「その眼鏡、度が入っとらんな。淨眼持ちかい」
 片腕の翁はくつくつと喉で笑いながら呟いた。
 遠野志貴は眼鏡の奥を希望に輝かせて、浮かしかけた腰をもう一度座布団の上に据えた。頑固一徹の態を崩さず、志貴の言葉を全て興味無しとばかりに一蹴してきた翁は、七夜の名を志貴が名乗った瞬間に態度を変化させた。視線だけで人を殺そうと企む瞳が突然穏和な色を帯び、志貴は戸惑いもそこそこにメガネを外して、刀崎の翁を視た。
「ほォ……奇麗なもんじゃの」
 老人は身を乗り出して志貴の瞳を見つめ、やがて満足したように頷く。
「遠野と言うから相手せなんでおけば、小僧の倅か」
 小僧が指すのは誰か、と思案し、実の父親の朧げな輪郭を思い描いた志貴は、小さく息を吐いた。
「そう急くな。遠野の頭首が還ったと言ったな」
 志貴のため息を催促のそれと受け取ったのか、刀崎の翁はくつくつと笑いながら言う。
「ここにまで来るくらいじゃ、巫淨へも行ったのだろう。知っての通り、先祖還りした者を人に戻すことなど不可能。がまぁ……アテが無いわけでもない」
「本当……ですか」
 思わず飛び掛ってしまいそうになる自分を抑えて、勤めて冷静に訊ねる。ここではしゃいで、再び翁の機嫌を損ねるのは得策ではなかった。
 刀崎の翁はしゃがれた笑い声を止め、座敷に吹き込んでくる風に身の通らない左袖を揺らした。骨刀の伝承を思い出した志貴は、己の祖父に捧げられたであろうその刀を想像し、昂ぶりを覚える。
「冬木、という街がある。ワシも風聞しただけだが、生き残れば何でも願いが叶うとかでな。聞いた時分には一笑に伏したが、いやなに小僧を見ておれば藁にも縋らんばかりだからの」
「生き残る?」
「聖杯戦争、と言う。奇術師同士の殺し合いじゃ。使い魔を戦わせて生き残りを争う。アテというほどアテにならんがどうする」
 是非も無い。が殺し合いという言葉が胸につっかえた。黙り込んだ志貴を、刀崎の翁は興味深げに観察し、やがてさも不愉快だと言わんばかりに剣呑な空気を纏った。
「遠野に、何ぞされておるな」
 言って、翁は立ち上がる。
「行くのなら、いいものをくれてやる」
 慌てて見上げた志貴をカカと笑い、腕に繋がらない左肩を奇妙に吊り上げ微笑んでみせた。



Fate/stay night
-月姫-



 時刻は零時近く。降りしきる雨は、強くアスファルトを叩いて水溜りを作っていく。ペインティングデニムの裾は既にずぶ濡れで、歩くたびに靴下が音を立てる。半年の旅ですっかり擦り切れたスニーカーはそろそろ買い替え時。コンビニで立ち読みした雑誌で気に入ったスニーカーがあった。事が終われば買いに行こうと、考える。
 駅前の喧騒が嘘のように辺りは静謐を保っている。降り止みそうに無い空をビニール傘の中から見上げた。月は分厚い雨雲に阻まれて窺えない。閑静な住宅街の理想的ともいえる町並みを背後に、志貴はなだらかな坂を歩く。
 途中に設けられた十字が目立つ墓地──外人墓地だろうか──を横目に歩くと、やがて高台のような、開けた場所に出た。一教会が保有しているとは思えないほど広大な敷地。長方形の広場のような場所の奥に、十字架を構えた大きく立派な建物が佇んでいる。人里離れた場所に相応しく厳かな佇まいは冬木教会。交番で尋ねたここはそういった名称の教会だった。
 巨大な扉を前にして、ちりとこめかみが針で突かれたような痛みを訴えた。鼻をひくつかせ、眉根を寄せる。痛みの原因は匂いだった。重厚で濃厚な、(まが)り淀んだ空気。それが放つのが甘ったるくどこか妖艶で、嘔吐感を煽る臭いであり、恐らくは死の臭い。聖域に相応しくないものだったが、生を受け死を見取るのも教会だと思い出し、邪推しはじめた思考をストップさせる。
