけ接近しても気配を感じないほど肉体(エーテル)が希薄になっていたキャスター。恐らく魔力は底を付いていた。当然だ。契約が切れた状態で他人の魔術式を乗っ取るという大技をやってのけた後に、士郎の感覚で言うところのAランク魔術。その次元違いの所業を理解できるのは、恐らく打ち破られた凛だけだろう。式として成り立った魔術を打ち消すには、途方も無い時間と技量が必要なのだ。
 ゆえに追って、疲弊しきったキャスターを消すことはあまりにも容易だった。あれは八割方が木偶だった。指先の一つもろくに動かせなかったはずだ。だが、追わなかった。志貴の背が、セイバーたちを忘れていたからだ。
 セイバーは志貴に抱えられるキャスターに問うた。
「恥ずかしくは無いのか。人を喰い、捨てられ。挙句護るべき主に守られ、貴様にサーヴァントの誇りは無いのか」
 キャスターは声にしなかった質問にこそ答えなかったが、じっとセイバーを見つめていた。その目は彼女の主と同じように、澄んだ狂気に染まっていた。
『またな、セイバー』
 本当に突発的な衝撃だった。『またな』とは再び会おうということだ。人の顔を見るたびに震え上がっていた小僧が、そんな大層な口を利く。それほどの隙を見せていた自分に辟易する思いだった。
 きっと志貴は友人の家を訪れるが如くして現れる。無意味な確信として、セイバーはそう考えていた。好敵手と呼ぶには弱い。決して友にはなれない。ふわふわと波間をたゆたう木の葉のように、とらえどころのない人間。狂った真人間。
 志貴が逃げられたのは奇跡以外のなにものでもない。キャスターが消えたと確信してしまったことに拠る緊張感の欠如。士郎との関係が志貴に刃を向けて以降かみ合わずにいた焦り。それらが生んだ起きるべくして起きた奇跡だ。出し抜かれた悔しさは無かった。ただ己の未熟を悔やむばかり。壁を突きぬけ襲ってきた魔力の奔流は、本来意も介さずに霧散せしめて然るべきもの。
『遠野志貴という存在を初めから無かったことにしてほしい』
 その言葉もまた、セイバーの心をかき乱した。
 それは確か、己の希望と同意だ。己を抹消し、別の王に未来を託す。暗君では為せなかった夢を、別の王に叶えて欲しい。それが、凄烈な死を迎える騎士王アーサーの願い。
 高尚な願いのはずだ。それが、たかが狂人の願いと同じだという驚き。憤り。
 ──わたしは違う。
 叫ぼうとした言葉の無意味。それは、己もまた狂人であるという認識を生んだ。
 エクスカリバーを握った。風王結界(インビジブル・エア)によって姿こそ見えなくとも、セイバーはそこに数限りない戦いを共に勝ち抜いた相棒を感じる。
 あの二人は、今後強い結束力をもって襲い掛かってくるだろう。キャスターの瞳が物語っていた。志貴の過去を知りはしないが、似たような者なら星の数ほど覚えがある。国のためと叫びながら突撃してくる侵略した国の兵士。父の仇。親の敵。娘の仇。様々な者にとっての仇となりながら、家畜を見る目で切り伏せる。そんな中に、志貴のように世捨て人同然の、ただこの首のみのために生きる人間がいた。今まで感慨もなく切り伏せてきた。だから今度も同じだ。
 『救えないのなら己を無かったことにしたい』とという、同じ願いを持つ者を消さなければならない。
「無為ではない。無為ではないが、空しい」
 それにあれは魔王の子でもある。有機物はおろか、無機物まで万物を平等に殺しかねない力など、人間には過ぎたものだ。
「そんな物騒なもの握って何してるんだセイバー」
「星を見ていました」
「隣いいか?」
「ここはシロウの家なのですから、断りなど必要ありません」
 背後の気配は感じていたが、セイバーはあえて驚く仕草をしてから。体を半身ずらした。引き戸一つ分のスペースに、二人で座る。
「さっきは久しぶりに喋った気がするよ」
「事実です。実に十時間ぶりの会話ですから」
「そうだったな。悪かった。いろいろ考え事してたんだ」