 扉に手を掛け、深呼吸を一つ。何が出てきても驚かない覚悟を決めて、臭気に圧されて妙に重い扉を押し開けた。襲い来る臭気に耐えるべく手のひらを握り締める。だが、予想に反して押し潰されるほどのそれは無く、むしろ清涼な空気が淀んだ空気を打ち払う。
「こんな遅くに何か用か」
 声は礼拝堂の奥から聞こえた。整列した長いすの一つに腰掛けて、金髪を揺らして振り向く男。
「ああ、スイマセン。教会の方ですか?」
「……オレか? いや違う。神父に用なら私室にいるだろうから訪ねれば良い。そこの扉から出て中庭を抜け……適当に曲がっていればそのうち着く」
 男は赤い瞳で志貴を一瞥する。志貴は煌々と燃えるような瞳に射すくめられ、背筋を伸ばした。不思議な圧力が体に掛かり、それから逃れるように辺りを窺う。人の気配などなく、臭気の元がここにあるとは思えなかった。
「どうも」
 会釈を返すと、じっと志貴を見据えていた瞳がゆっくり細められた。それから逃れるようにそそくさと礼拝堂を横切り、こげ茶色の扉を押し開く。中庭、と外国人が言っていたように、そこは草木がプランターに植えられた、ちょっとした庭園の様相を呈していた。どす黒い臭気は完全に根っこから無くなり、思わず安堵した。
「こんな夜中に……珍しい客だ」
 石造りの渡り廊下を、長身の男が歩いてくる。深い鳶色の瞳。威厳たっぷりに歩く姿。その全てに萎縮しそうになって、どこかで似たような目を見たなと既視感を覚える。
「すいません。ちょっと窺いたいことがあって。聖杯戦争ってやつのことなんですけど」
「……礼拝堂へ」
 神父服に身を包んだ男は抉るような目で志貴を貫いた。商品を見定めるような無機質な瞳。人間味の無い瞳と、低く腹に響く声。それら一々に眉根を寄せながら、教会にいるのに安らげないのは信徒でないからかと考えて、礼拝堂の方へ歩いた。
 礼拝堂では、あの外国人が何をするでもなくいすに腰掛けていた。赤色の瞳が訪れた二人に向けられ、何某か理解したらしい外国人は、立ち上がった。
「部屋に戻っていろ」
「そのつもりだ」
 無表情で神父に返し、男は二人とすれ違うようにして礼拝堂を後にした。去り際に見下すように口元を歪めて。
「やつのことは気にするな」
 外国人を目で追う志貴の視界を神父が遮る。
「今この教会には簡単な結界が張ってあってな。よほどの信者か聖杯を欲するもの以外は立ち寄らない。見たところキリスト教徒というわけでもなさそうだ。どこで知った?」
 神父は無表情に見下ろしてくる。どうしてこの教会はこうも高圧的な人間ばかりなのかと辟易して、志貴は「人づてに」と答えた。
 神父は嘗め回すように志貴の全身を睨みつけ、やがて「そうか」と呟いて、踵を返した。
「あ、ちょ」
「魔術師であることが最低条件だ。君では勝ち残ることはおろかサーヴァントさえ喚べん」
 神父の背中は扉の向こうに消える。志貴は狐につままれた表情で呆ける。刀崎の翁のカカカという笑い声を思い出して、全身から力が抜けた。
「前途多難どころじゃないだろ、これ」
 椅子の一つに腰を下ろしてため息を吐く。聖母像までもが、睥睨し見下しているように思えた。



***



「オイ、キャスター。こっちに来い」
 また聞こえた。堪らない腐臭を放ちながら、アイツが声をあげた。殺してしまいたい。考えた瞬間、体を電撃が打った。主に逆らった身に、鉄球が圧し掛かった。
 キャスターは床に頽れながら、主を窺う。キャスターを卑汚しようとする瞳は卑しく歪み、膨らんだ鼻の穴は欲望を吐き出さんと必死にひくつく。ギッと噛み砕いてしまいそうなほど歯を噛み締め、キャスターはよろよろと立ち上がる。
「今おまえ……何を考えた? 令呪の縛りを何故受けた? 私の言うことを聞こうとしなかったのか? 逆らおうとしたのかおまえは」
 俯いたキャスターに、主の言葉が突き刺さる。興奮に紅潮していた顔は一瞬のうちに固くなり、魔術師らしい猜疑心をありありと浮かべる。