「いえ、私の方が驚かせてしまったようですから……。凛の部屋の準備はできたのですか」
 士郎は僅かに頷いた。横顔は憂いを孕んでいた。
「正直、羨ましかったよ」
「羨ましい?」
「遠野志貴が羨ましい」
「どういう意味です」
 それはキャスターを召喚したかったということかと、セイバーは眉根を寄せた。確かに、晒した素顔は美人であった。年増でもあったが。しかしそんなことよりも、夜の柳洞寺で殺し合った人間(.......)が羨ましいとは、どういうことなのか。士郎は慌てて首を振った。
「違う。変な意味じゃなくてさ。アイツには力がある。サーヴァントと一人で戦える。倒れたサーヴァントを守るだけの力がある。俺は守られてばっかりだろ。あの夜だって、アーチャーがいなかったら俺は志貴に殺されていたかもしれないんだ。悔しくてさ」
「それでいいのですシロウ。サーヴァントと打ち合える人間こそが異常なのですから。凛がアーチャーと戦ったらどうなると思いますか。あのバーサーカーのマスターがアーチャーと戦えると思いますか。サーヴァントと戦えるということは世界をも動かしかねないという意味です。この異常性にどうか気付いてほしい」
 世界に力を認められた、あるいは与えられた人間。それが英雄であり英霊。その力は想像を絶する。人の行く末を正す者。惑星の危機を救う者。そのスケールの大きさは、高位と呼ばれる魔術師とキャスターを比べてみればよくわかる。水鉄砲と火炎放射器。本来火を消す水を以ってしても、キャスターの炎は揺らぎもしない。
「それでも……俺には必要なんだよ。世界を動かす力だって、俺は歓迎する」
「等価交換の理は魔術だけに適用されるわけではありません。過ぎた力には必ず反動がある。しなった弓が矢を吐き出すのと同じように。そしてその矢の先にあるのは己の体」
「じゃあなんで遠野志貴は平然とあんな力を使ってるんだ。アーチャーを追いやって、遠坂の魔法陣を消したんだぞ」
「あの命は既に尽きています」
 死を視る魔眼というならば、その発現は死と引き換えになる。これは安易な考察だが、志貴から第三者の生を感じたセイバーには、確信に近いものがあった。
「俺が死んだとしたって、おまえが傷つくのは嫌なんだ。セイバーだけじゃない。遠坂も。学校のみんなも。今日は遠野志貴がいなかったらみんな死んでたかもしれない。藤ねぇが、一成が……そんなの耐えられるわけないだろ。だからせめて、ほんの少しでいいから力がほしい」
 士郎は力を手に入れてもきっと悪くは使わない。己の正義に従って、力を行使するだけだろう。だが、見返りなどない。むしろ破滅への道を全速力で駆けるのと変わらない。それは、自身の生き方と変わらない。全速力で駆け抜けて、結局後悔している人間と変わらないのだ。
 だが、士郎は笑った。
「心配しないでほしいんだ、セイバー。ただ、おまえが疲れたときにほんの少しだけ代わってやれたらいいって思うだけだから」
 すぐ横で、曇りない笑顔で言われると、セイバーに返す言葉はなかった。家臣の気苦労などまるで理解してくれない。だがそれでこそ仕え甲斐もあるというもの。
「だから、少し待ってほしい。それまでは、この頼りないマスターをよろしく頼む」
「一朝一夕では遠野志貴には追いつけないでしょうが、そういうことなら私も今まで以上に力を入れましょう。ですが、あくまでも前面に出るのは剣の役目ですので、履き違えないように」
「ああ、わかってる。セイバーに迷惑かけないために、強くなるよ」
「では、仲直りですね」
「ん? 喧嘩なんかしてたか?」
「こちらの話です。気にしないで」
 今回ばかりは、この熱意にほだされてもいいかと、月を見上げながら思った。
「じゃあ俺はもう寝るけど、セイバーも早く寝ろよ。今日はいろいろあったから」
「はい。おやすみなさいシロウ」
 セイバーは士郎が行ってからも空を見上げていた。翳り始めた空に星は窺えなかったので、代わりに雲のゆったりとした流れを見つめる。