「なんとか言え」
 あと一つ。
 歯を噛み締め、キャスターは懸命に堪えた。息をするのも困難なほど圧迫される全身に喝を入れる。あと一つなのだから、耐えなければ。
「答えろキャスター。おまえは何を考えた」
「逆らったわけではありません。ただ、何をされるのかと……あ」
 壁に手をあて、ようやく体を支えるキャスターを、近付いてきた主が突き飛ばした。
 重圧に辛うじて逆らっていた体は再びよろけ、床に音を立てて転がる。ずれそうになったローブを慌てて直して、主に顔を見せないようにする。
「何をされるか? 馬鹿かおまえは。私に逆らえると思うなよ」
 その様はまるでヒステリーを起こした女。間抜けで、卑小なくせに、野心だけは一丁前。まったく実に私のマスターに相応しい。
「ごめんなさい」
 殊勝に頷いたキャスターに、満足といかなくともそれなりに自尊心を満たされた主は、フンと鼻を鳴らして窓際のチェアーに腰掛けた。
「おまえの相手をしていたら気が萎えた。眠る」
 そう言って目を閉じると、魔術師の男は眠ってしまう。キャスターは埃を払うようにしながら立ち上がって、寝息を立てる男を睨み据えた。
 ローブの奥の瞳を憎悪の渦に曇らせて、キャスターは口元を歪めた。苦々しく。自嘲するように。
「あと、一つ……」
 それが、名前も覚えていない人間のライフリミット。どう殺してやるか考えるだけで胸が躍る。鼓動が早まる。この体を蹂躙したあの男の腹に魔力を有りっ丈に注ぎ込み、中から弾き飛ばしてやろうか。それとも四肢を順番に切断し、許しを請う男に嘲笑を上げながらナイフを突き立ててやろうか。
 主は今際にどんな声をあげるのか。烈火の如く猛るのか、涙ながらに懇願するのか。兎角、あと一回。全てはその時にわかる。
「でもそれから先は──」
 主を殺してしまったらその先は、どうすればいいのだろう。魂を喰って生きながらえるか。それとも潔く果てるか。
「なんて、情けない……」



***



 目を覚まし、カーテンの向こうを覗いて、世界が泣いているようだと感じた。黒い線によってツギハギだらけの世界は、画用紙をめちゃくちゃに破いて無理やりつなぎ合わせたように不自然。それを嫌った世界が、必死になって押し流そうとしている。槍のように強い雨は、あわよくば死を消してしまおうとする世界の涙。
 枕元の眼鏡をつけ、ひとつ伸びをする。つまらないことを考えた頭を覚ますべく、洗面所に向かった。
 鏡に映る顔は酷いものだ。半年間探し回ってようやく見つけた手掛かりは、根暗な神父によって粉々に砕け散った。ショックは大きく、昨晩は浅い眠りを繰り返すに留まった。
 目の下にうっすらと浮かんだ隈を、水で擦る。冬の水は凍えるほどに冷たいが、昨夜のショックを紛らわすには絶好だった。豪快に顔を洗い、部屋に戻る。そうして改めてベッドに座り、思考を巡らせる。だがそうしたところで打開案が浮かぶわけもない。魔術師でなければ参加はできない。解っていた。ダメで元々知り合いの魔術師に頼んでみるかと考えたが、引き摺り戻される自分の姿が浮かんだ。
「……先輩でも勝てないくらいに厳しかったりするのか……?」
 ふと脳裏を過ぎった思い。もしも万が一、埋葬機関の第七位を以って勝利が難しい戦争だとするのなら、自分には万に一つも勝機はない。だが、その知り合いの魔術師であり埋葬機関の第七位でもあるところの女性が敗北する姿など、まるで思い浮かばない。不死性を失ったとはいえ、彼女の鍛え抜かれた格闘術と魔術は、魔術の世界を知らない志貴にも異常だと見て取れる。
 彼女の愛嬌のある笑顔を思い出すと、自然に三人の家族の顔が思い浮かんだ。使用人二人と、家主。後継者がどうのとかで、再び志貴の抹殺が仄めかされている。七夜の生き残りを滅ぼすという大義名分を掲げれば、志貴を抹殺するのは容易い。逃げ出してきたようなものだった。
「電話くらいしておくか」
 部屋に備え付けられた電話の受話器をとる。番号をプッシュして、コール音をどこか遠く聞いた。夜逃げするように飛び出してから、半年間まるで連絡をしていない。怒っているだろうか。怒っているだろう。いつも笑顔のあの人も、いつも無口なあの子も、全て失ったあいつも。
『はい、遠野です』
 懐かしい声だった。
「琥珀さん? あ、えと、志貴……だけど」
 思わずどもってしまう。電話口に沈黙が広がり、やがて小さく息を呑む気配を感じる。
『志貴、さん? ほんとに。出て行くといったっきり何も連絡をせずに、もう半年ですよ。今どこにおられるんですか』
「……遠いところですよ。秋葉の様子、どうかな」
『戻ってください。もう、秋葉様には日が残されていませんから』
 彼女の声は震えていた。今にも泣き出しそうな声に、胸をナイフで穿たれるような痛みを覚える。何より、日が残されていないという言葉の意味が解らず、動悸が早まる。
「どういうことですか?」
『秋葉様の処断を、分家の方々が話し合われています。刀崎家のご隠居様と九我峰家のご長男が異を唱えてくださっていますから決定はされていませんが、それもいつまで持つか』
 血の気が音を立てて引いていく。貧血を起こしそうになって、コードレスの受話器を弱々しく握ったまま、ベッドに腰を下ろした。
 いつかこんな日が来ることは解っていた。反転した人間を、そのままにすることはできない。志貴が駆け回ることによって分家筋に、遠野の頭首が反転したという情報が回っていたのだろう。
 ベッドに腰を預けても、体は支えを失ったようにゆらゆらと揺れる。意気は消沈してゆき、意識は遠のいていく。
「わかりました。一段落したら戻ります。迷惑ばっかで、ほんとすいません』
 搾り出すような言葉でも、聖杯戦争のことは伏せたほうがいいと考えた。参加できるかもわからない話で、無闇に期待させるのは愚かなことだ。「帰ってきたら、覚悟してください……」という小さな声を聞いて、志貴は受話器を下ろそうとする。これ以上話していると、帰りたくなってしまう。
『志貴さまっ!』
 しかし、耳から離しても聞こえたその声に、思わず受話器を握りなおした。
『志貴さま?』
「あ、ごめん。久しぶりだね、翡翠」
『志貴さま……秋葉さまが』
 自分付きの使用人の声もまた、か細く震えていた。恐らく、分家から連絡があったのは最近のことなのだろう。翡翠の声は泣きとおしたように掠れ、弱々しかった。
「琥珀さんから聞いたよ。今ちょっと立て込んでてね、これが終わったら戻る」
 言葉は、冷酷なほどに冷静だった。今にも壊れてしまいそうな心が、均衡を保つために平静を装っている。
『秋葉さまの命よりも大事な用事ですかそれは。少しでも長く一緒に居られてはどうですか。このままでは秋葉さまが……可哀相です』
 そんな言葉が気に障ったのか、翡翠は息を呑んだあとに大きな声で捲くし立てた。翡翠は怒っている。嘗て無いほどに怒気を孕ませた言葉は、そのまま志貴の代弁でもあった。
 秋葉の元に居たい。彼女を連れて逃げ出したい。哀れだ。あいつは何もしていない。あいつはただ俺を助けてくれただけなのに。なのに殺されるなんて事、許せるはずが無い。
「ごめん翡翠。秋葉に、すぐ帰るって伝えてくれ」
 翡翠の声も聞こえなかった。何で妹が殺されなきゃならない。そこに意識は集約し、収束し、刀崎の別荘で決めた覚悟を、更に強固なものにした。
 殺し、殺される。だがその先に希望があるのなら、この身に変えてもそれを手にしてやる。
 妹との約束も守れず、自害する胆力も無かった。そんな自分が情けなくて、居た堪れなくて、妹を救う手立てを探すと言う大義名分を抱いて、逃げ出した。