 時刻は既に深夜二時半を回っていた。眠って魔力の補充に充てなければならないのだが、今夜は眠れそうに無かった。明日は士郎の学校は休校になるというし、たまには夜更かしも悪くない。
「眠っているばかりでは体が鈍ってしまう……」
 言い訳のように呟いて、士郎がさりげなく置いて行ったどんぶくをもこもこと着込む。なるほど、温かい。
 凛が衛宮邸にやって来ると共に離れて行ったアーチャーの気配は、偵察に出たと解釈すればいいのだろう。つまり、今の凛はサーヴァント無しのマスター。令呪でアーチャーを呼び出そうとも、その隙さえ与えずに殺すのは容易い。赤子の首を捻るが如くして絶命させられるだろう。
「いや……よそう。対策を練りこそすれ、行動に移しては休戦協定の意味がない」
 頭が休まらないのはひとえにマスターのせいだ。が、それさえも心地がいい。
 セイバーはやおら立ち上がり、小さく伸びをした。
 雲の切れ間から覗いた星を最後に一瞥して、セイバーは踵を返す。



***



 
 凍て付いた夜の風は、弱っていなくとも力を奪っていく。追走者の影はどこにもないが、漆黒の海に生まれた芥のように、己の存在を寂しく感じる。疎らな街灯の明かりを頼りに駆ける体は、歯車の足りないぜんまい仕掛けの人形のように空回っている。
 もはや瞼さえ開かなくなったキャスターの、消えていくぬくもりだけを抱きしめて、志貴は走った。
「お前には聞かなきゃならないことが、それこそ腐るほどにあるんだ」
 柳洞寺に戻ったところで居座ることは出来ない。葛木や一成たちは何が起きたのかさえ理解していない。だが人として、どんな顔をしてこれ以上一緒にいればいいのか。そう考えると、志貴の内心にはどす黒い憎悪が浮かび上がってくる。キャスターに対しての怒りだ。だが、文字通り捨て身で自分を助けようとした彼女に、どうしてそんな感情を向けられよう。
 キャスターに偏り過ぎているとは気付いているが、それが偽りようのない気持ちだった。たとえ街の人間から魂を吸い上げ、別の英霊を召喚し、あまつさえ主人の記憶を消し飛ばした彼女でも、既に志貴は彼女と共に戦い抜くと決意しているのだ。たとえどんな非道に堕ちようとも、共に堕ちる覚悟の一つくらいはしてある。ただ、それを全力で以って阻止することだけはやめない。だから、死なれたら困るのに。何故こいつは目を覚まさないのか。
 どうやって吸い上げ、いつ英霊を召喚し、何故記憶を消したのか。それを、キャスターはうわ言のように呟いていた。曰く、何をしてでも勝ち残りたかった。曰く、勝ち残るために。そして、志貴ではない志貴を呼び出してしまったからだと。
 キャスターが手を翳すと、消された二日間の記憶が蘇ってきた。パズルのピースがはまるように、くっきりと。
 セイバーが志貴を殺そうとしていた理由は簡単なものだった。ただ、志貴とキャスターが衛宮士郎を殺す寸前まで行っていたというだけのこと。
 記憶が完全に戻ったというのに、志貴にはまるで覚えの無いことだったが、それはキャスターの催眠にかかっていたためらしい。とにかくキャスターは裏で様々なことをしていたのだ。
「ほんと、どうかしてる。おまえはバカだキャスター。うなされるくらいなら最初からしなきゃいい。ローブが無きゃできないなら相談すればいいんだ」
 志貴は焦っていた。再契約をしようと何度も試みた。だが、キャスターはうわ言を返すばかりでまったく応じない。まるで契約を拒むかのように、頑なに応じようとしない。一人では契約はできなかった。キャスターはもう、あと数分ももたない。
「死なせてたまるか」
 一際強くキャスターを抱いた瞬間、志貴は咄嗟に体を捻った。浮遊感を感じる。吹き飛ばされたと気付いた瞬間には、電柱に背中を強打していた。襲ったのは暴風だ。完全に避けた筈の攻撃は、志貴の体を十メートルも弾き飛ばした。キャスターが衝撃で落ちる。既に質量すら無いのか、その体は音も無く地面に横たわった。
「こんばんわ、キャスターとそのマスター」