 ここが、覚悟の決め時だ。
「何をしてでも、秋葉を守るから」
 それだけ言って、受話器を置いた。


Cautionary Warning



 結局、チャンスが来れば行動を起こしてしまう自分がいた。そんな自分に流されて、破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)を主の胸に深々と突き立てたのがほんの数時間前。身を統べる(まりょく)が根こそぎ消えていく恐怖が身を包み、凍えるような苦痛の最中にあって、キャスターはぼうっと空を見上げていた。
 月を隠した雲が、冷たい雨を降らせている。ローブを濡らして、全身を洗い流す雨が、強く、叩きつけるように降っていた。早く消えろと、そう言われているようで、胸が痛い。
「フフ」
 本当にわたしらしい、惨めな最期。
 自嘲は嘆きに変わり、嘆きはほんの小さな嗚咽に変わる。歩くことにも疲れた。もう三十分と保たない体で、これ以上動くのも馬鹿らしい。
 キャスターのサーヴァントは雨に濡れた顔を空に向けて、泣いた。自分が惨めで、哀れで、空しい。女神に翻弄されて、気付けば魔女に成り下がっていた。顔も知らなかった男に恋をして、弟を殺し、父を殺し、我が子までも殺した。そんな人生を願った覚えは無い。王の娘として、少し堅苦しい生活を送れたらよかった。それがどうして、たった一人にも看取られることなく逝かなければならなかったのか。だからもう一度世界に生まれ変わって、第二の人生を歩みたかった。普通に生きてみたかった。
 しかし結局、それさえも許されなかった。
 魔女を召喚するような性根の持ち主に、聖杯戦争を生き残るだけの力などなかったのだ。最初から、キャスターに勝利は約束されていなかった。
 召還に応じたのがキャスターだと知るや戦意を失い、挙句にキャスターの「女」を利用しようとした魔術師。反英雄だとしても。イレギュラーだったとしても。英霊として召還されたからには意地と名誉とプライドがあった。それを踏みにじった魔術師には、然るべき制裁を与えた。当然の行為であり、奇しくもキャスターにはそれを可能にする力があった。最後に運命に反して消えることができるのならば、それはそれで召還に応じた甲斐もあるというものだった。
「も……げんかいか」
 倒れこむ。どことも知れない異国の町。冷え切ったアスファルトに崩れるように倒れこんで、見上げれば分厚い雲。
 涙を拭い、キャスターは苦笑する。涙ながらに死を迎えるなんて、魔女に相応しくない。
 そんな感想を抱いて、キャスターのサーヴァントは現界を終えようとしていた。
 眼を閉じる。何も見えない。何も感じない。ただ、自分がふわふわと浮いているような感じ。ふと、誰かの声が聞こえた。
「大丈夫ですか」

 見て解らないのかという言葉は、喉につっかえて声にならなかった。変わりに目を開けて、人の死を冒涜しようとする不躾な人間を睨み付けた。鼻と鼻がくっつきそうな距離にいたのは少年で、少年はしゃがみ込んで、キャスターの肩を抱いていた。
 一目見て、普通の少年ではないと気付いた。目に惹かれた。眼鏡の奥にある瞳は、どす黒い邪悪に染まっている。そう、邪悪だった。体さえ動けば、絶対に近づけたくない。あれは、他者を蹂躙することによって自己を確立する人間だ。とにかく良くないものだと思ったので、キャスターは身をよじって少年の腕の中から逃げ出そうとした。
「あんたさ──」
 しかし少年は力強く肩を鷲掴みにして、キャスターを押さえ付けた。
「サーヴァントだったり、しないかな」
 耳を疑う。そして警戒する。どす黒い目にも納得がいった。
「……へえ」
 こいつは──マスターだ。
 右手に力を収束させる。ここまで接近していれば、今の弱った魔術でも一撃で殺すことができる。サーヴァントを出されるよりも早く、魔術で少年を殺し、その魂を食らう。
 何て幸運。キャスターは口元に微笑を携えて、その手を少年の胸に押し付けた。
「なんて幸運かしら」
「俺もそう思ってた。だからその手はどけてくれないか。正直怖くて死にそうなんだ」
「喋ると痛い目みるわよ」
 あとほんの一ミリでも少年が動けば、病風の魔術が開放される。それを真正面から受ければ、いかな剛の者とて灰燼に帰す。
 だが少年は
「俺と契約してくれないかな」
 思いもよらないことを口にした。
「サーヴァントがほしい。何としても」
 少年は真っ直ぐにキャスターを見つめて、言っていた。
 キャスターの手は少年の腕に押し付けられたまま。
「マスターじゃ、ないの?」
「俺は魔術師じゃない。だからマスターにはなれなかった。見たところあんたは消えかけてる。助けが必要だろ? 相互扶助だと思って、契約してくれないか」
 少年は淡々と語る。嘘をついているようには見えないが、信用するのも馬鹿らしい。だが、マスターが手に入るのならば、人を殺して魂を食らうよりも効率的に魔力が手に入る。少年が魔術回路を持っていればの話ではあるが──。
「魔力は、どうやら持っているようね」
 先ほど感じた邪悪な瞳。そこに感じる魔力はなかなかのもの。
「いいわ、契約しましょう」
「いいのか?」
「ええ、まだ消えるには早すぎる。坊や、名前は?」
「遠野志貴」
「志貴ね。私はキャスター、知っての通り七騎のサーヴァントの一騎」
 右手の魔力を霧散させる。
「魔術師の名に於いて告げる。汝、我が主として契約せんことをここに」
「ん、ああ。よろしく頼む」



***



 キャスターの言葉に頷いた瞬間に、体が錘でも取り付けられたように重くなった。代わりに、青ざめ、土気色の肌を晒していたキャスターはすっかり元気になり、志貴の後ろを上機嫌で着いて来る。着いて来るといってもなんとなくそんな気がするだけで、実際は霊体になっているらしく、見えない。見えないが見えないゆえに彼女の持つ独特の雰囲気が伝わってくる。一言でいうと危険な感じ。女狐とか、魔女とかそんな言葉がひどく似合う、彼女のローブのように紫色の何か。
「なぁ、なんでキャスターは倒れてたんだ?」
「前のマスターを殺したからよ。サーヴァントはマスターとの契約を切ってしまうと、大抵二三時間で消えてしまうの。だから私はあそこで倒れていた」
 キャスターはあっさりと言う。不安もまたあっさりと的中した。
「マスターを殺したって、なんで」
 彼女がクスクスと妖艶に笑っているような錯覚を覚えた。彼女に晒している背中がムズ痒くなる。一瞬後に魔術の餌食になっているかもしれない恐怖。不安になって振り向くが、彼女の姿はない。むっと顔をしかめて歩き出す。
「相応しくなかったから」
「いやに簡単だな」
「もちろんよ」
 悪びれた様子などどこにもない。寧ろ当然だとでも言わんばかりの物言い。頭を抱えたい衝動を堪えて、ビニール傘を強く握った。
「俺のことも殺すのか?」
「坊や次第ね」
 志貴は人知れずため息を吐く。運がいいと思っていたが、どうやら外れクジだったかもしれないと嘆息する。昨日の今日で、いや、今日の今日とでも言うべきか。妹の話を聞いた日の夜に、使い魔を手に入れられた。でもどうやらそいつは欠陥品だ。使い魔のくせに主を殺すなんて、欠陥品以外のなにものでもない。
「使い魔なら使い魔らしくしてないといけないんじゃないか?」
 尤もな疑問を口にする。使い魔とはマスターによって使役されるもの。マスターがなければ存在せず、唯一絶対がマスターであるが故に、マスターには歯向かわない。歯向かえば待つのは自身の消滅だからだ。そこまで思考できる自我が与えられている使い魔となれば、相当な力を持った魔術師の作品ということになるが、自我があればあるほどに使い魔は大人しくなる。わざわざ反抗的な自我を与える魔術師は少ないからだ。そういった意味で、このキャスターという使い魔は欠落している。