 セイバーの声を鈴が鳴るようと表現するのなら、これもまた同じだった。しゃらしゃらと鳴る、小さな鈴。
「こんな時間に瀕死のサーヴァントを連れて歩くなんてバカね。予定には無いけど、ついでだから殺しちゃうね」
 志貴は振り返らなかった。倒れたキャスターの頬に手を置いて、じっと蹲っている。
「怖くて声も出ない? でも許さない。シロウに手を出したんだから消すわ」
 幼い声は心底憎々しげに、語気を荒げた。
 志貴はようやくキャスターから手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
『志貴ではない志貴が……出てきてしまったから』
 その言葉を反芻する。
「やっちゃえ、バーサ──」
 獣の咆哮が夜更けの住宅街に響いた。
 少女は、眼前一センチのところで止まった斧剣を見て目を見開いていた。斧剣の風圧でなびく髪。
「なにしてるの、バーサーカー!」
 身長3メートルにも届こうかという褐色の巨人は、その剣を少女に向けて微塵も動かさない。ピタリと空で停止させること自体が神技に等しかったが、少女にとってはどうでもいいことだったのだろう。少女を憎しみの篭もった目で睨み付ける。
「おまえの敵はあっち……え?」
 少女は電柱の方を見て、目を疑った。倒れているキャスター以外に、何者の影も無い。
「逃げた?」
 呟いた瞬間、少女の首がピクンと脈打ったのを、志貴はしっかりと観測していた。
「喋りすぎなんだよ」
 志貴は少女の背後にいた。少女の首に触れるか触れないかのところに右手を翳し、いつでも折れると顕示するように指の骨を鳴らしてみせる。それを聞いて、少女はようやく背後に迫った危険と、それに対応しようとしてできなかったバーサーカーの行動に気付く。
 己の剣風だけで人を弾きかねないバーサーカーにとって、自分がバーサーカーに近すぎたから、攻撃を止めるしかなかった。
「もういい、消えてくれ」
 だが、絶好の機会だというのに志貴は少女の首から手を離した。少女の横を通り過ぎ、背中を見せてキャスターのところへ戻っていく。
「何、してるの?」
「君を殺せば次の瞬間俺は死ぬ。ここで戦ったらその間にキャスターは消える。君を人質にして逃げればソイツは攻撃しないだろうけど、結局時間切れでキャスターは消える。俺にとって最大の不幸は、ここで君達に見つかったことなんだよ。とっくに詰んでるんだ、俺達は。だから君を殺したところで俺にメリットは無い」
 志貴はキャスターを両手でゆっくり抱きかかえ、背中を見せてゆっくり歩き始めた。少女はじっとその背中を見据え、やがて唇を濡らした。
「殺しなさい、バーサーカー」
 巨体が咆哮し、大地を震わせながら疾走する。さながら砲弾のように駆けて、無防備に背中を晒す志貴目掛けて斧剣を振り上げた。雷鳴のような怒号と共に、雷光のような一撃が振り下ろされる。志貴は避ける動作さえ無く、ただキャスターを守るようにその拳を受け──地面に膝をついた。
 少女はしばらくぼうっとその体を見つめる。志貴の足はすでにガタが来ていて、しばらくは動かないだろう。
 少女は仁王立ちしている巨体を睨んだ。
「なんで殴ったのバーサーカー。帰ったらお仕置きだから」
 少女は志貴の元へ小さな歩みで向かった。
「貴方みたいな魔術師は初めて見た。だから今は生かしてあげる。覚えておきなさい。わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。これで、貸し借りは無しよ」
 志貴から返答は無い。当然だ。バーサーカーに頭を殴られて、辛うじてでも意識を保っている方がどうかしてる。
 少女はキャスターの胸に手を当てる。触れているのかも怪しいほど消えかけている体に、僅かな魔力を流し込む。
「バーサーカーのこと嫌いになりそうよ、わたし」
 それを最後に、志貴は気を失った。



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