 と、志貴は知人からの知識を思い起こしながら考察してみた。使い魔とは絶対服従のものだ。だがキャスターには過剰なほどの反骨精神がある。キャスターの元マスター──つまり創造主というのは、よっぽどな好きものだったのだろうか。
「坊や? 何か勘違いをしているようね」
「何かおかしなこと言ったかな」
「言ったわ。宿に着いたら説明するから、今は早く歩いてちょうだい」
 言われた途端に体が鉛のようになる。キャスターがやってるんじゃないだろうなと、強ちはずれとも言えない愚痴を飲み込んで、志貴は歩いた。

 志貴が泊まっているのはラブホテルやビジネスホテルに混じって乱立するホテルの一つだ。見栄えが良いわけでも、これといった売りがあるわけでもない。特に面白おかしいものがある街でもなかったが、ホテルだけは探すといくらでもあった。
 ベッドを使いたいというキャスターの申し出で、フロントで二人部屋にしてくれと頼んできた。金は有り余ってる。秋葉が殺されると貧乏生活に落ちるだろうが、それでも今は金がある。一人で二人部屋を使うという客にフロント係は首を傾げたが、快く応じてくれた。
 キャスターのローブはどういうわけか部屋に着く頃にはもう乾いていた。バスルームに置いてあったタオルで体を拭いて着替える。
「奇麗な部屋ね」
 新しい部屋はさすがに広い。キャスターは部屋のあちこちを見てしげしげと呟いた。気に入ってくれたようでなによりだと顔をほころばせる。
「安いけど」
「そう、気に入ったわ。でもここで神殿は作れ──あ、色々説明がいるのよね、アナタ」
 ベッドに腰を落ち着けて、キャスターは志貴が淹れた紅茶を啜る。ローブは外さないが、仕草は様になっていた。
「あぁ、頼む」
「どこまで知ってるの?
「聖杯戦争ってのは、魔術師がそれぞれの使い魔を戦わせて殺しあう。勝者の望みが叶うって事までかな」
 前情報はそれだけだ。藁にも縋る思いで放浪していたから、それだけの情報でも僥倖。奇跡に近い。その『藁』の内容も奇跡のようなものだったが、キャスターの体が半透明になっていく様を見た今では、現実味を帯びている。聖杯をめぐるなどと、彼のアーサー王伝説の登場人物にでもなったような気分だった。
「それだけ?」
 キャスターは不満顔だ。口しか見えないから本当に不満顔かどうかはわからないが、不満そうな声色だからそう思う。志貴は頷いて見せた。
「参ったわ。幸運かと思ったけど、これでは元の木阿弥。私たち、きっとすぐに殺される」
 物騒だとは思わなかった。現にキャスターは死に掛けていたし、一歩間違えれば即死という状況を知らないわけでもない。何より殺し殺されるという前提を理解して、この戦争に参加する気になった。ただ、情報が少なすぎる。今は少しでも聖杯戦争のことを知って、生き残ることを考えたい。できれば殺し無しで。
「説明、頼む」
 キャスターはええと頷いて、紅茶を口に含んだ。
「まず、厳密に言うとサーヴァントは使い魔とは違うわ。英霊って知っているかしら?」
「英霊っていうと、戦死者なんかをそういう風に言うんじゃないか? あと、魔術的に言えば霊長の抑止力になりうる存在……とか聞いたことがある」
「この場合の英霊は後者。霊長云々っていうのはこの際省くけど、その通り、大まかに言えば抑止力として世界に使役されるのが英霊。それは過去の英雄や、人に信仰される想像上の人物などがあたる。そして、聖杯戦争に召喚される使い魔はその英霊」
「魔術師固有の使い魔じゃないのか?」
「違うわ。セイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七つのクラスに該当する英霊を喚び出して戦わせる。それが聖杯戦争」
「つまり、歴史上の偉人だとかが召喚される……ってキャスターも英霊なのか?」
 そうよとキャスターは頷いて、フッと勝ち誇ったように口元をゆがめた。
「なんて、名前なんだ」
 恐る恐る訊ねる。メデューサなどと言われた日には納得してしまいそうだったが、そもそもそういった所謂悪に属するものは英霊にはならないはずだ。だが、キャスターからはどうも邪悪なものを感じる。
「サーヴァントの本名のことを、真名と言うの。でも、マスターは自分のサーヴァントをクラス名で呼ぶ。何故だかわかる?」
 キャスターは志貴の質問を無視して続ける。釈然としない思いで首を振ると、キャスターは顔と肩を覆っていたローブを緩慢な動作で脱いだ。
「え……」
「サーヴァントとして使役される英霊は、皆が皆歴史に名を残す英雄。本名が露見してしまえば、弱点も簡単に見つけ出すことができる。有名な英霊なら有名なほどに」
 キャスターの言葉が耳に入らないほどに見とれていた。思わず腰を浮かせていた。驚いたなどという言葉では表現できない衝撃が、志貴を襲った。
 ローブの下から現れたのは滑らかな艶を持った、青み掛かった銀髪。瞳もそれに準じた薄めのラベンダーヒスイ。あれだけ辛辣な言葉を吐いたとは思えぬほど、小さく噤まれた口。それら顔の造形は一々が美しく、これまでの美人の常識を覆しかねない魅力を持っていた。
 志貴が息を呑んだのをどういう意味でとったのか、キャスターは顎を引いて、やや俯き加減でスッと息を吸った。
「私はメディア。女王……いえ、魔女と言ったほうが、解りやすいかしら」
 ぼうとする頭を切り替えて、脳内の引き出しを片っ端から開けていく。魔女メディア。それはすぐに見つかった。
「もしかして、アルゴー船の」
 ギリシャ神話に登場する冷血非道な裏切りの魔女。女神アフロディーテによって人生を狂わされた、不幸な女王。
「そう。私は裏切りの魔女。だから人間如きに縛られはしない──」
 キャスターは自嘲するように微笑んで、ローブを被りなおす。
「それでも、坊やは契約し続ける? いつ裏切るともわからないわたしと」
 得心がいった気分だった。完全に、それこそ根本から自分は聖杯戦争を理解できていなかった。魔女メディア。あまりにも有名だ。何しろ神話の登場人物なのだから。それを召喚し、使役する。まるで天邪鬼だ。彼女は完全に格上の存在。それを、人間如きが令せるわけがない。だからこそ納得した。彼女がマスターを不甲斐無いとして殺したのは、決してありえないことではないと。
「随分スケールの大きい話だったんだな」
「怖気づいた?」
「そりゃ、もちろん。目の前にいるのがあのメディアだなんて、死ぬまで自慢できる」
「今契約を破棄するなら、命は助けるわよ。あなたのおかげで魔力の補充ができた。いわば恩人だものね」
 キャスターの提案は魅力的だ。できることなら投げ出したい。キャスターのサーヴァントは魔女メディア。ならば他のサーヴァントは一体どんな人物が出てくるのか。考えるだけでも怖気が走る。だが──
「俺にも引けない理由がある。そのためなら魔女だろうと悪魔だろうと契約するさ」
 右手を差し出して、宣言する。キャスターは差し出された手をじっと見て、不服そうに口を窄めた。
「魔女とは、呼ばないでくれる?」
 意外な申し出に、思わず噴出しそうになる。ああなんだ、こんな顔もできるのか。だが向けられた気は本物で、きっと次に魔女と呼べば消し炭になること請け合い。
「なら、俺のことは志貴って呼んでくれ。坊やは無しだ」
 キャスターは神妙な顔で頷くと、
「ええ、解ったわ志貴。よろしく」
 力強く握手を交わした。
 
 
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